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第47話:小諸と金沢

【慶長五年(1600年)長月三日、信濃国・小諸、徳川軍本陣】


「伊豆守殿、話が違うではないか! 我らが信濃に入らば、そなたの父、安房守殿は上田城を即座に開城するのではなかったのか?」


 前日遅くに信濃国の小諸に着陣した徳川軍は、この日、本陣に諸将を集め軍議を開いている。そこで、真田伊豆守信之を詰問しているのは、本多美濃守忠政。徳川秀忠の腹心の一人である。忠政の姉の小松姫が真田信之に輿入れして以降は、義兄弟として仲の良い二人であったが、今はその二人の間に険悪な空気が漂っている。


「美濃守殿、申し訳ござらぬ。父はすぐにでも城を明け渡す所存なのじゃが、家中に渋っておる者がおるらしいのじゃ。父が申すには、今、それらのものを説き伏せておる故、今、暫し待っていただきたいと」

「何を言うておるのじゃ! 真田の家中に安房守殿に逆らうものなどおらぬであろう。開城を渋っておるのは、安房守殿ご自身なのであろう!」

「いや、そ、そんなことは……」


 本多忠政と真田信之のやり取りを、大将の徳川秀忠や榊原康政、酒井家次、土井利勝などの徳川家の重臣たちは苦々し気な表情で見つめていた。下野国・宇都宮を発ってから既に七日も経っているのに、まだ信濃国の入り口の小諸にいるのだ。この行軍の遅さに皆、苛立ち始めている。そして、その元凶がこの先の上田城に籠る真田安房守昌幸なのだ。


「ええい、まどろっこしいわ! 明日朝までに開城しないのであれば、我らが攻め込むと安房殿に伝えよ!」


 しびれを切らし叫んだのは榊原式部大輔康政。家康の腹心で、家康に仕えてから四十年になる最古参の将の一人だ。三河一向一揆との戦いに始まり、姉川、三方ヶ原、小牧・長久手、小田原征伐、数多の戦で武功を上げてきた勇将で、徳川四天王の一人として天下にその名が通っている。


「ははっ、承知仕りました」


 榊原康政の勢いに圧倒され、真田信之と本多忠政は深々と頭を下げた。しかし、そこに一人の勇壮な風貌の男が立ち上がった。


「いやいや、式部殿。しばし待たれよ。上田城は天下に名だたる堅城。いかに大軍であろうとも、容易には攻め落とせませぬぞ」


 立ち上がった男は、仙石越前守秀久。この小諸の地を治める大名である。美濃国の生まれで、最初は斎藤龍興に仕えていたが、彼が美濃から追われた後は織田信長を主君とし、本能寺の変の後は秀吉に仕えていた。


 だが、九州征伐の際の大失態により秀吉の怒りを買ってしまい、秀久は高野山へ追放されてしまう。その後しばらくは高野山で謹慎していたが、小田原征伐にわずかな手勢と共に参加すると、そこで大きな武功を上げた。そして、それ以来ここ小諸の領主を務めている。


「そんなことは、越前殿に言われなくとも知っておるわ!」


 遡ること十五年前の天正十三年、徳川方から造反した真田昌幸を討伐するため、家康は鳥居元忠が率いる七千の兵を上田に送っている。これに対する真田の兵はわずか千二百人。徳川軍が真田軍を造作なく打ち倒すと思われた。だが、上田城に攻め寄せた徳川軍は、真田軍に大苦戦をしてしまう。ついには撤退を余儀なくされ、しかも、その撤退の最中に真田の追撃に会い、千人以上の戦死者を出してしまったのだ。


「知っておるのであらば、尚のことでござる。今ここで真田を相手にいたずらに時間を費やすよりも、真田を一旦捨て置いて、我らは西に進むべきではござらぬか?」

「何を言うのじゃ。ワシらは三河武士ぞ。敵を置いて逃げることなどできるわけがござらぬ! それに上田を攻め落とし昌幸めの首を落とせば、伏見で討ち死にされた彦右衛門殿へのよい供養にもなるわ!」


 榊原康政はすごい剣幕でまくし立てる。ちょうど一か月前、家康の右腕だった鳥居元忠は、宇喜多・小早川・石田らの軍勢を相手に伏見城で壮絶な死を遂げている。


「しかし、貴殿らは上田を攻めるため信濃に来たわけではなかろう。そなたらの敵は石田治部少輔ではござらぬのか! ここは美濃に急ぐべきであろう!」

「石田だろうと真田だろうと我らに立ち向かう者どもは一掃するだけじゃ!」


 二人の討論が熱く盛り上がる中、中央に座る徳川秀忠は、腕を組み沈思黙考していた。状況を考えると、真田昌幸が上田城を一両日中に開城することは、まず無いであろう。そうであれば、上田城を攻めるべきだろうか。こちらの兵力は十五年前の上田城攻めの四倍以上いるものの、上田城に籠っている兵士も当時の三倍以上の四千人だ。仙石秀久の言う通り、容易には攻め落とせないだろう。


 それならば、上田城を捨て置いて西に進むべきだろうか。しかし、敵を置いて進むとせっかく高まった兵の士気に少なからぬ影響がであるであろう。秀忠は首を左右に振った。彼にはここで難しい決断が求められているのだ。


 ふとそこで、秀忠は出陣前に耳にした愛妻の言葉を思い出した。彼女は「天下分け目の戦が関ケ原で行われる」と秀忠に告げたのだ。そしてその関ケ原という地は美濃国にあると言った。秀忠は腕をほどくと、仙石秀久に話しかけた。


「越前守殿。そなたは、関ケ原という土地をご存じかな?」

「関ケ原……美濃国の関ケ原でございますかな?」

「おお、そうじゃ。知っておられるのか?」

「それがしは、生まれも育ちも美濃ですからな。関ケ原は大垣のすぐ西方に広がる草の原。東西を中山道、北は北近江から越前に繋がる北国脇往還、南は伊勢街道が通る要所でござります」

「ほう、関ケ原とはそのような要所であったか……」


 数日前に聞いた情報では、毛利の軍勢は伊勢に、大谷の軍勢は越前に進軍しているとのことだ。そして、石田、小西、宇喜多らは大垣で籠城をしている最中である。関ケ原という地は、まさにこれらの軍勢が結集するうってつけの場所であろう。


 秀忠は腕を組み目を閉じると、もう一度じっくりと考える。彼の愛妻小姫の言う、関ケ原で天下分け目の戦が行われるという話にも道理があるように思えてくる。


 秀忠の全身は思わずぶるぶると震えた。これが武者震いかと思い秀忠は苦笑する。


「御大将、いかがされましたか?」


 秀忠の傍に控えていた土井利勝が心配そうに尋ねてきた。


「いや、これからのことを思うと気が昂っておったのじゃよ」


 そう言うと秀忠はすくと立ち上がった。そして、一度深呼吸をすると、凛とした声で皆に告げる。


「皆の者、明日、安房守殿が城を明け渡さぬ時は、上田をこのまま捨て置き、我らは美濃に進むぞ。美濃では、この日ノ本の行方を決める天下分け目の大戦(おおいくさ)が待っておる。ワシらがその戦に遅れるわけにはいかぬ。急ぎ支度をするのじゃ」

「ははっ、御意!」


 総大将・徳川秀忠の決断に意を唱えようとするものはいない。一同は立ち上がると明日からの進軍に備えるため、軍議の場を後にしたのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


【同日、加賀国・金沢城】


 加賀の国の名城、金沢城の本丸御殿の奥の間。この城の城主、前田肥前守利長は、ここで爪を噛んでいた。彼は幼い時から苛立つことがあると、無意識に爪を噛む癖があったのだ。


「どいつもこいつも愚か者ばかり。なぜ、ワシのいうことを聞かぬ……」


 彼が、父・利家から家督を継いでもう二年。だが、未だ家中を完全には掌握できていない。この度の石田・小西らの挙兵の際には、彼は反対する一部の重臣を説き伏せ出兵すると、南加賀の大聖寺を攻め落とした。だが、越中に攻め入った直後の軍議で、重臣の一人が、石田に与する大谷吉継が海路を通り金沢に進軍するとの情報を伝えてきた。


 利長自身は、その情報を馬鹿馬鹿しいと思ったものの、重臣の一部は、急ぎ金沢に兵を退くように強硬に主張したのだ。それに同調したのが、利長の弟で能登国・七尾城主の前田利政だった。「金沢城にいる母君を危ない目には遭わせられぬ。ここは兵を即座に退くべし」と軍議の席で大熱弁を奮ったのだ。


 そして、その軍議で利長は押し切られてしまった。しかも、金沢への帰路、浅井畷(あさいなわて)という土地で、小松城主・丹羽長重の奇襲を受けたのだ。なんとかこれを撃退することはできたものの、一千人近い兵士を失うことになってしまった。


 金沢に戻ると、利長の予想通り大谷の軍勢は影も形も無かった。大谷が海路で進軍したという情報は根も葉もない虚報だったのだ。利長はすぐさま越前に再侵攻するよう主張したものの、家臣たちの動きは鈍い。弟の利政などは、いつの間にか七尾城に戻ってしまっている。


「このままでは内府殿に笑われるだけではないか。大野の中納言殿にも面目が立たぬ」


 利長はそう言うと、また爪を噛む。彼と共に兵を挙げた織田中納言秀雄は、前田軍が撤兵したことで孤立無援となってしまったのだ。十日ほど前より、大谷吉継、青木一矩ら越前の大名衆に織田秀雄の居城の大野城は包囲されてしまっている。


 大野城からは何度も援軍の要請が着ているのに、これに応えられていないことは、利長にとって大きな心労となっていた。


「犬千代様、また、お爪など噛まれなさって。お行儀が悪いですぞ」


 彼をたしなめたのは、彼の生母の芳春院。利長の父、前田利家の正室で、出家前はお松の方と名乗っていた。彼女は、利長と二人きりの時は、三十九歳になる長男のことを未だ幼名で呼んでいるのだ。


「しかし、母上様。家中の者は愚か者ばかりで、ワシの言うことを聞こうともせぬのじゃ」

「まあ、皆、虚報に惑わされておるのであろうな」


 確かに石田の挙兵以来、様々な情報が飛び込んできている。


 当初、入ってきた情報では、石田と小西に与しているのは、宇喜多秀家と大谷吉継など。兵力にしてせいぜい三万人ほどという話であった。その一方、徳川は、上杉討伐に向かった武将全てを味方につけ、総勢十五万人で西に向かっているとのことであった。


 これを聞き、利長は徳川に味方して挙兵することを決意したのだ。だが、越前に入ったころには、石田・小西らには、毛利、小早川、島津、長宗我部、立花など西国の大名のほとんどが味方しており、すでに伏見城を攻め落としたとの報が入ってきた。そして、ほぼ同じ頃には、徳川軍は関八州から動いていないとの情報も入ってきていた。


 一部の重臣や弟の利政が、金沢に引き返すべしと強硬に主張したのも、これらの情報を聞いたことが大きかったのかもしれない。実際、金沢に戻った後も、大坂城の豊臣秀頼も出陣したという話や、会津の上杉景勝が江戸に攻め入ったという話、御所が家康を朝敵と認定したという話、後に虚報と分かる様々な報が入るたび、金沢城の前田家中は激しく動揺していた。


「石田、大谷、小西、宇喜多などが束になっても内府殿にかなうはずがないであろう。次の天下は徳川じゃ。なぜ、当家の者どもは、そんな簡単なことがわからぬのじゃ」


 利長は吐き捨てるようにそう言った。


 かつて浅野幸長や黒田長政などの有力大名と語り合った時、彼らもそれが当然のように語っていた。江戸に人質に出ている彼の妻、永姫から送られてきた書状にも、江戸では徳川の天下となることが当然のような空気であると記されていた。それに、永姫がお柚の方から聞いた話では、今は亡き太閤様自身もいずれ徳川の世となることを予見していたと言うことらしい。


「人は信じたくないことからは目を逸らすものじゃからのう」


 芳春院はそう言うと小さくため息をついた。


 前田家は、先代の利家が、太閤秀吉と若い頃からの盟友関係であったことにより様々な恩恵を得てきている。芳春院も、去年までは夫の利家と共に秀頼の御守り役を務め、大坂城で少しばかりの権勢を振っていた。彼女自身もできることならば、豊臣の天下がこのまま続いて欲しいと願っている。だが、豊臣秀頼を取り巻く家臣団の脆弱さは、大坂城にいた彼女は身に染みてよく分かっている。


「殿、大野の織田家より使いが来ておりまする」


 部屋に入ってきたのは、横山大膳長知(ながちか)。元服直後より十八年に亘り利長に仕える腹心である。


「また、援軍の催促であろう。わかっておる。もう、しばらくお待ちいただくように伝えるのじゃ」

「いえ、それが、十日前から大野城の周りにいた一万二千の兵は、その大部分がすでに消えており、今は三千足らずとなっているとのことでございました」

「なに、兵が消えた? それで消えた兵はどこに向かうておるのじゃ?」

「それはわからぬとのこと。ただ、加賀には来ておりませぬゆえ、どこか別のところに向かったかと思われまする」

「ふむ……」


 数日前、美濃国に進軍中の浅野幸長より「すでに東軍は岐阜城を攻め落とし、今は大垣城にいる、石田、小西、宇喜多らを取り囲んでいる。前田家も早く美濃に兵を進めるように」との連絡を受けてい

た。大谷吉継と石田三成は盟友関係だ。大垣城への援軍に向かったのかもしれない、と利長は考えた。


「織田家は数日以内に大野城を出て、北ノ庄に向け進軍する意思あり、とのことでございます」

「ほう、中納言殿も動かれるおつもりなのか」

「はい。殿、我らも後れを取るわけにはいきませぬぞ」


 横山大膳の言葉に利長は顔を曇らせる。


「ワシもそう思うのじゃが、家中の者が動いてくれるのか分からぬな」


 そして、小声でつぶやくようにそう言った。芳春院は、そんな利長をギラリと睨みつける。


「犬千代様、何を弱気なことを言っておるのじゃ。そなたがそのように自信を持たぬゆえ、家中の者もついてくることができぬのじゃ。己が正しいと信ずるのであらば、胸を張って家中の者にそう告げなされ」


 芳春院は、まるで小さな子供を相手にするようにそう言った。その言葉を聞き、利長の背筋がまっすぐに伸びた。


「は、母上、そうでござるな。分かりもうした。大膳、急ぎ広間に人を集めるのじゃ。出陣を下知するぞ」

「はっ、畏まりました」


 横山大膳は深々と頭を下げると、慌てて奥の間から出て行った。


 利長は立ち上がると、気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸をした。そして、大きく目を見開いた。家臣に対しての押し出しは弱いのであるが、武勇の才能は父から引き継いでいる。戦となればしり込みをするようなことはない。


 そんな息子の姿を芳春院は頼もし気に見つめているのであった。

本作をお読みいただき有難うございます。また、本作にブクマ、ご評価、ご感想、誤字報告いただいた方々にはお礼を申し上げます。


次話第48話は、4月24日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。

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[一言] おおうっ、史実における秀忠最大の失態「関ケ原への遅参」が無くなった? いや、昌幸の考えによっては遅滞妨害戦が仕掛けられるか?
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