来客 「ビー玉」
『昔はよかった』
自分の口からこぼれた言葉に、愕然とした。
そんなの、大した努力もせずにつまらない人生を送ってきた人が口にする、負け惜しみだと思ってきたから。
まだ、懐古にひたるような年齢でもない。
働き盛り、花ざかり、なんて言われることもある年代だ。
それなりに努力はしてきて、運よく望んだ進路に進むこともできて、
家族や友人にも恵まれたし、大変なこともあるけどいいことだってもちろんあった。
それなのに。
どうしてそんな言葉が出てきたのか。
気の迷い、なんて片づけていいものではない。
物事には理由がある。何事にも。わずかな言葉であっても。
だから、考える。
『昔はよかった』
この言葉の根底にある思いは、なんだろう。
きっかけは、比較的わかりやすい。
今持ちきれなくなりそうなくらいに抱えているものだ。
色とりどりの瓶の、ラムネ。
仕事帰りに同僚と一緒にふらっと立ち寄った縁日で買ったのだ。
それぞれに、とても綺麗なビー玉が入っていて、懐かしさのあまり思わず大人買い。
買ってすぐは、大人だからできることだよね、なんてにやけていたくらいだったのに。
お祭りを満喫して、小腹も満たしてさあ帰ろうか、とそれぞれの帰路につき別れたところで、その言葉は口をついて出た。
まるで、喉につかえていた言葉が、ラムネで滑りがよくなったかのように、するりと。
「…………」
どうにも、そのまま帰る気には戻れず。
人の流れから外れて、休めるところを探す。
ふと気づけば、何やら建物のある開けた場所に出た。
境内だろうか。座れる長椅子もある。
せっかくだし、もう一本、ラムネを飲んで落ち着こう。
勢いづいて、詮を開けようとビー玉を瓶に押し込み、指を離した。
それがまずかった。
「わ、わ、わわわわわ!」
しゅわしゅわと泡をふくらませながら、見る間にラムネが溢れ出す。
ラムネは開けてしばらくは押さえておかないといけなかったのに。うっかりしていた。
「もー! 最悪……」
スーツに思い切り炭酸がかかってしまった。
クリーニングに出したばかりで、もう一、ニ回は着ようと思っていたのに……。
「もし、大丈夫ですか? こちらをどうぞ」
隣に座っていた人が、見かねてハンカチを差し出してくれた。
やさしさが沁みる。そしてどんどんラムネも染みる。
お礼もそこそこにハンカチを借り、とんとんとスカートをたたいて、できる限りラムネの水分を吸わせてみる。
努力は……まあ、しないよりよかった程度の成果か。
スカートには薄く丸くシミができてしまった。
そのまま歩くには少し恥ずかしいかもしれない。
「濡れてしまいましたね。
……今日はそこそこ暑いから、少し待てば乾いて目立たなくなるでしょう」
少しの間、お喋りでもどうです?
そうお誘いまでいただいてから、改めて、そのやさしい人をちゃんと見た。
鮮やかな赤い着物を着て、狐面を頭につけているその人は、綺麗だけど中性的な顔立ちで、やや低めな声だ。
物腰はやわらかいし女物の着物だけど……女性、だよね?
ま、どっちでもいいか。
まばらでも人通りのあるこの場所で、警戒することもないだろう。
「ぜひ。あ、それとハンカチ、助かりました。
洗って返したいのですが、お名前やご住所をお聞きしても?」
「そのままお返しいただいて大丈夫ですよ。
……代わりと言っては何ですが、暇つぶしに、お喋りにつき合っていただければと」
暇つぶし。
ということは、誰かと待ち合わせだろうか。
「誰かと一緒ですか?」
「ええ。仲間と3人で」
どんな人と? と踏み込みかけて、言葉を飲み込む。
いやいや、初対面でそんなずけずけと聞くようなことでもないだろう。
「私も、職場の仲間と来て。別れてから、ちょっと寄り道しちゃいましたけど……」
すぐ帰ればよかったかな、そしたらスーツも濡らさなかったし。
そう言いそうになって、また飲み込む。
帰りたいと言ってるみたいで、一緒にお喋りしているこの人に、失礼になってしまう。
「……ふふ。貴方は、気遣いのできる方ですね」
そんなこんなで何度か言葉に詰まっていると、しまいには、笑われてしまった。
けど、いやな感じはしない。
ころころと笑うその様は上品で、こちらもつられて笑顔になってしまうような。
「けれど、そんなに言葉を飲み込んでしまっては。
その内、そのラムネのように溢れ出してしまうやもしれませんよ?」
そう話しながら、その長い指で、つつ、と私の喉をなぞる。
その動作があまりに自然で、一瞬、何が起きたか分からなくなる。
「……こさん、べにこさーん!」
「おや」
固まっている私をよそに、目の前の人は私から離れて、声のした方に顔を向ける。
心臓がうるさい。遅れて、頬に熱が上がってきた。
「お、お連れ様いらしたみたいですね! 乾いてきたし、私はこれで!
あ、ハンカチ! ありがとうございました!
お礼ってほどのものじゃないですが! あの! これ! どうぞ!!」
たくさん持っていた内のラムネを二本、押しつけて、逃げるようにその場を離れる。
なにあれなにあれなにあれ! どこの国の人? おとぎの国の住人か!
なんだかもう、うわー! となって、そのまま家まで走る。
今日はヒールじゃなくてよかった。
「……っ、はあ……」
無事、家までたどり着いたものの。
やけに疲れた。
「……ふ、ふふ、あははっ」
けれど、何だかすっきりした気分だ。
こんなに走ったのは、いつぶりだったろう?
「そうそう」
空になったラムネの瓶から、ビー玉を取り出す。
昔、よくこのビー玉を集めたものだった。
そういえば。
いつの間にかなくなっていたあれらは、どこへいってしまったのだろう。
失くしたか、親が捨てたか。
それとも、自分で処分したのだったか?
大事にしていたもの。でも、もう覚えてすらいないもの。
そういうものは、一体いくつあっただろう。
そういえば、他にも何か考え事をしていた気もしたけれど――なんだったか、思い出せないや。
スーツを脱ぎ捨て、化粧をシートで簡単に落として、ベッドに飛び込む。
ラムネのおかげか爽快な気分で、胸のつかえが取れたような心地もして。
その取り出したビー玉を手の中で転がしながら、ゆっくりと眠りについた。