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第50話:小早川秀秋の決断

【慶長五年(1600年)長月十五日、午の刻(正午)、美濃国・天満山北側・小西行長本陣】


 関ケ原の地で東西両軍の戦いが始まってから、既に二刻(四時間)が経過している。一時は西軍が押し気味であったが、家康本隊が兵を進めたことにより戦いは膠着化している。東西両軍の首脳は、どちらも今日中に相手方を崩したいという思いが強かっただけに、この状況に苛立ちを覚えていた。だが、そんな中、冷静に状況を見極めようとしていた男がいた。


「ふむ、やはり蔵人(くろうど)殿は、内府殿と通じておったか」


 一刻半ほど前に、西軍側が一時優勢になったと見るや、西軍の総参謀役を務める小西行長は全軍攻撃の狼煙(のろし)を挙げた。だが、南宮山に布陣する毛利・吉川・長宗我部らも、松尾山の小早川らも一向に動こうとはしない。そうこうしているうちに、家康本隊が桃配山から関ケ原の中央部目掛けて進軍してきたのだ。


 これは南宮山に布陣する毛利・吉川らの部隊にとって、家康本隊の背後を取る絶好の好機であったはずだ。だが、南宮山の部隊はそれでも兵を動かそうとはしなかった。狼煙だけでは埒が明かぬと、兵を動かすよう督促する使者も、毛利や吉川に送ってみたものの、彼らは「うむ、あいわかった」と言うだけで、行動に移すことはない。


 しかも、つい先ほど、毛利の部隊の後方に陣取っている長宗我部盛親から使者が届いた。その使者が伝えるには「長宗我部はすぐにでも軍を動かしたいのだが、先鋒を務めている吉川蔵人がまったく動かぬためそれが叶わぬ」とのことであった。


「おそらく、金吾殿も同じであろうな。まあ、山の上で動かないでくれるだけでもよしとするか」


 松尾山の小早川秀秋の陣にも再三再四にわたり、軍を早く動かすように使者を送っている。だがこちらも、「心得た」と言うばかりで、一兵たりとも動かそうとはしない。


 小早川の一万六千人の軍勢が参戦すると、膠着化している戦況が大きく動くのは間違いない。いや、それだけでではない。


 天満山南麓に布陣する大谷刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)吉継、戸田勝成、平塚為広ら六千の軍勢や、松尾山の裾野に布陣する脇坂安治、朽木元綱ら四千人の軍勢は、小早川が寝返るのを警戒して軍を動かせずにいるのだ。


「そろそろ、刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)殿らに使いを送るか。仮に、金吾殿が寝返れば我らが破れるのは必定。さすれば、用心するだけ無駄であるが故、金吾殿を捨て置いて貴殿らだけでも兵を動かすように、と」


 西軍側は、予めこの地での戦に備えていたこともあり、東軍を取り囲むように部隊を配置できている。これに加え、西軍側の部隊のほとんどは高台に陣を構えており、自陣の前には簡易ながらも柵も構築してあるのだ。この戦での地の利は、明らかに西軍側にある。


 しかも、戦前より「豊臣秀頼公が戦場にやってくる」と流言を流していた。家康はもとより名だたる東軍側の武将でこの流言を信じたものは誰一人いなかったが、東軍側の一人一人の兵士は違っていた。少なからぬ兵が、あの強大な豊臣家が自分たちを成敗しにくると不安になり浮足立っていたのだ。


 現時点で戦闘に参加している兵数は、西軍は東軍のほぼ半数に過ぎない。それであるにも関わらず、東西両軍が拮抗していたのにはこのような理由があった。このような状況下、あとわずかな兵力が戦闘に加わるだけで戦の流れは再びこちらに向いてくる。行長はそう確信していた。


 行長が家臣に下知しようとしたそのときだ。戦場から、一斉に火縄銃が連射された音が聞こえてきた。


「何じゃ、今の音は。内府殿の軍が火縄を放ったようじゃが、狙いがどこだったのか、すぐに調べてまいれ」

「はっ」


 行長の家臣は、すぐに前線の方に駆けていく。そして、すぐに戻って来た。


「殿、徳川の部隊は、松尾山の方角を目掛けて一斉に火縄を放ったとのことでございます」

「なにぃ! 松尾山の方角だと!?」


 家康の部隊がいる場所から火縄銃を放っても、弾はどこの部隊にも届くことはない。せいぜい脅しにしかならないのだが、戦の真っ最中に、そのような脅しに怯える者などいるはずもなく、全くの無駄弾となるはずだ。だが、徳川家康ともあろう者が、意図もなくそのような理に適わぬことを指図するはずもない。


「くっ、金吾殿は動かぬだけでなく、寝返りすることも約しておったのか!」


 おそらくは先ほどの銃声は、小早川に対し「早く寝返りをせよ」との督促なのであろう。


「これは不味いことになったな。さて、どうしたものよ……」


 行長は弱音を呟いたが、彼の目はまだ死んではいなかった。己の人生で最も困難な窮地を前にして、いかにこれを乗り切るか、考え続けているのだ。だが、いくら考えても妙案が浮かんでくることはなかったのだった……。



【同時刻、美濃国・松尾山・小早川秀秋本陣】


「殿、徳川隊より、こちらに向けて火縄が撃たれ申した。内府殿より、我らに早う兵を動かせと促されておるものと存じます!」


 主君である小早川秀秋に大声で話しかけているのは、平岡石見守(いわみのかみ)頼勝。もとは豊臣秀吉の家臣であったが、秀秋が小早川家の養子として入った際に、秀秋付の家老となった男である。彼の正室が黒田家の縁者ということもあり、平岡も黒田如水・長政親子とは、従前より親しく付き合っていた。そして、この縁を通じ、長政より小早川家寝返りの工作を受けていたのだ。


「ふん、そうか」


 秀秋は不機嫌そうにそう答えると黙り込んだまま、懐から小ぶりな女物の扇子を取り出した。そして、その扇子を手中で(せわ)しげな様子で弄りだす。


「殿、この機を逃してはなりませぬぞ!」


 平岡石見は秀秋に詰め寄った。自家の寝返りを家康に高く売りつけるのは、東西両軍が拮抗している今を置いて他にはない。平岡石見はそう確信していた。


「ふん、そう()かすな。ワシの心の内はとうの昔に決まっておる」

「ならば、今こそご決断を!」


 平岡石見はさらに詰め寄った。だが、秀秋は平岡には答えずに、その傍に立っているもう一人の家老、稲葉内匠頭(たくみのかみ)正成に対して話しかける。


「のう、内匠(たくみ)よ。石見(いわみ)はこう申しておるが、そなたは、どうすべきじゃと思うておるのか?」


 突然話を振られた稲葉内匠は、内心の動揺を押し隠しつつ、即座に秀秋に答える。


「殿、石見殿の申される通りでございまする。今は、ここでこの松尾山を降り、大谷らに攻め込む好機に違いありません」

「ふん、内匠もワシに卑怯なことをせよと申すのか」


 秀秋はあきれた風にそう言うと、手元の扇子をじっと見つめる。


「殿、返り忠は卑怯なことではござりませぬ。お家を守るためにより強きに付くは、世の習い。決して恥ずべき行いではありませぬぞ」


 稲葉内匠は、慌ててそう語る。徳川家や黒田家の密使からは、西軍の中で東軍に内通している者は自分たちだけではないと聞いている。実際のところ、今この戦場では、西軍の中で戦闘に参加しているのは、石田、小西、宇喜多の三部隊のみなのである。


「なるほどな。しかし、それは(まこと)のことと思うておるのか? 内匠よ、そちの奥方の父は、斎藤内蔵助(くらのすけ)殿じゃったな。内蔵助殿が、惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)殿に付き従いて、信長公を裏切ったことは、今でも許されざる大悪として語られておるのではないか?」


 そう秀秋に言われて稲葉内匠は黙り込んでしまう。彼の正室のお福は、秀秋の言うように明智光秀の腹心、斎藤内蔵助利三の娘であった。すでに本能寺の変からは二十年近くも経っているが、明智光秀やその家臣の身内の者は今でも人々から忌み嫌われており、そのためお福も苦労を重ねている。


 そんな黙り込んでしまった稲葉内匠の様子を、平岡石見は渋い顔で一瞥する。そして、稲葉内匠の代わりに秀秋の問いに答えた。


「殿、それは明智の謀反が不首尾に終わったからにございまする。仮にその後の天王山の戦で明智が太閤殿下を打ち負かしておれば、明智のことを悪く言う者などおらなんだことでしょう」

「ふん、どうであるか」


 秀秋は不機嫌そうな様子で、手元の扇子をパチパチと音をたて何度も開閉させた。そんな主君の様子に内心苛立ちを覚えながらも、平岡石見は落ち着いた風を装いゆっくりと口を開く。


「殿、大変無礼ではござりまするが、殿はあの石田の茶坊主の甘言に騙されておるのではござりませぬか? この戦の後に、殿を関白に奉るなぞ、出来ようはずもありませぬ。そのようなことを軽々しく口にする輩を、決して信じてはなりませぬぞ」

「ふん、あの話のことか。まあ、あの真面目さが取り柄の治部少輔(じぶしょうゆう)が言うことじゃ。根も葉も無きことではないであろうな」

「殿、いけませぬぞ!」


 平岡石見は気色ばんで秀秋に詰め寄った。だが、秀秋は冷めた目で彼のことを見る。


「石見よ、少し落ち着け。ワシは、関白にはなるつもりはない。治部少輔殿が言うて来たのは、秀頼様が御成人するまでの十年に限ってとのこと。しかし、十年後にワシはどうなる? 太閤としてあらゆることを意のままにさせてもらえるか? まあ、そんなことは、あるまい。下手をすれば、叔父上のように首を三条河原に晒されるじゃろうな」


 そう言うと、秀秋は顔を曇らせた。前関白の豊臣秀次と秀秋は血の繋がりはないものの、よく似通った性格で、やたらと気が合った。秀次は秀秋を我が子同様にかわいがり、秀秋も秀次のことを叔父上と呼んで慕っていたのだ。


「殿、さすれば、なぜ今ここで内府殿にお付きになりませぬ。内府殿は寝返りの対価として、二国を与えると約してくれておりまするぞ」

「ふん、恩賞欲しさに身を売るなど、浅ましきことよ。そなたも知っておるじゃろう。ワシは卑怯な振舞いは好まぬのじゃ」


 秀秋は毅然とした態度でそう言い放った。それに抗しようと平岡石見がさらに詰め寄ろうとしたそのときだ。後方にいた侍大将の一人が口を開いた。


「殿、ご立派な態度でございまする。この松野主馬(しゅめ)、感服いたしました」


 立ち上がった男は、松野主馬首(しゅめのかみ)重元。小早川家で鉄砲隊の総指揮を取る重臣である。


「おお、主馬。そなたは分かってくれるか。ここでワシが寝返るべきではないということじゃな」

「はっ、戦場での寝返りなど不忠義の極みでございまする。それはそれがしも最も忌み嫌うところ。いや、それがしだけではござりませぬ。多くの心ある家臣もおそらくは同じ思いと存じまする」

「おお、そうか。そなただけではなく、多くの家臣もそう思うのか」


 秀秋は満足気にうなずくと、手中の扇子に視線を送った。そして、かれがその昔、豊臣秀俊と名乗っていた頃に幼なじみの姫君に言われた言葉を思い出す。聚楽第の一室でその姫君に不埒なことをしようとしたときに、彼女は秀秋に「こんな卑怯なことはやめ、これからは多くの人の期待に沿う立派な人間になれ」とはっきりと言ったのだ。


 その日から秀秋は心を入れ替えた。暴飲暴食を改め、武芸や学問に(いそ)しみ、他人の言葉にも素直に耳を傾けた。正しき道を歩むことを心掛け、不埒(ふらち)な振舞いを目にしたときにはこれを(いさ)め、立派な男となるように日々努めてきたのだ。


 秀秋は、幼なじみの姫君から餞別としてもらった扇子を強く握りしめる。そして、彼は背筋をすっと伸ばし大きく深呼吸すると、家臣たちに下知をする。


「皆の者、よく聞け。ワシらはこれより全軍で松尾山を下り、徳川家康の本陣に切り込みを掛ける。ワシらが狙うは、この泰平の世をかき乱さんとする大逆の徒、家康の首である。知っての通り、家康は稀代の戦上手。配下の軍兵も雲霞(うんか)のごとし。しかも、いずれも歴戦の猛者ばかりじゃ。ワシらが向かわんとするのは、まさに死地(しち)に他ならぬ」


 彼はそこでもう一度深呼吸をすると、家臣一同をゆっくりと見回した。彼らは、主君である秀秋が次に発する言葉をじっと待っていた。


「皆の中で、己の命が惜しい者、卑怯な振舞いを恥と思わぬ者、義の心を持たぬ者がおるならば、その者どもはここに残れ。命を惜しまず、名のみを惜しむ者、忠義を尊び、天下の泰平を願う者は、ワシについて参れ。よいか。ここがワシらの死に場所と心得よ。ワシらの命をもって、この日ノ本に忠義の(ことわり)と安寧な世を取り戻す。そして、小早川の勇名を日ノ本全土に轟かせるのじゃ!」


 秀秋の力強い言葉に、家臣一同は、皆、胸を躍らせていた。拳を強く握りしめる者、頬を紅潮させる者、思わず涙ぐむ者。皆、この一戦に己の命を懸けると決意をしている。先ほどまで寝返りを主張していた平岡石見や稲葉内匠でさえも、秀秋と共にこの命懸けの戦に臨むことを決心した。


「よし、皆の者、覚悟はよいな。いざ出陣じゃ!」

「おうっ!」


 秀秋の陣触れの下知に、その場に家臣一同は声を揃えて応じる。その様子を見て秀秋は満足気にうなずくと、手にしていた扇子を懐にしまう。そして、小姓から手渡された兜をかぶり、槍を握りしめると、悠然と決死の戦場へと向かうのだった。


本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ、ご感想、ご評価、誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。私の執筆継続の励みとなっております。


いよいよ、小早川秀秋が決断しました。本作もクライマックスの一つを迎えようとしています。


次話第51話は5月15日(土)21:00頃の掲載を予定しております。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] ifストーリーはもし、あの時一歩違ったらどうなっていたかです。是非とも楽しみにしてます!
[一言] 正直、小早川のこの展開は最初から予期してました。 でも、その後が・・・・ 秀忠間に合うか? 北陸勢どうなるか 来週が楽しみです
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