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第60話:東海道、西へ!

 慶長八年(1603年)水無月(旧暦六月)。一か月ほど続いた梅雨がようやく明けた。空はきれいに晴れ上がり、朝から気温もぐんぐんと上がっていっているのがわかる。駕籠(かご)に乗っているとはいえ、こんな日に長距離を移動するのは、かなり体にこたえる。


「ママちゃま! 富士のお山があんなに大きく見えまする!」


 隣の駕籠に乗っている娘のお橙ちゃんが、弾む声で話しかけてくる。最近は、人前では私のことを『母上様』と呼んでいるのだけど、今は興奮しているのか、昔の呼び名に戻っている。ふふふ、とても可愛らしいね。


 私は駕籠の簾を上げると、お橙ちゃんに話しかける。


「ふふふ、お橙ちゃん。駿河の国に入ると、富士のお山はもっと大きく見えますよ」

「へえ、もっと大きゅうなるのですかあ。ああ、楽しみじゃなあ!」


 富士山をじっと見つめるお橙ちゃんの目はキラキラと明るく輝いていて、頬もうっすらと赤く染まっている。ふふふ、四年前、伏見から江戸に向かう際に富士山を見たときは、お橙ちゃんは気にも留めていなかったのにね。あのときは、私だけが富士山の雄大さに興奮していたっけなあ。


 私とお橙ちゃんは、駕籠に乗って東海道を西に進んでいる。今朝早くに小田原のお城を出たところで、あと少し進めば箱根の山道へと差し掛かる。これから少し揺れるのよね。これからがこの旅で一番大変なところだ。


「ママちゃま、駕籠が揺れて面白うございまする!」


 山道でもお橙ちゃんの声は明るい。でも、私にはそれに答える余裕はなかった。うぷっ。どうやら揺れで少し酔ってしまったみたい……。早く、登り終わらないかなあ……。


 つづら折りの山道を登り終え、芦ノ湖の湖畔にあるお宿に着いたのは、昼過ぎだった。ちょっと早いけど、今日はここで一泊する予定だ。私とお橙ちゃんは、駕籠を降りた。ううう、しかし、腰が痛い……。


「あっ! ママちゃ、……母上様。お山の上なのに、大きなお海がございますよ」

「ふふっ、これはお海ではないのよ。芦ノ湖といって、湖なの」

「……みずうみ、ですか?」

「そう、湖。お海は塩水で出来ているけど、湖は淡水、塩辛くないお水でできているの。これから西に進めば、遠江の国には浜名湖、近江の国には琵琶湖、とっても大きな湖があるのよ」

「ふぅーん……そうでございますか」


 分かってくれたかな? お橙ちゃんは不思議そうな顔をしながら、芦ノ湖の水面と、その奥にそびえたつ富士山をじっと見つめていた。


 まあ、お橙ちゃんは、江戸城から出ることはほとんど無かったし、外出するのもせいぜい江戸市内の前田家の上屋敷や織田家の上屋敷、それに芝の増上寺ぐらいだったからなあ。ああ、お橙ちゃんにもっと社会勉強をさせてあげればよかった。


 もう、お橙ちゃんの側にいられるのも、残りわずかになってしまっている。今となっては、この子にもっといろんなことをできたのではないかと後悔ばかりしている。


 そう、あれは、今から二か月前。上方に出張に行っていた秀忠くんが江戸城に帰って来た時のことだった


 ◇ ◇ ◇ ◇


「秀忠様、お帰りなさいませ。右近衛大将(うこのえのたいしょう)ご就任、まことにおめでとうございます」

「うむ……」


 秀忠くんはどこか浮かない顔をしていた。あれっ? 私、今、なにかまずいことを言ってしまったのかな? 心当たりがないんだけどなあ……。 


「秀忠様、いかがされましたか? 私に何か至らないことがありましたか?」

「ん? いや、小姫殿に至らぬことなどあるはずがなかろう。うん、いやな……」


 秀忠くんは、何かを言いかけたのだが、そこでまた沈んだ顔で黙り込んでしまった。一体どうしたのだろう? 


 やがて秀忠くんは意を決したのか、私の顔をまっすぐに見つめてきた。とても真剣な表情だった。


「小姫殿、大変、申し訳ないことになった。実は、お橙ちゃんのことなのじゃ」

「お橙ちゃんのことですか? 何かありましたか?」

「うむ、お橙ちゃんの輿入れが決まった」

「えええっ!? どういうことですか!?」


 思わず大きな声を出してしまった。いや、二年前にも孝蔵主様から、大坂城の秀頼様のもとへのお輿入れの話があったけど、それは早すぎると断ったはずだ。


「うむ、申し訳ない。じゃがな、大坂から早うにお橙ちゃんを輿入れするように強い要望があってな。もう、断われぬのじゃ」

「で、でも、お橙ちゃんは、まだ七つですよ!」


 そう、お橙ちゃんは、まだ数えで七つ。満年齢だとまだ六歳にもなっていない。私が生まれ変わる前の世界だと、幼稚園の年長組に通っているような年齢だ。


「うむ、小姫殿が、お橙ちゃんを手元に置いて育てたいと思うておることもわかっておる。じゃがな、これは既に決まってしもうたことなのじゃ。分かってくれぬか?」


 秀忠くんは申し訳なさそうな表情で私の方を見ている。その顔つきからもうお橙ちゃんのお輿入れの話は覆せないということが知れてくる。


 大坂城の淀の方様達の強いご希望とのことだけど、おそらくは、家康も今がお橙ちゃんのお輿入れの好機だと考えているのだろう。


「……それで、お輿入れはいつにせよ、というお話しなのですか?」


 私はやっとのことで口を開いた。自分の声が震えているのがわかる。


「うむ、それがじゃな。今年の文月(ふづき)に伏見から輿入れをすることに決まったのじゃ」

「えええっ!? ふ、文月? そ、それじゃあ、もう三か月しかないじゃないですかあ!? それは、無理ですっ!」


 また、大きな声を出してしまった。たった三か月でお輿入れの支度だなんて、いくら何でも急すぎる!


「うむ、実はな。伏見では、お阿茶様が、お橙ちゃんの輿入れの支度を整えておったらしいのじゃ。もう、後はお橙ちゃんが身の回りの物をもって伏見に移れば、それで支度は終わるとのことじゃ」


 ……。外堀は、既に埋められていたということらしい。今回は、私が反対したとしても、それを無視してお橙ちゃんを伏見に連れて行って、そこから大坂城にお輿入れをするということなのだろう。


「…………。分かりました。もともと秀頼様とのご祝言に反対するつもりはありません」

「おお、そうか。小姫殿、わかってくれたか。お橘ちゃんに続いて、お橙ちゃんも手放すことになり、小姫殿もさぞや心が痛いであろう。ワシもまったく同じ気持ちじゃ。じゃがな、これは武家として仕方のないことなのじゃ」


 うん、私たちは人の上に立つ身なのだから、思い通りにならないことはいっぱいある。ああ、でも、やっぱり、あと少しの間しかお橙ちゃんと一緒にいれないと思うと、胸が締めつけられるようだ。


 次女のお橘ちゃんは、去年、前田家にお輿入れしているけれど、今でも江戸の前田家上屋敷にいて、月に一、二度は会うことができている。


 でも、お橙ちゃんのお輿入れ先は、大坂城だ。一度お輿入れした後は、簡単に会うことはできない。いや、ひょっとしたら、もう二度と会えないかもしれないのだ。


 ああ、それならば、できるだけ長くお橙ちゃんの側にいたいなあ。


「秀忠様、お輿入れはもう少し先延ばしにできたりしないのでしょうか?」

「実は、ワシも父上にそう申したのじゃが、聞き入れてもらえなんだのじゃ。大変すまぬのじゃが、ここはわかってくれぬか」


 うーん、やっぱり時期も決まってしまっているのか……。ああ、そうだ。じゃあ、こうしよう。


「秀忠様、それでは伏見まで、お橙ちゃんに付いていってもよろしいでしょうか?」

「なんと、伏見まで付いていくと申されたか?」

「はい。お橙ちゃんを最後までお見送り致したいのです」


 お橙ちゃんと別れなければいけないのならば、最後の瞬間まで側にいたい。そして、お橙ちゃんの姿を自分の目にしっかりと焼き付けたいのだ。


「ふむ……。当日は、式三献の儀もあるからのう。じゃが、竹千代や桃ちゃんと、しばらく離れることとなるが、それはよいのじゃな?」


 まあ、伏見まで行って帰って来るのであれば、二か月近く江戸を離れることになる。その間は、竹千代ちゃんと桃ちゃんの二人には、江戸でお留守番をしてもらわなければならない。二人には悪いと思うけど、でも、二人とは、これからも側にいてあげられるから、やっぱりここはお橙ちゃん優先だ!


「ええ、それは仕方がございません。二人の乳母はとてもしっかりしておりますから、お任せ致したいと思います」


 こうして、私がお橙ちゃんと一緒に伏見にまで行くことが決まったのだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 芦ノ湖の湖畔に建てられた大きな建物が今晩のお宿。四年前に箱根に来た時には、こんな大きな建物はここにはなかったと思う。関ケ原の戦いの後は大きな合戦が無いから、この辺りも栄えてきたのかな。


 建物の奥まったところにある一番豪華なお部屋が、私とお橙ちゃんが今晩泊るお部屋だ。この旅路では、お橙ちゃんと布団を並べて寝ることにしている。こうしてお橙ちゃんと仲良く眠るのは何年ぶりだろう。ああ、江戸城にいるときから、こんな風にしていればよかったなあ。


「お柚の方様、お橙姫様、それではお休みなさいませ。何かありましたら、すぐにお知らせくださいませ」

「民部、有難う。民部も他の侍女たちも、今日の山道でずいぶんと疲れたことでしょう。今日はぐっすりと休んでください」

「お心遣い有難うござりまする」


 民部卿局ことお梅さんと、他の侍女さんたちが部屋を出ると、私とお橙ちゃんは二人きりになった。


「さあ、お橙ちゃん。明日も出発は朝早く。もう寝ることにしましょう」

「はい、ママちゃま、わかりました!」


 私とお橙ちゃんは、布団に入る。ふぅ、明日も山道で揺られるだろうから、今日はしっかりと休まなくちゃね。


 布団に入り目を閉じたのだけど、隣の布団の中でお橙ちゃんがモゾモゾと動いているのに気が付いた。


「お橙ちゃん、どうしたの?」

「ふふふっ、ママちゃまと一緒に寝られると思うたら、ほんに嬉しゅうて、嬉しゅうて」


 ああ、本当に可愛らしいことを言ってくれるなあ。そんなことを言われたら、私も嬉しくなってしまう。


「そうね、ママちゃまもお橙ちゃんと一緒ですごく嬉しいわよ」

「えへへっ。お(たっ)ちゃんや竹ちゃんが知ったら、羨ましがるに違いないでございますね。えへへっ。ママちゃま。お海……ではのうて、みずうみの向こうに見えた富士のお山、ほんに大きかったですねえ」

「ええ、本当に。ママちゃまは富士の御山は大好きよ」

「うん、お橙も大好きでございます。大坂のお城からは、富士のお山は見られるでしょうか?」

「ああ、どうだったかしらねえ。確か大坂城からは見えなかったと思うけどなあ」


 自分の記憶をたどってみる。うん、京都、大坂、伏見、どこからも富士山は見えなかったはずだ。


「そうですか。それは残念ですねえ……。大坂城からは富士のお山は見えぬかあ……。……ねえ、ママちゃま。秀頼様は、どのようなお方なのですか?」


 えっ? お橙ちゃんに秀頼様のことを聞かれるのはこれが初めてだ。秀頼様と最後に会ったのはもう六年ぐらい前だったかなあ。あの時はまだ五歳ぐらいだったよね。

 

「そうねえ、とても可愛らしくて、お優しい方ですよ」

「へえ、そうですかあ。可愛らしくて、お優しい方なのですか……」


 まあ、今の秀頼様は十一歳だから、可愛らしいというのが合っているのかわからないけど。


「秀頼様のお母様、御上(おかみ)様はどのようなお方なのですか?」


 えっ? 御上様って、淀の方様のことかあ。うーん、昔からすごい美人だったよね。


「うん、そうねえ、背が高くてお綺麗な人でしたよ。私は、妹のようにかわいがってもらいました」

「へえ、ママちゃまとは、お仲がよかったのですかあ。お橙とも仲ようなれるでしょうか?」

「うん、そうねえ。少し厳しいところもあるけれど、面倒見がよい方だし、心根はお優しい方だから、大丈夫ですよ。大坂のお城では、御上様のことを、実の母と思って、慕い敬うのですよ」


 うん、そう。そうすれば、きっとうまくいくに違いない。でも、お橙ちゃんからは返事が無かった。あれっ? もう寝ちゃったのかな。子供は突然寝入っちゃうからなあ。それじゃあ、私も眠るとするか。


 そう思って、目を閉じた時だ。ズズズズズッと鼻をすするような音が聞こえた。


 えっ? どうしたの? 耳をすませると、その音はお橙ちゃんの布団の中から聞こえた。


「あれっ、お橙ちゃん、どうしたの?」

「……ひ、ひぐっ、ひぐっ、へぐっ……」


 布団の中でお橙ちゃんは泣きじゃくっていた。私は慌てて自分の布団から出ると、お橙ちゃんのもとに駆け寄った。


「お橙ちゃん。大丈夫? 一体、どうしたの?」

「……へぐっ、ま、ママちゃまぁ。お橙は、もうちょっと、ママちゃまのお側にいたくございましたぁ。……ひぐっ……。お橙は、ママちゃまの娘でいとうございましたぁ……」


 お橙ちゃんは、私にしがみつき泣きじゃくっていた。二か月前に大坂へのお輿入れの話をしたときは、お橙ちゃんは神妙な顔で聞いていた。小さな時から、将来は秀頼様の奥方になるのだと言って育ててきたのだ。お橙ちゃんも、頭では分かっていたのだろう。でも、やっぱり、心から納得していたわけではなかったのだ。


「お橙ちゃん、お橙ちゃん。ママちゃまも、お橙ちゃんとずっと一緒にいたいと思ってる。お橙ちゃんは、お橙ちゃんは、私の大切な宝物なんだから……」


 私はお橙ちゃんの背中に手を回し、ぎゅっとその小さな体を抱きしめた。私の両目から涙がこぼれ落ちてゆく。


「ママちゃまぁ……」


 その晩、私とお橙ちゃんは、泣きながら同じ布団で眠った。お橙ちゃんは四人きょうだいの長女で、特に最近は随分としっかりしてきたと感じていた。

 でも、お橙ちゃんは、まだ数えでも七歳に過ぎない。こんな小さな子供に、親と離れてお輿入れをさせるなんて早すぎたのだ。私はそう思い、もっと自分の子供のことを思わなければと反省をしながら、眠りについたのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 そして、次の日の朝。私は、お橙ちゃんと一緒に江戸に帰ると心に決めていた。


「母上様、おはようございます」


 一足早く起きていたお橙ちゃんが私に挨拶をしてくれた。もう着替えを済ませていて、侍女さん達にお化粧もしてもらっていていた。


「ああ、お橙ちゃん。おはよう。あの、今日はこれから一緒に――」


 私が「これから一緒に江戸に帰ろう」と言いかけると、まるでそれを制するかのように、お橙ちゃんが口を開いた。


「母上様、昨日の夜はもうしわけありません。我がままを言うて、母上様を困らせてしまいました」

「えっ? お橙ちゃん、まだ、お橙ちゃんは七つなんですから、無理をしなくていいのよ」

「いえ、無理ではございません。お橙は、秀頼様のもとに、喜んでお輿入れを致しまする。じゃけれども、昨日の夜は、ただ我がままを言うて、母上様に甘えてみたかっただけにございます」


 そう言うと、お橙ちゃんは優しく微笑んだ。侍女たちの前なので、よそゆきの大人びた口調だった。


「あの……、お橙ちゃん……」

「母上様、遅れては周りの者を困らせてしまいます。朝餉(あさげ)の支度もできておるようです。さあ、急ぎましょう」


 まだ、お橙ちゃんは、昨日の夜にあれほど泣きじゃくっていたのが嘘のようにしっかり者に戻っていた。


 そして、私たちは急いで朝食を取ると、箱根のお宿を出発し西に向かった。結局、江戸に戻るとは言い出せなかったのだ。私は、駕籠の中で、本当にこれでよかったのかと、ずっと考え込んでいたのだけれども……。


本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ、ご評価、ご感想、誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。


次話第61話は、7月24日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

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[良い点] 主人公の現代人としての感覚が出た瞬間ですね。 この時代に慣れてきたといっても大人になるまで染みついた感覚が描かれるというのは良かったと思います。 最悪ここでUターンしたとしてもそれはそれ…
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