次次に来るおかしな事
次次に来るおかしな事
3年の夏休みが終わり 2学期の始業式に
渡辺先生(3年生も担任)「K君式終わったら すぐ保険室ね解るよね」保険室へ
渡辺先生「服脱いで 何時?今痛い所はどこ」
私が服を脱ぐと
渡辺先生「ちょっと ダメこれは 今日お家に行くから夜ならいるでしょ」
渡辺先生はその日の夕方に家へ来ました
渡辺先生「今日はちゃんとK君の両親に言いますからね じゃ無いとK君死んじゃうよ」
夜になりました 誰も帰って来ません 先生に私がお茶を出すと
渡辺先生「何時もこんなに遅いの お兄さんも帰って来ないし」
私「先生 両親に電話しました」
渡辺先生「もちろん したわよ 礼儀でしょ」
私「それじゃ帰って来ませんよ どこかで食事して ここを見張ってて先生が完全に帰ってから 帰って来ますよ」
渡辺先生「そんな馬鹿な 先生がずっといたら」
私「どこかに泊まりにいきますよ 3人で」
渡辺先生「食事は?」 私は台所に行きインスタントラーメンを持って来ました
渡辺先生「これ」 私が深く頷くと渡辺先生が私を抱きしめ「ごめんなさいね 先生帰ったら殴られる?」頷くと「ごめんなさい 本当にごめんなさい 先生帰った方がいい」又、大きく頷くと「先生帰るね K君聞いて 先生の言う事」強く抱きしめながら「死んだらダメ どんな事してでも生きなさい あの父親をK君が殺せるまで 殺せるまで成ったら考えて 何が徳か それでも殺したければ 殺しなさい それまで何をしてでも生きなさい 約束」 私はこの言葉で生きて来ました 何度か“死のう”と思う度 この言葉を糧に生きて来ました、先生は言葉を残し帰って行きました 帰って数分のうちに3人は帰って来ましたが その日は暴力はありませんでした
平凡な日々(もちろん父親と兄の暴力ありきで母親は完全無視)が続き3年生が終わりを告げ用としてました
渡辺先生「K君引っ越すの知ってたの?」
私「僕がですか?」
渡辺「やっぱりね K君引っ越しするんだって 聞いて無いのね 終業式までの間で”お別れ会“しないとね あの親は本当に」私は初めて自分が引っ越す事を知りました 後から聞いたのですが、父親が大きな工場から旋盤の技術主任として向かい入れて貰い 社宅に入る用なのです あの父親が技術主任?今だに三億円の件で警察から呼び出されているのに 行き先は町田のすぐ隣の相模原、駅では橋本に近く社宅は町田とのすぐ境の団地でした 初めは母親の浮気の噂で町田に居ずらいのかなとか思いましたが そんな惨めな母親の姿を父親は楽しんでいましたから 母親はばん万歳です 兄はリトルリーグや柔道をやっていたにも関わらず友達もいなかったから別にです 私は3年間学級委員(渡辺先生が気おつかって)で以外に友達が多かったから残念でした 実はこの引っ越しには訳が有りましたそれも残酷な
私は4年生になりました この年大阪で科学博覧会が有りました 母親は新しい会社の旅行と家族と兄弟で3回 父親も新しい会社 家族と2回 兄は夏に家族で出かけました 私は留守番です 転校して初めての夏休み 父親が急に江ノ島へ遊びに行くと言い初め 急きょ海へ行く事にしました 昔も海に行くのは時間も金も掛かるので“かなづち”の父親は海など口にも出した事が有りませんでした 又、海に行くと私が裸になります それもあったと思います その父親が“海”だれもが怪しみますがその時は私も初めての海に浮かれていました その日は朝一番の電車で海へ 以外に早く付きました 江ノ島では小動岬の近くにいました 父親が海が嫌いで砂浜だと混むし帰り砂を落とす為 海の家を使うのが嫌だからと言い 午後急に天気が悪くなりました 昨日テレビでやってた天気予報どうりに 皆一目散に屋根のあるところへ 私も逃げようとしたところ父親に腕を捕まれ 山(小さな神社が有りました)そちらの方へ その裏側はちょっと高い岬になっていました そこに連れてかれ”あっ“と言う間に海へ投げられました 私は帰り仕度をしていたので服を着ていた為波に呑み込まれました その時私は思いました”殺しにきた“そうです 海に来たのは私を“殺り”にきたのです 父親も兄も泳げません 母親は泳げますが隠してます 当然私も”泳げない“と思ったのでしょう 海は急激な天気の変化で大荒れあっと言う間に岬から流されました 実はこれはついていました たぶんすぐ父親は私を見失ったのでしょう 海の表面に上がると父親の姿はありませんでした そう私は少し泳げます 服を着て水に浮く練習もしてたのです 3年生の時放課後 渡辺先生と 町田には境川が流れていたので先生が”まさか“の為に まさにこの時がその”まさか“です
時間にしたら数分だったのでしょ とにかく流れに任せていましたらテトラポットに当たりました 上向きだった体を反転させ私はテトラポットにしがみつきテトラポットの上へ するとそのテトラポットは国道のすぐ脇のテトラポットの山で這い上がれそうでした ただ数分でも海に浮いていたのと 叩きつける用な雨の為体が冷えてて動きません とりあえずテトラポットとテトラポットの間で休む事にしました 何時間休んでいたでしょうか雨も上がり 日も傾きかけ暗くなり初めました、夜になったら上がれ無くなると思い 頑張って国道までよじ登りました そして国道を明かりのついてる江ノ島方面に歩いていると後ろからパトカーが近ずいて警察官が降りて来ました
警察1「君 どこに行くのかな 帰るの?」
私 頷き
警察1「どこに」
私「相模原」
警察1「相模原?誰ときたの親御さんは」
私「家族で わからない」
警察1「わからないって 服 びしょ濡れだね ちょっと待ってて」と言うとパトカーからタオルを持って来て私を拭き初めました
警察1「とりあえず パトカー乗ろうか」私を後ろに乗せると
警察1「とにかく、どこか広い所に移動しよう ここではまずいだろ」
警察2「余り遠くはまずいから その当たりに寄せますよ」
警察1「この道狭すぎ いいよ右の店の駐車場に入って事情言って来て」サイレンを鳴らして道を横切って駐車場に入りました
警察2「ちょっと停止しただけでこの渋滞 まいるね」
警察1「僕 お名前は 住所とか言える お家に電話ある?」私は全部正直に答えました 警察2が無線機で逐一どこかに連絡
警察1「今日はどうしたの」私は今日の事を朝から説明 当然海へ投げ入れられた事も
警察1「ちょっと待ってね 皆で海来たの 今日は残念だったね」私はこの時 あ~ダメだこの警察官 何時もと同じだ 小さな頃から何度警察に駆け込んだか 最後は何時も「良い両親じゃ無い ちゃんと言う事聞いて 嘘はダメだからね」です
警察2「K君だよね」
私「はい」
警察2「ダメだよ 両親探してたよ 警察に届ける所だったてよ」
警察1「解ったの 家出?」私はすべて覚りました こうなると何を話てもダメです
警察2「今本部に 次の指示仰いでます このまま相模行けるかなぁ」
警察1「相模?あ、お前“ならし運転”がてら相模まで行くきだな」
警察2「当たり ちょうど良いでしょ」
”ならし運転“とは昔の新車は普通数百キロはオイルが馴染む用に回転を上げずに走りました
警察1「そうだな でも許すか?同じ神奈川だけど」 すると無線がはいり
警察2「許可でましたよ よーし相模原だ」
警察1「僕、良かったな新車のパトカーで相模原までドライブだとよ」昔は以外に警察もアバウトだったみたいで私は江ノ島~相模原までパトカーで帰る事になりました 疲れていた私はすぐに眠くなり寝てしまいました 目が覚めると辺りは真っ暗で橋本駅近くの踏切を越える所でした
警察1「お、起きたか?もうすぐだから ん?あれってホンダがだす車か?」
警察2「本当だ まだ発売前だから公道試験車両ですね」
警察1「なんだありゃ 小さいし後ろ水中メガネか」
警察2「ありゃ 売れないな バイクのエンジンですかね 360でしょ」
警察1「僕 車好き ほら秋に出るホンダの車が前走ってるよ」なぜかこの会話が頭に残っています そして団地に 私の家は確か3階だったと思います(一年いなかったから記憶が定かでない)
警察官がインターホンを押すと 母親が飛んで来て
母親「どこに行ってたの 朝から居ないから 心配したのよ 何で海なんか行ったの」
父親「本当にすみません 迷惑かけて 何をしているんだ まったくこいつは」
警察1「まぁまぁ 無事でしたし きっと海が見たかったのでしょ 子供の頃は良くある事ですよ」私は家の奥に行き 父親が頭を下げる度に殴られる準備をしてました ありきたりのやり取りの後 両親は下まで警察官を送りにいきます すると
兄「死んだ方が良かったんじゃ無い 大変だぞ 今日は」と嬉そうでした
両親が帰って来ました
父親「さっさと寝ろ 悪運強いなお前」何もされません これが一回目です 今なら駅とかのビデオ見れば家族が映ってたでしょう 次の日家族は大阪に一泊の旅に出ました 今考えるに、私は行きたくないと渋り置いてきたら居なくなってたというストーリーだったのでしょ!
万博も無事終わり1971年が来ました正月は松本では無く栃木のお爺さんの家へ車で行きました なんと父親が秋に免許を取り中古車で鈴木キャロルを買ったのです 本当に古い車でした でも当時は車事態持っている人が少ない時代でしから でも何で栃木 栃木には夏は行きますが正月は毎年父親の大好きな松本のお婆さん所でしたから 私自身はお爺さんは好きでも嫌いでもむしろ普通に接してくれる4号さんのが好きでした お爺さんは夏行くと私を連れて浅草に靴を買いに行きますが ただ本当は2号さんに会いに行くのです(お爺さんは2.3.4.5号さんに家と商売を与えてました)そして 相模原の3号さんの所へ服を買いに 1日で周ります 私はそれが嫌でしたから 新しい物が手に入ると父親と兄に殴られますから ちょっと打線しました そして4年生の終業式が近くなった時 浅沼先生が
浅沼先生「K君 引っ越すの 聞いてる?」
私「知らないです」
浅沼先生「やっぱりね 引っ越すらしいよ ごめんね 何も出来なくて 頑張れよ いつかやり返せ」浅沼先生は渡辺先生から聞いていたので何かと面倒を見てくれました 高熱で学校に来たら医者に連れてってくれ 足の膝が皮の内側で膿んで肉が腐った時も母親を呼び出し病院までついて来てくださいました やはり渡辺先生と同じで口癖が“死ぬな”でした 私達は学校が終わるとすぐ引っ越しました 引っ越し先はとりあえず”お爺さんの家“です お爺さんの家の庭先に小さい工場を作り自営で旋盤工を初めました、これっておかしく無いですか だって技術者として迎えてもらい社宅まであてがわれ 旅行ざんまいの生活 確かに母親わ相変わらず働きにでてましたが 父親は車の運転免許までとり 安いとは言え当時としては贅沢な車を買り そこをわざわざ辞めて 自営で旋盤工するって そしてとりあえず住んだお爺さんの家は4月には出てボロアパートへ 元々お爺さんと父親はそんなに仲良く無かったので だだっ広いお爺さんの言えで家族は6畳間にいましたから 5年生になり私は忙しくなりました 家に帰り暗くなると 父親の工場に行き働くからです 自分の金は自分で稼げです 家に食事代を入れる事になったのです ただ世間の手前夜にこっそり働きます こんな悪事が祟ったのか6月に父親が機械に手を巻き込まれ指を無くします(この男、悪運が強くたまたま市立病院に慶應の移植で有名な先生が技術指導で来てて なんと骨だけの指がお腹にくっ付け半年後に3本半復活します)私はこれで仕事から解放されると思いきや 母親が仕事を入れます 解放されたのは母親でここぞとばかり遊び捲ります 私は1本1銭でネジ斬りの仕事します 本当はあがり4円の仕事でした 最低限1日5千本のノルマ 1本失敗するとマイナス5円でした 母親は夜な夜な飲み歩き私は父親が退院する次の年の2月までそれをこなしてました、退院した時 家の金は底をついており 兄の中学の金まで母親は手を出していましたから(私が立て替えた)ですから父親が退院して大変でした 何しろ兄の金に手を付けたから 久しぶりに母親は殴られてました もちろん私も 又、浮気もばれ家の中はめちゃくちゃでした 父親が退院するのと同時にお爺さんが入院するし ただそんな状態なのになぜか父親は新しい車カローラを新車で注文してました 何でも父親は仕事の仲介料で儲けていたらしのです(その時4円だと知った)私は仕事からのがれた訳では無いのですが アパートの隣の駄菓子屋さんが私を見ていて 余りにもかわいそうなので 学校から帰ってきたら店を7時に締めるまで店番で500円もらえる事になりました(母親が馬鹿だから堂々と私を働かして遊んでいた)ただこの時新たな計画が進んでいました
6年生になりました、父親が焦り初めます 私の体が大きくなり初めたから 又、私自身も2度の転校で獲たものは”力は無いが喧嘩が強い“でした 当時マンガのせいか転校すると其処のいじめっこが必ず絡んで来ました いやがおおでも、私の用に抵抗するか?兄の用に従うかです 私はなぜか2回とも 圧勝でした 痩せでひょろひょろなのに?いじめっこの付き人達が退く位相手を容赦なく叩きのめしました たぶん何時も父親と兄に殴られなれ 知らないうちに強くなってました 5年生の時には他の学校の生徒を怪我さして傷害で警察沙汰になりました、危機を感じたのか 6年生の5月の夜中父親に工場に来る用に言われました 夜中真っ暗な道路を歩き工場に向かうと背中に衝撃が私はかなりの距離飛びました かなり飛ばされ水のはった泥度の田んぼに頭から突っ込みました 車の走り去る音が聞こえ 車に跳ねられた事に築きました 私は起きあがり真っ暗な周りを見舞わしましたが車はどこかに行ってしまいました 私自身は田んぼのおかげで無傷でした(本当に奇跡的)父親に呼ばれてた為急いで工場へ 工場へ着くと父親が車のバンパーから何かを外してました 私は覚りました“車で跳ねやがった”そうです父親が跳ねたのです 車にキズ付かないように工夫して 私が見た時の父親の顔 まるでお化けでも見る用でした その年何かの事件で青酸カリを使った殺人が有りましたが家にもなぜか青酸カリが有りましたがそれは使わなかった用です(使ってたら私はいない 青酸カリは溶接に使っていました)“次の日”車が新車に変わりました
6年の正月がすぎお爺さんが死にました 葬式は盛大で霊柩車から地方の決まりで金を巻きました 私は一生懸命拾いました その夜親族で遺産相続の話です 兄弟4人と愛人でお婆さんは葬式にも来ませんでした どうやら現金はお婆さんが半分 あとは兄弟で分け 愛人さん達は今住んでる家と商売をそのまま受け継ぐ事にとお爺さんが遺言書を作ってました ただ現金がどのくらいかと 入院した時看護師さんに手を出し 家と食堂を作ってる途中でその残りの金の整理に戸惑ったみたいです 結果父親は当時としては大金の600万と工場の使用権を貰いました ただし本当はお爺さんが隠していた現金2000万を長男と長女で分けてしまってました 後々私がその事実を父親に突き付けると 信じられないほど落胆しました 相続した時
父親「持つものは兄弟だな ちゃんと分けて工場の使用権まで無傷でくれた」と馬鹿な事を言ってましたから そして私の小学校の卒業です 栃木に来て2年 苦痛の小学生活 担任の教師落合は最低で完全”見て見ぬふり“を極めこみどんなにキズだらけでも何一つ言いませんでした 私が母親に働かされているのを知っているのに母親と飲み歩いていましたから 皆が卒業旅行に行く中 私は引っ越しをしてました 修学旅行の金で手一杯で卒業旅行の金までは出せませんでした 引っ越し先は隣町で中学校のすぐそばでした 又、事件が起きます