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第51話:家康、最大の危機

【慶長五年(1600年)長月十五日、午四つ時(午後十二時半)、天満山南麓・大谷吉継本陣】


 大谷吉継は、腕を組み沈思黙考していた。長年患っている持病により、吉継の両目の視力はほぼ失われている。そのため、今では騎乗することはおろか、自分の足で歩くことすらおぼつかない。この戦場でも家臣が担ぐ輿(こし)に乗らなければならないほどだ。


 だが、秀吉をして「百万の兵を与えて軍を指揮させてみたい」と言わしめた用兵の才はまったく衰えていなかった。開戦早々に自陣近くに押し寄せた藤堂高虎らの大軍勢を、巧みな采配で易々と追い返している。本来ならば、追い返した勢いに乗じ戦場の中央部に押し入って、戦の均衡を西軍側に引き寄せたいところであった。


 しかし、大谷陣のすぐ南、松尾山の上には、小早川秀秋が布陣している。秀秋本人の意向は分からぬものの、家老の平岡、稲葉の両名を初めとする小早川家の重臣の多くが東軍の調略を受けていることは、西軍諸将の間で知れ渡っていた。小早川の本陣の傍に潜ませた忍びからも、昨晩も東軍からの密使が平岡の下を訪れていたとの報告も受けている。


「金吾め、まだ動かぬか。やはりワシらが先に動くのを待っておるのか」


 吉継はそう呟いた。おそらく秀秋は、この天満山南麓にいる大谷・戸田・平塚の部隊や、松尾山の麓にいる脇坂・朽木・小川・赤座の部隊が関ケ原の中央に進出したところを寝返って、背後を取るつもりだと吉継は見立てている。


 そのときだ。松尾山の上から「えい、えい、おう!」との気合の乗った(とき)の声と、一斉に打ち鳴らされる陣太鼓の音が聞こえてきた。そして、大軍が一斉に動くときに生じる地響きのような足音がそれに続く。


「ほう、我慢しきれなんだか。よし、金吾め、軽く追い払ってやるわ。皆の者、南からの襲撃に備えよ!」


 吉継は、凛と響く声で家臣に号令した。家臣一同も「おう!」と声を揃えてそれに応える。領地の越前国の敦賀城からこの戦場に連れてきた吉継直属の兵は千人足らず。だが、いずれも吉継が鍛えに鍛え抜いた精鋭だ。自軍の十倍を軽く上回る小早川軍が相手でも臆するところはなかった。


 だが、いくら待っても、小早川の軍勢は吉継たちの目の前には現れない。やがて、前方の兵が吉継の下に飛んできた。


「殿、小早川の軍が、関ケ原の中ほど目掛け猛々しい勢いで松尾山を駆け降りておりまする!」

「なにぃ!?」


 吉継は思わず声を上げる。九分九厘、小早川秀秋は東軍側に寝返ると思っていた。だが、それが裏切られたのだ。吉継は信じられぬと茫然としている。そこに別の兵がやってくる。


「殿、小早川家より伝令です。金吾中納言殿より、言伝(ことづて)があるとのこと」

「よし、すぐにここに通せ!」

「はっ」


 やがて、漆黒の鎧に身を包んだ老齢の武将が現れた。その不敵な顔つきと堂々した立ち振る舞いから、彼がこれまでに数多(あまた)の戦場を駆け抜けてきたことが(おの)ずと知れてくる。


「それがし、小早川家家臣、長崎弥左衛門尉(やざえもんのじょう)と申す者。我が主君より、刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)殿に言伝がござります」

「弥左衛門尉殿、ご苦労である。金吾中納言殿のお話を聞きましょう」

「はっ、これより我らは全軍で、大逆の徒、徳川家康の首を狙う所存。刑部少輔殿が怖じ気づいておられぬのならば、是非とも助太刀をお願い申し上げまする」


 長崎は、胸を張り野太い声で大谷にそう伝えた。


「ふむ、なるほど。しかし、松尾山から内府殿の本陣の間には、藤堂、井伊、本多、金森、福島。その他にも数多の部隊がおりますぞ」

「もとより承知。我ら全軍、この戦場で死ぬる覚悟。我らを遮るものはすべて跳ね除け、ただただ徳川家康を目指すだけにござります」

「なるほど。中納言殿の言伝、確かに承知つかまつった。もとより我も義の道に生きる者。大義の為ならば、たとえこの地で果てようとも一切の悔いはござりませぬ。内府殿の本陣、いや、六つの(ちまた)までご一緒すると、中納言殿にお伝えくだされ」

 

 吉継は、はっきりとした口調でそう言った。六つの巷とは、現世と来世の境目のこと。吉継は共に死ぬ覚悟で戦おうと、そう秀秋に伝えたのだ。


「はっ、(かしこ)まった。それでは、これにて」


 長崎は吉継に対し頭を下げると、足早に陣の外に出ていった。共闘の確約を得られれば、これ以上の長居は無用。後は一刻も早く死地に向かう仲間たちと合流したいのだ。


 ほぼ失明状態の吉継には、長崎の表情はまったくわからない。だが、この老齢の男が覚悟を決めた凛々しい面構えをしていることは容易に想像がついた。


「ふむ、金吾もなかなか素晴らしき家臣を有しておるのじゃな。よし、皆の者。小早川に後れを取らば、一生の名折れじゃ。急ぎ出陣するぞ!」 


 吉継は、凛と響く声で改めて号令をかける。周囲の家臣は、吉継の近くにさっと集まると、彼の座する輿をぐいと持ち上げた。そして、関ケ原の戦場中央目掛けて、大谷吉継の軍勢は進軍を開始したのだ。


 大谷が進軍をするのを見て、近くに布陣していた戸田勝成と平塚為広の部隊もこれに歩を合わせて、関ケ原の中央部を目指し始める。松尾山の麓に布陣していた脇坂・朽木・小川・赤座の部隊もこれに続く。


 こうして、先陣を切った小早川の部隊を含めて、実に二万五千人の大軍が、家康の本陣目掛けて押し寄せることになったのだった。



【同日、未三つ時(午後二時)、関ケ原東部・家康本陣】


「ええい、何をやっておるのじゃ! 金吾の小童(こわっぱ)なぞ、早く蹴散らせい!」


 家康は、床几(しょうぎ)にどしりと腰かけ、辺りを(せわ)しなく見回しながら、怒号を飛ばす。ここにきて戦況は急変していたのだ。開戦以来、戦闘にはほとんど参加していなかった小早川隊や大谷隊などの部隊が、突如関ケ原の中央部に進出したのがきっかけだった。


 これらの部隊は、早朝から三刻(約六時間)にわたって戦い続けていた他の部隊とは疲労の度合いがまるで違っていた。藤堂高虎、京極高知、寺沢広高、生駒一正ら、東軍の諸大名の部隊を軽く一蹴すると、一直線に関ケ原東部にある家康の本陣に向かってきているのだ。


 彼らに合わせるように、小西、宇喜多、石田の三部隊も、再度攻勢に出てきている。気づけば家康の部隊は、西軍の諸将の部隊に包囲されつつあった。そして、休むことのない攻勢に、東軍の諸将の部隊の連携はずたずたに引き裂かれ、家康の配下の兵もジワジワと削られていった。


「ええい、金吾だけでない。脇坂も朽木も、なぜ寝返らんのじゃ!」


 脇坂安治や朽木元綱は、戦前から東軍への寝返りを確約し、誓書も差し出していた。だが、自軍の背後に位置していた小早川秀秋の部隊が、怒涛の勢いで下山し、東軍の部隊に襲い掛かったのだ。しかも、それと合わせるように、大谷・戸田・平塚の部隊も一気に攻勢に出ている。その勢いに飲みこまれてしまい、脇坂と朽木も一緒に東軍相手の戦闘に参加してしまう。そのため、今さら寝返りなど出来ない状況になってしまったのだ。


「お屋形様、ここは一旦、桃配山(ももくばりやま)まで退きましょう」


 家康の傍に付きそうお梶の方は、そう進言した。今、一番避けなければならないのは、背後を敵部隊に取られ、完全に包囲されてしまうこと。そうなる前に、この危険な場所から逃げ出すべきだとお梶の方は考えたのだ。


「お梶よ、何を言うか。ここで退いてしまうと、敵方をさらに勢いづかせてしまうだけじゃぞ!」


 だが、家康はお梶の方の進言を即座に却下してしまう。


「しかし、お屋形様。このままでは……」

「毛利と吉川が動かぬ限り、兵の数はこちらが多い。いずれ、流れは変わる。ここは辛抱じゃ!」


 家康は目をぎらつかせながら、そう言った。不安と苛立ちのせいで、普段の落ち着き払った家康とは、まるで様子が違っている。そのときだ。陣の外から伝令が飛んできた。


「お屋形様、大変でござりまする! 忠吉様が討ち死にされました!」

「なにぃ! 忠吉が……」


 松平忠吉は、家康の四男で、秀忠の同母弟である。容姿端麗な美丈夫で、勇敢な性格でありながらもけっして驕りたかぶることは無く、周囲からの人望も厚い。家康のお気に入りの息子でもある。その忠吉が戦死したのだ。家康は言葉が出てこなかった。


 代わって、お梶の方が伝令に問いただす。


「忠吉様を討ったのは、誰なのじゃ?」

「はっ、島津でございます。忠吉様と井伊殿の隊は、島津の荒武者どもに打ち破られ、散り散りとなったところ、忠吉様は鉄砲で撃たれご落馬。そこを島津の配下の雑兵(ぞうひょう)に首を獲られてしまいました」

「ああ、なんたることじゃ……」


 伝令の報告を聞きお梶の方の顔は青ざめてしまう。戦場に死は付き物である。だが、忠吉のような重要人物が、野戦で命を落とすことは()()うあることではない。


「忠吉め、功を焦ったか……。島津には心せよとあれほど言っておいたのじゃが……」


 家康は肩を落としながら、呟くようにそう言った。その様子に周囲の者はかける言葉も無かった。


 その後も、次々と悪い報せが家康の下へ届けられた。三河国・岡崎城主、田中吉政が戦死。藤堂高虎、京極高知、寺沢広高らは、兵の損耗が激しく戦場から相次いで離脱。開戦時には、ここ関ケ原の地にいた七万余りの東軍の軍勢は、いつの間にか五万人程度にまで減らされてしまっている。


「ぐぬぬ。秀忠が来るのを待つべきであったか。一生の不覚であったわ。ええい、ここは一旦、兵を退くぞ」


 家康は、今日はもうこのまま形勢が変わらぬと判断し、ようやく兵を退くことを決めた。だが、その判断は明らかに遅かった。


「お屋形様、大谷に背後を取られました。今、本多平八郎様がこれを跳ね除けようと奮戦中でござりまする」

「なにぃ!? しもうた。遅かったか」


 家康の顔はすっと青ざめた。家康が戦場でここまで不利な状況に置かれたのは、三方ヶ原の戦いで武田信玄に打ち負かされて以来である。このときは恐怖のあまり、敗走中に馬上で脱糞するという大失態まで犯してしまっている。


 あのときの武田軍への恐怖が呼び起され、家康の膝は震え出してしまう。その家康を励ますべく、お梶の方は、家康を優しく抱きしめる。


「お屋形様、御心配には及びませぬ。このお梶、一命に懸け、お屋形様をご無事な場所にお連れ致します。ご安心を」


 まるで泣きじゃくっている幼児をなぐさめるかのように、お梶は柔らかい口調で家康に語り掛ける。だが、そのお梶の方の優しさがかえって家康の心をかき乱してしまう。ついには、家康の両目から大粒の涙がこぼれだす。


「お屋形様。大丈夫でございます。お梶がおりますゆえ、大丈夫でございますよ」

「こんなはずでは、こんなはずではなかったのじゃ……」


 家康は小声でそう呟きながら、泣き続ける。そんな家康を優しく抱きしめながら、お梶の方は彼の背中をさすり続ける。


 だが、小早川秀秋を始めとする西軍の軍勢は、家康の本陣すぐ傍にまで迫っていたのだった。



【同日、申一つ時(午後三時)、桃配山後方、浅野幸長本陣】


 関ケ原の東、桃配山の後方には、浅野幸長、池田輝政、山内一豊らの諸将が、戦の開始時より陣取り続けている。彼らの役割は、南方の南宮山に布陣している毛利・吉川・長宗我部・長束ら総計三万七千人の大軍勢への牽制であった。


 そして今、浅野幸長の本陣に、池田輝政、山内一豊の両名が訪れ、緊急の三将会談が行われている。


「ええい、このままではまずいぞ! 我らは直ちに西に進み、内府殿をお救いすべきじゃ! お二方もそれでよろしいな!」


 大声を張り上げているのは、浅野左京大夫(さきょうだゆう)幸長。北政所の甥であり、まだ十代の頃より豊臣政権の中核人物の一人として名を連ねていた。


 だが、豊臣秀次が粛清された時に、これを擁護したために失脚、流罪の憂き目にあってしまう。このときに徳川家康・秀忠親子に救われて以降は、徳川家と親しい間柄となっていた。加えて、石田三成とは以前よりの不仲ということもあり、今回の戦でも迷うことなく東軍につくことを決めている。


「しかし、左京大夫殿。我らがここを離るるのは、毛利・吉川に『南宮山から下りて直ちに攻めてこい』と誘っているようなものですぞ」


 そう慎重に答えたのは、山内対馬守(つしまのかみ)一豊。彼が秀吉に仕え始めたのは、もう三十年以上も前のこと。それ以来秀吉に仕え続けてきた豊臣恩顧の家臣の一人だ。


 だが、一豊は機を見るに敏な男だった。彼は三成挙兵の方を聞くと、家康と三成では、家康の優位は揺るがぬとすぐに判断した。そして、下野(しもつけ)国・小山で開かれた軍議、いわゆる小山評定では、他の大名が周囲の出方を窺う中で、福島正則に続いて即座に発言。しかも、居城の掛川城を東軍に差し出すと提案し、家康の歓心を買ったのだ。


「対馬守殿、吉川・毛利とは兵を動かさぬとの約定があるであろう。今は、何よりも内府殿をお守りすることが肝要じゃ!」

「いやいや、この有り様じゃ。奴らがこのまま兵を動かさぬと信ずるわけにはいくまい。我らが西進した後、南宮山の奴らに動かれると、我らも袋の鼠となってしまうではござらぬか。左京大夫殿、もう少し、頭を冷やされよ」

「何を言っておるのじゃ、ワシは落ち着いておる! 対馬守殿、そなたこそ怖じ気づいてしもうておるのではないか? 命を惜しんでおったら、武家は務まらぬであろう!」


 幸長の声が一段と大きくなり、三十歳も年上の一豊の顔を鋭い視線で睨みつける。


 この二人が言い争う様子をじっと見ているのは池田輝政だ。信長の重臣、池田恒興の次男で、六年前に家康の次女の(とく)姫を娶っていることもあり、自他ともに認める親徳川の大名の一人である。


 輝政はこの陣に入ってからは、挨拶の言葉以外は一言も発していない。もとより寡黙な男ではあるが、ここまで押し黙っているのには理由があった。実は、この浅野の陣中に来る前に、輝政は一豊と話し合っていたのだ。


 この二人きりでの話し合いの場で一豊は「ここに至っては、毛利・吉川の参戦は不可避。むしろ我らが先んじて豊臣方に寝返り、家康本陣に攻め入るべし」と提案してきたのだ。


 輝政は、その提案を跳ね除けられなかった。彼の目にも明らかに戦況は、東軍の劣勢に見えている。これに毛利・吉川が参戦すると、東軍の負けは免れられないだろう。それに輝政は家康の娘を娶っているものの、父と兄は、小牧・長久手の戦いにおいて家康の家臣に討ち取られている。家康は父と兄の仇でもあるのだ。いつまでも義理立てする必要もない。


 こうして、一豊と輝政の二人は、寝返りをし西軍に(くみ)することで合意した。だが、問題は浅野幸長だ。まだ若く一本気な性格の幸長が、この寝返りの話に乗ってくるとは思えない。それで二人は策を弄することとした。


 まず、一豊がのらりくらりとした対応で、短気な幸長の心に火をつける。そして、その短気が燃え上がった頃合いで、輝政がさらに油を注ぐような言葉を幸長に浴びせかける。そうすれば、おそらく若い幸長は我慢ができなくなり、一豊と輝政に無礼な態度や言葉を投げかけてくるだろう。


 その後は、一豊と輝政は一旦自陣に帰ると、幸長に面目を潰されたとして攻めかかる。そして、幸長の首を手土産に西軍に寝返って、家康本陣に向け軍を進める。二人が合意した策とは、このような筋書きであった。


 もちろん、この筋書きがただの茶番であることは、少し知恵の回る者であれば容易に見抜けることであろう。だが、たとえ茶番と言われようとも、名目が一切無きまま寝返りをするよりは、はるかにましである。


「左京大夫殿、怖じ気づいたとは、穏やかではありませぬな。それがしは、貴殿にもう少し頭を使って、ものごとを考えてはいかがかと申しておるのじゃ」

「何を言うか、ワシはよう考えておる! そなたこそ、現実をしっかりと見るがいい。我らが動かぬと、内府殿の御命が危ういであろう! 内府殿がお倒れになればワシらもしまいじゃ! ああ、なぜ、そのことがわからぬのだ!」 


 幸長の顔は怒りで真っ赤に染まっており、今にも一豊につかみかかろうとするかの勢いである。一豊はちらりと輝政に視線を送った。確かに良い頃合いである。あと一押しで、幸長は心を乱し、平常心を失ってしまうことであろう。


 輝政が口を開こうとしたそのときだ。陣の外より、浅野家の家臣の一人が慌てた様子で駆けこんできた。


「殿、一大事にござりまする! 東方に新手が現れました!」

「なに、新手じゃと? して、敵か、味方か?」

「いや、それはまだわかりませぬ!」


 意外な報せであった。ここより東には西軍の拠点の一つ、大垣城がある。だが、今、大垣城内にいるのは、わずか数千の兵に過ぎない。こちら側に新手を出す余裕はないはずだ。さらにその東の岐阜城は、半月前に東軍が攻め落としている。


 幸長、一豊、輝政が戸惑っていると、すぐに別の家臣が駆けこんできた。


「殿、新手はお味方でございまする! 旗差し物に三つ葉葵がはっきりと描かれておりました」

「なに? 三つ葉葵じゃと。さすれば、江戸中納言殿か。なんと、間に合うたのか……」 


 幸長は、大きく目を見開いて家臣のことを見つめている。だが、驚いているのは幸長だけではない。一豊は、浅野家の家臣に問いただす。


「見間違えではないのか? 中納言殿であるはずが無かろう。中納言殿は、昨日の朝には馬籠におったのじゃぞ」


 信濃と美濃の国境にある馬籠からここまでは、実に三十里(約120キロメートル)。天候に恵まれたとしても三、四日は要する距離である。ましてや、昨日は、夜まで雨が降り続いていたのだ。とても、一日半でここまで到達できるはずがない。


「いえ、見間違えようもございませぬ。あれは確かに三つ葉葵にござりました」

「しかし、そんな馬鹿なことが……」


 一豊が言葉が失っているところに、さらにもう一人、別の浅野家の家臣が飛び込んできた。


「殿、江戸中納言様よりのご使者がまいられました!」

「おお、よし、こちらに連れて参れ!」


 家臣が連れてきたのは、秀忠の腹心の武将、土井利勝であった。


「おお、土井殿でござったか。ご苦労でござる」

「はっ、かたじけなし。危急のことゆえ、無礼ながら手短に。これよりすぐ、我が主君率いる四万の兵がこちらに到着。しかしながら、ここまでの急な行軍故、人馬の疲労、甚だしく(そうろう)。よって、ここで我が隊を二つに分け、半数をこの地に留め、残り半数を関ケ原の地に直行致したし。左京大夫殿、侍従殿、対馬守殿の御三名も、我らと共に関ケ原の地に西進願いたし。我が主君よりの言伝、以上でござりまする」


 利勝は表情を変えず、淡々と主君の言葉を三人の武将たちに伝えた。その言葉を聞いて、幸長の表情がほぐれる。


「おお、勿論じゃ。今、我らも内府殿をお救いすべく、すぐに西に進もうと話しておったところじゃ。して、中納言殿も西に進まれるおつもりじゃな?」

(しか)り。皆様と(くつわ)を並べて、石田三成、小西行長ら逆臣を誅する所存にて候」

「おお、そうか、そうか。よし、至急、軍を進める支度をする。侍従殿、対馬守殿の御両名も異存はござらぬであろうな?」


 四万の大軍がすぐに到着するのだ。異存などあるはずがない。池田輝政と山内一豊の二人は、無言で大きく頷いたのだった。

本作をお読みいただき有難うございます。本話は7000字を越え、本作品最大のボリュームとなりましたが、いかがだったでしょうか。


さて、いよいよ次話で秀忠が関ケ原の戦いに参戦します。迎えるは、小早川秀秋他の西軍諸将。ご期待ください。


次話第52話は5月22日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「武者は犬ともいへ畜生ともいへ勝つことが本にて候」(朝倉宗滴)
[良い点] 秀忠の介入で空気が変わりますね 数としては四万のうち大返しの様な事前の準備がされた描写もなかったので一万は厳しいのかな。 美濃は関ケ原周辺迄かなりの数の比較的大きな河川もありましたからね。…
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