第31話:おぬしは何者じゃ?
慶長三年(1598年)葉月(旧暦八月)。私と秀忠くんの最初の子供、お橙ちゃんはすくすくと育っている。
なんと、昨日、お橙ちゃんは遂に歩くことができるようになった。実際にお橙ちゃんが歩んだのはたったの一歩。だけど、母親である私には、まるでお橙ちゃんが大空に羽ばたいたようなそんな風に感じられた。
お橙ちゃん、あなたはこんな風にあっという間に大きくなってしまうのね。
「ぶぅーっ、まぁまぁ」
「えーっ、お橙ちゃん。ママって呼んでくれたの!?」
おお、お橙ちゃんが初めて私のことをママと呼んでくれた! 周りに誰もいない時に、お橙ちゃんに「私がママよお」と何度も言っていたからだろうか。誰かに聞かれたら、ちょっとヤバいかな? ああ、でも、本当に嬉しい!
「お橙ちゃんは、いい子ちゃんですねえ!!」
「んぶぶぅぅっ!」
ああ、本当に自分の子供って可愛い。ずっとこの子と一緒に暮らしていたいなあ。お橙ちゃんを抱きしめながらそんな風に思っていると、民部卿の局ことお梅さんが、慌てた様子で部屋の中にやってきた。
「お、お柚の方様、よろしいでしょうか」
「民部、どうしたの? そんなに慌てて」
「い、今、お城から御使者の方がやって来られまして」
お梅さんの両手がブルブルと震えている。かなり緊張しているようだ。一体、どうしたんだろう?
「そう、どなたからの御使者の方なの?」
「た、太閤様でございます。太閤様の御使者として、片桐且元様がいらっしゃっておられます」
「ええっ? 片桐様?」
片桐さんと言えば、秀吉の最側近の一人。秀吉が柴田勝家さんを降した賤ケ岳の戦いでは、片桐さんも大活躍して七本槍の一人に数えられている。いくら秀吉の使者だとはいえ、そんな偉い人が私のもとに直々に来るなんてことは、普通に考えてあり得ない。
「民部、それはおかしいわよ。お屋形様か秀忠様への御使者じゃないの?」
「いえ、お柚の方様に、直接太閤様からのお言葉をお伝えしたい、とのことでございます」
えええ、なによ、それは。ちょっと怖いんだけどなあ。まあ、でも片桐さんのような偉い人を待たせたままにするわけにはいかない。
私は、お橙ちゃんを隣の部屋に控えていた乳母さんに預けると、片桐さんの待つ客間に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
客間では、四十歳ぐらいの痩せて生真面目そうなお侍さんが、背筋をぴんと伸ばして座っている。この人が片桐且元さん。私がまだ大坂城にいるときに、何度かお見かけしたことはあるけど、二人で話すのはこれが初めてだな。
「片桐様、お待たせいたしました」
「おお、お柚の方様。いや、お忙しい中、早速にお越しいただき誠に有難うござりまする」
片桐さんの物腰は丁寧なのだけど、少し焦っているのか早口になっている。秀吉からの伝言はよっぽど変わった内容なのかな。
「本日は、太閤様からの御言伝と聞きました。一体、どのようなものでしょうか?」
「はっ、太閤殿下がお柚の方様と二人逢うて話がしたいゆえ、直ちに登城いただきたいとのことでござりまする」
……へっ? 私が登城して、秀吉と話すの? そんなこと徳川家に輿入れしてから一度もなかったんだけど。というか、今、「直ちに」って言ったよね?
「あ、あの、片桐様、直ちにとおっしゃられましたが……」
「はっ、このまま、それがしと共に、城の奥御殿にいらしていただきたく、何卒よろしくお願い奉ります」
えっ? このまま行くってこと? それはさすがに無茶じゃない?
「あ、あの、まずお屋形様や秀忠様の御了承を取らなくては……」
私が勝手に伏見城の秀吉のところに会いに行くなんて、許されるわけがないじゃない。
「内府殿には、石田治部少輔から本日の御来訪のことをすでにお伝えしております。さあっ、お柚の方様、早う御仕度くださいませ。太閤殿下がお待ちなされておりまする」
えっ、もう家康には話が通ってるの? で、でも、そんな急に言われても、私の心の準備が……。
しかし、そんなことを片桐さんに言うこともできず、私は急いでお梅さんにお化粧を直してもらうと、おめかし用の西陣織の小袖を羽織った。そして、駕籠に乗って伏見城の奥御殿に向かったのでした。
◇ ◇ ◇ ◇
新しい伏見城は、小高い山の上に再建されている。山の名前は木幡山。伏見の徳川屋敷からはそれほど遠い場所ではない。
駕籠に乗って山道を登りながら、秀吉のことを考えていた。今年の弥生には、伏見近郊の醍醐寺で秀吉主催の花見の会が催された。総勢千人以上が参加したそれは豪勢なお花見だったそうだ。秀吉は、元服されて豊臣秀頼とお名前を変えられたお拾い様と、美しい桜と美味しい料理を大層楽しんでいたと聞いている。
そのときは秀吉は元気だったようなのだけど、その後、梅雨を迎える辺りから体調を崩しているらしい。北政所様から先日いただいたお手紙には、秀吉の病状があまりよくないことがそれとなく書かれていた。
「お柚の方様、到着いたしました」
駕籠は奥御殿の入り口に到着した。再建された奥御殿の中に入るのは、実は今日が初めてだ。まだ完成して一年も経っていない真新しい状態で、新築の木の匂いがほんのりと漂っている。
建物の玄関口では、北政所様の筆頭侍女の孝蔵主様が私のことを待っていてくれた。
「お柚の方様、ご無沙汰いたしております。本日は突然のお呼びたてにかかわらず、いらしていただき誠に有難うございます」
「孝蔵主様。こちらこそご無沙汰しております。太閤様からのお呼び出しと伺いましたが、どういったご用件でしょうか?」
「歩きながらご説明を申し上げます。さあ、お柚の方様、こちらへ」
孝蔵主様に案内されて、私は奥御殿の廊下を歩いていく。でも、説明をすると言ってくれたのに、彼女はずっと黙ったままだ。
「あの、孝蔵主様。太閤様のご用件とはいったいどういったものでしょうか?」
「はい。お柚の方様に直々にお話ししたいことがあるとのことですが、私めにもその内容は知らされておりませぬ」
えっ? そうなの? 秀吉に何を言われるか怖いんだけど……。あっ、そうだ。秀吉は体調を崩しているって話だったけど、どうなんだろう?
「あのぉ、孝蔵主様。太閤様のお体の御加減はいかがなのでしょうか?」
私がそう聞いても、孝蔵主様は黙ったまま。ただ、表情が少しだけ硬くなったのが分かった。うーん、やっぱり、あまりよくないのかな。
薄暗く長い廊下を歩き、ようやく奥の間の入り口に到着した。
「太閤殿下、お柚の方様をお連れいたしました」
孝蔵主様が襖越しに声を掛ける。しばらくすると、小姓さんがやってきて、私と孝蔵主様を部屋の中に招き入れた。
部屋の奥では、秀吉が布団の中で横になっていた。私が来たことに気づくと、小姓さんに抱きかかえられながら、ゆっくりと起き上がった。
えっ? 秀吉がものすごく小さくなっていない?
私は驚いた。秀吉は男の人にしてはかなり小柄な方だが、それでも以前はすごく存在感があって、実物以上に大きく感じられていた。それが今では、むしろその逆。実際の体格以上に小さく見えてしまう。
「小姫よ。よう来たのう」
秀吉の声は、少しかすれていて、とても小さかった。以前はあんなに大声だったのに、まるで別人のようだ。
「太閤様、大変ご無沙汰をいたしております」
私は、少しぎこちなく頭を下げた。秀吉のあまりの変わりようにかなり動揺していたからだ。これじゃ、まるでもうすぐ死んでしまう人みたいじゃないの。
「小姫よ。もう少し、傍に来るのじゃ。他の者は下がれ。ワシと小姫の二人だけにせよ」
秀吉の命に従い、小姓さんと孝蔵主さんはすぐに部屋の外に出て行った。二人きりになると、私は秀吉の傍に近づいた。
「小姫よ。綺麗になったのう。年はいくつじゃったかのう?」
「十五でございます」
「そうか、もう、そんなか。うむ、徳川に嫁に出したのは失敗じゃったのう」
秀吉はそう言いながら上目遣いに私を見てきた。ん? なんか変な目で私を見てる? でも、今の秀吉に女の人に何かをできそうな感じは全くしない。
「いえ、私は秀忠様と夫婦になれて大変幸せでございます」
「ふん、そうか。そうか。そうじゃ、小姫は、子供を産んだのじゃったのう?」
「はい、昨年の文月に姫を産みました。名をお橙と申します」
「そうか、お橙か……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」
秀吉は突然せき込み始めた。私は秀吉に近づくと優しく背中をさすってあげた。
「太閤様、お体は大丈夫ですか? もう、休まれた方がよいのでは?」
「ふむ、大丈夫じゃ。これでも今日はましなほうじゃよ。それでな、その、お橙姫の輿入れはいつになるのじゃ?」
「えっ? お輿入れですか?」
「そうじゃ、約束したじゃろう。おぬしに娘が生まれたならば、秀頼の嫁に迎えるとな」
ああ、やっぱりその約束を覚えていたんだ。お橙ちゃんを産んでから、一度もその話を聞かなかったので、もう秀吉は忘れてしまったのかと思っていた。
「先日、家康殿にも話をしたぞ。すぐにでも輿入れさせてよいと言っておった」
「し、しかし、お橙は、まだ歩み始めたばかりの幼きやや子です。お輿入れは、いくらなんでも早過ぎます」
私は慌ててそう言った。お橙ちゃんはまだ満一歳になったばかりなんだから、お輿入れなんて無理に決まっている。
「ふむ、まあ、それもそうじゃのう……」
秀吉はあっさりと引き下がった。うん、秀吉らしくもないなあ。前だったら無茶を押し通そうとしたのに。やっぱり病気で弱っているからなのか。
「のう、小姫。おぬしは変わったのう」
「はい、徳川家の嫁となり、母にもなりましたので」
「いや、おぬしが変わったのは、もっと前からじゃろう」
秀吉はそう言うと、私の顔をじっと見てきた。もっと前? まあ、確かにお輿入れの前の年辺りから身長はぐっと伸びたけど。うーん、でも、秀吉が何を言いたいか、よくわからないな。
「そうでございますか。なかなか自分で自分のことはわからないものでございます」
「ふん、相変わらず小癪なことを言うな。のう、おぬしが最初に養女に来た日のことを覚えておるか?」
ああ、確か五つのときでしたっけ。でも、生まれ変わる前の記憶は今の私にはない。
「申し訳ございませんが、幼きときのことでございますし、よく覚えておりません」
「おぬしが三介殿に連れてこられて聚楽第にきたときは、ワシの前でオドオドしておったわ」
ふーん、そうなんだ。北政所様には最初からなついていたみたいだけど、秀吉のことは怖かったのね。
「そうでございましたか。大変、失礼をいたしました」
「ふん、それがじゃ、ある日を境に、おぬしは人が変わったようになってしまった」
……えっ? い、いや、まあ、確かに中身が変わったというか……。でも、いつも一緒にいるお梅さんにも言われたことがなかったんだけど。
「ワシの前でも怯えることがなくなり、いやそればかりか、小馬鹿にしたようなことも申すようになった」
「い、いえ、とんでもございません。太閤様のことを小馬鹿になどした覚えは……」
ちょ、ちょ、ちょっと。変な言いがかりをつけてこないでよ。
「ふん、小馬鹿にしとったわ。自分がワシの主家の娘であると気づいたのかとも思うたが、おねにはへりくだったままじゃった。小姓や侍女たちにも奢り高ぶった態度を見せるわけでもない。じゃがな、ワシへの態度だけは違うておった」
「い、いえ、そのようなことは……」
いや、確かに、秀吉は子供の頃から知ってる名前だから、妙な親近感はあったかもしれない。
「それにな、そのうちに人が知らぬようなことまで、口にするようになった」
えっ? それって、いつの話のこと? 草履の話をしたとき? 信長から北政所様へのお手紙の話をしたとき? 小西さんが聖母子画をもってきたとき? や、やばい。心当たりがあり過ぎる……。
「い、いえ、それは私が思い違いをしていたり、父上から以前に聞いていたりしたことで……」
自分の目が泳ぐのが分かる。でも、動揺してしまって、秀吉の顔をまっすぐ見ることができない……。
「相変わらず隠し事が、下手よのう。のう、小姫よ。おぬしは、いったい何者なのじゃ?」
秀吉は、私の方をしっかりと見ると、穏やかな口調でそう問いかけてきた。や、ヤバい。これって私の人生最大のピンチじゃない!?
本作をお読みいただき有難うございます。また、ブクマ・ご評価・ご感想・誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。
主人公と秀吉との対面も本作中で五回目となります。次話が、本作の山場の一つとなると思っています。
次話第32話は、三日後の2月16日(火)の投稿を予定しています。引き続きお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




