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第49話:開戦

【慶長五年(1600年)長月十五日、美濃国・関ケ原】


 関ケ原の北西に笹尾山という小さな山がある。昨晩、雨が降りしきる中、宇喜多秀家、小西行成らの西軍諸将と大垣城を抜け出た石田三成とその配下の軍勢六千人は、夜明け前にこの笹尾山に陣を敷いた。


 その南方にある天満山とその周辺には、島津義弘と甥の豊久、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継、戸田勝成、平塚為広らが陣を連ねている。その兵数は合わせて三万三千人。


 さらに南にある松尾山の山頂に陣を構えているのが小早川秀秋の一万六千人の軍勢。松尾山の裾野には脇坂安治、朽木元綱ら四千人の軍勢も陣を並べている。


 また、関ケ原の東南にある南宮山には、数日前より毛利秀元、吉川秀家、安国寺恵瓊ら毛利勢に、長宗我部盛親、長束正家らが布陣しており、その兵数は三万七千人。この南宮山は、西軍の主力が布陣する笹尾山・天満山・松尾山とは少し離れており、こちらの部隊はいわば別動隊のような形となっている。


 これらをすべての部隊を合わせた西軍の総兵力は、実に九万六千人にものぼる大軍勢である。


 一方、大垣城の北方の赤坂という地に陣を構えていた徳川家康率いる東軍八万七千人は、三成らが関ケ原に移動したのを確認すると、その軍勢のほとんどを関ケ原の東側一帯に移動させた。


 前線に並んでいるのは、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、藤堂高虎、筒井定次、金森長近、福島正則ら。いずれも豊臣秀吉に重用され、豊臣政権の中核を担ってきた者たちである。彼らは、笹尾山から天満山、松尾山に布陣する西軍の主力の軍勢と対峙している。


 その後方に陣取っているのは、家康の四男の松平忠吉と井伊直政、本多忠勝ら家康の配下の諸将たちである。さらにその後方の桃配山の山麓には、家康が三万人の大軍と共に本陣を構えている。


 家康の本陣の後ろには、浅野幸長、池田輝政、山内一豊らが一万五千人の兵と共に布陣している。彼らは南宮山とその周辺にいる毛利や吉川、長宗我部らに向き合い、牽制しているのだ。


 四方を山に囲まれた盆地の関ケ原には、早朝から濃い霧が立ち込めている。東西合わせ十八万人を超える大軍が関ケ原とその周辺に集まっているにも関わらず、時折聞こえる馬の嘶きと甲冑や槍が触れ合って生じる僅かばかりの物音を除けば、不気味な静けさが辺り一帯を支配していた。


 やがて、雨が弱まり厚い雲越しにうっすら陽の光が見えてくると、立ち込めていた霧も少しずつ薄れていったのだった。



【同日・辰の刻(午前八時)、笹尾山・石田三成本陣】


「殿、もう少しで霧が晴れますな。いよいよでござりますな」

「うむ、勘兵衛。そなたにもこれまで世話になったな。豊臣に楯突く逆賊たちを一掃した後には、そなたに。予てよりの約束を果たすことができようぞ」

「わはははは。いや、三十年越しの約束を遂に果たしていただけますな。これは腕が鳴りますな」


 石田三成の前で豪快に笑っているのは、渡辺勘兵衛という男だ。この勘兵衛は、三成に最初に仕えた最古参の家臣である。

 

 勘兵衛が仕え始めた当時、三成はまだ禄高僅か五百石の小姓でしかなかった。数多の戦で功を成した勘兵衛の武勇はこのときにはすでに世に広まっており、柴田勝家から二万石の知行での誘いを受けていたほどであった。その名の知れた勘兵衛という豪傑が、ただの一小姓に過ぎない三成に仕えたのだ。その話を聞いた者は、誰もが大層驚いた。


 ある日のこと。秀吉は、三成に対してどのようにして勘兵衛を召し抱えたのかを訊ねた。三成は「実は、それがしの知行全てを勘兵衛に与えておりまする」と涼しい顔で答える。秀吉が「なるほど、己の知行全てを一人の家臣に与えるとは実に豪気じゃな。しかし、お主の知行はたかだか五百石ではないか。よくそれだけで勘兵衛ほどの剛の者が満足したな」と重ねて問うと、三成は「勘兵衛には、それがしが百万石を拝領した暁には、十万石を与えると約しておりまする」とまたも涼しい顔で答えたのだった。


 後に三成が佐和山十九万石の領主となったときに、三成は勘兵衛の知行を加増しようとする。だが、勘兵衛は「殿が百万石の大名となるまでは、それがしは五百石のままで結構でござる」とこれを固辞したのだ。渡辺勘兵衛という男は、実直ながら一風変わった石田三成という男の部下に相応しく、これまた実直で一風変わった気性の持ち主であった。


「それでは、それがしはこれより島左近殿の下に参りまする」

「うむ、勘兵衛、よろしく頼んだぞ」


 勘兵衛は一礼をすると三成の本陣を出て、笹尾山下で東軍の諸将と対峙している島左近の陣中へと駆けて行った。


「勘兵衛、頼んだぞ」


 その背中を見送りながら三成は呟くように言葉を繰り返した。今のところ、この地にいる兵数では西軍が東軍を僅かばかり上回っている。しかし、あと数日もすれば、徳川秀忠率いる四万人の大軍が東軍に合流してしまうのだ。そうなれば、西軍は一気に劣勢に立たされてしまうだろう。


 西軍にも、大津の攻城戦に参加していた毛利元康、立花宗茂ら総勢一万五千人が明日朝には合流できる見通しである。だが、それだけでは一旦開いた兵力差を埋めることはできない。しかも、さらに悪いことに加賀の前田利長の大軍勢が数日前より越前に再侵攻しているとの報も伝わってきている。


 これらの情勢を考えると、なんとか今日中に東軍を大きく崩してしまわねばならないのだ。


 三成は東の方角をじっと見つめる。この霧の奥、ここから一里足らずに位置する桃配山に家康が本陣を構えているはずだ。三成には家康個人に恨みはない。むしろ、一年半前に加藤清正、福島正則、浅野幸長ら七将から襲撃を受けた際には助けてもらったことに、今でも恩義を感じている。


 だが、家康を排せよという命を太閤殿下から遺言として承っているのだ。小さな寺の茶坊主に過ぎなかった自分をここまで登用してくれた太閤殿下への御恩には必ず報いなければならない。


「太閤殿下、ご安心くだされ。必ずや家康を打ち負かし、秀頼様の下で泰平の世を築いてみせますぞ」


 三成は天を仰ぐと、今は亡き主君・秀吉にそう誓ったのだった。


 その直後、前日から降り続く雨が止み、雲の合間より一筋の光が差し込んだ。今まさに霧が晴れようとしているそのときに、関ケ原の地に数百丁の火縄銃の銃声が鳴り響いた。


 先端の幕を切って落としたのは、家康の息子の松平忠吉とそれに付き添う井伊直政だった。前日の軍議では福島正則が先鋒を務めることとなっていたのだが、功を焦った忠吉と井伊直政は、抜け駆けをして西軍の中央に陣取る宇喜多忠家の部隊に銃撃を浴びせかけたのだ。


 忠吉や井伊直政に後れを取るまいと、福島正則ら東軍の諸将らは軍を進める。特に北端の石田三成の部隊には、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政らが一斉に襲い掛かった。これを迎え撃ったのは、三成の参謀、島左近。齢六十になる老将は自ら陣頭に立って指揮を執る。


 島左近の傍らで、長槍を振っているのは渡辺勘兵衛。雲霞のごとく押し寄せる東軍の兵士たちを軽々と蹴散らしていく。三成の配下、一人一人の将兵の士気も極めて高い。豊臣家への忠義を何よりも重んじる主君の実直な姿勢は、配下の将兵から絶大な信頼を勝ち取っていたのだ。


 徐々に戦況は三成軍の優勢に傾く。黒田、細川らの部隊は一旦兵を退かざるを得なくなっていく。


 宇喜多秀家と小西行長の軍勢も、福島正則、松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、筒井定次、金森長近らの軍勢を真っ向から受け止める。この戦線の兵数はほぼ互角だが、高台に陣取る宇喜多・小西の両軍の方が地の利があった。しかも指揮を執る宇喜多秀家、小西行長の二人は稀代の戦上手。こちらでも、東軍の部隊は一旦兵を退くこととなったのだった。



【同日・巳の刻(午前十時)、桃配山・徳川家康本陣】


「ええい、何をもたもたしておるのじゃ!」


 桃配山の本陣では、家康は顔を真っ赤に染め激しく膝を揺すっており、苛立ちを隠そうとしていなかった。主君の怒気溢れる様子に配下の武将や小姓たちは、何も話すことができなかった。


「お屋形様、まだ戦が始まってから、一刻ほどでございます。戦は、まだまだこれからでございませぬか」


 そんな中、家康に宥めるように話しかけたのは、煌びやかな武将姿に身を包んだ麗しき女武者。家康の側室の一人、お梶の方である。


「お梶、何を悠長なことを言っておるのじゃ。この戦、明日まで長引かせるわけにはいかぬ。大津にいる毛利元康がこちらに来る前に勝負を決めねばならぬのじゃ!」


 家康の苛立ちは治まらない。家康の事前の計算では、この戦いは自軍に圧倒的有利な状況であり、すぐにも決着がつくと見込んでいたからだ。


 表面的な兵力から見ると、両軍は互角かやや相手方が有利といった状況だ。


 しかし、南宮山にいる吉川広家は、毛利部隊は陣から一切動かさぬと確約しており、前日には彼らからの人質も差し出されている。松尾山にいる小早川秀秋とも、平岡石見という家老経由で寝返りの密約ができている。その他にも、朽木元綱や脇坂安治からも、寝返りを約する書状も届いている。


 つまり、十万人近い西軍の兵力のうち、実際にこの戦に参加するのは半分以下なのだ。それなのに、戦が始まってすでに一刻立っているのに戦況は膠着状態となっている。いや、直近ではむしろ自軍が押されている状況なのだ。


「金吾も朽木も脇坂も、まだ動かぬのか。ええい、この期に及んで日和見とはなんたることじゃ。まあ、よい。こうなっては致し方ない。軍を前に進めるぞ。我らが動いたのを見れば、あやつらも兵を動かすであろう。皆の者、いざ、出陣じゃ!」


 家康は床几(しょうぎ)から立ち上がるとそう命令を下した。周囲の武将や小姓も一斉に立ち上がると、陣の外に駆けていく。そして、すぐに、陣中に出陣を告げる太鼓と法螺貝の音が鳴り響いた。


 これで東軍からは、南宮山の敵方に備えている、浅野幸長、池田輝政、山内一豊ら一万五千人の兵を除いた七万人余りの軍勢が戦場に投入されることとなる。圧倒的な兵力差で西軍の主力部隊をねじ伏せる作戦なのだ。


 家康も黒鹿毛の愛馬に跨り、ゆっくりと前に進んでいく。そのすぐ後ろに付き添うように従っているのは、葦毛の馬に跨ったお梶の方。家康の後姿をしっかりと見つめながらも、普段とは違いどこか焦っているかのようにも見える主君の様子に、一抹の不安を感じざるを得ないのだった。


 家康本隊が動いたことで、一時押されていた東軍もなんとか盛り返すことができた。だが、石田・宇喜多・小西の部隊の士気は高いままで、押し返すまでには至らない。戦線は一進一退の状況となっていく。


 そして、この戦の行方は、一人の男の決断に左右されることになるのだった。


本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ、ご感想、ご評価、誤字報告いただいた方には御礼申し上げます。執筆継続の励みとなっております。


さて、作中では関ケ原の戦いも佳境となってきました。次話では、本作第4話から登場していた秀俊くんこと小早川秀秋がいよいよ動きます。ご期待ください。


次話第50話は5月8日(土)21:00頃の掲載を予定しております。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。

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