3.手紙が届いた、差出人の名前はない
オトマルク王国、王都リントン。
賑わう街を見下ろす高台に立つ王城の一画。
第二王子フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルクの執務室に、午後、彼宛の一通の手紙が届いた。
差出人の名前はない。
おそらく隣室に控える平の秘書官の誰かが、うっかり書類と一緒にしてしまったらしい。
近く行われる“王都大豊穣祭”のぶ厚い警備計画書、他諸々の書類の間に挟まっていた。
「ふむ」
まだ封を開いていない手紙を手に、フリードリヒはしばし黙考する。
本来、このような怪しげな封書が彼の手元に渡ることはない。
怪文書なら平和なもので、薄い刃や毒針、粉毒などの危険物が仕込まれていたり、もしくは人毛や爪、虫の死骸のような大変気味の悪いものが入っていたりする可能性もあるからだ。
もちろん匿名の意見書や告発文の可能性もある。
そのため必ず秘書官が中を検めて、中身に応じて適切に処理する。
「ま、いいよね」
フリードリヒは好奇心に突き動かされるままに、ペーパーナイフを執務机から取り出して封を切る。
そんな考えなしなことをするのが、彼が管轄している文官組織の文官達から“無能殿下”と呼ばれている所以であった。
執務室に届く彼宛の書簡はあからさまな私信でない限り、原則すべて開封済で渡される。
怪しげな書簡の封を切るという行為に冒険心も刺激され、彼はうきうきしていた。中身は幸いただの手紙のようで、封筒から取り出してフリードリヒはそれを読んだ。
手紙にはフリードリヒに向けた、なかなかの言葉が並んでいる。
「うーん、なるほど……」
フリードリヒは手紙に頷く。
もしもここに彼の筆頭書記官がいれば、書類の間から手紙を見つける前にすばやく取り上げただろうなとフリードリヒは思った。
しかし彼女は現在、大臣達を集めた会議に出ている。
「私の名前で皆を集めて、私は出なくていいのかなって気もするけれど……私の仕事を極限まで減らしてくれているマーリカは、実に主人思いの秘書官だ」
『――殿下がいらっしゃると話が面倒になるので来ないでください。頼みますから、お部屋にいてください。いいですね? 大人しくここにいる! 書類を片付けてくださったらうれしいですが、そんな気の利いたことは望みません。後ほど茶菓子を部下に持ってこさせましょう。約束出来ますか? それぐらい出来るだろ、御年二十六の大人なら!』
「なんて言っていたけれど……ふふふ」
先日、なにかの利権をめぐって緊張状態である某国からやってきた使者との会食でも、マーリカはフリードリヒのために、先方の基本情報を整理し、想定される会話の受け応えをまとめた資料など色々と用意してくれた。
資料に目を通すのをすっかり忘れて会食に臨むことになったのは、彼女に悪いことをしたけれど。
「忘れっちゃったものは仕方ない。次は気をつけようってことで」
会食の場に臨んだものの、さて、相手の名前からなにからわからない。
フリードリヒが書類を読まないことを想定してたかのように、会場へ向かう途中でマーリカが一通り説明もしてくれたのであるが、フリードリヒはあまり興味がない者の名前を覚えるのが苦手であった。
いつも側にいる誰かがこっそり教えてくれるから、特に不便もない。
その時も、マーリカが耳打ちするように教えてくれた。
彼女の吐息が耳をくすぐるのに思わず口元を緩めてしまい、慌てて澄まし顔に戻して維持するは大変だった。
後で破廉恥事案などと報告されてはいけない。
『……あとでシメる……泣かす……』
そんな地の底を這うような呟きも聞こえた気がしたけれど、後ろに控えるのは冷静沈着で仕事は完璧なフリードリヒ自慢の筆頭秘書官。
黒髪黒目のすらりとした姿も麗しい男装のマーリカであるし、まさか目の前にいる会食相手の使者がフリードリヒにそんなことを言うわけがないから、空耳に違いない。
ひとまず名前はわかった。
しかし、相手の情報がなにも頭に入っていない。
仕方がない、と。
フリードリヒは、彼の関心ごとの一つである食べ物の話をすることにした。
美味しいものがうれしいのは万国共通。
つい最近、狩りに出かけ、今年はこれこれの野鳥が丸々としていて、その肉を使って専属料理人が新たに考案した料理が大変素晴らしい一皿になったと話す。
会食といっても、相手はなにかしらの思惑を持ってきている。
フリードリヒだって、それくらいのことは心得ている。
とりとめのない彼の話に使者の表情が微妙に引きつったような微笑みとなり、相槌もだんだんと気の無さそうな虚ろなものになっているのも気がついていた。
(うん、これはスベってるというやつだねえ)
話しながらフリードリヒもそう思っていた。
しかし、だからといって。
迂闊に難しい話をして失敗したら、国王である父や王太子の兄、マーリカや周囲の家臣達から叱られる。
国が大変なことになっても困る。
それに比べたら、会話がつまらない王子と評価されてもヨシっと、フリードリヒは暢気に考えていた。
『……ですから冬になる前に狩猟に出かけ、どうせなら親しい者達にも声を掛け、新たな美味を皆で楽しもうかと考えているのです。美味なるものとはいくらでも追求できて奥深い』
王都流行誌に寄稿してみようと思っているなどと、いよいよもってどうでもよい話で、取り繕ってはいるものの相手はげんなりしている。
第二王子で上にも下にも兄弟がいるフリードリヒは、相手の表情を読むのはそこそこ得意だった。
(まあ、特にそれが役立ったことはないんだけどね)
食事を終えて、談話室へと部屋を移り。
お茶を飲みながら、これは会食失敗かなー、叱られるかなーと思いながら、フリードリヒが茶菓子を摘んだ時。
相手の使者も仕事をせねばと思ったのだろう。「フリードリヒ殿下」と、固い声で呼びかけられた。
『すべてとは申せません。しかし、出来る限り殿下のご意向に添えられるように戻って進言いたしましょう』
『ん?』
まったく思い出せないものの、こちらのために働きかけてくれるのなら別にいいか、と。
フリードリヒは、腹黒王子の黒い微笑みと一部の他国の者を震え上がらせる微笑を深めて、無言で応じた。いや、誤魔化したのだった。
(なんだろう……私、なにか言ったかな?)
その日から、大臣達やマーリカを始めとするフリードリヒの秘書官達がなにやら忙しそうにしている。
フリードリヒの周囲だけでなく、彼の補佐役といった名目で公務を手伝い始めているすぐ下の弟やその側近達までもがなにやら慌ただしい。
そんなことを思い返していたフリードリヒの耳に、ふと彼の名を呼ぶ、少々低く澄んだ女性の声が聞こえた。
「――殿下」
我に返ったフリードリヒが手元の手紙から視線を持ち上げれば、執務机の向こうに彼の筆頭秘書官が真っ直ぐに立っている。
「あれ、マーリカ。君いつ戻ってきたの?」
「数分ほど前に。入室時はもちろん、何度かお声もかけました」
淡々とした返答ではあるものの、少々、疲労が見える。
しかしどんなに疲れていても、彼の筆頭秘書官の凛とした侵しがたいような美しさは変わらない。
黒髪を引っ詰め男装に身を包んだ、令嬢にしてはやや背の高い、引き込まれるような黒い瞳の中性的な美女。
疲労が滲むその顔は、憂いを帯びた麗しさ――だけれど、フリードリヒを見る目が、若干血走っている。
「ああ、ごめん。手紙を読んでいて気がつかなかった」
「書簡?」
執務机に片肘をついて読んでいた便箋をフリードリヒがひらひらと見せるように振れば、そんなものは見覚えがないと言いたげにマーリカは眉を顰めた。
「今朝、そのようなものが届いていた覚えはありませんが、私信ですか?」
「いいや。誰かがうっかり書類と一緒にしたみたいだ。差出人不明で気になるから開……」
「開封したのですかっ!?」
「うん。だから読んでた」
「なにを考えているんですっ!!」
まるで雷のように、マーリカの怒号が執務室に落ちる。
彼女の剣幕に驚いて、フリードリヒは慌てて何事もなく無事だと訴える。
「なんともないよっ、ただの嘆願書のようなものだったよっ」
「なんともあったら一大事です!」
「で、でもほら仮に毒が仕込まれていたとして……それだと確認するマーリカが危険だ。はっきり言って、私よりマーリカのが王宮には必要な人材であるし、そこを私が救ったとなれば一躍英雄えっへん」
ダン!
真っ直ぐな姿勢のまま片足で、マーリカが床を踏み鳴らす。
再び驚いて目を見開いたフリードリヒを無表情で見据え、マーリカは彼女自身を落ち着かせるように深呼吸した。
「殿下……自虐か威張るかどちらかに。そもそも、そのような事で殿下に万一があれば責任を問われるのはわたしです。不敬をやらかした記録もありますから、暗殺を疑われ首を刎ねられかねません。動機ならいくらでもありますし」
「あるんだ」
「むしろないとお思いなのが不思議です。ですから殿下の御身を張ったその死はまったくの犬死にです。い・ぬ・じ・に・で・す!」
「えー」
マーリカから聞かされた衝撃の言葉に、フリードリヒは少しばかり落胆する。
そんな彼の様子を見て、マーリカはため息吐いて肩を落とした。
「何事もなくよかったです」
「マーリカ……」
「殿下ではなく、わたしの保身のために。拝見しても?」
「あまり愉快な内容ではないよ」
「でしたら、なおさら検めるべきでしょう……」
世話が焼けると言いたげな表情で再びため息を吐くマーリカに、フリードリヒは手紙を渡した。
フリードリヒから手紙を受け取って、目を通すマーリカの眉間にみるみる皺が寄っていく。
手紙にしたためられていた言葉の数々をまとめて要約したなら、大体こんなところだ。
“マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・フォン・エスター=テッヘン嬢が仕えるに、フリードリヒ殿下は相応しい相手ではない。早々に解任されたし。我が王国にとっても由々しきことである”
「わたしへの嫌がらせの手紙です――申し訳ございません」
「私では? 差出人の名前はないけど、宛名は私だよ」
「隣室に届けられるため書類にまぎれて殿下に渡ったようですが。手紙は原則わたしが検めます」
「うん」
「殿下宛の嘆願書の体裁であれば、わたしの一存で無視はできません」
「つまり、マーリカへの非難とわたしへの進言どちらも叶う」
「その通りです」
「そうかなあ?」
「弱小伯爵家の三女。貴族の中では微妙な身分で女の私が、顔と運だけの第二王子とはいえ、王族付秘書官であることを快く思わない方はいます」
「いま、さらっと私にひどいこと言ったね?」
「まさか」
「まあ、私ほど公務に向かない王族もいないけどさ」
フリードリヒの自己評価として、愚かではないとは思うがかといって賢いとも思ってはいない。
例えば、乗馬や剣技やダンスなど、王族として嗜むべきことも一通りこなせはするけれど、特出するものはなく人並み。
「第二王子でよかったなあって思うんだよねー」
「殿下、ご自分を卑下なさるのはよくありません」
「君だって、よく無能って怒るじゃない」
「やれば出来ることをやらないからです。王族に求められる能力の水準はそもそも高いのですから、人並みでも一般貴族の中では中の上くらいはあるかと」
「微妙な評価だ……」
(でも、概ね合っている気はする)
とにかく。
やれば出来ることをしないというよりは、興味がないことへのやる気が出ない。幼少期から課せられてきた勉強や鍛錬も、教師や指南役がぎりぎり認めるところ以上する気もなく。
そんな日課から解放された後は、きれいさっぱり忘れた。
忘れることは、フリードリヒの特技であった。
「それに第二王子っていっても、王太子の兄上は優秀だし結婚して子供も男の子が二人いるしさあ」
後継者に関して王家は安泰。
長兄のスペアといった第二王子の役目からも、フリードリヒは解放された自由の身だ。
「まだ二十六だけど、正直、景色のいい郊外の離宮に隠居して暢気に暮らしたいよね。兄上のように人を指揮するようなことなんてもってのほかだしさ」
「殿下」
「大祖母様のお気に入りの離宮があってね。古い暖炉があって、赤いバラが植わってて、小犬と暮らす〜私の横には〜君が――」
「戻ってこい! ハッ、鉄道利権絡みで牽制にきた例の使者との会食一発で、こちらに有利な条約締結へと誘導した殿下がご冗談を」
「マーリカ……なんだか、冷たい」
マーリカの冷笑と皮肉に、執務室の温度がどんどん下がっていくようにフリードリヒは感じた。
雪に閉ざされた真冬の山くらいに下がっているような気がする。
公務以外は王城の中にいる第二王子、雪に閉ざされた真冬の山などもちろん行ったことはない。
けれども、この凍えそうに冷たい空気はきっと似ているに違いないと彼は思う。
「わたし如きがご用意したものなど、殿下には無用ですとも! あの、最近食べて美味しかった野鳥料理や狩猟の話!」
「えっと……」
「あの野鳥は彼の国から渡ってくる鳥です。“出方によっては周辺諸国に声をかけて糾弾する”と脅しも同然。果ては王子が大衆誌に寄稿などと、“ペンの力で世論を動かすのも一興”と先方は捉えたでしょうね」
「あのー、マーリカ?」
「ざくざく肉をナイフで切り分けながら、完璧に無邪気に語るお姿など、どこの性格破綻者のやばい暴君かと!」
(マーリカ……マーリカ嬢? マーリカさん……?)
「適当に好きに話しただけ? 相手が勝手に言葉を深読みしただけなんて、ご謙遜を。そんなことで三度も四度も大きな案件が決まってたまるかっ!」
「ごめんなさいっ! 資料読むの忘れて適当に当たり障りのない話をしたらこうなりました! すみませんでした!」
「流石な貢献をして一体なにに対する謝罪ですか。どんな謎の強運ですっ!?」
(私を見る目が怖いよ、マーリカ……。コロス、マジ、コロスって目だよ。ちょっと涙ぐんでいるのは可愛いけれど)
フリードリヒが黙っていると、すんっ、とマーリカは軽く鼻を鳴らした。
そうして彼女は上着の襟元を直す仕草をし、冷静沈着な第二王子付筆頭秘書官に戻った。
「申し訳ありません。激務で少々取り乱しました」
「うん……で、大臣達との調整はついたのかな?」
「はい。皆様、お顔の色が青くなったり白くなったり赤くなったりしておりましたが」
「おお、流石!」
「職務ですから。ちなみに文官達は土気色になっています」
「うん、君もこころなし青黒いね」
(それがまた麗しいのだけど……こんなに綺麗で優秀で、王子の私にも容赦なくて、それでいて献身的に尽くしてくれる秘書官が他にいる? いないでしょう。気に入るなってほうが無理な話だ)
マーリカを好ましく思うのは、フリードリヒだけではないらしいことを彼は知っていた。
先月号の王都流行誌の“王城特集”。
『上司にしたい文官番付四位』にマーリカの名前が掲載されている。
(上位三位は偉い立場の人への忖度も入るだろうし、実質一位のようなものだよね)
投票者意見欄には、「部下思い」、「定時で帰らせてくれる女神」、「超有能」、「平民が多い現場の文官では意見しにくい高位の人に言うべきことを言ってくれる」、「格好良くて素敵」などなど。
随分と慕われている……これは油断ならないと、読みならがフリードリヒは密かに定期購読していてよかったと思ったのだった。
(手紙も、絶対、彼女を私に付けておくのは勿体ないからさっさと解放しろって意味だと思うのだけど。解任なんて冗談じゃない)
マーリカ自身は、どうやら周囲から慕われていると思っていないらしい。
一般的な貴族令嬢のように柔らかで優しい雰囲気ではなく、言葉の調子も淡々と事務的なのに劣等感めいたものを抱いているような所もある。
『社交界デビューもせず、文官として働いていますから、“鉄の女”のようになってしまった気がして……それでも貴族令嬢ですから、そんな上司を持って部下達はさぞやりづらいのではないかと』
いつだったか、書類仕事をしていて雑談がてらそんなことをぽつりとマーリカがフリードリヒに漏らしたことがある。
(ちょっと申し訳なさそうな様子でいたなあ。日頃の態度は全方位塩対応なのにたまにしゅんって気弱になるんだよねえ)
マーリカが厳しいのは、フリードリヒだけではない。
例えば、子供が生まれたばかりの部下に、「執務に身が入らない人がいても迷惑です」と仕事を取り上げて帰らせる。
無理難題をふっかけにきた他部署の文官に「ご覧の通り、手一杯で無理です。見てわかりませんか?」などとけんもほろろに追い返すなど。
(平の秘書官達、これまでなかったくらい士気高いし……皆、マーリカが不器用ってわかってるんだろうけど。いやしかし、あの厳しさは私だけに向けて欲しい。特にあのぞくぞくするような、見下してないけど見下すような眼差しはっ)
「殿下」
「ん?」
「なにをお考えで?」
「なにも」
「ならいいですが……妙な怖気がしたもので」
フリードリヒに対してなかなか失礼なことを呟くとマーリカは、彼の執務机からよく見える位置に設置させた彼女の席に着いた。
「手紙はわたしが処理します」
「うん」
その後は、何事もなく。
怠惰な第二王子と、その世話を焼く秘書官のいつもと変わらない執務室の二人のまま、秋の日は暮れていった。