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第71話:国家安康、君臣豊楽!?

 慶長十九年(1614年)文月(旧暦七月)。関ケ原の戦いからもう十四年も経っている。あれ以来、日本国内では戦さが起きておらず、徳川幕府の統治の下で、天下泰平の日々が続いている。


 私は、江戸城で将軍夫人、通称御台所(みだいどころ)として、忙しい日々を過ごしている。今日も、江戸城の表御殿で朝から夕方までずっとお仕事をしていて、ついさっき、ようやく大奥にある自分の部屋に戻って来れたところだ。うん、最近はめまいをしそうなほどに、忙しいのよね。今も頭が少しクラクラしているし。働き過ぎかしら。


 部屋に戻ってしばらくすると、私と秀忠くんの間の長男、家光くんがやってきた。家光くんは、半年前に元服をして以降、幼名の竹千代から名前を改めている。


「母上様、義兄(あに)上もいよいよ関白ご就任でございますな」


 家光くんは、ニコニコと嬉しそうに私に話しかけてくる。家光くんは、秀頼様ととても気が合っており、頻繁に手紙を送り合っているのだ。去年の春に家光くんが京に上洛した際も、秀頼様の御屋敷に宿泊して、一か月も一緒に遊んでいたほどだ。


「そうね。少し時間が掛かってしまったたけれど、ようやくね。太閤様も、極楽でさぞやお喜びだと思うわ」


 秀頼様の関白就任は、当初の予定ならば二年前だった。だが、五摂家の一つ、鷹司家より当主の信尚(のぶひさ)さんを先に関白にして欲しいとの陳情があったのだ。


 色々と議論があった末、鷹司信尚さんは二年間だけ関白の地位に就き、その後十年間は、秀頼様が関白を務めることで決着をしている。


「しかし、京はお公家が色々と言うてきて、何かと面倒くさいですな。しかも、言い方が一々回りくどくて、何を言いたいのか、ワシにはとんと見当がつきませぬ」


 家光くんは、顔をしかめながら首を左右に振っている。


「お公家さんにも、色々と事情があるの。家光様も、再来年には鷹司の孝子様と祝言を挙げるのだから、お公家さんの考え方も知らないとダメよ」


 私がそう諭しても、家光くんは顔をしかめたままだった。うーん、大丈夫かなあ。秀忠くんや秀頼様を見習って、奥さんを大切にして欲しいな。でも、家光くん、私以外の女性には、当たりが厳しいのよね。ああ、頭が痛いなあ。また、めまいがしてきちゃった。


 そんなことを思っていたときだ。


「御台所様、大変でございます!」


 慌てて部屋に入ってきたのは、私の筆頭侍女の民部卿局ことお梅さん。いつもと違い、ひどく取り乱した様子だ。


「民部、どうしたのですか?」

「はい。一大事でございます! 豊臣家、ご謀反(むほん)の兆しあり、とのことでございます」

「えっ、豊臣家が謀反!? 一体、それって、どういうこと!?」

「は、はい。なんでも、京の大仏殿で、鐘の銘文に、おそろしげな呪詛の言葉が書かれておったとのことでございます」


 大仏殿の鐘に呪詛? 大仏殿って、京の豊国神社の隣、方広寺にあるやつのことだよね。十八年前、秀吉が建てさせた直後に大地震で倒壊したお寺。十二年前に、再建しようと工事したところ、工事中に火事で焼失。その後しばらく焼け跡のまま放置されていたけど、五年前から、豊臣家の財産を使って、工事を再開していた。でも、なんやかんやで工事は遅れていて、三か月前にようやく完成したという、いわく因縁のある大仏様だ。


 でも、そこの鐘に呪詛の言葉ってどういうこと?


「民部、どういうことか、よく、わかりません。もっと詳しく説明してもらえますか?」

「い、いえ、私も、今、駿府(すんぷ)からの使いが持ってきた文を読んだのですが、私には少し難しいところがございまして……」


 駿府からの使い? ああ、家康の取巻きの誰かが、また変なことを言っているのか。もう、あの人たち、ろくなことを言わないからな。


「では、その文を見せてください!」


 私は、急いで駿府から来た報告書を読んだ。書いてあったのはこういうことだった。


 今月に行われる予定の大仏の開眼供養の準備のため、家康の配下の者が方広寺を訪れた時だ。彼らは、鐘楼に吊り下げられた大鐘の銘文に、「国家安康」と「君臣豊楽」という言葉があることに気づいたのだ。


 すぐに駿府にこのことを報告した所、家康の取巻きの儒学者の林羅山という人が、「国家安康」では、家康の名前二つに分けた不吉なもの、「君臣豊楽」は、豊臣を君主として楽しむというもの、つまり、家康を殺し、豊臣に天下を取らせることを願った呪詛の言葉である、よって、これは謀反に違いない、そう断じてしまう。


 これを受けて駿府の城内はすったもんだの大騒ぎとなっており、京の豊臣家を詰問すべし、との声も上がっているとのことだった。


 はあ、どういうこと? それって、ただのイチャモンじゃないの! それに、お寺の鐘の銘文は、どこかの寺の偉いお坊さんが考えたものだろうし、寺院の再建にお金を出したからといって、豊臣家の誰かが鐘の銘文にまで口を出すようなことはない。それなのに、豊臣家が謀反をしようとしているだなんて、話が飛躍し過ぎている。


「酷い言いがかりですね。言っているのは、あの林様のようですね」


 林羅山という人のことは、私もよく憶えている。数年前から家康の下で働いている三十歳ぐらいの男のお坊さん。儒教にすごく詳しいとのことで、江戸城にも何度か儒学の講義をしに来たことがあった。だけど、いつも陰鬱な表情をしていて、しかも下を向いてブツブツと小声で呟くようにしか話せない人だ。正直に言って、私は彼に対しよい印象を持っていない。


「林様は、大御所様がご評価されておられますから」


 お梅さんが眉をひそめながらそう言った。そう、なぜだか知らないが、家康はこのパッとしない感じの林羅山という人をかわいがっているのだ。そして、最近はそれを笠に着て、林さんもやたらと偉そうに周囲に振舞っているらしい。


「いくら大御所様の御寵愛があろうと、火の無いところに無理に煙を立て、争いを起こそうとしているのを見過ごすわけにはいきません。すぐに林様を江戸にお呼びください!」


 私は、お梅さんにはっきりと頼んだ。うん、せっかく平和な世の中になったんだ。世の中の平和を乱すことなんて、絶対に許してはいけない! ああ、でも、本当に頭が痛いことばかりだな。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 十日後、駿府から林羅山さんが江戸にやってきた。私は表御殿で彼とすぐに謁見する。


「林様、駿府から遠路はるばるご苦労様です」

「いえ、御台所様にはご機嫌麗しく……。さて、何かソレガシに訊ねられたいことがあるとか、ないとか……」


 林さんは私と目線を合わさぬまま、いつものようにブツブツと小声で呟いている。


「はい、林様が、あらぬことを騒ぎ立て、世を乱そうとしていると聞きました」


 私がそう言うと、林さんは目を見開きながら、私の顔を見る。


「あ、あの、御台所様、そ、ソレガシが世を乱そうなど……」

「しかし、方広寺の鐘の銘のことで、豊臣を貶めようとしているのでしょう」


 私は、林さんを睨みつけながらそう言った。


「お、貶めるというのは、ご、誤解でございます……。あ、あの鐘の銘にある『国家安康』は、お、大御所様の尊き御名前を二つに割るもの。こ、これは言わば、大御所様の首と体を分けるという不吉なもの、でございまして……。そ、それに『君臣豊楽』とは、も、文字通り、豊臣を大君として世を楽しむという意味で……」


 林さんは私から目を逸らすと、やたらと早口でそう話す。改めて聞いても、彼の言っていることはメチャクチャだ。


「大御所様の御名前を分けて書くと、大御所様の首を体から切り離すことになるのですか?」

「は、はい。そ、そうでございます」

「それでは、豊臣の名を逆さに書くことは、豊臣を逆さ吊りにすることになりませんか?」

「い、いえ、それとこれとは話が違いまして……」

「話が違う? どう話が違うのですか?」


 私がそう問い詰めると、林さんは黙り込んでしまった。何だ、自分でも無理筋の話だと分かっていたのか。


「林様。そもそも、国家安康、この日ノ本という国を安らかにする。これは、大御所様、いや徳川家の宿願でございます。もし、大御所様の名を分けて書くことが、大御所様の首と体を切り離すことを意味していたとしても、お家の宿願成就のためならば、大御所様は喜んでご自分のお首を差し出されることでしょう」

「はあ……、しかし……」

「それなのに、無用に事を荒立てるのであるならば、それは、大御所様の御覚悟を汚すことに他なりません。つまり、鐘の銘文をあげつらい騒ぎ立てることこそ、謀反というべきです!」

「む、謀反? ソレガシが謀反? そ、そ、そんな、そんなことは、けっ、けっしてございませぬ。そ、ソレガシが大御所様に逆らうことなど、毛頭ござりませぬ」


 林さんは目を白黒させながらそう言った。彼の額から玉のような大粒の汗が噴き出ていた。その後も彼は必死に弁明していたが、私の心には、まったく響くことがなかった。そして、林さんはよろめきながら私との謁見の場から出ていったのでした。


 よし、これで無事に一件落着したよね。ふぅーっ、疲れたなあ。ああ、また頭が痛くなってきちゃったよ。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 そして、その日の晩。私の部屋に旦那様の秀忠くんが来ている。


「小姫殿。昼は、ずいぶんと羅山をいたぶっておったらしいのう」

「いたぶる? そんなことはございません! あの人が無茶苦茶なことを言って世を乱そうとしていたので、注意をしていただけです!」


 私が口を尖らせながら反論すると、秀忠くんは微笑みながら頭を下げてくれる。


「いや、いや、これはすまなんだ。言葉が過ぎた。じゃがな、羅山にも他意があったわけではない。あの者はお家のことを大事に思い、自分の考えたことを口にしただけじゃ」

「でも、鐘の銘にケチをつけて、豊臣家に謀反の兆しありだなんて、理不尽もいいところです!」

「うむ、ワシも、羅山はもう少し考えて物を言うべきじゃったと思う。じゃが、それよりも問題は父上じゃ」

「父上? 大御所様に問題ですか?」

「ああ、そうじゃ。昔の父上ならば、誰かがあのようなことを意見しても、取り上げることなどなかったであろうな」


 ふーん、まあ、家康ももう七十二歳。この時代の人の中では、異例とも言っていいほどの御長寿だ。まだ元気いっぱいとは聞いているけど、そう言えば、お勝の方様がこの間江戸に来られた時に「最近、大御所様がやたらと怒りっぽくて、すごく困ってしまう」と愚痴を言っていたことがあったっけ。


 まあ、じゃあ、家康にはとっとと隠居してもらって、後は秀忠くんに全部任せてもらうのがいいのかな。


「そうですか。それでは、これからは、秀忠様がこれまで以上に頑張らないといけませんね」


 私がそう言うと、秀忠くんの顔は急に引き締まった。


「うむ、そうであるな。ワシも将軍になって十年目じゃ。いつまでも父上に甘えてはおられぬからな」


 うん、秀忠くんならば、大丈夫。でも、無理をし過ぎて体を壊しちゃダメだからね。


「秀忠様、お体にはお気を付けください」

「うむ、そうじゃな。しかし、小姫殿も体に気を付けねばならぬぞ。このところ、少しやつれてしまっておるように見えるからのう」


 秀忠くんは、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。確かに、最近、頭が痛い日が多かったからなあ。それに、暑さのせいか食欲も落ちてきているし。


 小姫として生まれ変わってから二十三年。大きな病気をすることもなく、ずっと体調は良かった。健康のありがたみを本心から感じている。生まれ変わる前は、本当にずっと体調の悪い日が続いていたから。ああ、そう言えば、当時は、ずっとこんな感じの頭痛がしていたっけ。


 まあ、確かに今の私は働き過ぎかもしれないな。少し楽をすることにしよう。もう、この体も三十一歳。この時代だと立派な中年女性なんだから。


「秀忠様、お気遣い有難うございます。気づかぬうちに少し無理をしていたのかもしれません」

「うむ、そうじゃ。小姫殿は、いつも懸命に頑張っておるからのう。時には息を抜くことも肝要じゃ」


 秀忠くんは優しく微笑みながら、私の体を両腕でしっかりと抱きしめてくれた。ああ、秀忠くんに抱かれるとホッとする。頭の痛さも忘れてしまえるほどだ。


 だけど、秀忠くんはすぐに両腕をほどくと、私の顔をじっと見る。そして、右手を私の額に当ててくる。


「小姫殿。そなた、熱があるぞ。いや、これは尋常な熱ではない。誰か、侍医を呼ぶのじゃ。小姫殿が高熱じゃ! 早う、早う、来るのじゃ!」


 あれっ? 私に熱があったの? 確かにずっと頭がクラクラしていたけど。あれっ、少し目の前が暗くなってきた。どうしちゃったんだろう?


「小姫殿、しっかりとするのじゃ。今、侍医が来るからな。安堵するのじゃ!」


 私の背中を優しくさすりながら、秀忠くんはそう言ってくれる。うん、私は大丈夫。ちょっと疲れてしまっただけだから……。だから、少し眠ることにするよ。今日はお相手できてなくてゴメンね。


 私は秀忠くんに抱きしめられながら、ゆっくりと目を閉じた。そして、この日を境に私の暮らしは一変し、布団で寝てばかりの日々が続くことになるのでした。


本作をお読みいただき有難うございます。いよいよ次話で本編の最終回となります。本年1月の連載開始からお付き合いいただき本当に感謝しています。


次話最終回第72話は、10月9日土曜日21:00過ぎの掲載を予定しています。残り一話となりますが、お付き合いの程、よろしくお願いいたします。

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