6.凛
6.凛
私は再開を翌日に控えた学校に忍び込んだ。忍び込んだといっても、学校は完全に閉鎖されている訳ではなく、教員はもちろん勤務していたし、出入りしている生徒も何人かいた。
私は派手な伊達眼鏡をつけ、いつもはしないようなヘアスタイルで、中へ入っていった。存在感の薄い私のことだ、これくらいの適当な変装でも問題はないだろう。
幸い校内で自殺をしたのは凛一人だったため、生徒が忘れ物を取りに中へ入るくらいのことは、生徒手帳の提出を求められたり監視がついたりすることはなかった。
まずは三年生の教室へ向かった。クラスは一学年11クラス。計33クラス。少なくない。でもやらなけらばならない。私は最初の一歩を踏み出した。
黒板に十枚ほどビラを張る。白黒のビラには、一枚の写真と一行の見出し。その下に数行の文章。
『三上凛は蝉の王』
『三上凛は蝉の王ベルゼブブである。彼女は蝉を使者とし、死者を蝉で迎える。彼女を崇めよ。彼女を讃えよ。彼女は死の救済と世界の崩壊をもたらす王である。彼女に仕えよ。彼女に焦がれよ。彼女は願う者呪う者を受け入れよう。すでに数名の殉教者たちが彼女のもとへと旅立った。殉教者は口に蝉を含んで死んだ。彼女を信奉する者は、口に蝉を含んで死ぬ。彼女もまた蝉を口に含んで死んだ。蝉の導きで尊い死を迎えよ。三上凛は蝉の王。その名を呼び求めよ。彼女の名はベルゼブブ。』
写真には口の上に蝉を乗せた女性の顔写真。目から上は写っていないが、紛れもなく凛本人だ。
多少雑に掲示していく。ところにより廊下の窓や掲示板、階段の壁にも貼る。教師に見つからないかとビクビクした。だが校内は静まりかえっている。嵐の前の静けさというやつだ。
二年生の教室。私と凛の在籍するクラス。凛が座っていた机に、重点的に張り付ける。百枚以上用意したビラがどんどん減っていく。鞄が軽くなる。それと同時に心も軽くなっていった。
一年生最後のクラスを貼り終えた時、私は晴れ晴れとした気分だった。こんな気持ちは久し振りだ。達成感と充実感に満ち溢れている。
さて、この行動がどう転ぶのか。神の力を見せてもらおう。
凛の部屋で蝉のブローチを見つけた私は、そのまましばらく呆然と立ち尽くしていた。手のひらのものをただただ見つめる。蝉のブローチも、中から出てきた紙片も、私にそれ以上の情報を与えてくれない。
私は答えを求めてふらふらと机に近づいた。机はキレイに整頓されている。引き出しの中を見てみる。彼女のことだから、見られて困るようなものもないだろう。抵抗は感じない。
それでもめぼしいものは見当たらない。私は答えを探してまたふらふら歩く。今度は本棚に近づいた。上から下までじっくり眺める。彼女らしいラインナップだ。歴史学とか、民俗学とか、人類科学とか……。私はその中で、ある一冊の本に目を引かれた。
その本は、人は死をどう捉えるか、それをテーマにしているようだ。手に取ってみる。中を見ようとすると、ページの間に何かが挟まっているのがわかった。栞だろうか。そのページを開く。
挟まっていたのは、一枚のメモ用紙。先程蝉のブローチから取り出したのと同じ種類のものだ。そこには、あるSNSの名前とアカウント、IDが記されている。
そしてそのページには、蝉について記されていた。古代中国では、死者の口に蝉を入れる風習があったらしい。地中から出てきて飛び立つ蝉は、復活の象徴だった。死後の甦りを願い、このようなことをしたのだろうか……。
あのブローチは、口に含ませてほしいというメッセージだったのだろうか。いや、それではメモの文言に矛盾する。あのメモは終わらせてくれと言っていた。甦らせるのではない、終わらせるのだ。
ひとまずその本はそのまま保留にして、私はSNSを確認した。そのアカウントはまだ何も投稿していない。ただ、下書きが一つあった。そこには、一枚の写真と数行の文章。
……これを拡散しろということか。効果があるのか、意味があるのか、私にはわからない。でも凛がそうしろと言うなら、やってやろうじゃないか。神の仕事の手助けをしよう。私は蝉のブローチを強く握り締めた。
SNSの拡散だけでは弱いかもしれない。そもそもまったく無名のアカウントがどこまで広げられることか。私はそう考え、学校にビラを巻くことに決めた。デマといったらビラ、というレトロな発想だが、なかなか侮れないはずだ。
ビラをつくり、コピーを大量にとり、私は凛のことを考えた。彼女は今、どんな思いで私や世界を見ているのだろう。箱庭でも眺めている気分だろうか。
次の日の学校は、大騒動だった。
SNSは前日の夜に流した。検索に引っかかりそうなキーワードをたくさん盛ったからかあっという間に想像以上のペースで拡散されていった。そして無数の人々に伝わる中で、新たなデマが生まれ、恐ろしい勢いになった。もはや発信した当事者自身にも収拾がつかない強大なうねりとなった。
学校では、朝早く登校した生徒がビラを見つけ、拡散をさらに拡大させた。教師が気付き回収を始めたころにはもう手遅れだった。何十人という生徒がビラの写真を撮り、友人知人へと流して行った。
反応は様々だった。
「くだらねー」
「マジ勢いヤバくない?」
「蝉を口にって……ほんとに?」
「ムリムリ絶対ムリ」
「ていうかベルゼバブって蠅の王だろ」
「誰がやったんだろ」
「私の友達の友達が聞いたらしいんだけど……」
馬鹿馬鹿しい、と一笑に付すもの。こんなことが起こるなんて、と興奮するもの。一番多かったのは、気持ち悪い、という感想だ。蝉を口に入れて死ぬなんて、理解できない。もっともだ。
朝一番の集会で箝口令が敷かれたが、事態はもうとっくに学校の管理下になかった。早いところではマスコミもこのことを報道し始めた。回り出した歯車は止まることも戻ることもないのだ。
そして、二週間が経った。自殺者は、出なかった。追随する者は現れなかった。
マスコミは新たに発生した政治家の汚職事件の報道にかかりっきりになり、私たちのことを伝えることはなくなった。世間は最近頻発する天災のせいで野菜が高騰していることを嘆いていた。
学校も、以前の姿に戻った。もちろん完全に元通りという訳にはいかなかったが、パニックを起こしていた当時の面影はもうない。生徒もみな落ち着きを取り戻した。
連続自殺事件について、わざわざ掘り返して語ろうという人はほとんどいなくなった。世の中には、刺激的な事故や事件が毎日どこかで起きている。人は新鮮な情報に飛びつく。古くなったら、もう要らない。
一部の人は、事件の真相を解明しようとしたり、凛を信仰したりを続けていた。でもそれは本当に一握りの人たちで、その数は日増しに減少していった。私たちは忘れ去られようとしていた。
人の噂も75日というけれど、人の関心は一週間くらいしかもたないらしい。気にされなくなった時、事件は過去となる。さらに時を経て、それは伝説や物語へと変化する。
私は凛から預かった蝉のブローチを、いつも持ち歩いていた。口に含んでみようかと思ったこともある。でもやめておいた。
そのブローチはところどころ酸化して色が濁っており、体に悪そうだったからだ。
「凛は人が嫌いなの?」
「なんで?」
「なんとなく……そんな感じがする」
「そんなことないよ」
凛の表情はいつもより優しい。光の加減のせいだろうか。
「人間って、自然よりずっと弱いし、コンピューターよりずっと頭悪いし、何をするにも感情に流されて、非効率的非合理的なことしかできなくて、なんかすごい愚かじゃない」
彼女の眼差しは、悪魔のそれにも菩薩のそれにも似ていた。
「でも私は、人間のそういう愚かで醜くて脆いところが、すごく人間らしくていいなって思うし、いとおしいなって思うよ」