第69話:秘密の抜け道!?
慶長十四年(1609年)卯月(旧暦四月)。京の豊国神社では、毎年、卯月と葉月(旧暦八月)に豊国祭という大きなお祭りが催されている。
今年は、秀吉が豊国乃大明神としてこの神社に祀られてから十年という節目の年。今年の卯月の豊国祭は、例年以上の規模で行われており、私も徳川家を代表してこのお祭りに列席している。
「高台院様、ものすごい人出ですね。こんなに人が集まるなんて、思ってもいませんでした!」
「ほほほ、京の街中だけでなく、周りの国々からも人が押し寄せて来ておるとのことじゃ。これも泰平の世ならではじゃな」
高台院こと北政所様は、お祭りが始まってから、終始ご機嫌な様子だ。
「高台院様、御台所様。西の空が少し暗くなってまいりました。おそらく遠からず雨となりましょう。一旦、高台寺の屋敷に戻りましょう」
北政所様の筆頭侍女、孝蔵主様に促され、私達一行は豊国神社を後にし、少し先にある高台寺前のお屋敷に向かう。ちょうどお屋敷の玄関口に着いた頃に、ザアっと強い雨が降り出した。
「なんとか間に合って良かったですね。あのまま神社にいたらずぶ濡れになっていました」
「ほほほ、あの人の嬉し涙かもしれぬな。派手なことが大好きじゃったからなあ。あの人に喜んでもらえたのなら、何よりじゃな」
突然の雨にもかかわらず、北政所様はご機嫌なままだった。お屋敷の北政所様の部屋に入ると、年若い侍女さんが持ってきてくれた温かいお茶をゆっくりと飲む。
「はあ、落ち着きます。美味しいお茶を有難うございます。それにしても。こちらのお屋敷は、こじんまりとしてるのですね」
「それがよいのじゃ。こうして、茶もすぐに出てくるしのう。上京の屋敷は、私が住むには広すぎるからのう。今は、専らこちらで暮らしておるのじゃ」
北政所様の本宅は、上京の三本木というところにある。御所のすぐ傍のいわば一等地だ。この上京のお屋敷は、もともとは秀吉が聚楽第を壊した後に、新たな京の住処として建てたものだ。
「あの大きな上京のお屋敷が使われていないのは、少しもったいない気がしますね」
「うむ、そうかもしれないな。じゃが、あの屋敷にとって、私は仮の主にしか過ぎぬからのう。本来であるならば、あの屋敷には秀頼様と橙姫が住むべきじゃと思うぞ」
北政所様は、急に真面目な顔になると、はっきりとした口調でそう言った。
「えっ? あの屋敷に秀頼様とお橙ちゃんがですか?」
「そうじゃ。秀頼様は、いずれ関白となる。関白とは、帝をお助けするのがその仕事。当然、御所の近く、京の街中に住まわねばなるまい」
「あっ、はい。確かにその通りです」
なるほど。言われてみればその通りだ。秀吉も関白の職に就いていた時は京の聚楽第に住んでいたし、秀次さんに関白職を譲った後は、聚楽第も彼に譲っている。
「どうせ、いずれ京に来るならのならば早い方がよい。じゃから、前から淀殿にそう言うておるのじゃが、いつも渋い顔をされてしまう。大坂城から出るつもりは、微塵もないようなのじゃよ」
へえ、北政所様と淀の方様は、そんなことも話し合っていたのか。全然知らなかった。
「そうなのですね。ああ、そう言えば、秀頼様、淀の方様、お橙ちゃん、遅いですね。もう京に着いてもよい頃合いでしょうに」
そう、大坂城に住む三人は、夕方に京に着く予定になっているのだ。はあ、待ち遠しいなあ。そわそわしてしまう。
そのときだ。北政所様の部屋に孝蔵主様がやってきた。
「高台院様、たった今、大坂より使いの者が参りました」
「ほう、使いの者。して、その者は何と言っておる?」
「はい、大坂城で出立前に吉凶を占わせたところ、京の方角には天一神様がおると分かった、ついては此度の豊国祭りへの列席は遠慮したい、とのことでございました」
「なんと、方忌みか。それは、何とも具合が悪いのう」
方忌みとはこの時代の風習の一つ。外出する際に、陰陽師という占い師さんに出かける方角の運勢を占ってもらうのだけど、目的地の方角に神様がいることが分かった場合、そちらの方に進むことができなくなってしまうのだ。
孝蔵主様は用件を伝えると、部屋から出て行った。
「ああ、方忌みとは、ついていませんね」
「本当のところはどうだか分からぬがな。陰陽師の言うことなど、どうとでもすることが出来るからのう」
まあ、確かにその通りかも。江戸城にも陰陽師さんが何人かいるけど、不都合な占いが出たことなんて聞いたことが無い。きっと陰陽師さんは色々と忖度して占いの結果を調整しているに違いない。
ということは、今回の占いは、淀の方様がやっぱり京に来たくなかったということを意味しているのかな。うーん……。
「はあ、しかし、残念です。せっかく、お橙ちゃんを高台院様にご紹介することもできましたのに」
そう、お橙ちゃんは豊臣家にお輿入れしてから一度も外出していない。北政所様も大坂城に来ていないはずなので、二人は一度も顔を合わせたことがないはずなのだ。
ああ、それにしてもお橙ちゃんとは、結局会えないのかあ。五年以上も顔を合わせていないし、今回はやっと会えると思ってワクワクしていたのになあ……。
でも、北政所様は、びっくりするようなことをおっしゃられた。
「いや、もうお橙とは何度も会うておるぞ」
「……へっ!? 、そうなのですか。で、でも、お橙ちゃんからは、何度も文を貰っていますが、高台院様とお会いしたことなど、今まで一度も書いてきていないのですが……」
私は戸惑いながら北政所様の顔をじっと見る。北政所様はニヤリと楽しそうに笑われた。
「ほほほ、そうか。小姫は聞いておらぬのか。お橙は口が堅いのじゃな。さすがは豊臣家の嫁じゃな」
「お橙ちゃんの口が堅い? それは、一体どういうことですか?」
「私が、大坂に行ったのはお忍びじゃからな。誰にも他言せぬようにお橙にも言うていたのじゃが、さすがに小姫には伝えおると思うておったぞ」
えっ、お忍び? ああ、そう言えば、五年前に京に来た時に、北政所様と二人で、お忍びで北野天満宮までかぶき踊りを見に行ったことがあったっけ。
ん? でも、なんで大坂城に隠れて行かなくちゃいけないの?
「あの、高台院様、なぜ、大坂城に行くのにお忍びをされたのでございますか?」
「それはな、私が洛外に出ることを許されておらぬからじゃ。このことも聞いておらぬのか」
「はい、申し訳ありません。でも、一体、誰がそんなことを?」
「京都所司代の板倉殿じゃ」
北政所様の説明によると、京都所司代の板倉さんから、京の街中は自由に行動してもよいが、洛外に出るには事前に幕府の許可が必要であると言われた。以前に大坂に行きたいと申し出たときは、何かと難癖を付けられて、結局許可が下りなかった、ということだった。
勿論、板倉さんが独断でそんな無礼な対応を北政所様にできるはずはない。彼にそんなことをさせているのは、間違いなく家康だろう。
「高台院様、色々とご不便をおかけしており、まことに申し訳ありません」
「まあ、家康殿も私が大坂城で籠城し、虎之助や市松に兵を挙げさせようとするのがお嫌なのだろうな。私がそんなことをするはずはないのじゃがのう」
虎之助とは加藤清正さん、市松とは福島正則さん。どちらも子供の頃から秀吉に仕えていた武将さん。だけど、今は二人とも徳川家の親戚の姫を後妻として貰っていて、家康とはとても仲よくしている。でも、確かに、二人とも北政所様には心服しているから、絶対に逆らえないだろうしなあ。
でも、北政所様は手荒いことが大嫌いで、誰かに兵を挙げさせるなんて命令をするはずもない。だのに、北政所様に不自由をかけるなんて。
「本当に申し訳ないです……」
「まあ、秀頼様が大坂城にいる限り、家康殿の豊臣への懸念は消え去ることはないであろう。じゃから、秀頼様も早くに大坂を出て、京に来るべきなのじゃがのう」
確かに、私が知っている歴史でも、この後は大坂冬の陣・夏の陣が起きて、豊臣家が滅んでしまう……。やっぱり、この歴史は変わらないのだろうか。
「のう、小姫。せっかく、京まで来たのじゃ。私と一緒に大坂にお忍びで出かけぬか?」
「えっ? 大阪にお忍びですか?」
「そうじゃ。伏見から船に乗れば、明日の明け方には大坂城に着くであろう。そこで、秀頼様、淀殿、お橙と話をして、昼前に大坂を出れば、夜には京に戻って来れる」
「はあ、いや、大変よいと思うのですが、でも、私がいなくなると大騒ぎになると思います」
「そこはじゃな、さきほどの雨に濡れて風邪をひいたことにすればよい。小姫と背格好の似た侍女を影武者として、布団に寝かせておく。一日ぐらいであれば、ごまかすこともできるであろう」
北政所様は、そう言うとまたニヤリと笑われたのでした。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、その日の晩。日は沈み、辺りはすっかり暗くなっている。
「おお、すごい。こんな所に出てくるのですね」
北政所様の別邸の庭にある井戸。実はこの井戸は秘密の抜け道の入り口だったのだ。井戸の真ん中辺りからは、大きな横穴が掘られていて、その横穴を進んでいくと、なんと屋敷の向かいの高台寺の境内に繋がっていた!
「ほほほ、京都所司代に知られぬようにこの抜け道を掘らせるのには、かなり骨が折れたぞ。苦心の末に、一昨年の秋にようやくできあがったのじゃよ。じゃがな、小姫よ、この抜け道のことは他言無用じゃぞ」
「はい、高台院様、わかりました。勿論、このことは誰にも話しません」
抜け道の出口付近では、松明を持った孝蔵主様と北政所様の所で働くお侍さんが二人が待機していてくれていた。
「高台院様、御台所様、お疲れさまでございました。こちらをどうぞ」
孝蔵主様は、半透明の布が付けられた市女笠を手渡してくれた。おお、五年前に北野天満宮に行ったときにもこの笠を被ったなあ。なつかしい。
孝蔵主様の後をついて、高台寺の境内を歩いていくと、林の一角に馬が二頭、繋ぎ止められているのが目に入ってきた。
「それでは、こちらの馬にお乗りください」
「ええええっ!? ちょ、ちょっと待ってください! お、お馬に乗るのですかぁ!? む、無理です。私は乗れません!」
思わず大きな声を出してしまった。徳川家にお輿入れして間もない頃、伏見の徳川屋敷で乗馬の練習をしたことがあったけど、そのときはとても大変な目にあってしまったのだ。
「小姫、今さら何を言うておるのじゃ。ここから伏見まで二里半もあるぞ。歩いていては、とても間に合わぬ」
「で、ですが、お馬は私には無理で……」
「馬に乗ると言うても、後ろに座るだけじゃ。手綱は、前に座る者が握る。小姫は、その者の腰の辺りをしっかりと掴んでおるだけでよい」
「で、で、で、で、でもぉ……」
北政所様は怖じ気づいている私を引っ張って、強制的に馬に乗せる。
「よし、よいな。では、伏見の船着き場までじゃ。よろしく頼むぞ」
「はっ!」
こうして高台寺から二頭の馬は駆け出していく。
「ゆ、ゆ、揺れますぅ。もっと、もっと、ゆっくり進んでくださいぃぃぃ!」
私の悲痛な叫び声をものともせず、二頭の馬を足を緩めることも無く、伏見を目指して進んでいったのでした……。うぷっ。私、お馬に乗ると、酔っちゃうんだけど……。
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次話第70話は、10月2日(土)21:00頃の掲載を予定しています。本作も終盤に入っておりますが、最後までお付き合いの程よろしくお願いいたします。




