第30話:私の一番の宝物!
慶長二年(1597年)文月(旧暦七月)。元号は去年の神無月に文禄から慶長に代わっている。全国で大地震が相次いだので、運気を改めるためということらしい。
一方で、今年の如月(旧暦二月)には唐入りが再開されている。西日本の大名を中心に大軍が海を再び渡り、朝鮮の地で陣を構えている。その中で先陣を切っているのは、小西行長さん。あんなに秀吉を怒らせたのにも関わらず、彼の首は結局刎ねられることはなかった。
淀の方様や家康、前田利家さん達の口添えもあって、秀吉が最後には小西さんのことを許したのだ。小西さんは、唐入りで武功を立てることでその罪を償うようにと秀吉から命じられており、朝鮮でも張り切って活躍しているらしい。
やっぱり、往生際が悪いということは、大切なことなのだろうか。私も中身は現代人なのだから、武家としての潔さにこだわる必要はないのかもしれない。
うん、きっとそうだよね。これからは、少し肩の力を抜かなくてはいけない。だって、今の私には、他の何を差し置いても守らなくてはいけない存在ができたのだから。
グンッ
あ、また、お腹の中の赤ちゃんが勢いよく私を蹴った。かなり力が強くなってきたので、毎度のこととはいえビックリしてしまう。こんなに元気だということは、この子は男の子なのだろうか。
そう思いながら自分のお腹を優しく撫でていると、襖を開けてお梅さんが入ってきた。
「お柚の方様。お兄上様が、お江与の方様とご一緒にいらっしゃいました」
私の兄上、織田秀雄くんとその奥さんのお江与の方様こと江姫様がお見舞いに来てくださった。
「ええ、すぐにお通しして」
すぐに、二人が私の部屋の中に入ってきた。少し年の離れた二人だけど、とても仲睦まじそうな様子だ。
「兄上様、お江与様。お暑い中、わざわざお越しいただき有難うございます。布団の上でのご挨拶となり、申し訳ありません」
「いや、よいぞ。小姫は、臨月なのじゃからな。体を労わらぬといかん。そうじゃな。お江殿」
「ええ、秀雄様のおっしゃる通りでございます。小姫、いやお柚殿。これから女子にとっての大戦が控えておるのですから、よう体を休ませぬといけませんぞ」
秀雄くんと江姫様が優しい声を掛けてくれた。身内とお話しをしていると本当にほっと落ち着く。実は私の出産予定日はもうすぐなのだ。
この時代、妊娠期間は十月十日と言われている。この言葉って、確か現代にも残っていたよね。私は、この言葉は、てっきり十か月と十日間という意味だと思っていた。だけど、それは違っていて、十か月目の十日目。つまり、九か月と九日後という意味だった。
この計算によると私の出産予定日は明日ということになる。まあ、人間の体のことだから、実際にどのぐらい正確なのかはわからないけど。
「有難うございます。兄上様、お江与様。しかし、お江与様こそ体の調子は大丈夫なのでございますか?」
実は江姫様は、三か月前の卯月に伏見の織田屋敷で女の子を出産している。女の子の名前は千姫ちゃん。お母さん似の玉のように可愛らしい女の子だという評判だ。私もお腹の赤ちゃんを産んで落ち着いたら、織田屋敷にまで千姫ちゃんに会いに行きたいと思っている。
「わらわは、もう大丈夫であるぞ。すぐにまた次のお子に恵まれてもよいぐらいじゃ。おほほほ」
江姫様は明るく笑われている。隣では秀雄君が苦笑いだ。
しばらく三人でおしゃべりをした後、二人は織田屋敷に帰って行った。元気な私の様子を見て、安心してくれたようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、その日のお昼過ぎ、私は自分の部屋からお産の為の特別なお部屋に移動する。これから出産まではこのお産部屋で暮らすことになるとのことだ。ここは少し広めの造りで、たらいやさらし布など出産に必要が道具もそろっている。そして、天井からは二本の太い謎の綱が吊り下げられている。これはなんだろう?
夜遅く。私のお腹が突然痛んだ。最初は軽くて、すぐにその痛みもなくなったので大して気にならなかった。でも、またしばらくするとさっきよりも強い痛み。そのうちに痛みの強さはどんどん増していき、その周期もどんどん規則的になってきた。
ひょっとして、これが陣痛なの? ああっ、やばい、すごく痛くて我慢できないんだけどおおおっ!
「お、お梅、お梅さん、痛い、痛い、痛い、死ぬ、死ぬ、死ぬぅーっ!」
私はそばに控えていた侍女のお梅さんに悲痛な叫び声を上げる。徳川屋敷にきてからはお梅さんのことを民部と呼んでいたけど、そんな風にすましている余裕は無い。
「お柚の方様、大丈夫でございますよ。まだまだ、間は長うございます。やや子が降りて来るのはもう少し先でござります」
「ええええっ! もう、無理。無理、無理ぃーっ!」
私は悲痛な叫び声を上げる。いつの間にか私の両脇には、産婆さんが二人来て私の体をさすってくれている。
「ふぎぃぃぃぃぃーっ!」
でも、私はとても我慢ができなかった。痛みが来る度に情けない声で絶叫してしまう。
「お方様、この産綱をしっかりとお持ちくだされ」
年若い方の産婆さんが綱のようなものを、私の手に持たせてくれた。なに、これ? ああ、あの天井から吊り下げられていた謎の綱か。『うぶづな』っていうんだ。ああ、でもまた痛みがああああああっ!
痛みの周期はどんどん短くなってきた。あまりのつらさに意識が何度も飛んでしまいそうになった。でも、私は産婆さんや侍女さん達、そしてお梅さんに励まされながら、一生懸命頑張り続けた。
そして明け方になる頃、私の体の中から、大きなスイカが転がりでてくるような感じがした。
そして――
「おぎゃあああっ!」
部屋の中に元気な産声が響き渡った。
「おめでとうございます。元気な女の子でございます」
薄れゆく意識の中で、年配の産婆さんの大きな声が聞こえた。
ふぅーっ、よかったあ。元気な子供が生まれたんだあ……。うん、これで一仕事終えたよね……。ああ、ちょっとでいいので、休ませて……。
◇ ◇ ◇ ◇
その日の昼。私は自分の部屋に戻って来ている。私の傍には、お梶の方様がついていてくれる。
「ほれっ、お柚、たんと食べるのじゃ。疲れておる時は、まず食わんとな」
私の前に置かれたお膳には、鯛の焼き物や、鶏と野菜の煮物、白米のご飯。普段、この屋敷の食事では見ないような豪華な食事が並んでいた。
「お梶様、有難うございます。それではいただきます」
私は、パクパクと食事を口にする。うーん、美味しい。大仕事の後の食事は最高よね!
「ああ、お子を産んだばかりなのに、そんなにいっぱい食べては体に障りが……」
お梅さんが心配そうにそう言った。
「民部殿、それは迷信じゃぞ。赤子を産んだ後は、いっぱい飯を食わんと元気にならぬ。そうお屋形様がおっしゃっておられるのじゃ」
お梶の方様は、胸を張ってそう答えた。ふーん、この豪勢なお食事は家康の指図によるものなんだ。なかなか気が利くじゃない。
「失礼を致します」
涼やかな声と共に、三十歳ぐらいの女性が部屋の中に入ってきた。この人は刑部卿の局さん。赤ちゃんの乳母さんとして働いてくれる人。実は浅井長政さんの娘さんで、淀の方様や江姫様と腹違いの姉妹にあたるひとである。
刑部さんは、腕にかわいらしい赤ちゃんを抱いている。おお、小さくて、すごくかわいい!!
「大変お健やかな姫君でございます。乳もたくさん飲んでおられました。さあ、お抱きくだされ」
私は、赤ちゃんを受け取るとしっかりと腕に抱いた。小さくて大切に扱わないと壊れてしまいそうだ。ああ、この子がずっと私の中にいてお腹を蹴っていたんだな。
ふふふっ、赤ちゃん、こんにちは。私がお母さんのお柚ですよ。あなたは私の大切な宝物ですからね。
赤ちゃんは、お腹の中ではあんなに暴れん坊だったのに、今はとてももおとなしい。私の腕の中で小さな寝息を立て、安心したようにぐっすりと眠っている。
ドタドタドタドタドタドタ!
廊下を駆けてくる音がする。
ガラリッ!
「小姫殿、何事も無かったかーっ! おおお、元気そうであるな!」
部屋に飛び込んできたのは秀忠くんだった。いつも落ち着いている秀忠くんがすごく慌てふためいている。
「しぃーっ、秀忠様。やや子は寝ておりますよ」
「おお、そうか、そうか。それはすまなかった」
秀忠くんは小声になると私に静かに近寄ってくれた。そして、恐る恐る私の腕の中の赤ちゃんの顔を覗き込む。その瞬間、赤ちゃんがぱっと目を開けた。大きくて透き通った美しい瞳だった。この美しい目はお父さん譲りだね。
「んーっ」
赤ちゃんは小さい声を上げながら、秀忠くんの顔と私の顔を交互に見ている。ふふふっ、赤ちゃん。あなたのお父さんとお母さんですよ。
「おお、めんこいのう。小姫殿にそっくりじゃ」
「いえ、やや子は秀忠様によく似ておりますよ」
「いや、そうではないぞ。小姫殿にほんに瓜二つじゃ」
「いえいえ、この綺麗なお目々は、秀忠様譲りでございます」
私と秀忠くんは、他愛もない言い争いをした。ふと周りを見回すと、お梶様も刑部さんも、お梅さんもあきれたような顔で私たちのことを見ていた。どうやら、秀忠くんもそのことに気が付いたようだ。
「おお、そうじゃ、そうじゃ。この姫の名前を小姫殿に伝えんとな」
「この子のお名前ですか?」
「そうじゃ。この姫の名前は、橙姫じゃ」
「……えっ?」
えーっと、そのお、『だいだいひめ』ってよいお名前だと思いますけど、ちょっと呼びにくくないでしょうか?
「どうした? 小姫殿は浮かぬ顔じゃが、気に入らぬか?」
「いえ、あの、大変可愛らしいお名前ですが、少々呼ぶときに口が回らぬかもしれぬと不安になってしまいました」
「わはははは、それはそうじゃな。じゃから、普段は、お橙と呼べばよい。実はな父上の母君、伝通院様のお名前もお大じゃからな。当家に縁のある名前なのじゃよ」
おお、そうなんだ。お橙ちゃんかあ、うん、すごく可愛いお名前だよ!
「ええ、素晴らしいお名前だったのですね。お橙。お父様が大変よきお名前を付けてくださいましたよ。お礼を言いなさい」
私がお橙ちゃんにそう声をかけると、不思議そうな顔で私のことをじっと見てくれた。ふふふっ、まだ分からないよね。でも、あなたのことを私も秀忠くんも本当に大切に思っているんだよ。
だから、これからよろしくね。お橙ちゃん!
お読みいただき有難うございます。ご評価・ご感想・ブクマ・誤字報告いただいた方には重ねて御礼申し上げます。
遂に、主人公に元気な赤ちゃんが産まれました。数えで14歳。満年齢で13歳の出産ですのこの時代でも少し早めですね。でも、前田家のお松さんは満11歳11か月で最初の子供を産んでますから驚きです。
さて、1月27日から二日に一度の更新を続けて来ましたが、未投稿のストックがかなり少なくなってきました。少し執筆に余裕を持たせたく、次の更新からは3日毎の更新に変更させていただきます。少しお待たせする時間が長くなり恐縮ですが、ご理解ください。
次話第31話は、三日後の2月13日(土)21:00頃の掲載を予定しています。引き続きよろしくお願いいたします。




