第9話:卑怯なことはやめなさい!
北政所様のお部屋での貝覆い大会が終わった後は、私は北政所様やお付きの方々と仲良くお話をしている。お客様だった丹波中納言こと豊臣秀俊くんはすっかり不貞腐れていて、今は奥御殿の中のどこかの部屋で寝転がっているようだ。まあ、あの子がいない方が私も気が楽だけどね。
秀俊君の大人げない様子に少し落ち込んでいた北政所様も、皆とお話をしているうちに気分がよくなったご様子だ。今は明るい声で、私の旦那さまの秀忠くんについてお話をされている。
「おほほ、秀忠様もすっかりとご立派になられたけれど、昔はかわいい童でのう。私たちと一緒に暮らしておった時は、よう過ちをされておられたのよ。そうよのう、孝蔵主殿」
北政所様は、白い袈裟をかぶった孝蔵主という名の尼さんに話しかけられた。
「はい、そうでございました。初めての上方での暮らしで、色々と慣れぬことばかりであったのでしょう。歓迎の宴の折も、お膳の天ぷらの衣をお箸できれいに剥がされてしまわれて。後に、それがおかしゅうことと気付かれたときには、顔を茹でタコのように真っ赤にされておられました」
孝蔵主様は穏やかな口調でそう話された。よし、孝蔵主様と仲良くお話しできるチャンスだ! 私は、斜め向かいに座っている彼女に話しかける。
「ああ、孝蔵主様。秀忠様も小さい時は、そんな失敗をされていたのですね」
「そうでございますよ。ほらっ、その宴の場には小姫殿もおられたでしょう。覚えてはおられませぬか?」
ん? ああ、私もその場にいたんだ。でも、生まれ変わる前の小姫の記憶は無いんだよね。
「すみません。そのときは小さかったので、よくは覚えておりません」
「ふふふ、そうでございますか。初めて会われたときから、秀忠様と小姫様は実の兄と妹のように仲ようございましたよ。されど、今は更に仲睦まじゅうなったと北政所様から聞いておりまするよ」
えへへへ、二人で抱きしめ合ってたのを北政所様に見られたときのことですよね。それを言われると照れてしまいます。私は思わずにやけてしまった。
こんな風に私と孝蔵主様は親しくおしゃべりすることができた。うん、私も感じよくお話しできたし、彼女もずっと穏やかに微笑んでいるから悪くなかったよね。この人に嫌われると大変なことになってしまうからね。
北政所様のお付きの方々はすごい人ばかりなのだけど、実はその中の筆頭格は孝蔵主様なのだ。見た目は温厚な感じで優しそうな尼さんなのだけれど、実は豊臣家の内向きのことを取り仕切っている影の実力者。この人を敵に回すと色々と厄介なことになってしまうので、偉い大名の方々も孝蔵主様にはいつもペコペコしている。
実は、秀忠くんが以前に秀吉と北政所様の元で半年ほどの人質暮らしをしていたときに、孝蔵主様が彼のお世話係を務めていたのだ。秀忠くんにとっては彼女は大切な恩人なので、彼が北政所様の所に来るときは、いつも孝蔵主様にもお土産を持ってきているぐらいだ。
そして、私は孝蔵主様の右隣に座っている侍女の東殿様とその娘の小屋さんにも話しかける。この人たちも重要人物だから気を遣わないとね。
「東殿様。小屋様。刑部少輔様は、朝鮮では八面六臂のご活躍と聞いております。当代きっての智将とのご評判通りですね」
「おほほ、あの子は小さい頃はきかん坊で育てるのに苦労したのでございますよ。小屋、そうじゃったのう」
「ええ、兄上は子供のころはそれはそれは大変でございました。でも、いつの間にやら落ち着きも出てきましたし、唐入りでの働きも皆様からも高うに評価していただいて」
東殿様と小屋さんの二人も、北政所様に信頼されている側近中の側近だ。東殿様の息子さんは、越前の国敦賀の大名で刑部少輔にも任ぜられている大谷吉継さん。大谷さんは今は朝鮮に出兵中。向こうでは大活躍をしているとの評判で、母である東殿様も妹である小屋さんも鼻が高いご様子だった。
よし、上手くいった。二人とも気分がよさそうだし、とにかく重要人物を敵に回さないのが一番だよね。うん、朝鮮出兵での活躍の話を持ち出したのは大成功だった。
あれっ? そう言えば、朝鮮では日本は負け知らずで勝ち続けているって話だよね。もう、小西行長さんや加藤清正さんは朝鮮の奥の方まで進んでいるみたいだし。これってどういうことだろう? 朝鮮出兵って失敗じゃなかったっけ? ひょっとして私の知っている歴史と違っているのかな?
うーん……。まあ、でも、今は、北政所様やそのお付きの方々と仲良くすることの方が大事だよね。そっちに集中だ。私は、皆さんと楽しくお話を続けることに専念した。
そのうちに、いつしか夜もすっかりと更けていた。
「ああ、もうこんな時間ですね。母上様、孝蔵主様、東殿様、小屋様、大変楽しいお時間でございました。これからもよろしくお願いいたします」
「あら、あら、小姫。もう戻ってしまうのかい」
「はい、母上様。明日も朝早くから先生がいらして論語の講義がございますので。お名残り惜しいですが、それではこれにて失礼いたします」
私は、北政所様と皆さんに丁寧に頭を下げる。大変楽しかったです。少し気疲れしましたが。
私の侍女のお梅さんは、小屋さんと打ち合わせなければいけないことがあるとのことなので、私は一人で自分の部屋に戻ることになった。
◇ ◇ ◇ ◇
大坂城は巨大な城郭で、私たちが住んでいる奥御殿の建物もとても広大だ。北政所様のお部屋から自分の部屋までは長い廊下を通らなければならない。
「うーん、ここって風が吹いてすごく寒いし、それに気味が悪いんだよなあ……」
私は思わず独り言を呟く。この廊下は、夜はかなり暗い上に、時折、怪しい音をたてて隙間風が吹きぬける。まるでお化けが出てきちゃいそうで、本当に怖いのだ。よし、急いで通り過ぎよう。
「おい。小姫よ」
廊下の角を曲がろうとしたところで誰かに呼び止められた。ひっ、お化け!? って思って振り返ると、そこにいたのは秀俊くんだった。
「あ、あら、中納言様、どうなされましたか?」
秀俊くんは、なにか怖い顔をしている。ん? なんだろう? さっきの貝覆いの件で文句を言おうとしているのかな。面倒だなあ。誰かに間に入ってもらおうと、周りを見渡してみたがまったく人影が見当たらない。
突然、秀俊くんが近づいてきて、私の右腕を小袖ごとぎゅっと掴んだ。
「ちょ、ちょっと。止め、お止めくださいませ。この小袖は大変良き仕立てものですので、そんな風に扱わないでいただけますか」
でも、秀俊くんは無言で私の右腕をぎゅっと掴んだままだ。そして私のことを無理やり引っ張っていこうとする。ちょっと、この小袖は京都の西陣織なんだよ。本当に素晴らしい出来で、お値段もお安くなかったんだからさ。だから、そんな風に乱暴に触らないでよ!
秀俊くんからは、ぷーんと酒の匂いもしてくる。かなり酔っぱらっているのだろうか。本当に面倒なやつだなあ。
仕方がないので私は秀俊くんについていく。秀俊くんは襖を開けると、私を奥の部屋に無理やり連れ込んだ。部屋の中央には布団が敷かれていた。
「ちょっと、な、なんなの……でございますか。こんな部屋に連れてきて、一体どういうことでございますか?」
私が問いただしても、秀俊くんは無言のままだ。よく見ると彼の目は血走っていて両肩も震えており、ちょっと危なげな雰囲気を漂わせている。え、これが乱心ってやつ? すごく怖いんだけど。
「小姫、お前はワシのものになれ!」
「はあ!? 何を言ってんの?」
秀俊くんが突然変なことを言い出したので、つい地が出てしまった。でも、やっぱり、この子はお酒の飲み過ぎで頭がおかしくなっているみたいだ。じゃあ、別に取り繕わなくてもいいか。
「今、ここでワシのものになれと言うておるのじゃ!」
「だからさ、何を言ってるのよ。私は、徳川家に嫁ぐ身なの! 分かる? 私は人妻なの! なんであんたのものになんなくちゃいけないのよ!」
話しているうちに段々腹が立ってきた。私は秀忠くんのものなんだから、あんたごときにこんな風に言われる筋合いはないぞ!
「わかっておるのか? ワシは太閤殿下の息子じゃぞ。この世で、太閤様と関白秀次様の次に偉いのがワシじゃ。秀次様にもしものことがあらば、次の関白になるのはワシなのじゃ。小姫よ。ワシに逆らうと良いことは無いぞ」
はあ? 何を言ってるんだか。あんたは秀吉とは血のつながりの無い養子じゃないの。関白になる未来なんて絶対に無いよ。そもそも、秀吉の後継者は、豊臣秀頼って決まってるんだよ。今はまだ産まれてないけどね。
「なあ、小姫。お前は自分が織田の娘じゃと思うて、勘違いをしておるのであろう。だがな、今は豊臣の世じゃ。織田家なぞ、数多ある大名家の一つに過ぎぬわ。だから、ワシに逆らうな!」
秀俊くんはそう言うと、私を強引に布団の上に押し倒そうとした。
ふ、ふ、ふざけるんじゃないわよ!
私は、体をひねって秀俊くんを振り払った。そして、腰に力を入れて、両手で秀俊くんの胸を思いっきり突き飛ばした。
ドシンッ!
秀俊くんは、バランスを崩してフラフラとよろめくと、布団の上にあお向けに倒れこんだ。
どうだ、みたか! 私は二日に一度、薙刀の特訓をしてるんだからね。お酒ばかり飲んでるあんたとは、鍛え方が全然違うのよ。
「小姫、無礼者め。ワシを相手にこのような狼藉許されぬぞ!」
ひっくり返ったまま、秀俊君は悪態をつく。なんで、この子はこんなに偉そうなのよ。
「はあ、『ワシを相手に』って、あんたが何をしたって言うのよ! あんたはたまたま北政所様のご親戚だっていうだけでしょ。あんたは人の上に立つために、何か努力をしてるの? 学問にも武芸にも励んでいないあんたがさ、そんな偉そうなことを言わないでよ!」
本当に腹が立つ。私は、毎日、学問に茶道、礼儀作法に薙刀、その他にもいろんなことを一生懸命学んでいる。それが織田家の生まれで、豊臣家の養女で、徳川家の嫁である私の使命だからだ。
秀忠くんも徳川家の嫡男として、その立場に恥じぬように立派な心構えで常に鍛錬を続けている。私の兄上の織田秀雄くんだって、ちょっと頼りないところはあるけど、織田家の惣領の地位を引き受けて日々頑張っている。
そうよ。人の上に立つ宿命を背負った人は、他の人の何倍も努力をしなくちゃいけないんだ!
それが、なによ、この豊臣秀俊とかいうボンクラは。ヘラヘラと遊んでばかりで、礼儀にもまるで疎くて。しかも、体も全然鍛えていなくてブクブクと太ってる。だから、大名なのに十歳の女の子に簡単に突き飛ばされてしまうんだ。本当に恥ずかしいとは思わないの!?
「小姫よ。そんなことをワシに言うて、許されるとでも思うておるのか?」
「あんたこそ、こんなことをして許されると思っているの? 北政所様はこんな恥ずかしい振舞いは絶対に許されませんよ!」
「か、かか様に言うのか? そ、それは卑怯であるぞ……」
秀俊くんは涙を目に浮かべて情けないことを言う。でも、その情けなさが余計にカチンと来た。
「卑怯だあ? 何を言っているのよ! それは、あんたのことでしょ! 大体さ、あんたがこんな卑怯なことをしてると知ったら、あんたのことを期待してる人たちも悲しむよ。あんたは自分のことが偉いんだと思っているんだったら、他人の期待を裏切るような真似をしちゃダメなのよ!」
「期待を、裏切っては、ダメ……」
「そうよ! あんたも卑怯なことをするのはやめて、多くの人の期待に沿うような立派な人間になりなさい!」
私は、秀俊くんにそう言い放つと廊下に出た。背後からうめくような泣き声が聞こえてきたけど、私は振り返らなかった。
「ああ、小姫様。こ、こちらでしたか。ずいぶんと探しましたよ」
廊下に出ると、侍女のお梅さんが慌てた様子で私の傍に駆けてきた。
「あれ、お梅、どうしたの?」
「いえ、北政所様がすぐに小姫様の傍に行くようにとおっしゃられまして。小姫様、大丈夫でございますか? 何事もございませんでしたか?」
ああ、北政所様も秀俊くんが変なことをしようとしていると気づいたのかな。さすがは北政所様だ。
「うん、大丈夫よ。特に何もなかったわ」
私は満面の笑みで応えた。大丈夫。悪い豊臣秀俊はこの小姫が見事に退治しましたから。まあ、このことは誰にも言わないけどね。これは、武士の情けだよ。
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次話第10話は、明日1/14(木)21:00過ぎの掲載を予定しております。引き続きよろしくお願いいたします。