プロローグ
海辺の小さな田舎町。私は夕方のチャイムの音に気づいて今日も浜辺から引き上げる。休日にはこうやって時間いっぱいまで浜辺で“あるもの”を探しているのだ。
その理由を語るには私自身のことについて語る必要がある。
私は幼い頃から、感受性が強かった。
本を読めば前置きだけで涙が出たし、
地平線を見れば荒んだ心が落ち着いた。
ピタゴラスの定理の単純かつ独創的な数式にも感動した。
他人よりも多くの”美しいもの”に出会ってきたのだ。しかし当然良い面ばかりではない。人の目を過剰に意識しすぎて行動に移せない、他人のことばかり気にしすぎて自分のことが疎かになる、などの悪い面もある。むしろその負の面に苦しんできた人生であったように思われる。
だが、”美しいもの”を見るとそんなことどうでもよくなった。会社の上司に人前で怒鳴られた嫌な記憶を忘れられた。
この世界には”醜いもの”が沢山あるが、”美しいもの”も沢山ある。自分が知らないだけで、知ろうとしないだけで、窓の向こうには常に陽が差している。
会社からの帰路にいつもと違う道を通ると、すぐ近くにこんな景色があったのかと感嘆することもままあるし、目を閉じて耳をすませば、そこかしこで鳥や虫の存在を感じ取れる。気づかないだけで、近くには沢山の“美しいもの”があったのだ。
だがここ最近本を読んでも地平線を見ても、帰り道を遠回りしても、心が動かなくなってきていた。
このままではただ嫌な記憶だけが積み重なってしまい、身がもたなくなってしまう。まだ見ぬ”美しいもの”に出会う必要がある。
だからこそ
何処かの世界の誰かの話(つまりは世界設定も視点もばらばら)
の書かれた紙切れの入った瓶(要するに基本一話完結)
が海の向こうから流れ着くという(当然浮き沈みあり)
その噂を信じ私は今日も浜辺を歩く(すなわち不定期更新)
例え見つけられたとしても、それは“美しいもの”ではないかもしれない。“醜いもの”かもしれない。しかし今の私はこの噂にすがる他ないのである。