第39話:初めての夫婦喧嘩
慶長四年(1599年)長月(旧暦九月)。今月の初めから、私たち一家は、本丸・奥御殿にお引越しをしている。私たちと入れ替わりに、それまで本丸に住んでいた家康の側室の方々は西の丸御殿にお引越しとなった。
結城秀康さんのお母さん、小督局様はこれにかなり御不満だったようで、お住まいを結城のお城に移されている。彼女とは仲良くなれなかったのが、すごく心残りだ。
そうそう、私は、先月の一日に第二子となる橘姫を産んでいる。この子のことは、普段はお橘ちゃんと呼んでいる。
お橘ちゃんはとても大人しい子で、特に泣きわめくこともなく、乳母さんのお乳を飲んで満足するとすぐに寝てくれる。赤ちゃんの頃から自己主張の強かったお橙ちゃんとは大違い。子供の個性って、生まれたときからあるものなのね。
きな臭さが漂っていた伏見と比べると、今の江戸は本当に平和そのものだ。悩みの種だった茶阿局様との仲も、お橘ちゃんが生まれた前後からかなり改善している。小督局様が江戸城からいなくなったことも大きかったのかも。今では、茶阿局様から悩み事の相談を受けることもあるぐらいだ。
そして今も本丸・奥御殿の私の部屋で、茶阿局様のお悩み相談中。
「それで私が何度文を送っても、兄が治部少輔様のもとを離れてくれぬのです」
茶阿様のお悩みは、実のお兄さんの山田上野介さん。彼は、石田三成さんに重臣の一人として仕えている。茶阿局様は、お兄さんに石田さんの下を離れて徳川家に来るように頼んでいるのだが、山田さんはそれに応えてくれていないのだ。
「まあ、殿方にとって主君を変えるということは大変なことですから」
「兄は思い違いをしておるのです。治部少輔様に重用されておるのは、己が才覚ゆえと。そんなことはございませぬよ。兄は生真面目さだけが取り柄の凡人です。治部少輔様が重用し、娘の寅姫を嫁がせてくれたのは、ただただ私がお屋形様の側室となり、お子を産んだ、その事実があるからに過ぎませぬ」
まあ、そういうものなのかもしれない。石田さんは、凄くしたたかだからなあ。
「なるほど、そうかもしれませんね。しかし、茶阿局様の御苦労も絶えませんね」
私は、とりあえず相づちをうった。まあ、このことに関して私にできるのは茶阿局様の愚痴を聞くことぐらいだ。私がうんうんと頷いていた時だ。私の筆頭侍女のお梅さんが私に話しかけてくれる。
「お柚の方様。お梶の方様がいらしておられます」
「えっ? 特にお約束は無かったと思うけど。茶阿局様、お梶の方様をここにお呼びしてよろしいでしょうか」
「勿論、構いませんよ」
私は、お梅さんにお梶の方様をお招きするように頼んだ。すぐに、彼女は元気よく部屋の中に入ってきた。
「お柚、突然じゃが、急ぎの報せがある。おお、お茶阿様もおられたのか。これは都合が良い。今、大坂から使いが来たのじゃがな、ついに戦になるぞ」
えっ? 戦? 関ケ原の戦いは来年のはずなんだけど……。
「お梶様。いったい、どなたとの戦になるのでしょうか?」
「加賀の前田様じゃ」
えっ? 加賀の前田って、前田利長さんのことだよね。お父さんの利家さんの後を継いで、豊臣家の五大老の一角を務めている。確か、先月に奥さんの永姫さんと一緒に、大坂から加賀国に戻ったと聞いていたけど。
「なぜ、前田様と戦になるのですか?」
「詳しいことは聞いておらぬ。じゃが、前田様が御謀反しようとしておると分かったようじゃぞ」
ええ? 利長さんが謀反って、なんでそんなことをしようとしたのか、想像もつかない。
「お屋形様も自らご出陣されるおつもりらしい。そうであらば、私も陣中に付いていかねばならぬからな。早く大坂のお屋形様の下に行かなくてはならぬぞ」
ああ、そうか。以前、お梶の方様は、家康と一緒に戦場に行くつもりだと言っていたよね。お梶様の目はキラキラと輝いている。……ん? でも、今、大坂って言った?
「お梶様、今、お屋形様は大坂にいらっしゃるのですか?」
「えっ? ああ、お柚は聞いておらなんだのか。先月より、お屋形様は大坂に移っておられるぞ。今は治部少輔様の大坂屋敷におるとのことじゃ」
「ええっ? 石田様のお屋敷にですか?」
なんで、よりにもよって石田三成さんのお屋敷に家康がいるのよ!?
「ああ、なんでも、佐和山の治部少輔様から、屋敷を自由に使うてよいと言われたらしい。どうやら、お茶阿様の兄上の上野介様が仲介をされたらしいぞ。お茶阿様、そうでございますよね?」
「私も今、初めて聞くぞ。お梶は、誰から聞いたのじゃ?」
「伏見のお阿茶様からです」
ふーん。なんか、色々と不思議なことが起きてるんだ……。あっ、でも、感心してる場合じゃない。利長さんの謀反について聞かなくちゃ。
「お梶様。それよりも前田様の御謀反について、もう少し教えていただけますか?」
「私も詳しくは聞いておらぬと言うたじゃろう。若様なら、もう少しばかり詳しいことをお屋形様から聞いておるのではないか?」
ああ、そうか。じゃあ、後で秀忠くんに詳しい話を聞くとしよう。
うーん、それにしても、江戸は平和だなあと思っていたけど、またきな臭くなってきたなあ。まあ、来年の関ケ原の戦いに向けて、これから色々なことが起きるのかもしれない。ああ、もっと真面目に歴史を勉強しておけば、次に何が起きるか分かったのに……。
◇ ◇ ◇ ◇
その日の晩。御寝所で、私が秀忠くんを待っていると、秀忠くんは難しい顔をして部屋に入ってきた。
「秀忠様、お疲れさまでした。お肩をお揉み致しましょうか?」
「ああ、小姫殿、かたじけない」
私は秀忠くんの肩を丁寧に揉みほぐしてあげる。
「秀忠様、随分とお疲れでございますね」
「ああ、肥前守殿のことがなかなか難しいことになってな」
肥前守とは、前田利長さんのこと。以前は越中少将と呼ばれていたけど、前田家の家督をついでからは肥前守殿と呼ばれている。
「お梶様から、前田家と戦になるかもしれぬと聞きました」
「おお、小姫殿も知っておったか。大坂の父上より、江戸でも戦の支度をするようにと言われてておる。肥前守殿の返答いかんでは、すぐさま加賀を攻めるのも辞さぬとのことじゃ」
秀忠君は眉間にしわを寄せたまま、そう教えてくれた。うーん、前田家と戦争になるのは嫌だなあ。お松の方様や永姫様とはずっと仲良くしてもらっていたのに。
「はあ、そうでございますか。それは残念です」
「ああ、残念なことじゃな。ワシも肥前守殿には、良くしてもらっておったからのう。まあ、しかし、戦とならば情けは禁物じゃ。軍を率いるワシの腰が引けておっては、兵の士気が下がってしまうからな」
ああ、そうか。秀忠くんも出陣することになるんだ。それじゃあ、これが秀忠くんにとって初陣になるのか。
「秀忠様、戦場では怪我など無きようお体にお気を付けてください」
「ん? ああ、小姫殿は気が早いな。まだ戦となるのはしばらく先じゃろう。それに、これはワシにとって良い機会でもある。ワシは、武功では兄上に見劣りしておるからな。徳川家を継ぐものとして、恥ずかしくない功名は必要であろう」
秀忠くんは難しい顔をしたままそう言った。せっかく揉みほぐしてあげたのに、肩にまた力が入ってしまっている。私はもう一度秀忠くんの肩をほぐしてあげる。
「秀忠様。焦ってはいけませんよ。『急いては事を仕損じる』とも申しますし、お屋形様も日頃から辛抱が肝要ともおっしゃっておられますよ」
そう、本番の関ケ原の戦いは来年なのだ。ここで焦ってもいいことはないだろう。
「ほう、小姫殿もずいぶんと父上の薫陶を受けてきたようじゃな。まあ、確かに焦りは禁物じゃな。それは心得ておくぞ。はははは」
秀忠くんは明るく笑いながら、私の方を振り向いてくれる。私も秀忠くんに優しく微笑み返す。そして、二人はお互いの体をしっかりと抱きしめ合ったのでした。
◇ ◇ ◇ ◇
それから三か月が経過した。江戸では着々と戦の支度は整えられていった。大坂でも、家康は石田さんのお屋敷から大坂城の西の丸に移っており、伏見からも配下の軍勢を呼び寄せているとのことだ。どうも前田さんの方でも、金沢城に兵を集めているらしい。
その一方で、前田家は家老を大坂に派遣していて、戦を避けるために必死の交渉も続けているらしい。前田さんとは戦争になって欲しくないから、和平で話がまとまってくれるといいな。
でも、そんな希望的観測を言ってばかりでも仕方ない。私は、今日も多くの大名家の殿様や奥方様宛に御機嫌伺いの手紙を書いている。こういう風に手紙をやり取りしていると仲良くもなれるし、自然と情報も集まってくる。
そう言えば、先日、佐和山で蟄居中の石田三成さんの奥様からもお手紙をいただいた。石田さんは、早々に息子さんに家督を譲るつもりで、その後は仏門に入る予定だとのこと。
まあ、石田さんにそんなつもりがないことはよく分かっているのだけど、手紙の返信では「石田様のように優秀な方を失うのは、豊臣家にとって大きな損失でございます。何かお困りのことがありましたら、なんなりとご相談ください」と書いておいた。
「ふぅー。よし、これで終了と。民部、この手紙を大坂の細川様の若奥様に届けるよう手配してくれる」
私は、筆頭侍女の民部卿局ことお梅さんにそう依頼する。そのときだ。廊下に足音がしたと思ったら、ガラリと襖が開いた。入ってきたのは秀忠くんだ。
「小姫殿。突然で悪いが、今、よろしいかな」
「はい。勿論です」
昼に私の部屋に秀忠くんが来るなんて珍しい。なにかあったのだろうか?
「今、大坂の父上から報せが届いてな。前田家と和睦が成立したとのことじゃ」
「えっ? そうなのですか!」
おお、それはグッドニュースだ!
「ああ、肥前守が『豊臣家にも徳川にも弓を引くつもりはない、此度の騒動が起きたことには自身の不徳の致す所』と謝りの書状を送ってまいられた。そして、その証として、お母上の芳春院様とお永の方様のお二人を江戸に住まわせるとのこととなったぞ」
えっ? 芳春院って、お松の方様のことだよね。それに永姫様も江戸に来るの!? それって人質ということだよね。
「そうなのですか。お二人はどちらにお住まいになられるのですか?」
「前田家が江戸に屋敷を建て、そこに住むことになる。まだ場所は決まっておらぬが、この江戸城の一角を前田家にお貸しすることになろう」
「そうなのですね。お二人には仲ようしていただいておりますので、楽しみでございます」
「ああ、そうじゃったな。まあ、それでじゃな、二人が江戸に来るにあたって、一つ条件を付けられておるのじゃ」
秀忠くんの顔が少し曇った。一体どんな条件をなのだろう?
「条件でございますか?」
「ああ、なんというかじゃな。小姫殿には、面白うない話かもしれぬのじゃがな……」
ん? 私に面白くない話? どういう意味なのかな? 私はじっと秀忠くんの顔を見つめた。
「実はな、お橘ちゃんのことなのじゃ」
「えっ? お橘ちゃんですか? お橘ちゃんは、今もお利口さんにお昼寝をしておりますけど」
「おお、そうか。それはよいことじゃな。まあ、それでなのじゃがな。なんと申すかじゃな」
秀忠くんの言葉の歯切れがものすごく悪い。どうしたんだろう、秀忠くんらしくないなあ。
「うむ、まあ、一言で言うとじゃな。芳春院様とお永の方様のお二人を江戸で引き取る見返りに、お橘ちゃんを加賀に嫁に出すことに決まったのじゃ」
「えっ? お橘ちゃんを加賀に? ……、えーーーーっ!」
私は思わず大きな声を出してしまった。まだお橘ちゃんは、生後二か月なんだけど。そんなことはあり得ない。
「いや、小姫殿が憤るその気持ちはよくわかる。ワシも初めて聞いたときは憤慨したぞ」
「当然でございます。お橘ちゃんは、まだ生まれて二月のやや子でございます。そんな幼き子を質として他国に送るなぞ聞いたことがありません!」
私は秀忠君の方に身を乗り出しながらそう言った。そんな無茶苦茶な話は受けるわけにはいかない。
「いや、も、勿論、今、すぐにというわけではないぞ」
「えっ? 今、すぐではない……。ああ、そうだったのですか。それは失礼を致しました」
まあ、よく考えればそうか。私も七歳で秀忠くんと祝言を上げたけど、お輿入れをしたのは十一歳の時だった。なるほど、そう考えれば、お橘ちゃんの嫁ぎ先として前田家であれば悪くないかも。あれっ? でも、利長さんと永姫様との間は女の子の養女しかいなかったような……。
「あの、秀忠様。それでお橘ちゃんは、前田家のどなたのところに嫁ぐことになるのですか」
「肥前守殿の弟の猿千代君じゃ。猿千代君が肥前守殿の養子となり、前田家を後々継ぐことになったのじゃ」
ああ、またややこしいことを。永姫様はすごく怒っているんじゃないかな。お世継ぎは、ご自分で産まれたいだろうから。まあ、でも、これは決まっちゃったことなんだよね。
「そうでございますか。後々、前田家をお継ぎされる方に嫁ぐのであれば、お橘ちゃんにとっても悪い話ではございませんね」
「おお、小姫殿も分かってくれたか。それで、加賀への輿入れの時期なのじゃがな。前田家からはできるだけ早い方がよい。遅くとも再来年までにはと言われ、父上もそれを受けたのじゃ」
「……へっ? 秀忠様、今、再来年とおっしゃいましたか?」
私は思わず秀忠くんの顔をじっと見る。お橘ちゃんは生後二か月。再来年でも数えで三歳。お輿入れなんて無理に決まっている!
「ああ、もう父上がそう決めてしまわれたのじゃ」
「お屋形様が決めたではございません! 再来年でもまだお橘ちゃんはまだ三つ。親離れができる年ではございません! そんな幼き子がお輿入れなぞ有り得る話ではないではないですか!」
自分の声がどんどん大きくなっていくのが分かる。秀忠くんは、すまなそうな顔つきとなった。
「そ、それはじゃな、前田家でも、お橘ちゃんを慈しみ、我が子同然に育てると言うておる」
「我が子同然に育てると言っても、お松の方様も永姫様も江戸に来られるのでしょう。一体、どなたが加賀でお橘ちゃんを育てるというのですか!」
「それは、まだ聞いておらん。いずれにせよ少し先の話じゃから」
「先の話ではございません。再来年などすぐではありませんか!」
「い、いや……」
こんな風に秀忠くんと夫婦喧嘩をしたのは、初めてのことだ。でも、こんなことを聞いて、「はい、そうですか」と納得できるわけがない。でも、秀忠くんはなかなか折れてくれなかった。
「まあ、小姫殿の気持ちはよう分かる。じゃがな、これは前田との戦を避けるために止むを得ぬことなのじゃ」
「しかし、そうは言いましても――」
「先ほども申した通りお輿入れは再来年じゃ。その折にお橘ちゃんが余りに幼きようであれば、先送りとすることもできるであろう。まず今、何よりも大切なのは和睦を成立させることじゃ。ここで我らが受けぬとあらば、せっかくまとまった和睦が水の泡と消える。小姫殿。ここは折れてくれぬか」
「……」
私だって、徳川家と前田家の間で戦争は起きてほしくない。でも、そのために生まれたばかりのお橘ちゃんが犠牲になるなんて……。
私は、その晩、戦国時代の非情さを改めて知り、枕を濡らしていたのでした。
本作をお読みいただき有難うございます。また、本作をブクマ・ご評価いただいた方には改めて御礼申し上げます。私の執筆の励みとなっております。
さて、次話第40話は、三日後の3月12日(金)21:00頃の掲載を予定しております。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。




