2.杏奈
2.杏奈
その日私は最悪な気分だった。
予備校で、先日実施された模試の結果が配られた。手応えはよかった。なかなかよくできたと思った。……それが、このザマだ。
もちろん模試が終わったその日に自己採点した。だからこの結果はわかっていた。信じられなかっただけだ。問題用紙への転記ミスか、何かかと……。そんなはずないのに。
結果が記されたカラフルな用紙をただ呆然と眺める。円グラフ、折れ線グラフ、レーダーチャート。そこにはただ事実が記されている。私にはにわかに信じがたい事実が。
中身を精査することもなく鞄に入れた。頭を抱えた。何かを考えるようでいて、何も考えていない。気持ちが落ち着くのを待っているのかもしれない。
生徒の半数近くがすでに退出したようで、教室にはもういくつかの集団しか残っていない。それらの集団は模試の結果を手にわいわい盛り上がっている。私は机の上を片付けて、教室をあとにした。
予備校を出て、最寄り駅まで歩く。寂れた歓楽街の寂しいネオンが視界の端から端へと流れる。前には中年のサラリーマンや私と同じような学生の姿。なんだかモノクロな世界だ。夜だからだろうか。
ホームでベンチに座り電車を待つ。立って待っている気力がなかった。そう、脱力という言葉が今の私にはピッタリだ。体中から力が抜けてしまった。脱け殻みたいだ。空っぽだ。
電車がきた。乗り換え駅のため、たくさんの人が降車する。隙間ができた車両に何人かが乗り込む。発車する。私はベンチに座ったままそれを見送った。
電車に乗る気力どころか立ち上がる気力もわかない。ただこのままここに座っていたい。そして朽ち果てたい。空気になって拡散したい。現実逃避だ、これは。
そのまま数本電車を見送った。ホームの電灯がちかちか明滅している。このままずっとここにいる訳にもいかない。反対側のホームにやってきた電車に、私は咄嗟に飛び乗っていた。
急な駆け込み乗車のあと、扉が閉まった。下りの電車は空いている。近くの座席に腰を下ろした。鞄の中から携帯電話を取り出し、電源を落とす。もう知らない。ヤケクソだ。勝手にしろ、私。
反対側の座席の窓ガラスに、私の姿がうつっている。二つの三つ編みを下げ、丸い眼鏡をかけている。この格好はポーズだ。私はガリ勉ですという、自己主張というか、まあコスプレみたいなものだ。
……そう、私は自他ともに認めるガリ勉少女だ。朝起きてから夜寝るまでずっと勉強している。家族の誰よりも早く起き家族の誰よりも遅く寝る。日中は平日土日問わずずっと勉強している。勉強時間は他の誰よりも長い自信がある。
それなのに、なぜ……。私は模試の結果を思い出した。こんなに頑張っているのに、なんだあれは。あんなことがあっていいのか。努力は報われるべきじゃないのか。努力は私のことを裏切るのか。
電車が鉄橋の上を通過する。広い川を横切っている。遠くに明かりがちらほら見える。乗客はほとんどいない。
本当は、わかっている。たくさん勉強すればしただけ結果になる訳ではない。努力と結果はイコールではない。努力は報われることもある、程度だ。報われない努力も山ほどある。
どんなに頑張ってもできないことはある。例えば100メートルを5秒で走るとか。そういう物理的に不可能なことは諦めがつく。そもそも試そうとすら思わない。
でも試験はちがう。私は結果を出すことを求められているし、自分でもそれを望んでいる。そのためにたゆまぬ努力を積み重ねてきた。いろんなものを犠牲にした。今の私はそのためだけに生きているといってもいいくらいだ。
それなのに、それなのに、なんなんだこれは。こんなことがあっていいのか。あってほしくない。どうか嘘だと言ってほしい。悪い夢だと。こんなことはありえないと。
電車が住宅地を抜ける。窓の外に高いビルと派手なネオンが増えてくる。踏み切りでたくさんの人が足を止めているのが見えた。
もう一度、この半年をやり直したい。いや、この一年?もっと?いつからやり直せばいい? いつからやり直せば、私は望んだ結果を得られるのだ?
いつからでもダメなのかもしれない。私はこうなる運命だったのかもしれない。運命なんていうと大袈裟だが……とどのつまり、どう抗っても望んだ結果には手が届かないのではないか。
私は自分の限界を感じていた。模試の結果を通して自分の限界を目の当たりにしていた。多分、はっきり言って、もう一年、死に物狂いで頑張ったとしても、望んだ結果は得られない。
それはきっと、やり方が悪いのもあるし、私の頭が悪いのもあるし、私とその科目との相性が悪いのもある。つまり複合的総合的に、私は袋のネズミなのではないだろうか。
もう、手のほどこしようがないということ。
途方に暮れてしまう。じゃあどうすればいいのだ。諦めるしかないのか? そんな簡単には諦められない。簡単ではなくとも諦められない。諦めるという選択肢はない。
では、このまま努力を続ける? もしかしたら奇跡が起きるかもしれない。でも多分起きない。半ば確信している。それに、奇跡頼みという訳にもいかない。
電車はいつの間にか大都会を横断している。にわかに人が増える。夜も更けてきたからか、お酒が入っている人も少なくない。吐き気がする。
電車を降りようか、迷った。そもそも私はどこへ行こうというのか。家に帰りたくないだけだろう。現実と向き合うのがイヤなのだろう。心が折れてしまったのだろう。だからといって、このまま乗り続けてなんになる?
ああ、どこか遠くへ行きたい。私とはなんの関わりのないところへ。そして静かに消えていきたい。夜の闇に溶けてしまいたい。私は素数になりたい。海が見たい。いや湖でも、なんなら池でも川でもいい。もうなんだっていい。
ふと、彼女のことを思い出した。何日か前に自殺したという同じ高校に通う女子生徒を。
私は彼女のことを何も知らない。美人との評判だったらしいが、直接関わったことはない。間接的にも、彼女の死後、そこかしこで囁かれる噂話でくらいだ。
彼女は屋上から飛び降りたらしい。人間関係のトラブルだとか、実は他殺だとか、いろんな憶測が飛び交っている。でも結局のところ本当のことは彼女にしかわからない。議論を交わすだけ無駄だ。すべてはもうすでに終わってしまったことなのだから。
彼女は、別に自殺をするつもりはなかったのではないだろうか。なんとなくそう思う。理由はない。ただふらっとこの世界から消えてみたかっただけかもしれない。
私は彼女に親近感を抱いていた。話したことも会ったこともない赤の他人に。何かを感じていた。……それとも単に、今の自分を都合よく投影しているだけなのかもしれなかったが。
電車はいつしか乗客を減らし、また住宅地を駆け抜けるようになっていた。窓の向こうにもうビル群は見えない。くたびれた電線や住宅や打ち捨てられた商店が瞬く間に通りすぎていく。
県境の短いトンネルを抜けた先で、私は電車を降りた。
駅のホームに人はまばらだ。その数少ない仲間たちも足早にホームをあとにしていく。私は近くのベンチに腰かけた。こんなところまで来てしまった。
次にくる反対の電車に乗れば、自宅へ帰ることができるのだろうか。ぼんやり考えるが、実行するつもりはなかった。ただこのまま呆けていたかった。ずっとこうしていれば、私という存在は風に吹かれて消えるかもしれない。もちろん、そんなことはありえないけど。
頭上の電灯が眩しい。私は立ち上がった。暗がりを求め、歩く。ここで一番暗いのは線路だ。私は周囲をうかがった。誰もいない。ホームの端に監視カメラがついている。
私は軽やかにホームから線路へと飛び降りた。監視カメラは監視をするカメラではない。記録をするカメラだ。私の姿が映っていようとも、今すぐ誰かに咎められる恐れはない。
線路の上は大きめの角ばった石だらけで歩きにくい。一歩踏み出すたび、がしゃがしゃ音を立てる。そのまま下り方面へ進む。寂しげな住宅街に不似合いな音が響く。
しばらく無心で歩いた。線路と自分が一体化したような気分だ。心地よい。このままどこまでも歩き続けていたい。夜風が体を優しく包む。私はうっとりとして目を閉じた。その場に立ち止まる。深呼吸する。体中清々しい空気に満たされる。
空を見上げた。雲の隙間から月の光が漏れている。雲は少しずつ少しずつ風に流される。いつまでも眺めていたい。でも首が痛い。
私は腰を下ろした。スカートごしに線路を感じる。ごつごつしていて痛い。接地面積を増やせばマシになるだろうか。線路と水平に横たわる。不快感はだいぶ軽減された。じっとしていればそんなには気にならない。
再び空を見上げる。空との距離が少し遠くなった。右手を伸ばす。届かない。右手のずっとずっと先に、天上の世界が広がっている。月の光さえ直接見ると少し眩しい。
私は眼鏡を外した。顔の横に置く。目を瞑る。月明かりをかすかに感じる。両手をお腹の上で組んだ。
遠くから、電車の音が聞こえてきた。