表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

48/72

第48話:嵐の前の静けさ

【慶長五年(1600年)長月十三日、美濃国・大垣城】


 石田三成、小西行長、宇喜多秀家ら西軍の諸将が大垣城で東軍に包囲されて、すでに十八日が過ぎている。


 大垣城内の西軍の軍勢は二万人余りなのに対し、これを包囲する東軍の軍勢は六万人余り。西軍は数の上では劣勢に見えている。だが、大垣城の南西、南宮山には、毛利秀元、吉川広家ら毛利の先遣部隊三万人弱と長宗我部盛親、長束正家らの部隊計八千人が軍を構えている。これに加え、大垣城の西、関ケ原の近辺にも大谷吉継、戸田重政、平塚為広らが率いる一万余りの兵が布陣している。


 これらの軍勢が大垣城を包囲している東軍に一斉に襲い掛かれば、東軍に大打撃を与えるのは難しいことではない。だが、西軍は大垣城に籠城して以降、一度も本格的に兵を動かそうとはしていない。その理由は一つ。徳川家康という大きな獲物をこの地におびき寄せるためである。


「治部少輔殿。内府殿がついに岐阜に入られたとのことだな」

「備前宰相殿、いよいよでございますな。まあ、正直に申しますと、思うておったよりはいささか遅うて待ちくたびれました」


 大垣城本丸の一室で話をしているのは、備前宰相こと宇喜多秀家と治部少輔こと石田三成の二人。西軍の名目上の総大将は、大坂城にいる毛利輝元が担っている。だが、実態としては宇喜多秀家、石田三成に小西行長を加えた三人が西軍の総指揮を取っているのだ。


「内府殿は、明日にでもここ大垣を目指されることであろう。もう少しの辛抱じゃな」

「さあ、どうでございますかな。江戸中納言殿が率いておられる徳川の本隊は、まだ中山道の道中でござろう。内府殿がこちらに来られるのは、本隊が合流されてからかもしれませんな」

「それはまずいではないか。秀忠殿は四万近い兵を率いておると聞いておる。これが加わると、向こうが俄然有利となってしまうぞ」

「まあ、確かにそうかもしれませぬな」


 三成は表情をまったく変えずに涼し気にそう言った。その澄ました態度が秀家の気に障った。

 

「治部少輔殿、そなたは何を考えておるのじゃ! この戦に負けると豊臣の世が終わるかもしれぬのじゃぞ! 敵の兵が揃うのを指をくわえて見ている場合では無かろう!」


 秀家は顔を真っ赤にしながら三成に食って掛かる。だが、三成は相変わらず涼しい顔をしたままだ。


「いや、それがしも何か妙案がないか考えておるのですが、これがなかなか浮かばぬのですよ。まあ、恥ずかしながら、それがしは戦は不得手でございますからな。ただ、兵糧と火薬は、ここ大垣とそれがしの居城の佐和山に十分に貯めておりまする。いくら相手が多勢であろうとも、そう簡単には負けることはないでしょうな」


 三成は、まるで他人事のように淡々とそう言った。その態度が秀家をさらにイラつかせてしまう。秀家が席から立ち上がり、三成の肩を掴もうとしたそのときだ。室内に小西行長が入ってきた。


「備前宰相殿、治部少輔殿、お待たせいたしたな。今、良き報せと、悪しき報せが同時に参りましたぞ」


 行長はそう言うとニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「ほう、良き報せと悪しき報せか。それは何じゃ。摂津よ、申してみよ」


 行長が元は宇喜多家の家臣だったこともあり、秀家の彼に対する態度は少し高圧的である。しかし、行長はそんな彼の態度を気にすることはない。


「それではまず良き報せから。大津宰相殿がようやく城を明け渡すと約定してくれましたぞ」


 遡ること十日前、それまで西軍と行動を共にしていた京極高次は、急に居城の大津城に戻ると西軍への反旗を翻したのだ。京極高次の正室は、淀の方の妹のお初の方。高次の妹の寿芳院は秀吉の側室でもあった。そのため、豊臣に縁の深い高次がここで寝返るとは誰も思っていなかったのだ。


 北政所の腹心の孝蔵主が使者として大津城に送られた。だが京極高次の意思は変わらない。やがて、大坂城から、毛利元康を主将、立花宗茂を副将とする一万五千人の兵が大津城に送られた。


「ほう、ようやく開城か。たかが大津の城一つに、何日かかったのじゃ」

「城攻めは七日からですから、都合、五日でござりますな。お初様や寿芳院様が城内にいらっしゃるので、あまり無理攻めはできませんでしたからな」

「何を手ぬるいことを申しておるのじゃ。それで、城攻めをしていた毛利の大蔵大輔殿や、立花左近殿はすぐにこちらに来るのであろうな」

「いや、それが城を明け渡してもらえるのは、明後日となったのでござりますよ。毛利・立花がこちらに来るのはそれからとなりまする」

「はあ、悠長なことを。内府殿はもう岐阜にまで来ておるのじゃぞ」


 秀家は忌々しげな様子で頭を左右に大きく振った。


「まあ、その埋め合わせではござりませぬが、明日、金吾殿が小早川の軍勢を率いて美濃に入ることになった。松尾山の砦に入りたいとのことであったので、承ったと伝えております」

「金吾か。あやつは、本当にこちらの味方なのであろうな?」

「まあ、家老の平岡石見なる御仁は、黒田甲斐殿と通じておられるようでございますな。しかしですな、金吾殿には治部少輔殿が既に話をつけておられる。戦場で我らを裏切ることはないでありましょう」

「さて、どうであるかな。治部少輔殿、本当に金吾を信じてよいのか?」


 秀家は、三成に視線を移す。三成は淡々と答える。


「それがしは、まったく心配はしておりませぬな」

「まったく心配していない? 一体、金吾とはどういう話になっておるのじゃ」

「無事内府殿を取り除いた後には、恩賞を二つお渡しすることになっております。一つは播磨(はりま)一国。播磨は太閤殿もお治めになられた豊臣縁の地。金吾殿も御満足いただけております。そして、もう一つ。こちらは恐れ多くて、それがしの口からは軽々に申せませぬな」

「ふん、もったいを付けおって。まあ、よい。大谷刑部も金吾には警戒すると申しておった。ワシも油断するつもりはないぞ」

「まあ、用心するに越したことはございませんからな」


 三成は涼し気な表情で淡々とそう言った。また、秀家の頭に血が上りそうになったが、彼はそれを必死で堪え、行長の方を向く。


「それで、摂津よ。悪しき報せの方は、何なのじゃ?」

「中山道の江戸中納言様のことでござります。どうやら、そう遠くないうちに美濃に入られます」

「なにぃ!? 真田安房殿は、引き留められなんだのか?」

「江戸中納言様は、上田城を素通りされたとのことでございます。それに気づいた安房守殿は追撃しようと城を出たところ、上田の先にある戸倉という地で、待ち構えていた徳川勢に迎撃にあったとのこと」

「むむむ、小癪なことを……」


 秀家は苦虫を噛み潰したような顔となった。


「それで、江戸中納言様率いる徳川本隊は、本日は木曽の馬籠(まごめ)という地に着く見込みとのこと。そこからだと大垣までは、天気次第ですが、まあ三日というところでござりましょうな」

「……三日。それはまずいではないか! 摂津、どうするつもりじゃ」


 不安そうな表情を隠しもしない秀家に行長は少しあきれた。宇喜多秀家は武勇の才に溢れ、戦場では幾多の武功を成し遂げてきた。だが、戦場ではあれほど肝が座り頼りになる男が、不思議なことに戦場を離れると途端に臆病な小人となってしまうのだ。しかし、それを咎めてもよいことは無い。行長は秀家の顔をまっすぐに見る。


「大坂の秀頼様がこちらに向かわれているとの虚報は流しておりまする。もし、内府殿がこれをお信じになれば、江戸中納言様の到着を待たずに明日にでもこちらに兵を動かしてくることでしょう」

「あの疑り深い内府殿が虚報などに騙されるかのう」

「それは分かりませぬな。ですが、もし中納言様が合流される前にこの城に来たのであれば、関ケ原の地に内府殿を誘い込み、ここで決戦でございます。そこで内府殿の御首を頂戴できればこちらの勝ちとなりましょう」

「ふむ。それで、江戸中納言と合流するまで動かなんだ場合はどうなるのじゃ」

「まあ、そうですなあ。そのときはここでしばらく籠城を続けることになりますな。まあ、そのうちに会津中納言様が江戸に攻め込んでいただけるでしょうから、それまではこちらで耐え忍ぶことになりまする」


 行長の説明に納得がいったのか、秀家は少し落ち着いた様子となった。


「そうか。まあ、あまり時間をかけるのはワシも好まぬところじゃ。内府殿がすぐに来てくれることを願うておこう」

「まあ、それがしも同じ思いでございます」


 そう言うと行長は大きく頷いた。それに合わせるように秀家も大きく頷く。行長と秀家は朝鮮の地で共に死線をかいくぐっている。元の主家と家臣という微妙な関係ではある一方で、互いの能力を信頼し合う関係でもあるのだった。


【同日、美濃国・岐阜城】


「お屋形様、ただいま若様より急ぎの報せが届きました」


 岐阜城の本丸御殿で胡坐をかいて座っている家康にそう報告したのは、井伊直政。家康の腹心で徳川四天王の一人として名が売れている猛将である。此度の戦でも、本多忠勝と共に軍監に任ぜられ、家康に先行して美濃国に入っている。


「ふむ、秀忠は今はどこにおるのじゃ?」

「はっ、今宵は木曽の馬籠とのこと。岐阜への到着はおそらく三日後となりまする」


 それを聞き家康は顔をしかめた。


「ふん、三日か、ちと遅いな。何をもたもたしておるのじゃ。急ぐように伝えるのじゃ」

「はっ、畏まりました」


 井伊直政は頭を下げると、すぐさま居室を出ていく。顔をしかめたままの家康に、部屋にいた腹心本多忠勝が話しかける。


「先月より悪天候が続いた中、山深い木曽路を進んで来られたのです。若様もよくやっておられたと存じまする」

「ふん、此度の戦には天下がかかっておるのじゃ。よくやったからといって、許される話ではない」

「しかし、あと三日でこちらに来るのでございます。それまで待てばよいだけではございません」

「それでは間に合わぬのよ。せっかくの好機を逃すわけにはいかんのじゃ」


 家康を不機嫌そうに腕組みをした。本多忠勝が何も言えず黙っていると、家康は再度口を開く。


「明後日に大津が城を開けると言う話は聞いておるな」

「はっ、聞いておりまする」

「さすれば、今、大津で城攻めをしておる毛利元康、立花宗茂らがこちらに向かうて来ることになろう」

「はっ、確かに立花殿は西国一の弓取りと評判の猛将。しかしながら、立花殿の配下の兵は四千程度でございまする。今、若様とご一緒の四万の兵と比ぶれば、物の数ではございません」

「いや、ワシが気にしておるのは、宗茂ではない。毛利元康じゃ」


 そう聞いて酒井忠勝は首をひねる。数々の戦で武功を挙げ、秀吉から直々に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と評された立花宗茂と違い、毛利元康の名はそれほど知られていない。毛利元就の八男で、現在の当主毛利輝元の叔父にあたり、朝鮮出兵では輝元の名代として出陣もしている。だが、その武功は数えるほどで、戦上手との話はついぞ耳にしたことがない。


 本多忠勝が戸惑っているのがおかしかったのか、家康は頬を緩めた。


「ふはは、まあ、ワシは毛利元康という男を恐れているわけではない。じゃがな、あの男が戦場に来るとややこしいことになるのよ」

「どういうことでございますか?」

「うむ、毛利とは吉川広家を通じ密約ができておる。広家は、此度の戦で毛利は兵を出すが、戦には参加させぬと誓紙を出すと言っておるのじゃ」

「はっ、それは聞いておりまする」

「じゃがな、此度の誓紙の話は、吉川広家が重臣たちとのみ謀って出したもとで、おそらく毛利元康は聞いておらぬじゃろう。そして、毛利から別の部隊が戦に加わったならば、いかに誓紙を出したとはいえ、広家もただ見ているわけにはいかぬ。兵を動かすことになるのは必定」

「なるほど、腑に落ちました。毛利が動かぬ間に戦を決めてしまうべしとのことでございますな。さすがお屋形様でございまする。しかし、大津の城は明後日に開城となりまする。もう、猶予がございませぬ」

「うむ、その通りじゃ。決戦は明後日、毛利元康が美濃に来る前に終わらせねばならぬ。じゃから、我らは秀忠を待つことはできぬのじゃ」

「ははっ、承知仕りました」


 家康に対し、本多忠勝は深々と頭を下げた。その姿を愉快そうに家康は眺めていた。


「ふははは、しかし、まあ、秀忠が間に合わなんでも天はワシに味方しておるぞ。金吾殿もこちらに付くことで話がついておるからな」

「はっ、黒田殿が調略したとは聞いております。しかし、そこまで信じてよろしいのでしょうか。当主・小早川秀秋様は、一本気な人物と聞いておりますが」

「ワシも昨日までは長政が言うことを信じてはおらなんだ。金吾殿の家老は調略できているのであろうが、肝心の本人の気持ちがわからなんだからな。しかし、本日、金吾殿が石田に与することはないと確信したぞ」


 家康は楽し気な様子でそう言った。


「何か情報が入ったのでございますな」

「うむ、そうじゃ。三成が金吾殿に出した褒美の話が漏れ伝わってきた。此度の戦に勝利した暁には、播磨一国、それに関白の地位を金吾殿に授けると約したとのことじゃ」

「……はっ? 関白でございますか? し、しかし、大阪城の秀頼様や淀殿がお許しになりますまい」

「ふん、どうやら、秀頼様が成人するまでの十年に限ってということらしい」

「なるほど、十年のみの関白ということでございますか。なるほど、しかし、それはすごい褒美のように聞こえますが」


 本多忠勝は不思議そうな顔で、家康の顔を見る。


「ふん、三成はお主の言う通りすごい褒美のつもりで話を持ち出したのであろう。じゃがな、言われた金吾殿の気持ちはまったく考えておらぬ。いかにも三成らしいものの考えじゃ」

「……お屋形様、申し訳ございません。拙者、頭がそれほど回りませぬゆえ、お屋形様のおっしゃることがよくわかりませぬ」

「そうか、それではな、前の関白殿はどうなった?」

「前の関白……。秀次公のことでございまするな。秀次公は腹をお召しになられ、一族郎党打ち首となられました……」

「その通りじゃ。不要となれば関白であろうと容赦せぬ。それが豊臣のやり方じゃ。お前を関白にすると言うことは、いつかお前を殺すと言うに等しい。ましてや金吾殿は秀次公と大層仲がよかった。嫌でも秀次公の最期を思い出すであろう」

「なるほど。つまり、褒美に関白を持ち出すことは、小早川秀秋様の気持ちを逆なでするだけであると」

「その通りじゃ。じゃから、金吾殿は我らに付くであろう。毛利は動かず、小早川はこちらに付く。この戦、秀忠がおらずともすでに勝ったも同然じゃ。ふはははははっ」


 家康の高笑いが室内に響き渡る。いつになく家康が上機嫌なのは、人生で最も重要となる戦を前に気が昂っているからであろう。本多忠勝は、そんな家康の姿を見て頼もしく思った。だが、なぜだかわからぬが、同時に何とも言えぬ不安も感じたのであった。


本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ、ご感想、ご評価、誤字報告いただいた方には御礼申し上げます。大変励みとなっております。


さて、物語もいよいよ佳境に入ってまいりました。次話第49話は、5月1日(土)21:00頃の掲載を予定しております。引き続きお付き合いの程、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 初感想失礼します 楽しみに読ませて頂いてます [気になる点] 「勝ったなガハハ」や「東軍Vやねん!」がどうしてもよぎる不思議 どんな結末を迎えるか楽しみに待ってます [一言] 新資料や解釈…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ