第57話:孝蔵主様、お久しぶりです!
慶長六年(1601年)弥生(旧暦三月)。関ケ原の戦いから、もう半年が経っている。季節はすっかり春になった。桜の花が満開で日差しも温かく、とても心地よい日々が続いている。ああ、やっぱり春っていいよね。心が弾むなあ。
今、私の旦那様の秀忠くんの所には、京都から大切なお客様が来訪している。本来なら私も同席して、一緒にお話を伺うところだけど、私は来月に出産を控えている。大事を取って、自分の部屋で待機しているのだ。
「お方様、お客様をお連れ致しました」
襖越しに秀忠くんの小姓さんが教えてくれた。この小姓さんは、浅野右兵衛佐長晟くん。長晟くんは浅野幸長さんの弟で、今年の年初から江戸に移ってきて、今は秀忠くんの小姓を務めている。長晟くんのことは子供の頃から知っているけど、今はもう十六歳。もう立派に成長していて、秀忠くんをしっかりと支えてくれている。
「右兵衛佐様、有難うございます。民部、孝蔵主様をお部屋の中にご案内してください」
私は、筆頭侍女の民部卿局ことお梅さんにそう告げた。ほどなくして、北政所様の側近の孝蔵主様が部屋の中にいらっしゃった。孝蔵主様は、私の前に座ると、丁寧に頭を下げながらご挨拶をされた。
「お柚の方様、大変ご無沙汰いたしております。お体のお加減はいかかでございますか?」
「有難うございます。一時期は悪阻もひどかったのですが、今は大丈夫でございます。最近は食事が美味しく感じられて、食べ過ぎないように注意しています」
去年の秋から冬にかけての時期は悪阻が酷くて、ミカン以外の食べ物はなかなか喉を通らなかったのだけど、年が明けた頃に急に悪阻が軽くなったのだ。今では食欲はすっかり元通り。いや、むしろ以前よりも増している感じで、お梅さんからは食べ過ぎだとお小言を言われている。
「そうでございますか。ご健勝で何よりでございます」
「孝蔵主様はいかがでございますか? 京より江戸までの道中で、不自由はございませんでしたか?」
「ふふふ、旅はなかなか楽しゅうございましたよ。それに大納言様とお柚の方様にお会いできるのですから、多少のことは苦とも思われません」
大納言様とは、秀忠くんのこと。実は、秀忠くんは朝廷から権大納言に任じられることが決まっているのだ。ちなみに、大坂の豊臣秀頼様も同時に権大納言の地位に就くことになっている。
「そうでございましたか。北政所様は、いかがなされておられますか?」
「ええ、北政所様も上京のお屋敷でごゆるりと暮らしておられます。秀頼様とお橙姫様との祝言を大変楽しみにされておられますよ」
ああ、その話はまだ生きているんだよね。まあ、秀吉の遺言にもなっているし、家康も乗り気だから、私もこの婚姻話には反対する気はない。でも、お橙ちゃんは、まだ数えで五歳。まだ幼稚園児なんだから、結婚話をするにはさすがに早すぎるよね。
「ええ、お橙が立派に成長した暁には、秀頼様にお輿入れをさせていただきます」
「はい、そのことでございますが、北政所様は、お輿入れを早めていただきたいとご希望です。この夏、遅くとも、冬が来る前には、お橙姫様に大坂にいらしていただきたいと」
へっ? えええええっ!? ちょ、ちょっと、孝蔵主様、待ってよ。お橙ちゃんは、まだまだ、両親と一緒にいるべき年頃だよ。この夏とか、冬が来る前とかにお輿入れするなんて、無理だから。
「こ、孝蔵主様。まだ、お橙は五歳。お輿入れには、いくらなんでも早すぎます。あと五年、いや、十年は、待っていただけないでしょうか」
私は慌ててそう言うと、それまで優しく微笑まれていた孝蔵主様の表情が少しだけ険しくなった。
「お柚の方様。今の豊臣と徳川のことを考えると、お橙姫様のお輿入れがどれだけ早くなろうとも、早過ぎるということは無いのではありませんか?」
ううっ。孝蔵主様からただならぬ圧を感じる。普段は優しげなおば様なのに、真顔になるとものすごい迫力があるんだよなあ……。でも、これは自分の可愛い娘のことだ。簡単には妥協できない。
「しかし、孝蔵主様。幼い子供を無理に親から引き離すと、心の病になるかもしれません。身も心も成長し、物事の道理が分かるようになるまで、お輿入れはすべきではないと思います」
私は、孝蔵主様の顔をまっすぐに見て、はっきりとそう言った。孝蔵主様も、私の顔をまっすぐに見つめている。二人は、少しの間、無言で見つめ合っていた。やがて、孝蔵主様は、肩の力を抜かれると、少し表情を和らげられて、ゆっくりと口を開かれた。
「確かに、それが道理だと私も思います。ですが、この縁談の話は、大きな争いを再び起こさせぬためのものでございます。ご心配かもしれませんが、お橙姫様がお幸せに過ごせるように、豊臣はすべてを尽くします。淀の方様は、はっきりとした物言いをされる方ですが、心根は優しい方でございます。秀頼様も温和なご気性の方ですので、お橙姫がおつらい思いをされることはないでしょう。もし、それでもお柚の方様がご安堵いただけないのならば、北政所様も大坂城に移り、お橙姫様のことをお守りするともおっしゃられております。お柚の方様、いかがでございますか?」
……。うーん。理屈は分かるんだけど、でも、いくら大きな争いを起こさせないためとはいえ、それで子供が犠牲になるのには納得がいかないんだけど……。
「お柚の方様、この縁組は天下のためでございます。お柚の方様は、争いのない泰平の世をお望みではないのですか?」
「えっ、あ、はい。確かに、誰もが苦しまないで済むような時代になって欲しいと思ってはおりますが……。…………んっ?」
そこで、私は何かが変であることに気が付いた。
「あ、あの、孝蔵主様。なぜ、私がお橙ちゃんのお輿入れのことを決めることになっているのでしょうか? こういった天下に繋がるような大切なお話は、お屋形様がお決めになられるべきことだと思うのですが」
うん、そうだ。こんな大事なことは、家康が決めるようなことだよね。なんで、私が決めるみたいな話になってるんだろう?
「はい、内府様にお話ししたところ、太閤殿下の御遺言でもある輿入れの約定に異を唱えるつもりはないものの、いつ輿入れするかについては、江戸の大納言様と相談して決めよ、とのことでございました」
「はあ……」
うーん、なんか変だな。豊臣と徳川の縁談は、両家にとって最重要なことなんだけどなあ。そんな大切なことを家康が自分自身で決めないなんて……。
「それで、さきほど、大納言様とお話ししたところ、日取りについては、お柚の方様とお話しして欲しい、とおっしゃられまして」
ん? 秀忠くんも? 秀忠くんが、そんな風に相談事をたらい回しにしたことなんて、これまでにあったっけ? うーん。何かを決断することから逃げるような人じゃないんだけどなあ……。
「お柚の方様、天下泰平はお柚の方様の御決断にかかっておるのですよ。母としておつらいことでございますが、何卒、ご理解をいただければと思います」
うーん、どういうことだろう? なんで、家康と秀忠くんは私に判断を委ねたのだろう? もし、私が、お橙ちゃんを手放さないって言ったら、どうするつもりだったのだろう? うーん……。
「お柚の方様!」
「ああっ! わかった!」
「おお、なんと、分かっていただけましたか。これは、真に有難うございます」
「えっ? ああっ、いえ、すいません。あの、申し訳ないですが、お輿入れについては分かっておりません。えーと、あの、私は秀頼様とお橙ちゃんの縁談には大賛成なのですが、それでも、今、この時期にお橙ちゃんがお輿入れするという話に応じることはできません」
「えっ?」
孝蔵主様は、驚いた顔で私のことをじっと見ている。
うん、私も理由は分からないけど、家康は、今、このタイミングでお橙ちゃんをお輿入れすべきじゃないと考えていると思うんだ。だけど、自分でそれを言うと角が立ってしまう。だから、それを秀忠くん、いや、それを私に言わそうと考えたに違いない。
「お橙ちゃんは、今、かわいい盛りです。こんなかわいい娘を、今すぐに手放すなんて、考えるだけで病になってしまいそうです。ああ、なにとぞ、なにとぞ、もう少し、お待ちいただきたく……。よよよよよ」
私は両袖で顔を覆うと、泣きまねをした。ふふふふ。最近はあまりやってなかったけど、聚楽第に住んでいた頃は、たまにマズいことがあったときは、泣きまねをしてごまかしてたんだ。
「……お柚の方様」
「孝蔵主様。どうか、どうか、お察しください。私めは、愚かな女子なのでございます。よよよよよ」
うん、よしよし。うまく、やれてるような気がする。私は、袖の隙間から孝蔵主様の顔をそっと盗み見た。
「…………。はあ、小姫様は昔と変わっておられませぬね。相変わらず、泣きまねがお下手でございます」
孝蔵主様は、あきれた表情で私のことを見ていたのだ。
「……えっ?」
ひょっとして、今、泣きまねしているってバレてたりする? というか、昔も泣きまねをしていたのがバレてたの?
「い、いえ、泣きまねなんて、とんでもないです。私は愚かな女子でございまして……」
「小姫様が愚かなはずがございません。今、都では、石田様、小西様と知恵比べで勝った『今諸葛孔明』と呼ばれて、大層なご評判でございますよ」
「そ、それは、皆が面白半分で尾ひれ背びれを付けて膨らませたお話でございます!」
その孔明さん呼ばわりだけは、本当に止めて欲しいんだけどなあ。その言葉を聞くと、背筋がゾワゾワしてきちゃうんだ。
「ふふふふ。まあ、私も大袈裟な喩えだとは思いますが、まったく根も葉もない話でもございませぬのでしょう。小姫様は、昔から並の人には思いつかぬようなことを、お考えされておられましたから」
「えっ、いえ、でも……。そうでしたか?」
「はい、そうでございましたよ」
うーん。なんのことだろう? 心当たりがないんだけどなあ……。というより、並みの人にはできないことをやっているのは、孝蔵主様の方だと思うんだけど。
「いえ、でも、私は、いたって普通の人間です。むしろ孝蔵主様こそ普通の人とはまったく違っておられます。大津城の合戦でも、戦の最中に城内に乗り込んで、京極宰相様を説き伏せられたと聞きました」
そう、関ケ原の合戦で、近江国、大津城の城主京極高次さんは東軍に付いて、大津城に籠城した。すぐさま、大坂城から大軍が大津城に送られ、京極さんの劣勢は明らかだったらしい。京極さんの奥方様は、淀の方様の妹で、江姫様の姉の初姫様。城内には京極さんの妹で、秀吉の側室だった松の丸様もいらっしゃった。この二人を救うため、何人もの使者が、京極さんを降伏させようと訪れた。でも、誰が来ても京極さんは首を縦に振らなかったのだ。
しかし、最後に北政所様の名代として孝蔵主様が大津城を訪れた。そして、孝蔵主様は、渋る京極さんを説き伏せて、大津城の開城を決意させたのだ。
「ふふふ、されど、あれはさほど意味のないことでございました」
そう、大津城が開城されたのは、長月(旧暦九月)の十五日。まさに関ケ原で合戦が行われている当日だったのだ。大津城を包囲していた軍勢が関ケ原に到着する前に、合戦の勝敗は決してしまっていた。
「それでも素晴らしいことだと思います。力はなくとも弁舌で戦うのは、まさに女子の鑑だと思いました」
私は馬には乗れないし、戦場で血が流れるのを見て平静を保てる自信もない。だから、戦場で秀忠くんのために何かをすることなんて、絶対にできやしない。でも、孝蔵主様がなされたように、外交官みたいな仕事ならば、できるのかもしれない。最近は、そんなことを時々思ったりもする。
「ふふふふ、余り持ち上げないでください。それで、小姫様、いえ、お柚の方様。お橙姫様のお輿入れの件でございますが――」
「えっ? ……ああ、ああ、可愛いお橙ちゃんと引き離されるなど、私には到底耐えられません。よよよよよ」
私は、慌てて両袖で顔を覆い直し、もう一度泣きまねをした。さすがにわざとらし過ぎるとも思ったけど、孝蔵主様も私が何を言われても応じるつもりがないことは分かってくれたようだ。
「はあ、仕方ありませんね。お柚の方様のお気持ちは分かりました。北政所様と淀の方様には、『お柚の方様がお橙姫を溺愛されていて、もう少し手元で養いたいとおっしゃっておられた』とお伝えいたしましょう」
おお、やった! 無事に解決した! 私は思わずほくそ笑んでしまう。
「ふふふ、相変わらず、正直なお顔でございますね。本日は身重なお体にも関わらず、お時間をいただき誠に有難うございました」
「いえ、こちらこそ、有難うございました。孝蔵主様に久しぶりにお会いできて、本当に良かったと思います」
うん、私が江戸に来るのは、突然決まっちゃったから、北政所様にも孝蔵主様にもご挨拶できなかったから、ずっと心残りだったんだ。ああ、でも、北政所様にもいつかまたお会いしたいなあ。いつか、私が京都に行ける日が来ればいいのになあ。
本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ・ご評価・ご感想・誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。私の執筆継続のモチベーションとなっております。
女傑・孝蔵主様の久々の登場です。戦国時代末期から江戸時代初期にかけては、数多の戦国武将が名誉と領地のために命懸けで戦った時代ですが、同時に女性の時代であったりもします。北政所の側近として大活躍した孝蔵主以外にも、淀殿の側近の、大蔵卿局や饗庭局が政治や外交の前面に出てきています。徳川方でも阿茶局が大坂城に交渉に出かけていますし、そのカウンタパートは淀殿の妹の初姫でした。他の時代には見られない面白い現象だと思います。(鎌倉時代には北条政子というとてつもないオバケキャラが一人いますが)
さて、次話第58話は、7月3日(土)21:00過ぎの掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程、よろしくお願いいたします。




