第46章:大野と大垣
【慶長五年(1600年)長月二日、越前国・大野城】
「内膳、見回りの者はまだ戻らぬか」
「殿、そろそろ戻って来る頃合いかと存じます」
小高い山の上に築かれた大野城の天守閣の一室で、二人の男がしかめっ面で向き合っている。一人は、この城の主、織田秀雄。年齢は十八歳。織田信雄の嫡男で、豊臣秀吉からこの越前大野を拝領して既に八年になる。この地に来た当初はどこか頼りなげな様子で、風貌にもあどけなさが残っていたが、今ではすっかりと成長し一人前の武将としての風格も漂わせつつある。
もう一人は、生駒内膳正直勝。年齢は三十七歳。尾張国の生まれで当初は織田信長に仕え、本能寺の変の後、初めは豊臣秀吉、次いで秀次を主君としていた。特に武芸に秀でているわけではないものの、政務を的確に捌く手腕に関しては若い頃から定評があり、四年前より越前大野の織田家に筆頭家老待遇で招かれている。
「そうか。しかし、肥前守殿はまだ動かぬのかのう。ワシはちと待ちくたびれたな」
加賀国金沢城主、前田肥前守利長と連携する形で兵を挙げてから早一か月。前田の大軍が南加賀の大聖寺城を攻め落とした際には、ここ大野城からも援軍として五百人の兵を送っている。当初、二万五千の兵士からなる前田軍の勢いは圧倒的で、一気に越前国内の諸大名を攻め落としそのまま近江国に攻め入るかと思われた。
しかし、利長は急遽兵を金沢に戻した。敦賀城主・大谷吉継が海路を通り金沢に攻め入るとの虚報に惑わされたのだ。しかも、金沢への帰路では小松城主・丹羽長重の奇襲に会う。前田軍はなんとか丹羽軍を撃退したものの、自軍に少なからぬ被害を被ったため金沢城で兵を立て直していた。
「前田の家中が割れておるとの噂も聞いております。しかも、弟の能登守殿が肥前守殿に反旗を翻そうとしておるとも」
「ここにきて兄弟喧嘩は勘弁してほしいのう……」
秀雄は頭を左右に振った。利長の撤兵以来、越前の大名衆は矛先を大野城に向けているのだ。十日前には、北ノ庄城主の青木一矩、敦賀城主・大谷吉継、丸岡城主・青山宗勝、安居城主・戸田勝成、美濃から遠征に来た垂井城主・平塚為広らからなる総勢一万二千余りの織田討伐軍が、大野城から一里離れた九頭竜川沿いに着陣している。
着陣翌日には、討伐軍は大野城下に押し寄せてその存在を誇示し、開城して戦いに応じるように挑発した。だが、討伐軍は、大野城内の兵力の約三倍だ。寡兵の織田軍が正面からぶつかって勝てる相手ではない。織田秀雄は大野城の守りをしっかりと固め、籠城を決め込んだのだ。
「城の蔵には食糧も弾薬も十分に足りておりまする。御心配には及びませぬぞ」
「そうじゃのう。小姫の言う通りにしておいて、ほんによかった」
秀雄の妹の小姫は、今は徳川秀忠に嫁いでお柚の方と称している。そのお柚の方から送られてくる書状には、事あるごとに兵の備えを怠らないように書かれていたのだ。
秀雄も初めのうちは、戦を知らぬ女子の考えと軽く流していた。だが、近年は上方の情勢が一気に不穏になったこともあり、武将や兵を積極的に集めるようになっていた。今や配下の兵数は三千を超え、三か月以上籠城しても十分な量の兵糧や武器弾薬も城内に貯めこんでいる。
備えあれば憂いなしとはまさにこのことで、大軍に囲まれても城内の兵士が怯むことはまったく無く、士気は高いままである。討伐軍の挑発を軽く受け流すだけの心の余裕もあった。
討伐軍も織田軍が戦に応じないと見るや、軍勢を城下から本陣に一旦引いている。今は連日、書状を送り、大野城をすぐさま開城するように恫喝しているのだ。
「上様、見回りの者が帰ってまいりました」
そこに武者姿の侍に連れられて、農民姿に扮装した中年男がやってきた。
「おお、無事でなによりじゃ。それで、敵方の様子はどうであった?」
「はっ、敵方の本陣は、旗指物と案山子ばかりでございました。残っておったのは、青山の軍勢のみでございます。兵数はおそらく三千足らずかと」
「なにぃ!? それは確かか!」
「はい、間違いございませぬ」
確かにこの数日、織田討伐軍に目立った動きは見られなかった。降伏勧告の書状を携えた使者こそ、連日送られてきているものの、彼らが城下に兵を動かすことはなかったのだ。
「ふむ、どこに行ったのであろうな。内膳、そちはどう思う?」
「はっ、紀伊守殿の病は深刻との噂ゆえ、北ノ庄に戻っておるのではないかと思われます」
「なるほどな。まあ、青木の軍勢が退いたのはそのせいかもしれぬな。しかし、紀伊守殿の御病気は、刑部少輔殿や武蔵守殿には関係なかろう」
「うむ、たしかにそうでございますな。ならば、我らが城の守りの堅さに攻略を諦め、別に向かったのでございましょう」
「ふむ……」
織田秀雄はそこで考え込む。彼らはどこにいったのであろうか。もし、加賀に向かったのであれば、その後を秘かに追走し前田軍と挟み討ちとするべきであろう。しかし、戦上手の大谷吉継ともあろうものが、後方に織田軍を残したまま、前田の大軍に討ちかかるとも考え難い。
それとも南に向かったのであろうか。実は昨日、美濃国との国境の温見峠を越えて、浅野幸長の使者が大野城に来訪している。その使者が伝えるところでは、すでに福島正則、浅野幸長、細川忠興、黒田長政らからなる軍勢は岐阜城を攻め落とし、今は大垣城に籠る宇喜多秀家、小西行長、石田三成、島津義弘らを包囲しているとのことだった。
「刑部少輔殿らは、美濃に救援に向かったのかもしれぬな。まあ、まずは情勢を知ることじゃな。内膳、北ノ庄と敦賀に間者を送るのじゃ。金沢の肥前守殿には、刑部少輔殿が消えたことを急使で伝えよ」
「はっ! 御意!」
生駒内膳は、周囲の侍らと共に駆け足で部屋から出て行った。部屋には秀雄が一人残される。
「城に籠ってばかりでは、お江にも娘たちにも格好がつかぬと思うておったところじゃ」
秀雄は一人でそう呟くと、ニヤリと笑ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
【同日、美濃国・大垣城】
「大軍に囲まれるというのは、あまり気持ちの良いものではござらぬな」
大垣城・天守閣の一室でそう口にしたのは、石田三成である。徳川家康に対抗する勢力を束ねて挙兵させた張本人である。先月初めに山城の国の伏見城を攻め落とした後、家康を討伐すべく兵を東に進めていた。
居城の近江国・佐和山城を経て、隣国美濃国に入ると三成は、伊藤盛正の守る大垣城に入城しここを西軍の拠点と定める。そして、ここに宇喜多秀家、小西行長、島津義弘らを呼び込んだのだ。
三成は、すぐに福島正則の居城、尾張国の清州城に攻め込もうと考えていたのだが、行長らに止められた。彼らは、伊勢国や丹波国、越前国に展開している友軍をここで待つべきだと主張したのだ。
しかし、三成たちが大垣城に籠っている間に、福島正則、浅野幸長、黒田長政、細川忠興らの軍勢は、逆に美濃国に攻め入ってきた。彼らは手始めに織田秀信の守る岐阜城を攻め落とすと、さらに兵を西に進め、今は六万の軍勢で大垣城を包囲しているのだ。
「まあ、朝鮮での戦に比べればかわいいものでござるよ。明の大軍に囲まれ大砲を引っ切り無しに打ち込まれておったときは、生きた心地がせなんだわ」
肩をすくめながらそう答えたのは小西行長。この挙兵のもう一人の立役者である。戦事に全くと言っていいほど疎く、多くの大名から人間的にも嫌われている三成が、十万を超える大軍を束ねることができたのは、偏に行長の存在があってこそなのだ。
行長が西軍全体の実質的な参謀として全軍の作戦を練り、それを西軍の諸将に指示する。西軍の諸将も朝鮮の地で数々の武功を挙げた行長の用兵の才を信頼しており、その指示には素直に従う。
つまり、実質的には行長がこの挙兵の首謀者といってもよいほどである。
「なるほど、摂津殿はずいぶんとご苦労をされたのであるな」
三成は淡々とそう答えた。だが、それを聞き行長は顔をしかめた。今さら何を言っているのか、と思ったのだ。朝鮮に出兵した諸将の功績を過小評価する一方で、現地で起こした失策を細大漏らさず太閤殿下に報告したのは三成であったのだ。今さら、あの地獄のような異国での悪戦苦闘を労わられても、かえって気持ちが逆なでされるだけである。
黙り込む行長を三成は不思議そうな顔で見つめている。
「摂津殿、どうされたのじゃ。黙り込むとはそなたらしくもない」
「いや、なんでもござらぬ」
行長は左右に首を振った。まあ、今さらこの男に自分の気持ちを話しても埒があかないことはよくわかっている。頭の回転は誰よりも早いのに、人の心の機微がまったく分からないのが石田三成という男なのだ。多くの者はそういった三成の人となり反発しているのだが、行長自身は裏表の一切ない三成の愚直さを嫌ってはいなかった。
「しかし、内府殿はなかなか動かぬな。内府殿の首を獲らねば、この戦は終わらぬのじゃがのう」
「まあ、内府殿はそのうち動くであろう。そのために我らがここ大垣で生餌となっておるのじゃからな。まあ、もう既に江戸を発っておられる頃合いかもしれぬな」
行長は軽い口調でそう言った。その言葉にはどこか余裕も感じさせた。実は大垣城を包囲している東軍は、逆に西軍に包囲されつつあるのだ。
伊勢国の攻略を終えた毛利秀元と吉川広家が率いる毛利軍先遣隊は、いつでも北上して美濃国に入る支度が整っている。越前に兵を進めていた大谷吉継は、戸田勝成や平塚為広らと共に秘かに兵を戻しており、すでに大垣の西にある関ケ原近くの山中に陣を構えている。今はまだ大坂城にいる毛利元康率いる毛利別動隊と立花宗茂の軍勢も、一両日中に美濃国に入り松尾山の砦に布陣する手はずとなっている。
これらの軍勢と大垣城に籠る宇喜多・石田・小西・島津の軍勢が挟み討ちをすれば、大垣城を包囲する福島・浅野・黒田・細川らを追い払うことはさして難しいことではない。だが、此度の戦の目的は彼らを追い払うことではない。三成たちが狙っているのは家康の首なのだから、まず家康を戦場におびき出さなくてはならないのだ。
今は江戸に引き籠っている家康も、自軍が優勢と見れば必ず動くだろう。そのため、行長は岐阜城の織田秀信を敢えて見捨て、三成や宇喜多秀家らと共に敢えて大垣城に籠ることで、ここに家康を誘うことにしたのである。
「ふむ、急いては事を仕損じるとも言うな。ここは辛抱じゃな。しかし、これでようやく太閤殿下がそれがしに託した御遺言を成就できるぞ」
三成は晴れ晴れとした顔でそう言った。
「太閤殿下の御遺言とな? それは初耳じゃな」
「ああ、太閤殿下は、今わの際にそれがしを呼ばれたのじゃ。その場で、秀頼様の為に『徳川と前田を必ず討ち滅ぼせ』と厳命された。そして『我が遺言は事が成就するまで秘密にせよ』ともおっしゃられたのじゃ」
三成はそう言うと大きく息を吐いた。行長は大きく目を見開いて、三成をじっと見つめている。
「なんと! 太閤殿下はそのような大事をお主に仰せつけられておられたのか」
「ああ、そうじゃ。これを誰にも話せぬのは、大変な気苦労じゃった」
「なるほどな、いや、実にお主らしい律義さじゃな。ふむ、なるほど、なるほど。秀頼様の為に徳川と前田を滅ぼせであるか……。なるほど……。しかし、太閤殿下がお主に託した御遺言はそれだけだったのかな?」
そう言うと行長はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「どういうことじゃ?」
「他にもそなたが滅ぼさねばならぬ相手はおるのであろうな。例えば、そうじゃな。毛利と上杉もそうではないのかな?」
「……。はははは、摂津殿。いったい何を申すのじゃ。毛利と上杉はお味方じゃぞ。戯れ言を申すではないぞ。ははははっ」
「いや、確かに。これは笑えぬ戯れ言でござったな。いや、失敬、失敬。わははははっ」
三成と行長の二人は、暫しの間、腹を抱えて、わざとらしく笑ったふりをした。やがて、三成は笑うふりを続けながら口を開く。
「ああ、そうじゃった、そうじゃった。そう言えば、太閤殿下はもう一つそれがしに言葉を残されたぞ。『小姫に気をつけよ』とな」
「はあ? あの徳川家に嫁に行かれた小姫様でござるか?」
行長は偽りの笑いを止め、三成の顔を見た。
「ああ、そうじゃ。その小姫様じゃよ。それがしにも、なぜ太閤殿下がそのように言われたのかはわからぬ。まあ、一度小姫様に会うてみようと思うて、伏見の徳川屋敷に忍び込んだこともあった。じゃがな、そのとき話した限りでは、小姫様はかわいらしいだけの普通の女子じゃったがのう。じゃから、小姫様のどこをどう気を付ければいいのか、今でも分からぬのじゃよ。わはははは」
三成はそう言うと、今度は本心からおかしそうに笑った。だが、行長は考え込む。彼もこれまで二度ばかり小姫と話をする機会があった。確かに、行長の目にも小姫の見た目は可愛らしく映り、その性格も思ったことを包み隠さず口にする裏表のないものに思えた。だが、彼女には尋常の者とは違う何かを感じていた。それが何なのかは行長にも分かっていなかったのだが。
「ふむ、まあ、しかし、小姫様は今は江戸におられる。我らが気を付けると言うても限りがあろう。それよりも、気を付けねばならぬのは他にいくつかあろう。まずは、小早川の金吾殿じゃよ」
「おお、金吾殿か。確かに、先日は大坂城ではえらい剣幕でそれがしに食って掛かってこられたな。じゃが、誤解はすでに解けておるであろう。伏見を攻めたときは、小早川の軍勢は真っ先に城内に攻め込んでくれたではないか」
「なにを能天気なことを言うておるのじゃ。お主と金吾殿との不仲は誰もが知るところじゃぞ」
行長はあきれたようにそう言った。実際、小早川家に潜ませている密偵からは、黒田家や浅野家からの使者が連日のように小早川家を訪れていると報告が来ている。
「そうかのう。まあ、金吾殿への褒美については、それがしも考えておるから安堵いたせ」
「ほう、その褒美とはなんじゃ?」
「今はそなたにも言えぬな。淀の方様にお伺いをたてておる所じゃからな。まあ、金吾殿が一番欲しいものじゃよ」
三成はニヤリと笑いながらそう言った。
「ふむ、此度の戦の恩賞の配分はそなたに任せておるからのう。ともあれ、金吾殿は大切に扱うのじゃぞ」
「承知した」
「もう一つは、江戸中納言様じゃな。七日前に三万の大軍を率いて宇都宮を発ったとのことじゃ。上野国から信濃国を通らんとしておるらしい。この軍勢に加勢されると、厄介なことになるな」
「ふむ、信濃の上田には安房守殿がおられる。安房守殿の奥方様は、我が妻の実の姉上じゃ。我らにお味方すると誓うてくれておる」
「うむ、上田城は天下の堅城じゃ。しかも、安房守殿は稀代の戦上手。何とか、一か月ほど足止めをしてもらいたいものじゃな」
「そのうち上杉が南下してくれるであろうからな。そうなれば、中納言殿も関東に引き返さざるをえまい」
上杉景勝とは、家康が江戸を離れて二十日が経過した後に、上杉の本隊が江戸に向けて進軍すると密約が成立しているのだ。
「我らの描いた絵の通りに進めば、此度の戦は我らの勝ちで間違いないであろう。まあ、しかし、相手は内府殿じゃ。けっして油断してはならぬ」
「うむ、その通りじゃな」
変わり者と世間で評判の二人であったが、その性格はかなり違っている。だが、この戦さに関しては互いの考えに異論がないことを改めて確認することができたのだ。石田三成と小西行長は視線を合わせると、満足気に頷きあったのであった。
本作をお読みいただき有難うございます。本話より新章開始となります。この章は今までの主人公の一人称視点と違い、多くの武将にスポット当てた三人称視点で書いてゆきます。
次話第47話は、4月17日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。




