第70話:秀吉の遺言
私と北政所様を乗せた船は、伏見の船着き場を出ると淀川を南に下っていた。そして、明け方前には大坂城内の船着き場に無事に到着した。
どうやら、大坂城の衛兵さんには、私達が城を訪れるという話が事前に通っていたようだ。私と北政所様は、船着き場から本丸御殿の裏口に案内された。ああ、裏口からお屋敷に入るなんて、生まれ変わってから初めての経験かも。へえ、結構、大勢の人が出入りしているんだ。
人の流れに紛れて裏口から御殿の中に入り調理場へ。そこからは、年若い侍女さんに案内される。彼女は、北政所様と私を前にして少し緊張気味の様子だった。
調理場の裏から薄暗い廊下に出ると、そこをまっすぐに進んでいく。そして中庭に出ると、その奥にある茶室に到着した。どうやら、ここで会談をするようだ。ふぅーっ、やっと、着いたよ。
「はあ、高台院様、くたびれましたね」
「何を申すか。小姫は船の中ではいびきを立てて、寝ておったではないか」
「えっ? いえ、そんなことは……。高台院様こそ、ずっとむにゃむにゃと寝言を言っておられましたよ」
「えっ? いや、そんなことがあるはずがなかろう」
こんな感じで北政所様と他愛もないことを言い合っていると、茶室の外から声がした。
「高台院様、失礼を致しまする」
年配の男性の声だった。ん、この声には聞き覚えがあるな。中に入ってきたのは、豊臣家の家老を務めている片桐且元さんだった。北政所様が親し気に声をかける。
「助作、突然こちらに来てしまい、なにかと迷惑をかけるな」
「いえ、高台院様。迷惑なぞ、とんでもございませぬ。今、御上様、上様、奥方様は御仕度をなされております。じきにこちらにまいられまする」
片桐さんはそう北政所様に報告すると、私の方を向いた。
「御台所様、本城までお越しいただき、大変ありがたき幸せでございまする。本来なら、もっと豪奢な部屋にてご歓迎をいたしたいところですが、このような窮屈な場所となってしまい大変申し訳ありませぬ」
「いえ、こちらにはお忍びで来ているわけですから」
私がそう言って微笑むと、片桐さんは、ほっとした様子だった。しかし、片桐さんに会うのは十年ぶりだけど、すこしやつれ、白髪も増えてしまっていて、すごく老け込んでいるように見える。随分と苦労してるんだろうな。
しばらくすると、茶室の外から年配の女性の声がした。
「上様、御上様、奥方様の御成りでございます」
おお、ついに来たよ! やっと、お橙ちゃんに会えるよ!
茶室の中に入ってきたのは、淀の方様、背の高く品の良い若い男性、そして、可愛らしい着物を着た美しいお姫様だった。
えっ? この美人のお姫様がお橙ちゃん? ああ、すごく可愛らしくなって。
私がお橙ちゃんの顔をじっと見つめていると、お橙ちゃんもそれに気づいてくれて、微笑みながら小さく手を振ってくれた。おお、お橙ちゃん、笑った顔は小さい時と変わらないね。ああ、懐かしくて涙が出て来ちゃいそう……。
ん? ということは、隣の男の人はひょっとして秀頼様? えええっ、すごく背が高くて凛々しいんですけど。うーん、秀吉とは大違いだなあ。確かに、よく見るとお顔は淀の方様によく似ているし、小さい時の面影もある。ああ、秀頼様もすっかり成長されたんだ。もう十七歳だものねえ。
秀頼様も私の方を見て、軽く会釈をしてくれた。おお、立ち居振る舞いも涼し気な感じで上品だ。やっぱり、秀吉とは大違い。
あっ、そうそう、まずは、淀の方様にご挨拶をしなくては。
そう思って、淀の方様の方を見たのだけど、彼女は私と視線を合わせようとはしなかった。まるで私がこの場所に存在しないかのような感じで、北政所様に話しかけられた。
「高台院様、このようにご無理をされなくてもよろしかったのに」
「まあ、そなたらが方忌みで京に来られぬというから、仕方がなかったのじゃ。せっかく江戸より小姫が来ておることじゃし、それに私もそなたや秀頼様と、今一度話をしたかったからのう」
「お話? ああ、わらわと秀頼様が京に移り住むというお話ですか。あれは、お断りをしたはずですが」
淀の方様の口調は、かなり冷たく感じられた。彼女がこういう話し方をするときは、すごく不機嫌なときだ。私は淀の方様のお顔をじっとみる。昔と変わらずお美しくはあるのだけど、でも、なんだかかなり疲れてしまっているようにも見える。
「しかし、今の関白、九条の忠栄様は、三年後に秀頼様に関白の職を譲ると約定しておられる。今から京で支度をしても早すぎることはあるまい。それとも、そなたは秀頼様が関白となるのにも反対しているのかえ?」
北政所様にそう問われても、淀の方様は眉一つ動かさなかった。
「もちろん、わらわもいずれ秀頼様には関白として天下を統べていただこうと思っております。ですが、あの上京の屋敷はあまりに不用心。堀も無ければ石垣も無く、櫓も天守もございません。あのような構えでは、敵が押し寄せて来たら、ひとたまりもありませぬ」
「敵が押し寄せる? この泰平の世にそのようなことが起きるはずもあるまい。それは杞憂じゃ」
「杞憂ではございませぬ。高台院様は、タヌキに欺かれておるのです。タヌキめは、秀頼様をこの難攻不落の大坂城から裸同然の屋敷に誘い出し、そこでお命を奪おうとしているに違いありませぬ!」
タヌキって、家康のことだよね。まあ、確かに色々と腹黒いところはある人だけど、でも周囲の目もすごく気にする人だから、そんな悪辣なことはやらないと思うんだけどなあ。
北政所様も驚いた顔つきで、淀の方様の顔を凝視している。
「いや、そのようなことはない。私が欺かれているなどあろうはずもない」
「欺かれている者は、欺かれていることに気づかないのでございます。高台院様からご信頼を得ていることを良いことに、このメスダヌキは高台院様の御心の内に入り込み、そして、ついには豊臣家を滅ぼして天下を我が物とするつもりにござります!」
……ん? メスダヌキ? ……あああっ、ひょっとして、淀の方様は私のことを言っているの!? ああ、確かに以前孝蔵主様に彼女が私のことをそう呼んでいるって教えてもらっていたっけ。でも、私が豊臣家を滅ぼすなんて、そんな馬鹿なことはない!
「ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください。よ、淀の方……御上様! 私はメスダヌキではないですし、豊臣家を滅ぼそうなんて思ったことも無いです!」
私は、思わず大きな声を出してしまう。そんな私に、淀の方様は、冷たい視線を送って来る。
「ほう、メスダヌキ。ようやく口を開いたか。じゃがな、高台院様は欺けても、わらわを欺くことはできぬぞ」
「欺くなんて、そんなことは考えたこともありません!」
「ふん、何を言うか。このメスダヌキが。そなたが豊臣家を滅ぼし、天下を乗っ取ろうと企んでいることは、もう既に露わになっておる。今さら隠したところで、ごまかせるものではない」
一体、どういうこと? なんで、そんな風に淀の方様に言われているのか、まったく見当がつかない。
「ごまかすもなにも、淀の方様がおっしゃっていることの意味がわかりません。私は豊臣家を滅ぼすつもりなんて全くないですし、それにそもそも天下は既に豊臣の手から離れております」
私がそう言うと、淀の方様の眉が不快気にぴくりと動いた。
「ふん、天下が豊臣の手から離れておる。よくぞ言うたものよ。それも全てそなたの謀であったのであろうな」
「はかりごと? どういう意味ですか?」
「白々しい。天下を乗っ取らんと、関ケ原の戦を起こしたのもそなたであろう」
へっ? 関ケ原の戦を起こしたのが私? どういう意味?
「あ、あの、おっしゃられていることの意味が分からないのですが……」
「ふん、しらばっくれるか。石田と小西も『小姫殿との知恵比べに負けた』と言うておったであろう。あれがよい証拠じゃ」
え? いや、石田三成さんや小西行長さんが、そんな変な言葉を残して死んだのは聞いていた。でも、私には、彼らがなぜそう言ったのか、まったく心当たりがないんだけど。
「す、すいません。なぜ石田様や小西様がそのようにおっしゃられたのか、理由がわからないのですが……」
「ふん、まだ誤魔化そうとするか。実に往生際の悪いメスダヌキじゃ。そなたは、太閤殿下も欺いていたつもりであろう。じゃがな、太閤殿下はそなたの浅はかな企みなど、すべて見抜いておったのじゃ!」
え? 秀吉が私の企みを見抜く? もう、さっきから次から次へと訳の分からないことを言われて、頭が混乱しちゃってるんだけど……。
「あ、あのすみません。淀の方様が何をおっしゃっているのか、本当によくわかりません」
「どこまでも往生際が悪いのう。太閤殿下は、秀頼様に十歳になったら読むようにと遺言を残しておられた。その中に『小姫には重々気を付けよ。あの者は豊臣から天下を奪い、徳川に渡そうとしておる。あの者は、一見ただの小娘のように見えるが、実は不可思議な力を持っておる故、けっして侮るではないぞ』とな」
……へっ? えええええっ!? それってどういうことよ! ちょっとおかしくない? 秀吉は死ぬ前に私に対し、「秀頼を救ってくれ。頼む」と頼んできたんだけど。
「あの、淀の方様。それは間違いではないですか。私が太閤様と最後にお会いしたときは、自分が亡くなった後は徳川に天下が移ることは見抜かれておられましたし、私には、秀頼様のことをお守りするようにご依頼もされました」
私がそう言っても、淀の方様は私の言うことを信じてくれない様子だ。汚い物でも見るような冷たい視線を私に対して送って来るだけだ。
そのときだ。淀の方様の隣でじっと話を聞いていた秀頼様が口を開いた。
「小姫殿。長らくご無沙汰しておる。ワシが子供の頃に遊んでもらったこと、今でもよく覚えておるぞ」
「ああ、秀頼様。こちらこそ大変ご無沙汰しております。見違えるほどにご立派に成長され驚きました。ああ、それに、いつもお橙ちゃんと仲良くしていただいて、有難うございます」
「いや、こちらこそお橙を立派に育ててくれて礼を言いたいところじゃ」
秀頼様の口調は温和で、表情も優しげだった。ああ、よかった秀頼様は私の話を聞いてくれそうだ。
「あ、あの、先ほどから淀の方様……じゃなくて、御上様がおっしゃられていることについて、私はまったく心当たりが無いのですが」
「うむ、ワシも、小姫殿が悪しき者であるとはとても思えぬ。じゃがな、小姫殿に不可思議な叡智があることは、よく知っておる」
「へっ?」
不可思議な叡智って、なに? 私は至って普通な人間なんですけど……。
「昔、小姫殿に遊んでもらった折、嵐が来たことがあった。覚えておられるか?」
「嵐ですか? いえ、まったく覚えてないです」
「ワシは、激しい雨風に怯えておった。そのときじゃ。小姫殿は『これは台風といって、南の海で生まれた嵐です。いずれ通り過ぎますので、ご心配には及びません』と教えてくれた」
えっ? まあ、言った記憶は無いけど、いかにも自分が言いそうなことだ。でも、台風がすぐに通り過ぎて、その後、天気がよくなるなんてことは、この時代の人でも当たり前のように知っていることだけど。
「お橙からも色々と聞いておる。小姫殿は、江戸の屋敷でお橙にグロボを見せながら、『ここはイギリス、ここはフランス、ここはオランダで、ここはエスパニア』と一国ずつ教えたのじゃな」
「えっ? あっ、はい。たしかに教えてましたが」
うん、確かに地球儀を見せながら、お橙ちゃんやお橘ちゃんに世界地理の教育を良くしていたと思う。
「お橙は、グロボには文字は書かれておらぬのに、小姫殿がそらで国の名を教えてくれるのを不思議に思っておったとのことじゃった」
「そ、それは、以前誰かから聞いたことを覚えていただけで……」
「そうか。でもな、それらの国のことをまるで自分の目で見たかのように語ってくれたとも聞いておる」
「えっ?」
うーん、全然覚えていない。いや、まあ、言ったとしても、それは生まれ変わる前にテレビで見た情報で、そんなに大したことじゃないし。
「そのような不可思議な叡智を持つそなたに一つ聞きたいことがある。教えてくれぬか?」
そう言うと、秀頼様は真剣な表情になった。聞きたいこと? なんだろう?
「い、いえ、特に私には叡智はないですけど、自分でわかることだったら、お答えします」
私がそう言うと、秀頼様は一度大きく深呼吸をし身を正された。
「ワシは天下人にはなれぬのか? それはなぜじゃ?」
まっすぐな質問だった。うん、その質問には対しては自分なりの答えはある。
「はい、天下はすでに徳川将軍家の下で泰平に治められています。ここで誰かが新たに天下人になろうとすれば、世は大きく乱れてしまいます。そうなれば、民は困ります。弱き者、力の無い者が苦しんでしまいます。ですから、たとえ秀頼様であっても、天下人になろうとしてはいけないのです」
私は秀頼様の目をまっすぐに見て、そう答えた。
「ふむ、ワシが天下人にならんとすれば、世が大きく乱れるか。確かにその通りかもしれぬな。じゃがな、もし、徳川がうまく天下を治められぬときはどうなるのじゃ?」
「えっ? 徳川が天下を治められない……。うーん、まあ、そのときは徳川以外の誰かが、代わりに天下を治めることになるのだと思います」
うん、確かにそう。徳川将軍家がうまく日本を統治できないようになって、明治維新が起きたんだよね。
「なるほど、そうか。例えば、もし徳川が力を失い、天下が再び乱れたのならば、それを正すために豊臣が兵を挙げてもよいのじゃな?」
「はい、勿論です。天下が平和になるのが一番ですから」
うん、これなら即答できる。ふふふ、でもね。徳川幕府は二百年以上続くから、すごく先になるから。
私と秀頼様が話し合っているのを眉をひそめながら聞いていた淀の方様が我慢できなくなったように口を開く。
「秀頼様。いけませぬ。このままではこのメスダヌキに化かされますぞ」
うーん、だから、私はメスダヌキじゃないんだけど……。
「母上様、小姫殿の申されたことに嘘は無いと思います。どうやら、小姫殿は、我らの知らぬことを、知っておられる。そして、おそらく、徳川の天下がこの先も続いていくことも知っておられるようじゃ」
「じゃ、じゃが、そなたは太閤殿下の嫡子。そなたこそが真の天下人なのじゃ」
「小姫殿が申されたように、すでに天下は豊臣から徳川に移っております。我らはそのことを認めねばなりませぬ。父上様も遺言の続きに書いてあったではございませぬか。『もし不幸にして、天下が徳川に奪われてしもうたとき、そのときは小姫を頼れ。あの者は、必ずや秀頼の身を守ってくれよう』と」
えっ? ああ、ちゃんと秀吉は、私に言ったことも遺言に残してくれていたのか。何よ、この部分だけでよかったじゃない。
「じゃが、まだ天下が奪われてしもうたと決まったわけでは」
「いや、とうの昔に決まっております。徳川に天下を渡さぬためには、ワシは関ケ原に行くべきでした。じゃが、あのときはまだワシは七つ。戦場に行くには幼過ぎた。時が合わなかったのです」
秀頼様は、淡々とした口調でそう言った。ふーん、そうだったのかな? 私には分からないな。
秀頼様は、もう一度私の方を向いた。少し悲し気なご様子にも見える。
「小姫殿。ワシはどうすればよい? この城を出て、京に行けばよいのか?」
うーん、そうだと思うんだけどな。京はのびのびとした空気に満ちているし。まあ、それに北政所様もそう言ってることだし、間違いはないよね。
「はい、それが一番よいと思います。京で、平和に楽しくお過ごしください」
「そうか。ワシや母上の身、いや、それよりも、豊臣の家は、しかと守られるのじゃな?」
「はい、それは私が保証します。もし、必要とあらば、誓紙もお出ししますが」
「うむ、誓紙も、破られるときはいとも簡単に破られる。じゃが、小姫殿、そなたの言うたことは信用しようと思う。これからも世話になる。よろしく頼むぞ。この通りじゃ」
秀頼様はそう言うと、私に対しペコリと頭を下げた。私も慌てて頭を下げ返す。秀頼様は、とても丁寧な人に育ったんだなあ。
こうして、秀頼様が大坂城を出て、京都に移り住むことが決まったのだった。うん、これできっと平和になるよね!
この会談の後、私はお橙ちゃんとは楽しくおしゃべりをしたのだけど、京行きの船の時間の関係で、あまり長くは一緒に過ごせなかったのが残念だった。
まあ、でも、来年の豊国祭りにも来ることにすればいいか。秀忠くんも今年は京に行くことを認めてくれたんだから、きっと来年以降も認めてくれるよね。ふふふ、お橙ちゃん、また、来年会いましょうね。
本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ・ご評価・ご感想・誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。
さて、本作も残すところ、後2話となりました。今年の一月から連載を初めてから九か月も経っていました。なかなか筆が進まず苦労をしたこともありましたが、何とか最後にたどり着けそうです。とは言っても、まだ残りの2話はプロットだけで執筆はこれからなので気を引き締めていこうと思います。
次話第71話は、10月9日(土)21:00頃の掲載を予定しています。最後までお付き合いの程、何卒よろしくお願いいたします。




