第58話:お世継ぎ誕生!
慶長六年(1601年)卯月(旧暦四月)。私の三人目の子供の出産予定日まで、あと十日ほど。最近はお腹の赤ちゃんの胎動が、日に日に激しくなってきている。お橙ちゃんもお橘ちゃんも安産で出てきてくれたから、この子もそうだったらいいな。ああ、でも、ちょっと不安だなあ……。
「小姫殿、体の調子はいかがかな?」
旦那様の秀忠くんが優しく声を掛けてくれた。秀忠くんの温かな声は、本当に耳に心地よく、私の心を安らげてくれる。
「ええ、秀忠様。私もお腹のやや子も大丈夫でございます」
「おお、そうか、そうか。されど、無理をしてはならぬぞ。小姫殿のお体が、ワシにとって最も大切じゃからな」
「お心、有難うございます。でも、秀忠様もご無理をされてはいけませんよ。私にとっても、秀忠様が最も大切なのでございますから」
私は微笑みながら秀忠くんにそう答える。秀忠くんとお橙ちゃんとお橘ちゃんとお腹の赤ちゃん。家族は、私にとってかけがえのない宝物なのだ。
「ふはははははっ。ワシは大丈夫じゃ。心配には及ばぬぞ」
「でも、秀忠様は、連日、夜遅くまでお仕事をされているではないですか。あまり頑張り過ぎますと、お体に障りますよ」
そう、秀忠くんは関ケ原の戦いが終わってからは本当に忙しそうだ。特に秀忠くんの頭を悩ませているのは、右京大夫こと常陸国の佐竹義宣さん。彼は、関ケ原の戦いで東軍と西軍の二股をかけていたことが、戦後にバレてしまっている。詳しい事情を説明しに来るようにと家康から何度も呼び出しを受けているのに、病を理由に水戸城に籠ったままなのだ。
「まあ、少し前と比べれば、かなり楽になっておるぞ。初めは頑なであった右京大夫殿も、近頃は少し態度が和らいでおるからな。おそらくは、もう少しばかり時間を費やせば、なんとかなるであろうな」
「そうでございますか。それはなによりでございます。ただ、それ以外でも、江戸の町造りや、利根川、荒川の堤造りなどでも、細かなご指示をされておるとも聞いております。秀忠様の配下の方は、皆、有能な方でございます。もっと、皆様にお仕事をお任せになってもよいのではないでしょうか」
秀忠くんは、本当に仕事好きで、工事の設計図にもきちんと目を通していて、工事に関する協議も自分の前でやらせている。しかも、関東各地の工事現場にもこまめに足を運んでいるのだ。
「ふははははっ。いや、小姫殿にそう言われると耳が痛いな。勿論、ワシも皆が優れた才を持っておることは重々承知しておる。じゃがな、ワシは町や田畑が出来あがっていくのが好きなのじゃよ。普請を行うことで、それまで何もなかった地に、家が次々と建ち、穀物が豊かに実り、民が楽しく暮らしていく。そういったことを思うだけで、ワシもなんとも楽しい気持ちになってくるのじゃ」
秀忠くんは、本当に楽しそうに笑いながらそう言った。うん、秀忠くんのそういった所は私もよく知っているし、本当に尊敬する所だと思っているよ。
「それにな、先の戦さでワシが合戦に不得手であることは、身に染みてよう分かった。ワシは、ワシの出来ることで、泰平の世を作り上げていきたいのじゃよ」
関ケ原の戦いの後、秀忠くんは周りの人にもよくそう言っている。もちろん、秀忠くんが、西軍に包囲され窮地に陥っていた家康を救い出し、東軍を勝利に導いた最大の功労者であることは誰もが知っていることだ。
でも、秀忠くんがそのことを自分の手柄として自慢することはない。秀忠くんは、小早川軍を打倒できたのは、配下にいた榊原康政さんや大久保忠佐さんの用兵が優れていたためだと言う。関ケ原の合戦に間に合ったのも、遠山久兵衛さんという美濃出身の方が行軍を支援してくれたことと、小諸の軍議の場で仙石秀久さんが「一刻も早く西に進むべきだ」と献策してくれたためだと言う。
そういった秀忠くんの驕りたかぶらずに周囲を持ち上げる態度もあって、最近の秀忠くんの評判は鰻上りとなっている。去年までは、秀忠くんのことを、腑抜けとか、女々しいとか、家康の後継ぎに相応しくないとか、色々な陰口を叩いている人がいた。だけども、今ではそんなことを言う人は一人もいない。いや、むしろ誰もが秀忠くんの才能と人柄を褒めたたえているのだ。
「秀忠様、大変ご立派なお心掛けでございます。ですが、秀忠様がお体を壊されてしまっては、私も、お橙ちゃんも、お橘ちゃんも、そして、このお腹のやや子もみんなが悲しくなってしまいます。何卒ご自愛ください」
「わははははっ。わかった、わかった。心しよう」
秀忠くんは、快活そうに笑いながら、頷いてくれた。うん、秀忠くん、本当に無理をしちゃダメだからね。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、その十日後。私は、江戸城の本丸奥屋敷の奥まったところにあるお産のための部屋に移動した。この部屋に来るのは一年半ぶり。お橘ちゃんを産んだ時以来だ。
新しい畳が敷かれた広い部屋の中には、木製のたらいや真っ白なさらし布など、色々な出産道具が揃っていて、天井からは産綱という太い綱も吊り下げられている。ああ、この綱を見ると、お産の時の痛みを思い出してしまうなあ。ううううっ、また、あれが来るのか……。
次の日の朝。寝床で横たわっている私の下腹部にズキンという痛みが襲ってきた。ああ、ついに来てしまったか……。最初のうちは痛みも軽く、すぐになくなってくれる。でも、しばらくするとさっきよりも強く長い痛みが来る。そして、そのうちに痛みはどんどん強くなっていく。
気づけば、私の周囲に、産婆さんや大勢の侍女さんが集まってきてくれている。ああ、うん、だ、大丈夫ですから。あああっ、でも、また、強い痛みがっ!
「い、いた、痛い、痛い、痛あいいいいっ! し、死ぬ、死ぬ、死ぬぅーっ! 死ぬってばあああっ! もう、やだぁーっ!」
私は思わず大きな声を出してしまう。うん、この痛みは何度やってもけっして慣れることはないっ! 私は産綱を強く握りしめながら、何度も大きく叫んでしまった。
そして――
「おんぎゃああああ!」
お産部屋に元気な産声が響き渡った。
「お柚の方様、おめでとうございます! お世継ぎ様にございまする!」
えっ? およつぎさま? ……ああ、男の子だったんだあ。そうかあ、秀忠くんに似て優しくて賢い男の子に育ってくれたらいいなあ……。ああ、でも、ちょっと疲れたので、少し休ませて……。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、その日の夕方。私は自分の部屋に戻ってきている。私の傍には、筆頭侍女の民部卿局ことお梅さん、家康の側室の茶阿局様、小梅ちゃんことお梅の方、そして、秀忠くんの養育係だった大姥局様など大勢の人が集まっている。皆、ひどく興奮していて、目に涙を浮かべている人も少なくない。
「お柚の方様、本当にようございました。これで、当家も安泰でございます」
なかでも大姥局様は、大粒の涙があふれ出ていてお化粧が少し崩れてしまっている。彼女は、子供の頃の家康も知っているし、秀忠くんにも小さい時からお世話している。徳川家の思い入れが強いのだろうな。
「失礼を致します。若様でございまする」
赤ちゃんを抱いた二十代半ばの女性が部屋の中に入って来る。彼女の名前は、兵部卿局さん。通称、兵部さん。赤ちゃんの乳母さんとして、先日採用した人だ。
兵部さんの旦那さんは、水野分長さんという人で、家康のお母さんの伝通院様の甥にあたる人。数年前から家康に仕えていたのだけれど、去年の関ケ原の戦いで、彼女とまだ小さな子を残して戦死してしまった。
兵部さんのお父さんが、昔、私の父親の織田信雄さんに仕えていたというご縁があったことと、採用前の面接で、私と話がすごく合ったこともあり、赤ちゃんの乳母さんになってもらうことに決めたのだ。
兵部さんは、学問や礼儀作法に通じているだけでなく、人柄も朗らかでおっとりした所もあるので、私と気が合いそうなのだ。
兵部さんの腕の中では、赤ちゃんがすやすやと気持ちよさそうに眠っている。ふふふっ、お橙ちゃんの小さい時によく似ていて、とても可愛らしい。
兵部さんは、赤ちゃんを私に手渡してくれた。ふふふっ、初めまして。あなたのお母さんですよ。これからよろしくね。
私が眠っている赤ちゃんに目で挨拶をしたそのときだ。ドタドタドタと廊下をすごい勢いで駆けてくる音が聞こえてきた。あっ、秀忠くんだな。
すぐにガラリと襖が開き、秀忠くんが慌てた様子で部屋の中に入って来る。
「おお、小姫殿! 男の子じゃとな。でかした、でかしたぞっ!」
秀忠くんの声はとても弾んでいた。
「しぃーっ、秀忠様。やや子は、今、寝ておりますよ」
ふふふっ、そう言えば、お橙ちゃんが生まれたときも、お橘ちゃんが生まれたときも、秀忠くんは同じように慌てて部屋の中に入ってきたなあ。いつも落ち着いている秀忠くんが、子供のことになると急にあわてんぼうになるのが、なんともおかしく思える。
「おお、そうじゃったか。それはすまなんだな。つい、気が急いてしもうてな。おお、そうじゃ、そうじゃ。早速じゃが、この子の名前を決めてきたぞ」
おお、秀忠くん、また、赤ちゃんのお名前を決めてくれたんだ。一体どんなお名前なのかな? ん? あれっ、でも、この子は徳川家の嫡男だから……。
私がそう思っていると、大姥局様が声を挙げた。
「若殿様。この若君様は、当家のご嫡男。当家のご嫡男のお名前は、竹千代様と決まっておりまするが」
うん、まあ、そうだよね。家康も子供の頃は竹千代と名乗っていたと聞いているし、秀忠くんのお兄さんの信康さんも、確かそう名乗っていたはずだよね。
「ん? ああ、確かにそれもそうじゃな。うむ、お姥殿の言う通りじゃ。この子は、徳川家の嫡男じゃから、竹千代と名付けるぞ」
秀忠くんは、少し残念そうな様子だったけど、きっぱりとそう言った。うん、竹千代ちゃんか。すっきりとしているけど可愛らしくもあって、すごく良いお名前だね。竹ちゃん、これから、よろしくね。
◇ ◇ ◇ ◇
竹ちゃんが生まれて半月後のこと。久しぶりに秀忠くんと二人きりになる機会があった。私は秀忠くんに聞いてみた。
「秀忠様、竹千代様がお生まれになったとき、別のお名前を考えていた様子でしたけど、どのようなお名前をお考えだったのですか?」
私がそう訊ねると、秀忠くんは気まずそうな顔つきとなった。でも、すぐに苦笑しながら、私に考えていたお名前を教えてくれた。
「うむ、まあな。竹千代が、小姫殿にお腹におったときには、小姫殿は密柑を、うまいうまいと、よく召しておったじゃろう。じゃからな初めは『密柑丸』と名付けようと思うておったのじゃよ」
「はあ、みつかんまる、でございますか」
確かに、橙、橘、と柑橘類が続いているのだから、次が蜜柑であったとしても、それはある意味自然なのかもしれない。まあ、かなり珍しい名前であることは間違いないけどね。
「ははは。待望の世継ぎが出来て、ワシも舞い上がっておったのじゃろうな。じゃがな、お姥殿に言われて、すぐに頭が冷えたわ。嫡男であるのじゃから、竹千代。それは当然であるな。この子はいずれ、ワシの後を継ぐ身であるからな。密柑丸という名では、当家の者たちもさぞや困惑したであろう」
秀忠くんは冷静な口調でそう言ったけど、少し寂しそうな様子だった。うーん、そうだと思うけど、でも、幼名なんだから自由につけてもよかったとも思うなあ。私の父親の織田信雄さんなんて、茶筅丸っていうものすごく変わった幼名だったらしいし。
私は秀忠くんの顔をじっと見つめる。
「秀忠様、それでは次に男の子ができたときは、その密柑丸というかわいらしいお名前にしませんか? お世継ぎでないのであれば、秀忠様がお好きなように付けても問題はないでしょうから」
「ん、確かにそうじゃな。それでは、もし次の男の子ができたときに、小姫殿がまた密柑を食べとうなったのであれば、密柑丸と名付けることとするかのう」
私と秀忠くんは、見つめ合いながら微笑み合った。秀忠くん、私とあなたは夫婦なのだから、これからも一緒に子供のことを考えていきましょうね。
本作をお読みいただき有難うございます。また、本作にブクマ、ご評価、ご感想、誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。
次話第59話は、7月10日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。




