第17章:しのびぐさ
私と豊臣秀俊くんは、大坂城・本丸奥御殿のお茶室で対面して座っている。私の右隣ではお梅さんが警戒した様子で目を光らせている。大丈夫よ。この子は小心者だから、北政所様のお部屋の近くで悪さなんかできやしないから。
「小姫よ。今少しの間、待つのじゃぞ。これから、うまい茶を点てるからな」
秀俊くんは、茶器に抹茶の粉をパラパラと入れ、お湯を柄杓で上品に注ぐ。その姿はなかなか様になっている。ふむ、なかなかやるな。茶道は、この時代では流行の最先端だ。振舞い方が下手っぴだと、男女問わず馬鹿にされてしまうのだ。
お湯を注いだ後は、茶筅で手早くかき混ぜる。ふーん、なかなか手際がいいじゃない。そして、秀俊くんは、できあがったお茶の入った茶器を私の前に置いてくれた。
「小姫、できたぞ。飲んでみよ」
「それでは、お点前頂戴いたします」
私は茶器を手に取ると、ゆっくりと口をつけた。ずずずずずっ。ふーん、かなり美味しいお茶じゃないの。
「小姫、味はどうじゃ」
「はい、大変美味しゅうございました」
「はははは、そうか、そうか。ワシの茶の道も、さほど悪くないじゃろう。この間も、関白秀次殿下にも、ちと褒められたのじゃ」
秀俊くんは明るく笑っている。まあ、確かにお茶の淹れ方は悪くなかったと思う。しっかりと練習してるのが良く分かった。私は感心しながら、茶器を右隣のお梅さんの前に渡す。
そうだ。それで、私に話ってなんなのよ? 私はそう思いながら、無言で秀俊くんの方を見る。
でも、秀俊くんは、私のことを見たまま、なかなか話し出さない。うーん、早く部屋に戻って引っ越しの支度の続きをしたいんだけどな。ひょっとして、何か話しにくいことなのかも。それじゃあ、話しやすいように私から切り出すとするか。
「しかし、中納言様。本当にお体がたくましくなりましたね」
「ふはははは。最近は酒の量がめっきりと減ったからな。しかし、皆、身勝手なものじゃよ。お拾いが産まれるまでは、毎晩ワシを宴に誘うてきたのに、最近ではまったく声を掛けてこぬ。まあ、ワシも身を鍛えたいと思っておったから、都合が良かったがのう」
ふーん、そうなんだ。まあ、秀吉がお拾い様を溺愛していることは有名だからね。今は、大名の皆様方は、他の豊臣家の人たちとちょっと距離を置き始めているっていう話は聞いている。まあ、でも秀俊くんはまだ十三歳なんだから、お酒よりも武芸の方が絶対にいいと思うよ。
「そちらの方が中納言様には、絶対に宜しいと思いますよ。ところで、私にお話とはなんでございますか?」
私がそう訊ねると、秀俊くんは急に姿勢をただした。そして、真剣な表情でまっすぐに私の方を見つめてくる。
「実はな、小姫に一つ頼みごとがあるのじゃ」
「私に頼みごとですか?」
「ああ、そうじゃ。実はな……ワシのところに嫁に来てくれぬかのう?」
え? 嫁……? はああっ!? この子は何を言ってんの? 馬鹿じゃないの?
「冗談はよしてください。私は江戸少将、徳川秀忠様と祝言を上げた身です! 今年の神無月には徳川家に輿入れもいたします! 絶対に、他の殿方の嫁にはなれません!」
私は、秀俊くんを睨みつけてやった。うん、たぶん今は相当怖い顔をしていると思う。
「はははは、冗談じゃ、冗談じゃ。そう真剣になるでないぞ。小姫をからかっただけじゃよ。実のところはな、ワシも小早川家に養子に行くと同時に、毛利家の古満姫を嫁に迎えるのじゃよ」
秀俊くんは笑いながらそう言った。えっ? なによ、それじゃあ、私をからかっただけなの! まったく、ふざけてるんだから。でも、私は平静さを装いながら、無理やり笑みを浮かべる。
「そうでしたか。中納言様、それはおめでとうございます。奥方様を大切になさってくださいませ」
「ふむ、それは、ちと難しいかもしれぬな」
はああ、この子はさっきから何を言ってるのよ。なんで奥さんを大切にするのが難しいのよ。まだ、ふざけているの?
「……それは、なぜですか? 奥方を大切にしない殿方は、一角の男子とは言えませんよ」
うん、怒りで声が少し震えていたかも。
「そうか。しかしじゃな、ワシには他に好いた女子がおるからのう」
秀俊くんは、そういうとニヤリと笑った。はあ? 何言ってんの、この子は! もうすぐ結婚だってのに他に好きな女がいるなんて、本当に最低の男じゃないの! 私の旦那さまの秀忠くんとはえらい違いだよ。ああ、私の結婚相手がこの子じゃなくて、本当に良かった! よし、もう帰ろう!
「そうでしたか。それでは、これにて失礼を致します。お茶は、大変美味しゅうございました。また、中納言様にはこれまで色々とお世話になりました」
私は両手をついて頭を下げると、そそくさと立ちあがろうとした。それを止めるかのように秀俊くんは話し出す。
「わはは。いや、小姫には大した世話もできておらんかったわ。じゃがな、一つだけ、小姫に言うておきたいことがあるのじゃ?」
「えっ、言うておきたいこと? なんでございますか?」
私が問いかけると、秀俊くんはまた真剣な表情になった。
「以前、小姫はワシに『卑怯なことはするな。人の期待に沿う立派な人間になれ』と申したよな」
「はい、確かにそう申しましたが」
なんだろう? もう一年半も前のことなのに。今さら「あのときは無礼なことを言ったな」と抗議でもするつもりなのだろうか。
「実はな、ワシもあれから心を入れ替えたのじゃ。ワシはもう二度と卑怯なことをするつもりはない。そして、誰も裏切らぬつもりなのじゃ。そのことを、お主に伝えておきたいと思うてな」
秀俊くんは真剣な表情のままだった。そして、私のことをじっと見つめている。ふーん、心を入れ替えたなんて、いい傾向じゃない。それでこそ武士というものよ。
「そうでございますか。素晴らしいお心構えですね」
私が素直に褒めてあげると、秀俊くんは嬉しそうな顔になる。
「わはははは。まずは、新たな養家となる小早川家の期待じゃな。これを裏切らぬようにせねばならんのじゃよ。新しい父上の隆景殿は、朝鮮でも武功を上げられた当代きっての名将じゃからな。その後継ぎとして、恥ずかしい振舞いは許されぬぞ。まあ、ワシもこれからは色々と大変なのじゃよ。わははははっ」
秀俊くんは、快活に笑いながらも、胸を張ってそう言った。ふーん、最初からそういう前向きな心構えだったら、私もこの子のことをここまで嫌わなかったかもね。
「中納言様。お励みになられてください。小姫も陰ながら応援いたしておりますわ」
私は微笑みながらそう言った。すると、途端に秀俊くんは真面目な表情となる。
「そうか、かたじけないな。まあ、それでじゃ、これは本当の頼みごとなのじゃが、小姫に、なんというかな、忍草をもらえぬかと思うてな」
んっ? えっと、『しのびぐさ』って、なんだったっけ? ……ああ、確か「思い出」みたいな意味よね。そういえば、この時代の唄に出てきてたかも。
でも、思い出が欲しいって……、ああ、餞別の品が欲しいのか。何よ、それなら前から言ってよ。何か良い記念になる品を準備してきたのに。でも、今、持ってるのは……。
「中納言様、申し訳ありませんが、今はこの扇子ぐらいしか、持ち合わせておりません。後で、中納言様のお城かお屋敷の方に、よき茶器か何かをお送りしますが、それでよろしいでしょうか?」
私がそう言うと、秀俊くんは、まるでアテが外れてしまったかのような顔つきとなった。
「え、あ、その、ワ、ワシが欲しておるのは、物ではなくてじゃ…………いや、いや、いや、うむ、せ、扇子、その扇子で充分よ。そうじゃな、その扇子を小姫じゃと思うて、ワシは大切にするぞ」
いや、まあ、この扇子は、京都の赤竹堂さんのものだから悪い品じゃない。でも、私がかなり使い倒しちゃっているから、他の人が大切にするような物でもないんだけどなあ。まあ、でも、秀俊くん本人がそれでいいと言うなら別にいいか。
「それでは、中納言様。つまらぬものではございますが」
「うむ、小姫よ。かたじけない。有難く頂戴するぞ」
秀俊くんは、私の扇子を恭しく受け取ってくれた。ふふふ、殊勝なところもあるじゃないの。
こうして、私と秀俊くんとの今生の別れの挨拶は終わった。イヤな子だなあとずっと思っていたけど、もう会えないとなると少し寂しいかもしれない。秀俊くんも小早川家でしっかりと頑張って欲しいなあ。
お読みいただき有難うございます。本話を持って第2章:大坂・大坂城 は終わりとなります。次話からは、第3章:伏見・徳川屋敷に入ります。
さて、これまで本作を応援していただき有難うございます。皆様のご感想・ブクマ・ご評価・誤字報告、すべて私の執筆継続の励みとなっております。引き続き、頑張って毎日の更新を続けていこうと思っておりますので、引き続き応援いただけると嬉しいです。
次話第18話は、明日1月22日(金)21:00頃の投稿を予定していますので、引き続きよろしくお願いいたします。