第45話:いざ出陣!
慶長五年(1600年)葉月(旧暦八月)。石田三成さん達が挙兵してから、もうすぐ一か月が経とうとしている。
あの後、家康は下野の国の小山で、秀忠くん率いる東軍の本隊と合流して軍議を開いている。この軍議で家康は上杉攻めを中断するという方針を皆に伝え、諸将に徳川方につくか石田方につくか尋ねたのだ。
それに真っ先に答えたのが福島正則さん。「石田三成は、秀頼様に仇なす逆臣じゃ! あやつを倒すため、ワシは内府殿と轡を並べて戦うぞ!」と大声で叫んだとのことだ。福島さんの勢いに押されたのか、他の大名たちも我れも我れもと後に続き、軍議は「三成討つべし」と決した。
そして、福島さんや細川忠興さん、浅野幸長さん、黒田長政さん達は、すぐさま軍勢を西に転じた。彼らは、そのまま江戸を通り過ぎ東海道を西に進んでいった。
だけど、肝心の家康は、葉月に入ってからようやく江戸に戻ってきた。そして、今も西の丸の自分の屋敷でのんびりと過ごしていたりする。秀忠くんも、お兄さんの結城秀康さんと一緒に宇都宮に滞在中だ。つまり、徳川の軍勢は、ほとんどが関東に残ったままなのだ。
「うーん、なんか想像してたのと違うんだけどな……」
私は自分の部屋で独り言を呟く。てっきり家康と秀忠くんが、東軍の軍勢を引き連れて関ケ原に向かうのだとばかり思っていた。でも、実際は徳川家の人たちは誰も戦わず、福島さんや細川さん達に戦わせようとしているのだ。うーん……、どうも釈然としない。
私が首をひねっているときだ。
「どうしたのじゃ、そんなに難しい顔をして」
私の部屋に、私の義姉で江戸城に居候中の江姫様が入ってきた。
「いえ、石田様が兵を挙げたのに、なぜお屋形様は江戸に残っているのか、不思議に思っていたのです」
「ふむ、まあ、そうじゃな。家康殿は他の方々が本心からお味方しておるのか、疑っておられるのかもしれぬな」
江姫様は、さも当然といったような顔でそう言った。なるほど、確かにそうなのかもしれない。今、東軍に属している大名さん達の多くは、家族を大坂に残している。つまり、西軍に人質を取られているようなものなのだ。
「ああ、そうなのかもしれませんね。皆様ご家族が大坂におられますから」
「そうじゃよ。それに、大坂では、色々ややこしいことが起きておるようじゃからのう」
「そうですね。丹後侍従様の大坂屋敷でも騒ぎがあったと聞いております」
石田さんが挙兵した直後のことだ。石田さんは、大坂にいる諸大名の家族を大坂城内に移そうとしたらしいのだ。そして、石田さんの軍勢が最初に向かったのは、細川忠興さんの大坂屋敷。でも、細川家の奥方の玉姫様や細川家の家臣達は、それに激しく抵抗していたらしい。
「細川様のところでは、金吾が大暴れしておったらしいのう」
そこに現れたのが、私の幼馴染の秀俊くん。細川屋敷の門前で、石田さんの配下の兵士たちに「女子を連れ去ろうなどという卑怯な振舞いは、豊臣家の顔に泥を塗るようなものじゃ。そんなことは、ワシの目の黒いうちは絶対にさせぬぞ」と大見得を切ったらしいのだ。
その勢いに圧倒されて石田さんの配下の人たちはすごすごと引き下がったとのこと。その後も秀俊くんは、大坂城の西軍の軍議の場で石田さんに「お主がかくも卑怯な男とは思わなんだぞ。ワシがここで成敗してくれるわ」と詰め寄ったらしい。
その軍議に同席していた人たちは、秀俊くんの勢いにあっけにとられていたが、その場にいた小西行長さんが秀俊くんを必死で取りなしたとのこと。大坂城に残っている私の父上、織田信雄さんも秀俊くんの剣幕に驚いていたと手紙で教えてくれた。
「筑前中納言様は、卑怯なことが大層お嫌いですから」
私は、秀俊くんを持ち上げた。実際、昔はすごく生意気でずるい子供だったけど、いつの間にか立派な人になっている。
「まあ、あの金吾もずいぶんと変わったことよのう」
江姫様は狐につままれたような表情をしている。江姫様、男の人は三日会わなければ変わるのですよ。
そんなことがあって、大坂にいる諸大名の家族を大坂城に集めようという石田さんの企みは失敗したのだ。まあ、それでも、皆さまが大坂屋敷に残されたままであることに違いはないからなあ。
「しかし、お屋形様はどうされるのでしょうかねえ……」
「まあ、まずどこかで福島様や、浅野様、細川様に戦をさせるのであろうな」
「戦ですか。でも、一体、どこを相手にするのでしょう?」
東軍の人たちは、福島正則さんの居城、尾張の国の清州城を本陣としていると聞いている。そこからどこかに攻め込むということなのだろうか。
「まあ、まずは岐阜の三郎じゃろうな。清州から岐阜は、すぐじゃからな」
「えっ? 三郎様ですか?」
三郎とは、織田家の惣領の織田秀信くんのこと。いや、確かに家康とは特に仲が良い感じではないけれど。
「三郎には、わらわも何度か文を送ってやったのじゃが、まったく煮え切らなんだわ。あやつには、ここですぐに手のひらを返すような要領の良さはないじゃろう」
うーん。そうなんだ。確かに私も三郎くんには何度かお手紙を送ったけど、反応が薄かったよなあ。三郎君には、ちゃんとした奥方もいないこともあって、親戚なのに最近は距離を縮められなかったし……。
「そうなったら残念です。同じ織田家なのに……」
「まあ、織田家には秀雄様がおるから、三郎がおらんでも別によかろう」
江姫様はしれッとした顔でそう言った。まあ、確かに三郎くんがいなくなったら、秀雄くんが織田家の惣領に復帰できるか……。いや、でも、そんな発想はあまりよくないな。それに、今の秀雄くんはそれどころではないから。
「兄上様もご苦労されていらっしゃいますから」
実は二週間ほど前に前田利長さんと示し合わせて、秀雄君は兵を挙げている。でも、越前や南加賀の大名さん達は、ほとんどが西軍についていたのだ。どうも敦賀城主の大谷吉継さんが色々と手を回していたらしい。
「まあ、刑部少輔にうまくやられてしもうたのう。紀伊守殿がこっちにつかなんだのは誤算じゃった」
紀伊守殿というのは、北ノ庄城城主の青木一矩さんのこと。越前の北半分を治める二十一万石の大大名で、秀吉の母方の従弟にあたる人だ。でも、家康の母方の祖母とも親戚だということもあり、徳川家との関係も悪くない。実際、小梅ちゃんことお梅の方様を家康の側室に送っているぐらいだ。
「ここは無理をしないのが一番です。兄上様は大野のお城でおとなしくしていればそれでいいかと」
まあ、東軍が勝つのは確実なんだから、秀雄くんは無理して戦う必要はないと思う。
「まあ、早く前田が敵方を蹴散らしてくれるといいのじゃがのう……心が休まらぬのう。はぁ」
江姫様は大きくため息をつかれたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
それから十日ばかりが経過した。江姫様の見立て通り、西軍の福島さんや浅野さんは岐阜の三郎くんのところに攻め込んだ。岐阜城は、織田信長の建てた天下の名城なのだけど、兵力の差はどうしようもなかった。三郎くんは東軍に降伏し、岐阜城はわずか一日で落城してしまった。
一方で、私の兄上の秀雄くんはかなりヤバいことになってしまっている。一緒に兵を挙げていた前田利長さんは、南加賀の大聖寺城を攻め落とすとそのまま越前の国に攻め入っていたのだけれど、わずか数日で居城の金沢城に戻ってしまったのだ。
利長さんがなぜ金沢に戻ったのかは分からない。江戸にいる利長さんの奥さんの永姫様に訊ねても彼女も撤兵した理由は聞いていないとのことだった。ともかく、前田家と一緒に兵を挙げた秀雄くんは、途中で梯子を外されたような形になってしまった。今は越前の国の大名さん達に攻められてしまい、大野城で籠城中なのだ。
その報せを聞いてからは、江姫様は半狂乱状態になっている。永姫様にすごい剣幕で詰め寄ったり、小梅ちゃんをきつい口調でなじったり、もう大変な有り様なのだ。
でも、籠城中の秀雄くんは特に慌てていないようだ。大野城から江戸に送られてきた書状には「城内は兵糧も十分あり兵の士気も高い。ワシのことは心配するに及ばぬ」と書いてあった。
うん、関ケ原の決着がつくまでの間、頑張ってね。あともう少しだと思うから。
そう、実は、いよいよ徳川軍が動きだす。家康はまだ江戸城・西の丸御殿に滞在中だけど、ここ数日は、明らかに兵を動かす支度をしており、江戸城内は慌ただしくなってきているのだ。
宇都宮城にいた秀忠くんも、すでに西に向けて進軍を開始している。秀忠くんの軍勢は、上野国を通って信濃国に向かう予定。なんでも、まず信濃国の真田さんを攻めることになったとのことだ。
秀忠くんの腹心の真田信之さんは、その軍勢に付き添っているのだけど、お父さんの昌幸さんと弟さんの信繁さんが西軍についてしまったのだ。どうやら、昌幸さんの奥さんが石田三成さんの奥さんのお姉さんだということで、その繋がりが大きかったみたい。
まあ、真田昌幸さんは戦上手として有名な人らしいけど、立て籠っている上田城の兵の数はそれほどではないとのこと。秀忠くんの軍勢は四万人もいるのだから、心配することはないのだと思う。
でも、秀忠くんには怪我はしてほしくないなあ。秀忠くん、気を付けてね。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、今日は葉月の二十九日。明日、家康が出陣し東海道を西に進むことに決まったのだ。今は、出陣前の宴が西の丸御殿の大広間で開かれている。
でも、宴の空気はとても重苦しい。家康は席に座ったまま一言も発せず、ゆっくりと盃を開けるだけなのだ。周りの武将も側室たちも気圧されて、何も話すことができずただ時間だけが過ぎて行った。
うーん、東軍が勝つことは決まっているのだから、もっとリラックスしていいと思うんだけどなあ。
やがて、その重苦しい空気に耐えられなくなったのか、武者姿のお梶の方様が立ち上がって私の方を向いた。
「お柚よ。そなたとはこれが今生の別れとなるかもしれぬな」
「えっ? どういうことでしょうか?」
「此度の戦に勝てぬと、徳川家は終いじゃからのう」
「はあ……」
いや、お梶の方様、東軍が勝つのだからそんな心配はしなくてもいいんですよ。
「どうしたのじゃ? 私との別れが悲しゅうはないのか?」
「いえ、この戦が終われば、お梶様とはまた会えますから」
私がそう言うと、お梶の方様は目を見開いて私の顔を見た。
「お柚よ、そなたは徳川が負けるとは全く思うておらぬのか?」
まあ、私は結果を知ってますから。でも、さすがにそれを言うと色々とややこしくなってしまう。うまくごまかそう。
「ええ、お屋形様は戦上手ですし、御味方も大勢いらっしゃいます。此度の戦に負けるとは全く考えておりません」
私はきっぱりとそう言い切った。まあ、戦の前だし気分も盛り上げないといけないよね。
「はあ、お柚は能天気な女子じゃのう。私は夜もよう眠れぬほどであるというのに……」
お梶の方様がため息交じりにそう言うと、家康は突然笑い出した。
「わははははっ。お梶、何を言うか。昨晩は大いびきをかいてよう寝ておったではないか。能天気なのはお柚だけではないであろう」
家康の笑いに合わせ、一同も笑いだした。お梶の方様は恥ずかしくなったようで、顔を赤らめて俯いてしまった。
「ふむ、お柚。ワシも此度の戦に負けるとは考えておらぬぞ。しかしな、両軍の差は紙一重じゃ。ほんの小さな弾みで勝負の帰趨はどちらにも転ぶであろう。じゃからな、皆が慢心せぬように気を引き締めておるのじゃ」
なるほど、さすが家康だな。やっぱり、すごく頼りになる人だね。まあ、じゃあ、謝っておこう。
「お屋形様。それは申しわけございませんでした。私の考えが足りませんでした」
「いや、よい。それでこそ、お柚じゃからな。そなたは自分の思うたことをそのまま話せばよい」
今日の家康はとても機嫌がよかったのか。きっと家康も勝利を確信してるんだろうな。あっ、そうだ。せっかくだから、家康にお願い事をしておこう。
「お屋形様、実はお願いがございます」
「ふむ、願いか。一体何じゃ?」
「はい、秀頼様のことでございます。此度の戦の後も、秀頼様のことを引き続きお守りくださらないでしょうか」
うん、これは秀吉に頼まれたことだし、それに秀頼様とは彼が赤ちゃんの頃からのお付き合いだから。
「うはははは。それは当然ではないか。秀頼様をお守りするのがワシのお役目じゃぞ。此度の戦も秀頼様に害をなそうとする悪人どもを、一掃するためじゃからな」
家康は声を出して笑いながらそう言った。でも、目の奥は全く笑っていなかった。まあ、家康は天下を取る気だろうからねえ。まあ、秀頼様をお守りする件は関ケ原が終わってからが本番だろうから、これからもずっと家康にアピールし続けなくちゃダメだよね。
あっ、そうだ。家康の機嫌がいいうちにもう一つお願いをしておこう。
「さすが、お屋形様でございます。それで、もう一つだけお願いがございます」
「ふむ、もう一つとな」
「はい、此度の戦で負けた相手方のことでございます」
「ふむ、負けた相手方か」
家康は興味深そうな表情で私の顔をじっと見てくる。
「はい、戦に負けたことに関しては、女子供に罪はございません。ですので、石田様や小西様、大谷様などの御家族のお命は救っていただけないでしょうか?」
うん、小西さんの養女のおたあさんは、守って欲しいとお願いされているし、大谷吉継さんのお母さんの東殿さんや妹さんの小屋さんには昔からお世話になっている。石田さんの奥さんとも何度かお手紙のやり取りをしたこともあって、すごくよい人みたいだったし。
「ふむ、戦の前に相手方の命乞いか。お柚、そなたは本当にもワシの勝利を全く疑うてはおらぬのじゃのう。うむ、まあ、よい。女子供の命を取るのはワシも好かぬところじゃ。その願いも聞いておこう」
おお、なんか。話が通っちゃった。うん、思い切って言ってみてよかったな。私は深々と家康に頭を下げたのでした。
そして、この後すぐに、関ケ原の戦いに向けた出陣前の宴はお開きとなった。うん、いよいよ、歴史が動く時だ。無事に戦が終わって、平和な時代が来ますように!
本作をお読みいただき有難うございます。次話第46話は、4月10日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。




