第65話:御台所様はお忙しい!
慶長十年(1605年)皐月(旧暦五月)。最近は雨の日が続いている。多分、もう梅雨入りしてしまっているのだろう。うーん、雨が続くと工事が遅れるから、頭が痛いなあ。はあ、私は読みかけの書類から眼を離すと、耳をすませ部屋の外の様子を窺う。
エイヤーッ! ソーレッ! ドッコイショーッ!
私が今いる江戸城本丸・表御殿の建物の外では、威勢の良い声が響いていた。どうやら、雨の中でも工事を続けてくれているようだ。ふぅー、よかった。私はほっと胸を撫でおろすと、書類に目を戻した。
実はここ江戸城では、去年の秋から大規模な拡張・改修工事が行われている。今は石垣の工事が行われていて、日本全国から大量の石が江戸城に運び込まれている。その後は、本丸や二の丸の建物も建て替えられることになっている。全ての建物の完成予定は再来年。なんと三年間もかかる大工事なのだ!
「はぁーっ、また野菜が足りなくなってるじゃない……」
私は、書類を机の上に置くとため息をついた。実は、ここ数日、人夫さんたちの間で体調不良の人が増えていると聞いていたので、彼らへの差入れの状況を確認してみると、案の定、野菜が不足していたのだ。うん、ビタミンや食物繊維の不足は、万病のもとだからね。
「民部、大久保様をここにお呼びしてもらえますか」
私の筆頭侍女の民部卿局ことお梅さんに、勘定奉行で老中の大久保長安さんを呼んできてもらう。すぐに、大久保さんが私が仕事をしている部屋にやってきた。
「御台所様、何事でございましょうか?」
『御台所』、これは将軍の奥さんという意味。先月に秀忠くんが二代将軍に就任して以来、私は御台所と呼ばれているのだ。
「はい、大久保様、人足への青物の差入れが最近減っていることに気づいたのですが」
私がそう指摘すると、大久保さんの顔が急に曇る。
「はあ、そうでございますか。いや、最近は雨が続いておりますからな。まあ、お天道様の為されることは、いかんともし難きところであれば」
「しかし、江戸城への青物の納め入れは、先月も減っていますよ。確か先月は、好天続きだったはずですが」
私がさらに指摘すると、大久保さんは露骨に不快そうな顔となる。
「ふむ、そうでございましたかな。まあ、しかし、そもそも、此度のご普請は諸大名の方々が担われておりますからな。人足への糧食の御手配は、大名の方々が自らなされるべきものかと」
そう、大久保さんの言う通り、江戸城の改築工事を担当しているのは、福島正則さん、加藤清正さん、黒田長政さんなど西国の大名さんたち。彼らは、資材の調達や人夫さんの手配を含めた工事の一切合切をすべて幕府から引き受けている。
「確かに、大久保様のおっしゃる通りです。ですが、福島様、加藤様、黒田様たちのご領地は、江戸から遠く離れています。日持ちのするお米であれば、ご領地から持ってくることもできるでしょうが、青物は、そういうわけにはいかないでしょう」
「しかし、そこを何とかするのも、皆様の御才覚の内かと」
「それはそうかもしれませんが、江戸城のご普請が遅れて損をするのは徳川家でございます。大久保様、配下の者に人足への青物の手配を怠らぬよう、しっかりとご指示ください」
私がそうお願いすると、大久保さんは「畏まりました」と言って頷いてくれた。大久保さんはとてもお仕事の出来る人だから、これで大丈夫でしょう。
私が一安心していると、お梅さんが足早に私のもとにやってきた。
「御台所様、お父上様より急ぎの報せがまいっております」
「えっ、父上様からの報せ?」
私の実父、織田信雄さんは、今は隠居中。大和国の宇陀という土地を自分の領地として持っていて、そこからの収入をもとに悠々自適の生活を送っている。京に大邸宅を構えていて、普段は公家さんや豪商たちと歌会や茶会を楽しんでるみたいで、年に一、二度は江戸にも遊びに来ている。
信雄さんの使者から手紙を受け取ると、すぐにその中身を確認する。どうやら、信雄さんはここ最近はずっと大坂城にいるようで、この手紙もそこから出されたものだった。
「えええっ、ちょっと、忠輝くん、それはまずいよ……」
私は思わず独り言を漏らす。信雄さんの手紙には、大坂城を訪問していた秀忠くんの弟、松平忠輝くんの自由奔放な言動に、淀の方様が激怒していた、と書いてあったのだ。
そもそも、忠輝くんの大坂訪問には色々と因縁があった。当初、家康と秀忠くんは、秀忠くんの将軍就任と併せて、豊臣秀頼様に京に上洛するように頼んでいた。だけど、淀の方様はそれを無礼とし、逆に秀忠くんが大坂城に来るべきだと答えたのだ。そのため、一時険悪な空気が流れていたらしい。
まあ、その後も色々とあったらしいのだけど、最終的に妥協策として、忠輝くんが、秀忠くんの名代として大坂城の秀頼様にご挨拶に伺うことで落ち着いたと聞き、私もほっとしていた。でも、どうやらまだ十四歳と年若い忠輝くんは、大坂城でやらかしてしまったらしい。
「まあ、あの子、ちょっと軽はずみなところがあるからなあ……」
忠輝くんのお母さんは、茶阿局様。聡明でとてもしっかりした人なのだけど、残念ながら、子供の忠輝くんの性格は母親似ではなかったのだ。やたらと喧嘩っぱやくて、領地の信濃国・川中島でも色々といざこざを起こしているとも聞いている。淀の方様は振る舞いが上品じゃない人は大嫌いだから、忠輝くんとはウマが合わないんじゃないかなと心配だったのよね。
私は筆を取ると、淀の方様へのお詫びの手紙を書いていく。うん、できるだけ丁重に丁重に。だけど、淀の方様の私への対応は、最近かなり厳しいのよね。私がお手紙を出しても、ほとんど返事をくれないし……。
そうだ、北政所様にもお取り成しをお願いしよう。うん、それに孝蔵主様にもご助力をお願いしておいた方がいいよね。あっ、そうだな、後は、江姫様にも、取り成してもらおう。私は続けて、北政所様と孝蔵主様、それに江姫様にお手紙を書くことにした。
私は急いで四通の手紙を書き終えると、京に滞在中の秀忠くんと伏見城の阿茶局様にも「こんな手紙を出しましたよ」と報告する手紙も書いた。うん、報告は大事だよね。
「ふぅーっ、やっと書き終えたぁ……」
一字でも間違えると最初から書き直しになってしまうから、筆で手紙を書くときはいつも緊張する。まあ、江戸城には手紙を代筆してくれる右筆さんというお仕事の人もいるけど、でも、こういった大事なお手紙は自分で書かないといけないよね。
ほっと息をついているところに、またお梅さんがやってきた。
「御台所様、前田家の奥方様と橘姫様がいらっしゃいました」
「えっ、永姫様とお橘ちゃん? ああ、もう、そんな頃合いなんだ。はい、分かりました。すぐに向かいます」
前田家の奥方の永姫様と、私の次女で前田家にお輿入れしたお橘ちゃんの二人とは、未の刻(午後二時)に会うお約束がある。この二人は、今でも月に一、二度、私の所に来てくれている。だけど、今日は永姫様から「お話ししたいことがある」と言われているのだ。一体、何のお話だろう?
表御殿の仕事部屋から、足早に奥御殿の自室に移動する。どうやら二人を少しお待たせしてしまったみたいだ。
「永姫様、お橘ちゃん。失礼しました。少し仕事が立て込んでまして」
「いえ、御台所様のお忙しいお時間をいただき、誠に有難うございます」
ん? なぜだか知らないが、今日の永姫様はやたらと堅苦しい感じだ。どうしたんだろう。
「永姫様、どうしましたか? いつものように、もっとお気楽にされてください」
私がそう言っても、永姫様の表情は堅いままだ。その隣でちょこんと座っているお橘ちゃんも、なぜだか知らないが今日はちょっと緊張している様子だ。
「御台所様。本日は、お詫びに伺いました」
永姫様はそう言うと私に向かって深々と頭を下げた。
「えっ? お詫びですか?」
「はい。そうでございます。橘姫が当家に輿入れする折に、私は江戸の前田家の屋敷でお育てるとお約束いたしました」
「はい、覚えています」
あれは江戸に来て一年ほどたった頃。ちょうど五年前になる。永姫様は私に対し、お橘ちゃんを自分の手で江戸で育てるとはっきりと約束をしてくれた。
「ですが、大変申し訳ござりませぬが、国許の事情が変わってしまい、橘姫を加賀へお連れすることと相成りました」
「えええええっ!?」
そ、それって、一体、どういうことなの!? 私は、驚きのあまり、それ以上言葉を発することが出来なかった。
「御台所様とのお約束を違えることとなってしまい、面目次第もございませぬ」
永姫様はそう言うと、もう一度深々と頭を下げた。その口調と態度から永姫様が心からすまなく思っていることが伝わってくる。
「あ、あの、永姫様。さきほど、お国許の事情とおっしゃられましたが、一体、なにがあったのでしょうか?」
「はい、情けない話でございますが、実はまだ前田の家中は一枚岩ではございませぬ。家臣の中には、利光殿への家督相続に異を唱えるものまで出てくる始末。これを封じるため、利長様は早々に御隠居され、利光殿に家督を渡されることを決められたのです」
えっ、そうなの? 利光殿とは、お橘ちゃんの旦那様のこと。まだ十二歳なのにとても利発で、去年の年始に江戸に挨拶に来た時も堂々とした振舞いで周囲を感心させていた。
ふーん、もう利光くんが前田家の家督を継ぐことになったのか。でも、それとお橘ちゃんが加賀に行く話がどう関係してるの?
「そうでしたか。しかし、永姫様。利光様が家督を継がれるお話とお橘ちゃんが加賀へ行く話が、どのように繋がっているのですか?」
「はい、家中の少なからぬ者が、利光殿の正室である橘姫が加賀に足を踏み入れていないことを不満に思っております。利長様は、ここでその不満を消したうえで、差し障りなく利光殿に家督を譲ろうとのお考えでござります」
……。まあ、前田家では、昔から色々ややこしい事情があるとは聞いていた。関ケ原の戦いのときも、利長さんの弟の利政さんが、家臣の一部と手を組んで、利長さんに叛旗を翻そうとしてたぐらいだし。まあ、でも、それとこれとは話が違うと思う。
「永姫様。前田家に難しい事情があることは分かりました。でも、もし加賀のお国許が荒れているのであれば、そこにお橘ちゃんを送ることを承服しがたいのですが」
「いえ、加賀には義母・芳春院がおりますので、ご心配には及びません。江戸の屋敷にいるのと同じと考えていただければと」
うーん。芳春院、つまりお松の方様は、確かに信頼できる人だけど……。でも、お橘ちゃんはまだ数えで七歳と幼いわけで……。
私は、お橘ちゃんの顔をじっと見た。お橘ちゃんは私を見返すと、にっこりとかわいらしく微笑んでくれた。
「母上様。お橘は、大丈夫でございます。お橘は、喜んで加賀に行きたいと思うております!」
お橘ちゃんは、可愛らしい声で明るくそう言った。
「でも、お橘ちゃん。加賀は江戸からはとても遠いのよ。加賀に行ってしまったら、何かあっても簡単には会いにいくことはできなくなっちゃうから……」
私がそう言っても、お橘ちゃんはニコニコと微笑んだままだった。
「はい、母上様とお会いできなくなると寂しゅうなると思います。でも、加賀には利光様がいらっしゃいます。お橘と利光様は夫婦でございます。利光様は、お橘のことを何があっても守ると誓うてくださいました。だから、お橘は、利光様のお側にいたいと思うております」
お橘ちゃんは、私のことをまっすぐに見つめながらはっきりとそう言った。
「でも、お橘ちゃんは、まだ七つだから」
「いいえ、母上様は、お橘はもう七つでございます。姉上様が、大坂の秀頼様にお輿入れされたのと同じ年です」
……。そうお橘ちゃんに言われてしまうと、これ以上何も言えなかった。私は、永姫様の方を向く。
「永姫様。お橘ちゃんの心が決まっていることはわかりました。それで、いつ、加賀に向かうことになるのですか?」
「はい、来月、公方様が江戸に戻られた後、お暇のご挨拶に改めて伺わせていただきます。その後、速やかに加賀に向かうことを考えております」
来月……。そんなに早くなんだ。ああ、とても寂しいなあ……。お橘ちゃんと、もっといっぱいお話したかったな。あっ、そうだ。
「分かりました。それでは、来月、加賀に発つときまでお橘ちゃんを江戸城に里帰りさせていただけませんか。それまで、親子水入らずでゆっくりと過ごしたいのです」
私がそう言うと、永姫様は少し驚いたようだった。でも、すぐに優しくうなずいてくれたのだった。
こうして、長女のお橙ちゃんに次いで、次女のお橘ちゃんとも離れ離れになることが決まってしまった。この時代は娘がお嫁に行ってしまうと、その後はなかなか会えなくなっちゃうから本当に辛い。はあ、本当に寂しいなあ。
本作をお読みいただき有難うございます。ブクマ・ご評価・ご感想・誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。また、先日、椎名ユズキ様よりレビューをいただきました。大変、嬉しく思っております!
さて、主人公も御台所様となり、物語もいよいよ最終盤に近付きつつあります。本作が無事着地できるよう頑張って行くつもりです。
次話第66話は、9月4日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程何卒よろしくお願いいたします。




