第37話:お江戸への道
慶長四年(1599年)卯月(旧暦四月)、初夏の日差しの中、私たち一行は伏見の徳川屋敷を出発した。まずは醍醐を通って山科へ。そこから細い峠道を通って近江の国に入る。宏大な琵琶湖の水面を左手に望みながら、私たちは鈴鹿の山の方へと進んでいく。
鈴鹿峠を越えるとお梅さんの生まれ故郷の伊勢の国。私の母上、雪姫様の生まれ育った土地でもある。実は生まれ変わる前の小姫も伊勢の国の長島という土地で生まれたらしい。でも、すぐに尾張の国の清州に引越したみたいだけど。
伊勢の国の桑名から尾張の国の熱田までは船で移動。風が強かったせいか、船がかなり揺れて怖かった。ちょっと船酔いもしてしまう。同行しているお梶の方様も、いつもの威勢のよさはどこへやら、青い顔で膝を抱えて座っている。でも、お橙ちゃんは船が揺れる度にキャッキャッと歓声を上げていて、船の上を嬉しそうに飛び跳ねていた。ああ、子供は元気だなあ。うぷっ……。
熱田に着くと、すぐ近くの熱田神宮でご参拝。桶狭間の戦いの直前には、織田信長はここで戦勝を祈願したらしい。私も本殿に上ると、そこでしっかりと両手を合わせて神様にお参りする。神様、どうか来年の関ケ原の戦いで、東軍を勝たせてください。それに、秀忠くんが怪我などしませんように。
尾張の国から西に進むと三河の国。ここからしばらくは徳川家の旧領となる。随行する土井さんや本多さん、足軽の皆さんたちもこの土地には知り合いが多いみたい。この地の宿での夜の宴会は、やたらと盛り上がっていた。
次の遠江の国に入ってしばらくすると、前方に大きな山が見えてきた。おお、ひょっとしてあれが……。見晴らしの良い丘の上で私は駕籠を降りると、すぐに東の方角を見た。
「ああ、すごくきれい」
「おお、そうじゃ。あれが富士のお山じゃ。お柚は富士のお山を見るのは初めてか?」
背伸びをしていたお梶の方様が、私に優しい口調で訊ねてくれる。
「はい、初めてです。本当にきれいなお山ですね」
生まれ変わる前はテレビで富士山の映像はたまに見ていたけど、自分の肉眼で見るのはこれが初めてだ。雄大にそびえたつ富士山の稜線は本当に美しかった。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか 鹿の子まだらに雪のふるらむ
これは、今、読みかけの『伊勢物語』に出てくる富士山の歌。この歌で詠まれている通り、まるで鹿の子模様のまだらのように、富士山には白い雪が降り積もっていた。
富士山は、駿河の国に入るとさらに大きくなった。うん、ずっと見ていても飽きが来ないね。私は駕籠の小窓を開けて、富士山をじっと眺め続けていた。
駿府では、龍泉寺というお寺でお墓参り。ここには、秀忠くんの生母、西郷局様のお墓があるのだ。私は、お橙ちゃんと一緒に手を合わせる。南無南無、お義母様、お橙ちゃんとお腹の赤ちゃんをお守りください。
富士山を左手に見ながら、一行はさらに東へ進む。伊豆の国に入ると、すぐに急峻な山道となった。これが箱根の山。駕籠を持つ仲間さんたちも、はあはあと息を切らしている。山道を登り終えると、そこには芦ノ湖と言うきれいな湖があった。もうここは相模国。つまり、徳川家の領地なのだ。ふぅ、ここまで来れば一安心だよね。
相模の国を北東に進んでいく。生前の私のお父さんは、お正月には箱根駅伝をテレビで見るのが大好きで、私も毎年一緒に見ていた。小田原、平塚、戸塚。一行は、テレビでアナウンサーが連呼していた懐かしい地名を通っていく。
戸塚からしばらく進むと、武蔵の国に入る。ここから江戸までは、残りわずか八里。もう目と鼻の先だ。国境を過ぎた権太坂という坂を下ると街道を右に曲がる。そして、海の近くの蒔田のお城でこの旅の最後の一泊をする。
蒔田のお城は小高い丘の上。今、私の目の前に広がっている遠浅の海は、きっと東京湾だよね。ひょっとして、ここは現代で言えば横浜に当たる場所なのかな。今は潮の匂いがするただの田舎だけど。
「ママちゃま、おだい、ちゅかれたあ。ふちみにかえりたい!」
お橙ちゃんは、へそを曲げてしまっている。まあ、まだ数えで三つ、満年齢では一歳九か月なのに、二十日間の長旅路に耐えてきたのだ。褒めてあげなくてはいけないだろう。
「お橙ちゃん、今までいい子で頑張りましたね。明日には江戸に着きますよ。もうすぐですからね」
「いやなの。おだいは、えどじゃなくて、ふちみがいいの!」
お橙ちゃんはすっかりご機嫌ななめの様子だ。私が困っていると、乳母さんの刑部卿局さんが助け舟を出してくれる。
「お橙姫様、あちらに甘いみたらし団子がご用意されておりますよ。どうされますか?」
「ん? みたらち? たべる! たべる!」
相変わらず甘いものには簡単につられてしまうようだ。さすが我が子だ。ふぅーっ。私は、ほっと息をついた。
「お柚の方様、お体はいかがでございますか?」
民部卿局ことお梅さんが私に声を掛けてくれる。
「民部、ありがとう。私もお腹のやや子も元気いっぱいよ。民部こそ、疲れてはいない?」
「ええ、私は少しだけ腰が痛いぐらいで、御心配には及びませぬ」
「えっ? 腰が痛いの? 無理をしちゃダメよ。江戸に着いたらお灸をしてもらった方がいいんじゃない?」
「お灸でございますか? いえいえ、それは結構でございます」
お梅さんは眉をひそめている。ふふふっ、お灸って生まれ変わる前はやったことがなかったけど、やってみると体のこりがほぐれて気持ちいいんだよ。まあ、少し熱さは感じるけどね。
「はあ、それにしても長旅だったわね」
「ええ、そうでございます。しかし、もうすぐ江戸だというのに、こんなに鄙びたところで……」
お梅さんは眉をひそめたまま、そう言った。まあ、確かにここ蒔田はすごい田舎かもしれないけど、江戸は大丈夫よ。現代では、世界屈指の大都会だったし、花の都とも呼ばれていた。きっと、この時代も活気に満ち溢れた都会だと思う。
「きっと、江戸は違っているわよ。ああ、明日が楽しみ。それに江戸城では秀忠様が待っていらっしゃるから」
私は、まだ見ぬ東京と愛しの旦那さまとの再会を夢見て、うっとりとしてしまったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
次の日。蒔田城を明け方に発つと、江戸に向かって北東の方角へ一行は進む。途中で超えた大きな川は、多摩川。うん、確かこの川を越えたら東京都だよね。
でも、駕籠の小窓から覗いてみても、外は田んぼや畑、それに雑木林が連なっているだけ。うーん、この時代は東京都内でも田舎なのね。でも、進めど進めど、活気にあふれた風にはならない。途中の品川湊という港町が少しだけ人がいたぐらい。
「お方様、こちらが増上寺でございます。徳川家の菩提寺の一つにて、ご住職にご挨拶をお願いいたします」
同行している土井利勝さんにそう言われ、私は駕籠から降りる。真新しい立派な造りの大門が目の前にそびえたっている。
「ずいぶん、立派なお寺なのですね」
「はい。昨年こちらに移築なされた際に、当家がいささかお助けを致しました」
へえ、そうなんだ。まあ、徳川家の菩提寺なんだから、あまり貧相じゃいけないものね。じゃ、ちゃちゃっと挨拶を済ませて、江戸城の秀忠くんのところに行くとしましょうか。
歩き出した所でふと独特の匂いて気づく。えっ、何か磯の匂いがすごくない?
「あの、土井様。ここは海の近くなのですか?」
「はい、すぐ先に日比谷という入り江がございます。江戸のお城もその入り江に沿って作られておりまする」
ひびや? なんか聞いたことあるような地名だけど、それって海の近くだったっけ? それに江戸城って、確か現代では皇居がある場所だよね。入り江に沿ってってどういうこと? それともこの時代の江戸城は別の場所にあるのかな? うーん、わからないことだらけだ。
まあ、でも考えていても仕方ない。私は立派な門をくぐり、増上寺の中に入ったのだった。
「お方様、本日は増上寺にお越しいただき有難うございます。私は、この増上寺の十二世、源誉存応と申すものでございます」
大勢の僧侶が立ち並ぶ中、中央の一番立派な法衣を着た人が丁寧に挨拶をしてくれる。
「お初にお目にかかります。お柚と申します。本日はお忙しい中、お時間をいただきまして誠に有難うございます」
私も無難に挨拶を返した。それから、存応さんの有難い訓話を少しばかり聞かされた。途中で眠くなったけど、さすがに人前で居眠りするほどの度胸は私にはない。眠い目をこすりながら必死にお話を聞く。お橙ちゃんは、途中で飽きて庭に遊びに行ったけど。ああ、私もついていきたかった……。
「存応上人様、本日は貴重なお話を伺わせていただき誠に有難うございました」
「この増上寺は、徳川内府殿と秀忠公に多大なるご支援をいただいております。しかし、拙僧にできることと言えば、こういったお話をしたり、お話を伺ったりすることでございますから。もし、お方様に、何か御悩み事がございましたら、拙僧が喜んでお話を伺いましょう」
存応さんは、とても人間のできた人のようだった。さすが大きいお寺さんのトップだけのことはある。
増上寺からまた駕籠に乗る。土井さんによると、ここから江戸城までは目と鼻の先とのこと。進むにつれ、潮の匂いはどんどん強くなっていく。駕籠の右側の小窓を開けると、そこには遠浅の海が広がっていた!
えっ? これが日比谷の入り江? 海には漁船が何艘も浮かんでいて、船の上ではふんどし姿の漁師さんが網を引っ張っている。えええっ? ここって東京だよね?
ぽかーんと駕籠の中で口を開けている私をよそに一行は海岸沿いの道を進んでいく。そして、駕籠は海岸沿いで停まった。
土井さんと本多さんが誰かと話をしているのが聞こえる。やがて二人は私の傍にやって来る。
「お柚の方様、お疲れさまでございました。江戸のお城に到着いたしました」
「ええっ? ここが江戸城なの?」
「はい、そうでございます」
私は、駕籠の左側の小窓を開ける。確かに長い城壁が遠くまで連なっていた。ああ、そう言えば土井さんが、江戸城は日比谷の入り江に面しているって言ってたよね。こういうことか。
やがて駕籠は門をくぐると、西の丸の御殿の玄関まで私たちを運んでくれた。この西の丸御殿は、徳川家嫡男の秀忠くんのためのお屋敷。ここで私たちと侍女さんや、秀忠くんの側近たちが暮らすのだ。
「はあ、やっと着いたわ。本当に大変だった」
「ままちゃま、おだいは、しんぼうしたよ!」
「ええ、お橙ちゃんは、よく頑張りました。とっても偉い子ですねえ」
私はお橙ちゃんの頭をよしよしと優しく撫でてあげた。お橙ちゃんはとても嬉しそうだ。
「おお、小姫殿、お橙ちゃん、よう来たな。待って居ったぞ」
なんと、秀忠くんがわざわざ玄関にまで私たちを出迎えに来てくれた。
「父上ちゃまーっ、おだい、がんばったよーっ!」
お橙ちゃんは、秀忠くんのところに駆けていき、ぴょんと勢いよく抱き着いた。
「おお、そうか。お橙ちゃんは、よう頑張ったか。それは、大儀じゃったのう」
秀忠くんは、お橙ちゃんを優しく抱きあげた。秀忠くんは満面の笑みだ。お橙ちゃんに会うのは五か月ぶりだからね。随分、大きく成長したでしょ。
「ええ、秀忠様。本当にこの二十日間、お橙ちゃんはいい子にしていましたよ」
まあ、途中駄々をこねたときも何度かあったけど、でもすぐに機嫌を直してくれたしね。
「おお、そうであったか。それよりも、小姫殿のお体は息災であるか?」
「はい、皆さまに大変良くしていただいて、今も元気いっぱいですよ」
「おお、そうか。それはなによりじゃ。さあ、さあ、中に入られい」
秀忠くんに促され、私は江戸城・西の丸御殿の中に入る。へえ、ここが私たちの新居かあ。徳川家のお屋敷らしく、派手さはまったく無いけどしっかりした造りだな。まだ工事が終わってないみたいだけど、これからもっと立派になるのかな。うん、すごく楽しみだな。
私は大きく頷きながら、新居の自分の部屋に向かったのでした。
本作をお読みいただき有難うございます。本話から作品の舞台は江戸へと移ります。
さて、途中で出てきた蒔田城は、横浜市南区にかつてあったお城です。作中で主人公はここが現代の横浜と思っていますが、実は目の前に広がる海こそが、今の横浜市の中心部だったりします。当時は今よりも4~5キロ内陸まで海だったようです。面白いですね。
次話第38話は、三日後の3月6日(土)21:00過ぎの掲載を予定しています。引き続きお付き合いの程よろしくお願いいたします。




