天才ハッカー餡野くん
20年卒の餡野くんは、生まれも育ちも平々凡々な青年である。
彼は厳しい就職活動の中で激しく精神を磨耗させたものの、4年生の夏、無事にとある小さな有限会社への新卒入社が決まった。
飛行機部品を取り扱うその会社は、社員15名と小規模ではあるものの、社屋はきれいで業績も良い。福利厚生もホワイト企業と呼んでいいレベルだった。
おそらく少数精鋭で回している会社なのだろう、むしろなぜ自分が採用されたのか……と入社日を戦々恐々と待っていた餡野くんだったが、迎えた4月1日、彼はその会社の穴を知った。
餡野くんの入社したそこは、超アナログ運用だったのである———。
◆◆◆
「おーい! 餡野くん!」
「はいはい」
2023年9月。令和の世とは思えぬ会社(パソコンは一台しかなかった)でも、餡野くんは決して屈しなかった。
彼は若さと情熱により会社へのパソコン導入を成功させ、事務処理は従来のそろばんから表計算ソフトエクセルへと移行した。移行の際、パソコンに触れたことのない社員たちは「餡野くんはテレビで言うところのハッカーなのではないか」と不安げに噂した。紙の帳面を重んじる彼らにとって、ブルーライトを放つ機械は恐れの対象でしかなかったのだ。
しかし餡野くんは、時間をかけて社員にパソコンを教えた。
無論、職人気質の社員たちがすぐに順応できるわけがない。だが、餡野くんは生来の人の良さを如何なく発揮させ、彼らとパソコンの共存に努めたのである。
パソコンを導入してからというもの、餡野くんは社員のエクセル能力向上に貢献した。つまりは新卒社員の初々しさに浸る間もなく、アナログ人間たちにエクセルを教える日々を送ったのである。彼が学生時代、パソコンスクールABIBAに通っていたことが幸いした。
一方で、デジタル化をわずかながらでも推し進めたことで、会社の業績は上向いている。社内のみなが、餡野くんには深い信頼を抱いていた。
古株の社員に呼ばれた餡野くんは、腰軽く隣へ駆けつけパソコンを覗き込んだ。眼鏡を下にずらしながら、古株社員は言う。
「僕ね、1文字目に0を打ちたいの。でも絶対に消えちゃうんだよね〜。手品みたいだね〜」
「ああ、これ困りますよね」
餡野くんは深く頷き、キーボードを借りて修正した。国内で広く使われているエクセルだが、癖があるためなかなかどうして扱いは難しい。餡野くんも、いまだに参考書を見ては格闘することが多い。
「おい、餡野!」
「はい!」
プリンターが用紙を排出する音とともに、今度は別のところからお呼びがかかる。強面の先輩社員が、用紙と画面を見比べながらため息を吐いていた。
「しかしこのエクセルってやつ、とんだじゃじゃ馬だな。画面ではちゃんとセルに収まってるのに、印刷かけた途端はみ出しちまう」
「わかります、エクセルってそういうとこありますよね〜」
「でも嫌いじゃないぜ、アウトローな奴は」
餡野くんは「ははは」と快活に笑ってから、セルの書式設定を調整した。そうこうしているうちに、奥で「うわぁ!」と悲鳴が上がった。
「どうしたんですか!?」
「餡野くん、俺はただ……改行したかっただけなんだ。それなのに、エンターを押したら、こいつ勝手に次のセルに行っちまって……」
「あ〜これはですね、オルトキーを押しながらエンターを押さないと」
狭いセルの中では、何が起こるかわからない。数式バーに延々と続いていた文章を切りよく改行したところで、青ざめた眼鏡の社員が餡野くんに駆け寄ってくる。
「餡野くん大変だ! いきなりセルがカラフルになって、呪文みたいなのが出てきた! 怖いから消してもいいか!?」
「だめですよ! 数式入りのセルは触っちゃだめですって!」
とかくアナログ人間というのは、数式が表示されると混乱し、前任者がせっせと組んだ数式を削除した上で「私は何もしてません」と知らない顔をしがちである。
正直に言ってくれるだけでもありがたい、と餡野くんは慌てて壊れかけた数式を組み直した。眼鏡の社員はばつが悪そうに肩をすくめる。
餡野くんの毎日はこのような様子である。
慕われている餡野くんを見て、白鬚をたくわえた社長が「ほっほっほ」と鷹揚に笑って言った。
「さすが我が社の天才ハッカーアンノニマスだな!」
「もう社長、変なあだ名やめてくださいよ! 全然ハッカーじゃないですし!」
「しかしハッカーというのはパソコンが得意なのだろう」
「違いますし、そこまで得意じゃないです……普通ですよ、普通」
苦笑いする餡野くんに、社長が「ほほほ」と重ねて笑う。
餡野くんはこの会社にいなくてはならない人間となっていた。だが、
「ふん、浮かれやがって……」
和気藹々とした空気を壊す声が事務室に響いた。見れば、入り口に加え煙草の40代の男が立っている。餡野くんは緊張で頬を引き攣らせながらも彼の名を呼んだ。
「鴨川さん……」
「面白くねぇな。この会社はいつからこんなに軟弱になっちまったんだ」
鴨川、と呼ばれた社員はポケット灰皿で煙草の火を消した。この会社きっての営業マンである彼は、鋭い眼光で餡野くんを睨みつけた。
「おい、餡野。お前が言ってたパワポってやつ、やっぱり気にくわねぇ。文字がポンポン跳ねてガキくせぇんだよ」
「で、でも鴨川さん。プレゼンをするならパワポを使ったほうが効率が良くて……」
「うるせぇ!!」
鴨川の怒声が窓ガラスを揺らした。彼は小脇に抱えたビジネスバッグから画用紙の束を取り出すと、悔しげに吐き出す。
「俺はよぉ……ずっとこの紙芝居で、仕事を取ってきたんだ。こいつをバッグから取り出すだけで、プレゼンの会議室の空気をがらりと変えてきた。それなのに、今更パワポを使えだと?」
「鴨川さん、でも」
「これは俺の誇りなんだ!」
そのとき、餡野くんは鴨川のまなじりがきらりと光るのを見た。鴨川はプレゼンを紙芝居で行うことで、業界では有名人だ。この会社の売り上げを支えてきたのは鴨川であることを、餡野くんもよく知っていた。鴨川はいつも事務所にひとり残り、豆だらけの右手でプレゼン用の紙芝居をこさえている。
餡野くんはそんな鴨川を尊敬していた。だからこそ、少しでも仕事が楽になればとパワーポイントの採用を提案したのだが……良かれと思ってしたその提案が、鴨川を深く傷つけてしまったのだ。
「鴨川さん! 僕は」
「お前は俺の紙芝居を……夢芝居だったって言うのかよ!」
鴨川は震えた声で吐き捨てると、画用紙を床に叩きつけた。色とりどりのプレゼン資料が餡野くんの瞳に映る。鴨川は「くそっ」と悪態をつくと、踵を返して去って行った。あとには静寂と重い空気が残り、社長がおずおずと餡野くんの肩を叩く。
「餡野くん。どうか気を悪くしないでやってくれ。鴨川さんも気持ちの整理がつかないだけなんだ」
「……わかってます。僕も無神経でした」
餡野くんは鴨川が残したビジネスバッグと、散らばった画用紙を見つめた。そのどちらにも、鴨川の努力が染み込んでいる。餡野くんは顔を上げると、決意を込めて告げた。
「……明日、鴨川さんときちんと話します」
◆◆◆
翌日、餡野くんは鴨川を会議室に呼び出した。
鴨川は面白くなさそうに視線を逸らしていたが、餡野は構わずに口を開く。
「鴨川さん。やはりパワポは使ったほうがいいと思います」
「餡野、てめぇまだそんなことを……!」
「でも、鴨川さんにしかできない使い方をしたい」
「何?」
餡野くんはおもむろに会議室のカーテンを閉めた。戸惑う鴨川に微笑んで、脇に置いていたパソコンでパワポを起動する。
「お前、一体……」
「見ていてください」
接続されたプロジェクターのスイッチを入れた途端、ぱっとまばゆい光が壁一面に照らし出された。鴨川は驚き一瞬顔を背けたが、恐る恐る顔を戻し……そして、壁を見て言葉を失った。
「これは……」
「鴨川さんの紙芝居を読み込んでデータ化しました。勝手にすみません」
それは、鴨川が丹精込めて作り上げた紙芝居のワンシーンだった。青空をわたる飛行機の絵が、誇らしげにふたりを見返してくる。
「鴨川さんは紙芝居を作り続けてください。僕はそれを読み込んで、パワポに取り入れます」
「餡野……」
「鴨川さんの紙芝居は、これまでよりさらに素晴らしいものになるんです」
たくさん仕事を取ってきてくださいよ、と餡野くんが笑うと、鴨川は口ごもり、それからポケットから煙草を取り出した。
「……生意気な奴だ」
「すみません」
「ふん。……これだけでかいと、広い会議室でも見やすいだろうな」
「えっ?」
「なんでもねぇよ!」
鴨川が肩を小突き、ふたりは同時に笑い合った。
このときの二人はまだ、いずれ互いがパートナーになることを、予感すらしていなかった———。
完