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第38話:江戸城はとてもややこしい

 慶長四年(1599年)皐月(旧暦五月)。私たちは長旅の末、江戸城に到着した。西の丸御殿で秀忠くんと久しぶりに対面し、しばしの間、家族団らんのひと時を楽しむ。でも、余りのんびりとばかりしていられない。私には大切なお仕事が残されている。


 侍女のお梅さんに手伝ってもらい化粧を整え着替えを済ませると、私は本丸御殿に向かった。本丸御殿は、天守閣の傍にあるこの城で一番大きな建物だ。ここは家康が江戸にいる時に住むお屋敷で、彼の側室やまだ元服していない息子や輿入れしていない姫君たちもここで暮らしている。ここに住む人たちにご挨拶をしなくてはいけないのだ。


 一番初めにご挨拶に伺ったのは、大姥局(おおうばのつぼね)様。私が伏見でお輿入れしたときに、待上臈(まちじょうろう)を務めてくれた方だ。あのお輿入れの夜、私は式三献のお神酒のせいでヘロヘロによっぱらってしまったっけ。今度は粗相のないようにしなくては。


「大姥局様、大変ご無沙汰を致しております。これから江戸でお世話になります。何卒よろしくお付き合いの程、お願い申し上げます」

「お柚の方様。長旅、お疲れでございました。お腹のやや子の調子はいかがでございますか?」

「はい、今も元気に私のお腹を蹴っております」

「おお、そうでございますか。お柚の方様には、元気なお後継を産んでもらわねばなりませぬからな。宜しゅうお頼み申しあげますぞ」


 えっ? いや、まだ、お腹の子が男の子と決まったわけじゃないんだけど。まあ、でも反論しても仕方ないか。大姥局様には気に入られなくちゃいけないからね。


「わかりました。できる限りのことを努めてまいります。こちらはつまらないものですが、お収めください」 


 私は、お土産の西陣織の反物を差し出すと、しおらしく頭を下げたのだった。


 次に伺ったのは、小督局(おごうのつぼね)様。秀忠くんのお兄さんである結城秀康さんを産んだ方だ。お年は五十歳で、家康の側室の中では最年長にあたる。彼女と顔を合わせるのは、実はこれが初めて。ちょっと気難しい人だとの噂を聞いているので、緊張してしまう。


「小督局様。お初にお目にかかります。お柚と申します。よろしくお付き合いの程、何卒お願い申し上げます」

「ふん、そうか」


 小督局様は不機嫌そうな様子で、私と目を合わせようともしない。私のことを嫌っているかのようだ。その後、私が何度話しかけても、そっけない言葉しか返ってこない。嫌われるようなことをした覚えはないんだけどな……。


 私はお土産を渡すと、早々に小督局様のお部屋から退散した。部屋を出ると、私に付き添ってくれていたお梅さんと顔を見合わせた。


「私、何かおかしなことを小督局様に言ってしまった?」

「いえ、お柚の方様がお部屋に入られたときから、小督局様のお機嫌がよろしくないようにお見受けいたしました。たまたま虫の居所がよろしくない日だったのかもしれませぬ」


 まあ、そういうことだったらいいけどな。小督局様とは同じ徳川家の人間だから、仲良くやっていきたいんだよなあ。


 そして、私が次に訪れたのは、茶阿局(ちゃあのつぼね)様のお部屋。お名前が阿茶局様とまぎらわしい。彼女は、秀忠くんの弟、辰千代くんのお母さんで、家康の側室の中ではとびっきりに変わった経歴の持ち主だ。


 茶阿局様は、昔は遠江国の鋳物師さんの奥さんだったのだけど、彼女に横恋慕した悪代官に旦那さんが殺されてしまった。茶阿局様は旦那さんの仇を討ってもらうべく、鷹狩りをしていた家康の前に飛び出して直訴をした。茶阿局様の勇気と美貌に心を惹かれた家康は、そのまま彼女を側室の一人として浜松のお城に連れて帰ったのだ。


 うん、マンガみたいなお話だよね。茶阿局様は行動力あふれる人で、今は江戸城・本丸御殿の大奥で、まとめ役のような立場を担っている人なのだ。この人も敵に回しちゃいけない人だよね。私は気を引き締めて、茶阿局様のお部屋に入る。


「茶阿局様。お初にお目にかかります。お柚と申します。よろしくお付き合いの程、何卒お願い申し上げます」


 私は丁寧に頭を下げた。嫌われないように、丁寧に丁寧に。


「ほう、そなたがお柚か。長旅、大儀であったな。江戸は何もない田舎でさぞ驚いたであろう。もう伏見へ帰りたいのではないか」

「えっ? いえ、そのようなことはございません。住めば都で花が咲くとも申しますし、予てより秀忠様から江戸はこれから素晴らしき町になるとも伺っております。江戸に住めて大変嬉しく思っています」


 うん、まあ、これは本音でもある。想像していたのよりも田舎だったことには、ちょっとびっくりしちゃったけれど。


「ほう、なるほど。噂通りに口は達者なようじゃな」


 茶阿局様はトゲのある口調でそう言うと、私に冷たい視線を送って来る。あれ? なんか反応がよくないんだけど……。


「い、いえ、私は思ったことを申したまででございまして……」

「まあ、よい。長旅で疲れておるのじゃろう。これ以上、私のところに長居は無用じゃ」

「えっ、あっ、はい。それではこれにて失礼を致します。こちらはつまらないものでございますが……」


 お土産を渡したのだが、茶阿局様は憮然とした表情のままだ。なんで、こんなに冷たい対応なんだろう。


 私はすごすごと茶阿局様の部屋を出た。その後は他の側室様だったり、秀忠くんの妹の若姫君さんたちにもご挨拶をする。そして、最後に訪れたのは――


「お梶様、聞いてください。今しがた、あいさつ回りに行ってきたのですが、小督局様と茶阿局様に嫌われてしまったようなのです」

「ほう。お二人には丁重にご挨拶をしたのか?」

「ええ、勿論でございます。でも、お二方とも私が部屋に入ったときから、冷たい感じでございまして」


 私はお梶の方様に先ほどの出来事について話した。


「まあ、色々と江戸では話が回っているようであるからな」


 お梶の方様は眉を少しひそめながらそう言った。


「えっ? 色々と言いますと?」

「前から少し耳にしておったのじゃが、どうも江戸では若様の評判がよろしくないのじゃよ。そして、その原因がお柚、そなたにあると言われているのじゃ」


 えええええーっ!? 秀忠くんの評判がよくないってどういうこと!?


「まず、この本丸のお屋敷なのじゃがな、ここを近々、若様に明け渡すことになっておるのじゃ」

「えっ? そうなのですか?」

「そうじゃ。聞いておらなんだのか? じゃから、お屋形様が江戸に来られる時には、西の丸のお屋敷に御滞在されることとなる。こちらにおられる側室の方々も、そのうち西の丸にお引越しなのじゃ」


 ああ、なるほど。それで小督局様と茶阿局様は不機嫌だったのか。秀忠くんに本丸御殿を立ち退かされたみたいな形だものね、


 まあ、家康は、秀吉が死んでからはずっと伏見にいて、向こうが本拠地みたいになっているので、江戸は秀忠くんを主としようということなのだろう。いかにも、合理的な家康らしい考えだ。でも、お引越しは私が決めたことじゃないのだから、私のせいにされても困ってしまう。


「そうですか。今、初めて聞きました。でも、お引越しは、お屋形様がお決めになられたことでしょうから……」

「まあ、それだけではない。江戸では、若様は『腑抜(ふぬ)け』と陰で呼ばれておるらしい」

「へっ? 『腑抜け』でございますか? 秀忠様は、凛々しくて優しくて賢くて、それは素晴らしき方ですよ!」


 お梶の方様の言っていることの意味がわからない。伏見の徳川屋敷では、秀忠くんはさすが家康の後継者だと家中の方からよく言われている。大名の皆様の間でもすこぶる評判がいいはずだ。『腑抜け』なんて言葉は、秀忠くんにはまったく似つかわしくない!


「私も若様はご立派な方じゃとは、よう知っておる。じゃがな、どうしてもお兄上の結城宰相様と比べられてしまうのじゃ」

「へ? 結城宰相様とですか?」


 結城宰相とは、秀忠くんの五歳年上のお兄さんである結城秀康さん。十一歳の時に秀吉へ養子に出された人だ。その後、家康が関八州を拝領したタイミングで、関東の名門一族である結城家の婿養子となっている。


 秀康さんは、秀吉が九州に攻め込んだ時には徳川家を代表して軍勢を率いており、そこで数々の武功を上げている。小田原征伐のときにも家康と一緒に従軍しているし、朝鮮出兵にも参加している。一度も戦さに出ていない秀忠くんと違って、華々しい軍歴を掲げている人なのだ。


 でも、私にとっては、少し苦手なタイプの人だ。秀康さんは基本的に無口な人で、必要なこと以外はまったく口にしない。私もこれまで何度もお会いしているけど、一言二言ぐらいしか言葉を交わしていない。それに、基本的に女性を見下しているような態度を隠さない人だし、目下の人への当たりもかなりキツい。人当たりが柔らかい秀忠くんとは大違いだ。


「ああ、そうじゃ。男らしい結城宰相様と違い、若様は女々しいと言われておる。それもこれも、豊臣から来た姫に精も魂も吸い取られておるからじゃと」

「ええっ?」


 秀忠くんが女々しいと言われているのは私のせいなの? でも、全然心当たりが無いし、そもそも秀忠くんが『腑抜け』とか『女々しい』とか言われていることにも納得がいかない。


「お梶様、なぜそのような悪口が江戸では広まっているのですか? 誰が、そんなおかしなことを言いふらしているのです?」

「誰かが言いふらしているわけではない。おそらくは、若様が側室を持たぬことが大きいのであろうな。すっかり豊臣の姫の尻に敷かれておると。まあ、譜代の家臣や関八州の武家の方々からも、そっちのほうでは評判はよろしゅうない。我らとのつながりを一切断わっておる。関東から嫁を貰い、娘たちを側に置いてくださっている結城宰相様とはえらい違いじゃとな」


 ええっ? 秀忠くんに側室がいないことが原因だったの? いや、確かに、秀忠くんに側室がいないのはこの時代の大名さんとしてはかなり珍しいことだとは思っていたけど……。


「ああ、つまらぬことを聞かせてしもうたな。まあ、お柚の気持ちも分かるが、もう少し若様のお立場も考えてあげた方がよいと思うのじゃよ」


 うーん、でも、別に私は秀忠くんに「側室を持ってはダメだ」なんて、一度も言ったことはない。勿論、私一人だけを愛してくれるのはものすごく嬉しいし、幸せなことだと思っているけど……。


 私はもやもやした気分を残したまま、お梶の方様の部屋を出たのでした。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 江戸に着いてから三日が経った。お橙ちゃんが、やっとお昼寝をしてくれたので、私はのんびりと伊勢物語を読んでいた。京からの東下りの部分を読んでいると、まるでこのお話の主人公が私と一緒に旅をしていたかのような錯覚すら覚える。


 でも、この伊勢物語の主人公さん、次から次へと色んな女の人と恋愛してるよね。男の人ってやっぱりこういうものなんだろうか。秀忠くんも、実は側室を大勢はべらせたいのかな……。


 そんなことを思い悩んでいたときだ。


「小姫殿。どうしたのじゃ、浮かぬ顔をして」


 秀忠くんが私の部屋に来て声を掛けてくれた。


「ああ、秀忠様。今、考えごとをしておりました」

「そうか、体の調子はどうじゃ。屋敷の中にこもってばかりおると、体に良くないと申すぞ。どうじゃ、そのあたりを一緒に歩いてみぬか」


 秀忠くんに誘われて、二人で二の丸屋敷を出た。なんだかデートでみたいで胸がときめく。少し歩いた先には、大きな三層構造の櫓があった。


「小姫殿。その櫓に上ってみるか?」

「はい」


 櫓の三階部分まで階段で上る。ここの周囲にはベランダのようなものが取り付けられていた。秀忠くんに手を握られながら、ベランダに出た。


「ああ、よい眺めですね。今日はお天気も良くて、気分も爽快です」


 目の前に広がっているのは、日比谷入り江。今日も多くの漁船が漁をしている。入り江の向こう岸には、多くの家が立ち並んでいる。


「秀忠様、あの向こう岸には何があるのですか?」

「ああ、あの辺りは前島じゃ。あそこには(いち)が立っておってな、普段から人が大勢行き来しておる」

「へえ、前島ですか」


 ふーん、じゃあ、あの辺りが、この時代の東京の中心地なのかな。ふーん。まあ、こうして江戸の町を一望してみると、京都や大坂と比べると立派な建物の数が少ないのがよく分かる。でも、いたる所で工事が行われている。

 

「小姫殿、ワシはこの入り江を全て埋めて、陸にしようと思うておるのじゃ」

「えっ、この広い日比谷の入り江をですか?」


 ええ、かなり広いように見えるんだけど、そんなことができちゃうんだ。


「ああ、そうじゃ。そこに家臣の屋敷を並べようと思っておる。それには、まず平川の流れを変えぬとな」

「ええっ、川の流れを変えるのですか?」

「ああ、そうじゃ。平川ぐらいで驚いてもらっては困るぞ。この江戸の東には、坂東太郎という大河が流れておる。ゆくゆくは、これの流れも変えようと思うておる」


 坂東太郎? ああ、それって利根川のことだよね。小学校の社会科でやったよ。でも、利根川って日本で二番目に長い川だよね。その流れも変えちゃうんだ。すごい、ダイナミックな話だなあ。


 秀忠くんの顔を覗き見ると、目がキラキラと輝いていた。大きな仕事に取り組んでいる人の情熱を強く感じる。そうだよね。やっぱり秀忠くんには、大きな仕事が良く似合う。うん、だから、障害は取り除かなくては。


「秀忠様、一つ、お話がございます」

「小姫殿。改まってどうしたのじゃ?」

「はい、側室のことでございます」

「ん、側室とな? じゃが、ワシには側室なぞはおらぬぞ」


 秀忠くんは大きく目を見開いて私の顔をじっと見ている。


「はい、もし秀忠様が側室をお持ちになりたいのであれば、私にお気遣いいただかなくてもよろしゅうございます。いえ、むしろ、関八州の武将の方々や他の大名家、家臣たちからも側に仕える女子をお集めください」


 私はきっぱりとそう言った。うん、はっきり言ってイヤな話であるのだけど、でもワガママは言えないよね。私のせいで秀忠くんが悪く言われるのは耐えられないから。


「はははは、どうしたのじゃ。小姫殿、突然にそのようなことを」

「いえ、思う所がございまして……」

「小姫殿、外をもう一度ご覧あれ。今日は、雲一つない空であろう」


 確かに、今日は五月晴れ。きれいな青空が広がっている。


「この空は小姫殿の御心のようではござらぬか。ワシはな、この美しく澄んだ青空に無粋な雲をかけるようなことはしとうないぞ」


 秀忠くんはやさしく微笑みながら、私の顔をまっすぐに見つめてくれている。


「でも、でも……」


 何かを言わなければいけないのに、気持ちが昂ってしまって言葉が出てこない。世の中には私の気持ちよりも大切なものはいっぱいあるのに。で


「小姫殿。今はお腹のやや子のことを考えてまず第一に考えるのじゃ。色々なことをそなたに言うものがおるかもしれぬが、つまらぬことは気にしなくてよいぞ」


 秀忠くんはそう言うと、私のことを優しく抱きしめてくれた。そのお気持ちはとても嬉しいです。でも、あなたはこの時代を正しい方向に導いてくれる大切な人なのだから……。


「小姫殿、そなたはワシのことをもっと頼ってくれてもよいのじゃ。おのれの妻子を守れずして、この関八州の広大な土地が治められるはずもない。そうは思わぬか? ワシはな、何があってもそなたと子供たちを守るぞ。じゃから、安堵いたせ」

「秀忠様。有難うございます……」


 私はそれ以上何も言えなかった。でも、この優しく素晴らしい人を絶対に支えるのだと、改めて心に強く誓ったのだった。


本作をお読みいただき有難うございます。主人公の江戸城での暮らしが始まりましたが、色々と前途多難なようです。


作中に出てくる江戸前島は、現在で言えば日本橋から銀座の辺りとなります。この辺りは昔から陸地だったようです。その西側の日比谷入り江は、現在の、日本のビジネスの中心地、大手町、丸の内、有楽町、日比谷辺りとなります。ここが昔は海だったと言われてもなかなかピンときませんよね。 


さて、次話第39話は三日後の3月9日(火)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。

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