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第36話:伏見よ、さようなら

 慶長四年(1599年)卯月(旧暦四月)。私のお腹の膨らみも随分目立つようになってきた。あと出産予定日まで四か月弱。なんとか無事に乗り切りたい。


「ああっ、また、赤ちゃんが蹴った!」


 赤ちゃんが、私のお腹の中で足を大きく動かしたようだ。でも、お橙ちゃんに比べると蹴る力はかなり控えめ。どうやら大人しい子みたいだ。お腹の中ではやんちゃだったお橙ちゃんが女の子だったから、この子はきっと男の子なのかもしれないな。


 おお、そうなれば、秀忠くんの後継ぎだ。へへへ、この子が三代将軍様になるのかなあ。


 私がそんなことを考えながらほくそ笑んでいたときだ。襖が開いて、筆頭侍女のお梅さんが私に声を掛けてきた。


「お柚の方様。お屋形様がお呼びでございます」

「そうですか。分かりました。すぐに向かいます」


 うん、やっぱり声が掛かったか。まあ、呼びに来ると思っていたから、驚きはしないよ。


 私はさっと小袖を羽織ると、屋敷の奥にある家康の居室に向かった。


「お屋形様、柚でございます」

「おう、苦しゅうない。遠慮なく、中に入れ」


 襖を開けて部屋の中に入る。家康は、よく太った坊主頭の来客と碁盤を挟んで向かい合っていた。


「おお、小姫。体の調子はいかがじゃ?」


 来客は、常真こと、私の父上・織田信雄さんだ。信雄さんは、家康の囲碁友達で、最近は月に一度は対局のため徳川屋敷を訪れている。


「はい、父上。つわりもようやく治まりまして、体の調子は万全にございます」

「おお、そうか、そうか。それはよかった。して、次は男子(おのこ)を産めそうか?」


 はあ? 相変わらずデリカシーというものが無い人よねえ。妊婦に要らぬプレッシャーをかけてどうするのよ! まあ、でもここで信雄さんに対し怒るわけにもいかないか。


「いえ、こればかりは天からの授かりものですので、私にはわかりません」

「まあ、それもそうじゃな。じゃがな、家康殿も世継ぎができることを楽しみにしておるようじゃからな。しかと頑張るのじゃぞ」

「はい、わかりました」


 私は、取敢えず信雄さんに頭を下げておいた。でも、カチンとくるようなことを言うよなあ……。


「わはははは。常真殿。女子にそのようなことを言われてはいけませぬぞ。よい子を産むには、心を安らかにすることが肝要ですからな」


 家康は優しく微笑みながら、まともなことを言ってくれた。おお、さすが家康だ。


「お屋形様、暖かいお心遣い有難うございます」

「いや、当然のことを申したまでのことじゃよ。ところで、お柚よ。今、常真殿とも話をしておったのじゃがな。この卯月の間に、お橙を連れて江戸に向かうてくれ」

「……へっ? 私とお橙ちゃんが、江戸ですか?」


 思わず変な声が出てしまった。なんでそんなに突然に?


「そうじゃ。お阿茶に早く江戸に移り住みたいと申しておったのじゃろう?」


 いや、確かに、以前阿茶局様とお話しをしていた時に、最近秀忠くんはまた江戸にいることが多くなったので、私も一緒に暮らしたいと言ったかもしれない。でも、出産前のこのタイミングで江戸に引越すなんて考えてもいなかった。


「いえ、しかし、今、私にはお腹にやや子がおりますが」

「じゃから、今まで待っておったのじゃよ。つわりが酷いときに無理をすると、やや子が流れることもあるからのう。しかし、今であらば、なんとか江戸への旅にも耐えられるであろう」

「はあ……」


 えっ? それでも、新幹線で移動するわけじゃないんだから、無理なように思えるんだけど。


「それにじゃ、臨月が近づくと無理ができぬようになる。やや子が生まれた直後も、やはり無理ができぬ。されば、お柚が江戸に行くのは今しかないということになろう」


 なるほど。確かに言われてみればそうかもしれない。家康はいつも合理的に物事を考えている。


「分かりました。すぐに支度を致します。しかし、江戸に行く前に、大坂の北政所様と淀の方様、秀頼様にご挨拶をしたいのですが、よろしいでしょうか?」

「大坂? それは許すことができんな。そこで留め置かれてしもうては、元も子もない。大坂の方々には江戸に行くことは、秘めておくのじゃ」


 ん? それじゃあ、内緒にして、こそこそと江戸に行くってこと? なんか、それも気まずいなあ。まあ、でも家康の決めたことには逆らえないか。


「かしこまりました。それではすぐに支度を致します」

「おお、よろしく頼む。じゃが、決して無理はするでないぞ」


 こうして、私とお橙ちゃんは伏見を離れ、江戸に移り住むことが決まったのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


「いくらなんでも、突然よね。こういう話があるなら前から言って欲しかったな」


 自分の部屋に戻ると、私はお梅さんに愚痴を言う。


「そうでございますね。でも、前田の大納言様がお亡くなりになられてからも、色々な噂が流れておりますから」


 それは、確かにお梅さんの言う通りだ。前田利家さんの後を継いだ利長さんと家康との個人的な関係は、必ずしも悪くない。だけど、大名の中には前田家には反徳川の中心でいて欲しいと思っている人も少なからずいる。前田家の家中も、反徳川派と親徳川派で割れているらしい。


 まあ、こんな情勢なので、仲良しの永姫様とも最近はお手紙のやり取りができていない。永姫様はお元気だろうか?


 ああ、前田家と戦争になるのは嫌だなあ。前田さんって関ケ原の戦いは、東軍・西軍のどっちなんだろう。もっと真面目に歴史を勉強していたらよかった。というか、次に何が起きるんだろう?


「そうよね。いつここが戦場になるかも、わからないのよね」


 まあ、私が確実に覚えていることは、来年、西暦1600年に美濃の国の関ケ原で天下分け目の戦いが行われるということ。東軍のリーダーは徳川家康で、西軍のリーダーは今は謹慎中の石田三成さん。そして、その戦いは秀俊くんが裏切って東軍につくことで、東軍の勝利に終わること。


 ここ伏見は、関ケ原よりも西にある。おそらく、関ケ原の戦いの時には、西軍の支配下に置かれることになるのだろう。そうであれば、やっぱり早めに伏見から逃げておいて間違いはない。うん、そうだ。戦に関係のない人たちは、ここから逃げるべきだよね。


「民部、阿茶局様にご相談をしたいので、ご都合を聞いてきてもらえる?」

「畏まりました」


 お梅さんはすぐに私の部屋を出て行く。うん、阿茶局様やお梶の方様、その他の側室の方々も一緒に逃げなくちゃね。


 しばらくすると、お梅さんが戻って来る。


「お柚の方様。阿茶局様は、お梶の方様とお話しをしていらっしゃいました。もし、一緒で良ければいらしてくださいとのことでございました」

「ああ、お梶の方様も一緒なのね。そっちの方がむしろ都合がいいぐらい」


 私は、小走りに阿茶局様のお部屋に向かったのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


「阿茶局様。本日は、突然、申し訳ありません」


 私は部屋に入ると、家康の正妻代わりの阿茶局様に対して丁寧にお辞儀をする。阿茶局様の隣では、お梶の方様が少し不機嫌そうな顔をしている。


「お柚。そんなに堅苦しゅうせずともよい。江戸に向かう件であろう」

「ご存じでしたか」

「ええ、今朝、お屋形様からお話を聞いておったからな。今、お梶ともその件について話しておったところじゃ」

「そうでございましたか。それでは、みんなで一緒に江戸に参りましょう」


 うん、江戸だったら安全だものね。でも、阿茶局様は優しく微笑みながら首を振った。


「いえ、お柚。私は伏見に残りますよ」

「えっ? どういうことですか? 伏見は、これから先、絶対に危なくなりますよ」

「まあ、そうであろうな。お屋形様もそうおっしゃっておられた」

「それでは、なぜ?」


 なんで阿茶局様がわざわざ危険な道を選ぶのか、わけが分からない。


「お屋形様が伏見に残るならば、私も伏見に残る。当然のことじゃな」

「し、しかし……」

「お柚とお橙姫の江戸への道中には、お梶も付いていくこととした。じゃから道中のことならば安堵してよいぞ」


 えっ? お梶の方様は一緒に江戸に行ってくれるんだ。お梶の方様を見ると、彼女は口を尖らせて不満そうな様子だ。


「お阿茶様。私も伏見に残りとうございまする」

「お梶。聞き分けの無いことを申すでないぞ。そなたには、お柚とお橙姫、それにお柚のお腹の中のやや子を守るという大役を任せたのじゃ」


 阿茶局様は、お梶の方様にきっぱりとそうおっしゃった。お梶の方様は不満げな様子のままだったが、それ以上何かを言うことは無かった。


「阿茶局様。それでは、私はお梶の方様と一緒にお先に江戸に向かいます。もし、今よりも危なくなることがございましたら、すぐに江戸にいらしてください」

「わかっておる。お柚も達者でな。江戸では、ゆっくりと体を休めて、元気な子を産むのじゃぞ」

「はい、わかりました。有難うございます」


 私は、阿茶局様に丁寧に頭を下げたのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 そして、それから十日後。初夏の日差しが眩しいよく晴れた日。私は旅支度をして、伏見の徳川屋敷の玄関にいる。


 旅の一行は、私とお橙ちゃんとお梶の方様。お梅さんや刑部卿局さんを初めとする侍女の皆さん。それに、土井利勝さんや本多忠政さんなど徳川譜代の武将の方々やその配下の足軽さんと中間さんたち。総勢百名近い大人数だ。


「阿茶局様、それでは行ってまいります」

「お柚、道中、気を付けるのじゃぞ。体が苦しゅう感じるときは、宿でもう一泊しても構わぬからのう。土井様、本多様。お柚とお橙姫をよろしく頼みましたぞ」

「はっ、御意」


 土井さんと本多さんは、阿茶局様に丁寧に頭を下げた。さあ、それでは行きますか。お橙ちゃん、準備はいいよね。私は、お橙ちゃんの手を引くと駕籠の方に向かう。


 駕籠に乗りこむ前に屋敷の方を振り向いた。思えば伏見には五年近くも住んでいた。私が生まれ変わってからの七年半のうち、半分以上をこの町で過ごしていたことになる。


 思えば本当に色々なことがあったなあ。徳川家にお輿入れして、秀忠くんと仲良く暮らして、大地震があって、お橙ちゃんを授かって。


 大変なことも少なくなかったけど、一つ一つの出来事の記憶が私の胸にはっきりと刻み込まれている。また、この町に帰ってくることはあるのだろうか? ひょっとするとこれがこの町での最後の日かな? そう思うと胸に込み上げてくるものがある。


「ママちゃま、はやく、いきましょ」


 お橙ちゃんが私の顔を見上げてそう言った。そう、感傷にふけってなんていられない。今の私には守るべきもの。お橙ちゃんとお腹の赤ちゃんがいる。しっかりしなくては。


「ええ、お橙ちゃん、行きましょう。旅の間はいい子にしているんですよ。途中でお舟にも乗りますし、富士の御山も見れますよ。それに、江戸には御父上様が待っておられますよ」

「うん、おだい、ととちゃま、だいしゅき!」

「そうね。ママも大好きですよ」


 私は、お橙ちゃんの手を引き、一緒に駕籠に乗りこんだ。さあ、これから江戸まで二十日ほどの長旅だ。気合を入れて頑張って行こう!


本作をお読みいただき有難うございます。本話をもちまして、第三章:伏見・徳川屋敷 は終わりとなります。第三章は書いているうちに筆が止まらなくなり、当初の予定よりもかなり膨らんでしまいました。


次話からは、舞台を江戸に移して第四章が始まります。完結に向けテンポよく進めていきたいと思っておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。


次話第37話は、三日後の3月3日(水)21:00過ぎの掲載を予定しております。なにとぞよろしくお願いいたします。

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[気になる点] 「阿茶局様。それでは、私はお梶の方様と一緒にお先に江戸に向かいます。もし、今よりも危なくなることがございましたら、すぐに江戸にいらしてください」 「お梶、わかっておる。お柚も達者でな。…
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