第61話:お橙ちゃんのお輿入れ!
慶長八年(1603年)文月(旧暦七月)。江戸を発って二十日余りで、私とお橙ちゃんは伏見城に到着した。
このお城はもともとは秀吉が建てたお城。最初に宇治川沿いに建てたお城は大地震で崩れ落ちてしまったので、近くの山の上に移築したものだ。秀吉の死後は、徳川家の上方での活動の拠点となっていたのだけど、関ケ原の直前に宇喜多忠家さん率いる西軍の軍勢に攻められて落城、天守閣や本丸御殿などの主だった建物は焼け落ちてしまった。
でも、その後、二年の歳月を掛けて再建され、今は再び徳川家の活動の拠点となっている。今年の如月に征夷大将軍に任ぜられた家康も、今は一年の大半をこのお城で過ごしているのだ。
そして、私は今、お橙ちゃんと一緒に、家康の側室筆頭格である阿茶局様のお部屋を訪れている。
「お柚、お橙。長旅、大儀であったな」
「いえ、阿茶局様、お気遣い有難うございます。道中は、天候にも恵まれて、すごく楽しい旅でございましたよ」
「ふふふ、お柚は相変わらずじゃのう。お橙はいかがじゃった? 疲れてはおらぬか?」
「はい。大丈夫でございます。母上様と一緒の旅でございましたので、大変楽しゅう思うておりました」
「ほう、そうか。それにしても、お橙は立派な姫君となったものよのう。これならば、豊臣家にも胸を張って輿入れできるというものよ」
阿茶局様は、目を細めてお橙ちゃんのことを見ている。阿茶局様は、秀忠くんの母親代わりの役目を務めていたので、お橙ちゃんが生まれたときも、まるで血の繋がった初孫のようにかわいがってくれていた。きっと今もお橙ちゃんのことを愛おしく思ってくれているのだろう。有難いことです。
その後、半刻(約一時間)ほど、阿茶局様のお部屋で仲良くお話をすると、私とお橙ちゃんは自分の部屋に戻った。
どうやら、お橙ちゃんは少し疲れていたようで、部屋に戻ると眠そうにあくびを繰り返していた。なので、隣の部屋にお布団を敷いてもらい、お橙ちゃんにお昼寝をさせることにした。
お橙ちゃんが寝入った直後のことだ。
「お柚の方様。お勝の方様がいらっしゃいました」
お勝の方様とは、家康のお気に入りの側室の一人。もともとはお梶の方と名乗っていたのだけど、関ケ原の戦いに家康に同行した際に、戦勝祝いということで、家康にお勝と改名させられたのだ。
家康の側室の中では、私と比較的年が近いこともあり、昔からすごく仲良くしてもらっている。ここ三年ほどお会いできていなかったので、こちらからすぐにご挨拶に行こうと思っていたのに、逆に来てもらうとは恐縮だ。
「おお、お柚。変わりないのう」
「お勝様、わざわざお越しいただき恐縮でございます。本来なら私がご挨拶に伺わなければいけないところですのに」
「堅苦しいことは別に良いぞ。そなたと私の仲ではないか」
お勝の方様は快活な笑みを浮かべている。相変わらずとても気さくで素敵な人だなあ。
私とお勝の方様は、お菓子を食べながら仲良くおしゃべりをする。
「しかし、ようお橙を連れてきてくれたのう。実は、阿茶様と心配をしておったのじゃ」
「ご心配ですか?」
「そうじゃ。お柚は子煩悩じゃからのう。お橙を自分の手元から離さないのではないかと思うておったのじゃ」
うーん。私って子煩悩なのかなあ? まあ、確かに、箱根ではお橙ちゃんと引き返そうと思いましたけどね。
「もう決まったことでございますし、お橙ちゃんも理解してくれているようですので」
「そうか、そうか。お橙は随分としっかりと育ったのじゃな。伏見でも、すっかり評判じゃぞ。まあ、秀頼様の奥方ということは、いずれ『北政所』になるということじゃからな。お橙なら、そのお役目をしっかりと果たしてくれるであろう」
うん、まあ、秀頼様は、何れ関白になるはずだから、その正室のお橙ちゃんも、平和に行けば、北政所になるはずだよね。でも、そのためには豊臣家が滅びないようにしなければいけないのだけど。
あっ、そうだ。お勝の方様に聞きたいことがあったのだ。
「お勝様。お勝様は、秀頼様がどのようにご成長されたかご存じですか?」
伏見城が去年再建される前は、家康の上方での拠点は大坂城の二の丸で、二の丸内に屋敷を構えてそこで側室の方々と一緒に生活もしていた。つまり、本丸にいた淀の方様や秀頼様とは、ご近所さんだったのだ。きっと、お勝の方様はご存じに違いない。
でも、お勝の方様は表情を曇らせてしまう。
「うむ、実はな、私は一度も秀頼様をお見かけしておらぬのじゃ」
「えっ? そうなのですか? ただの一度も?」
「そうじゃ。私だけではない。太閤様が亡くなった後は、阿茶様も秀頼様にお会いしておらぬ。上様も、関ケ原の直後に一度お会いしただけじゃと聞いておる」
えええっ? 上様って、家康のことよね。家康もずっと秀頼様とは会えてないんだ。でも、それって、変じゃない?
「お勝様、一体何が起きているのですか?」
「御上様が、秀頼様を大坂城の本丸御殿の外に出さぬのじゃよ。なぜ、御上様がそこまで頑ななのかは分からぬ。じゃがな、少なくとも、御上様が徳川に心を許しておらぬのは間違いない」
御上様とは、淀の方様のこと。やっぱり、淀の方様は徳川家のことを警戒しているんだ。でも、そんな敵視されている中に、お橙ちゃんをお輿入れして大丈夫なのだろうか……。
「まあ、御上様も、上様が征夷大将軍になられたのが気に食わぬのであろうし、同時に右大臣に昇任されたのも気に食わなんだのじゃろう。じゃがな、一番気に食わぬのは、お橙をすぐに輿入れさせぬことのようなのじゃ。徳川は、豊臣を信用せぬのかと、えらくご立腹らしいのじゃよ」
「えっ? ご立腹って、怒っておられるのですか?」
「そうじゃ。そしてな、御上様が特に怒っておるのは、お柚。そなたに対してということじゃ。なんでも、『お柚が、輿入れを引き延ばしておる。お柚は豊臣家から嫁に行ったにもかかわらず、豊臣家を敵とする不届きものじゃ』と周りに言うておるらしいぞ」
「えええええっ!?」
淀の方様が私に怒っているって、どういうこと!? 心当たりが無いと言うか、今でも、淀の方様とは仲良くしているつもりなんだけど……。
「どうしたのじゃ。不服そうな顔じゃが」
「はい、御上様には、幼き時よりかわいがっていただいておりますし、今も月に一度は、文を交わしております。でも、いただいたお手紙には、特にご立腹されたご様子などは無く……」
そう、淀の方様は昔と変わらず面倒見は良くて、私も手紙で子育ての悩み相談を書いていたこともあるぐらいだ。
「そうなのか。御上様からの文は、どのようなものなのじゃ?」
「はい、私のことや私の子供にも気にかけていただいており、元気にしているか、といつも尋ねてこられます。ああ、そう言えば、この一、二年は特に、お橙ちゃんのことを気に掛けていただいております。文でも『もう随分と大きゅうなったのう』とよくお褒めいただいていて――」
ふと顔を上げると、お勝の方様があきれた様子で私を見ていた。
「お勝様、どうしましたか?」
「どうしたではないぞ。『大きゅうなった』とは、つまるところ『早く嫁として送ってこい』ということであろう。それで、そなたは、どう答えていたのじゃ?」
「いえ、『妹・弟ができてからは随分としっかりしてきましたが、お橙ちゃんはまだまだ幼きところも多くて』とか、そのような風に……。ああ、なるほど」
そうか、私は普通に子育てについて淀の方様と語りあっていたつもりだったけど、どうやら淀の方様はお輿入れを督促しているつもりで、彼女にはそれを私が断り続けていたという風に見えていたのか。うーん、そうだとしたら、すごく婉曲過ぎる話だよね。私には難し過ぎるよ。
「まあ、今月には、お橙はお輿入れするのじゃ。御上様もこれでご満足じゃろう」
「はい、お橙ちゃんにも『御上様を母としてお慕いするように』と教えておりますし」
「取敢えずは、その心がけがよいじゃろうな。しかし、お橙が身も心も豊臣に染まってしまっては、それはそれで一大事じゃな」
「はあ……」
うーん、やっぱり色々と難しいなあ。でも、徳川と豊臣の間の戦を避けるには、淀の方様になんとしても天下を諦めてもらわなくちゃいけない。でも、それはとっても難しいことだし、どうすれば説得できるのかずっと考えてるけど、今でも妙案が浮かんでこない。
でも、世の中が平和になって、私と仲の良い人たちが不幸にならないためには、なんとかして彼女を説得するしかないよね。
◇ ◇ ◇ ◇
私とお橙ちゃんが伏見についてから半月が経った。今日は、いよいよお橙ちゃんのお輿入れの日だ。
伏見城の本丸奥御殿の一室で、お橙ちゃんは白無垢の花嫁衣装に身を包み、可愛らしくちょこんと座っている。白粉と口紅でお化粧をされ、髪には髪飾りと簪が付けられていて、まるでお人形さんのようだ。うん、この世の者とは思えないぐらいの可愛さだね。
ああ、写真を撮って残したいよ。なんで、この時代にカメラがないのだろう。
「お橙ちゃん、とっても可愛いよ」
「ママちゃま、有難うございます」
お橙ちゃんは、可愛く微笑んでくれた。ああ、やっぱり、私の側から離れてほしくないなあ……。
支度が整うと、お橙ちゃんは、まずは、家康と阿茶局様の所にご挨拶に行く。私もお橙ちゃんに付き添って、本丸御殿の一番奥にある家康の部屋に入った。
お橙ちゃんが家康に対し深々と頭を下げると、家康は微笑みながら言葉をかける。
「お橙よ。此度の輿入れ、まだ幼い身には重い役目じゃろう。じゃがな、あまり難しゅう考えんでもよい。大坂では、秀頼様と御上様によく尽くし、まずはお二人に可愛がってもらうのじゃ。それが何よりも肝要じゃ。しかしじゃな、もし何か宜しゅうないことがあったら、遠慮なくワシや秀忠、お柚に伝えよ。分かったな」
「はい、上様、分かりました」
お橙ちゃんは可愛らしい声で家康に答えた。続いて、阿茶局様がお橙ちゃんに話しかける。
「お橙。この輿入れは、徳川と豊臣を繋ぐ大事なものじゃ。そなたの母、お柚は大変巧みにこの大仕事を成し遂げておる。そなたも母を見習うて、励むのじゃぞ。よいな?」
「はい、お阿茶様。励みます」
お橙ちゃんは、素直にそう答えた。こうして、二人への挨拶は終わった。そして、お橙ちゃんは隣の部屋に移った。この部屋では、昨日、江戸から伏見に到着したばかりの秀忠くんが待っている。私は秀忠くんの隣に座り、お橙ちゃんと向き合った。
お橙ちゃんは、私たちに深々と頭を下げてくれる。
「父上様、母上様、本日までお橙姫を育てていただき、誠に有難うございました。父上様、母上様からいただいたご恩は、決して忘れませぬ。これからは、徳川家より豊臣家に輿入れした者として、恥ずかしゅうない振舞いに努めまする」
お橙ちゃんは、まだ数えで七歳。満年齢だと六歳になったばかりだ。だのに、こんなに立派な挨拶をしてくれるなんて……。私の両目に涙があふれてくる。
ズズズズっ。鼻をすする音が横から聞こえた。どうやら秀忠くんも涙を止められなかったようだ。
「お橙ちゃん、よくぞ立派に育った。ワシは父としてそなたのことを誇りに思うぞ。たとえ離れて暮らすことになっても、そなたがワシの大切な娘であることには変わりはない。いつでも、ワシに好きなだけ甘えてよいのじゃからな」
「はい、父上様。有難うございます。お橙は、父上様の娘として生まれて幸せにございました」
「そうか、そうか……」
秀忠くんは、ボロボロと泣きながらお橙ちゃんを見つめている。そして、次は私の番だ。でも、もうお橙ちゃんに対し何を言っていいのか、分からなくなってしまった。
「……お橙ちゃん。あの、本当に、ごめんなさい。えっと、まだ子供のあなたに、こんなことを任せるのは、やっぱり間違っているんだと思う。うん、お橙ちゃんは、まだ私たちと一緒に暮らすべきだと思ってるし、私もあなたと、もっともっと一緒に暮らしたいとも思ってる。……でもね、平和のためには、あなたが秀頼様のところにお輿入れすることが必要なの。まだ、小さなあなたにこんなことを任せなくちゃいけないなんて、やっぱりこの世界は間違っているよね。だから、お父さんもお母さんもできる限り頑張って、もっともっと良い世界を作るからね。だから、だから……。でもね、お橙ちゃん、本当にごめんなさい……」
私は涙でこれ以上話せなくなってしまった。正直に言って、自分で自分が何を言っているのかも、分からなくなっていた。それに、自分の考えも、まったくまとまらず、グルグルと同じようなことが堂々巡りしているのだ。
そう、この時代は間違っていて、でも、その間違いを正すためには、天下泰平が必要で、そのためにはお橙ちゃんに我慢してもらわなくてはいけなくて。でも、やっぱり、それはおかしなことで……。
お橙ちゃんは、戸惑った表情で、でも、目に涙を浮かべながら、そんな私のことをじっと見ていた。私はお橙ちゃんに駆け寄ると、ぎゅっと力一杯、彼女のことを抱きしめた。お橙ちゃん、あなたの側にいてあげられなくて、本当にごめんね。
◇ ◇ ◇ ◇
この日の夕方、お橙ちゃんを乗せた漆塗りの輿は、伏見城の本丸御殿を出ると、宇治川沿いの船着き場に向かった。そして、この船着き場から、船に乗り、大坂城に向かって行った。私は、お橙ちゃんを乗せた船が見えなくなるまで、ずっとずっと船着き場に立ちつくしていたのでした。
本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ、ご評価、ご感想、誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。
次話第62話は、7月31日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




