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黒月之夢

作者: 川上双炉

 その年は大飢饉だったらしい。

 稲は枯れ、実は実らず、多くの農民が僅かな備蓄と身を削って売った物から得た金で生活していたのだ。

 多くの女・子どもは両親から離れ、知らぬ人間に引き取られていった。

 身売りである。

 子を愛さない親などいない。

 親は皆、引き裂かれる思いで子どもを手放し、金にしたのだろう。

 身売りは食い縁が減り、金が入る二重の策なのである。

 貧しい農民は、せざるをえなかっただろう。

 このまま子どもを自分たちで育てて、餓死させるよりは、と。

 私はそんな子どもの一人だった。


 この文明開化の時代、身売りは多くの場合、製糸・紡績業の発達に伴ったわずかな前借金での過酷な労働源、あるいは性奴隷的な売春行為であった。

 明治政府は明治五年に娼妓解放令を制定し、この人身売買を止めさせようとしたが効果は上がらなかった。

 私が売られたのは四つのときである。

 勿論、労働源や性奴隷とはなり得ない歳である。

 私を買った館の主人が、たまたま私を見かけ、たいそう気に入り、私の親に話を持ちかけて買ったらしい。

 当然、公然と行なえば罪を問われる事なので、私は館の使用人の養子として貰われた事になったそうだ。

 育ての親は当然その使用人で、私はその使用人の姓が付けられ岸田町子となった。

 使用人の岸田亮子は良く働く女で、主人や他の使用人からの信頼も得ており、頼られる存在だった。

 齢は二十五、女も盛りの歳だった。

 そんな亮子さんは、子どもの教育にも余念がなく、私は亮子さんの元で多くの事を学び育った。

 六つの時には亮子さんを手伝って仕事を始め、十歳の時にはご主人様に待望のご子息がお生まれになり、私はそのお世話を専任で行なった。

 私はもはや一人前の使用人とされ、責任を持ってご子息の俊彦様のお世話をしたのである。

 その頃だった。

 亮子さんとご主人様の関係を知ったのは。


 夜も更け、月が空の真上に昇った頃。

 私は俊彦様の夜鳴きで起こされて、眠たい目を擦りながらオムツを取り替えていた。

 不意に誰かに呼ばれた気がして、私は誰もいないはずの廊下に出た。

 長い長い廊下を月明かりが照らす。

 その先の先で、窓側とは逆のほうから人工的な灯りがもれているのが微かに見て取れた。

 この館はご主人様たちと使用人が住む所では棟が違う。

 この棟に居るのはご主人様のご家族だけ。

 私は誰かが苦しんでいてはいけないと、その光のほうに駆け寄った。

 ドアが開いたわずかな隙間。

 そこから充分中の様子がわかった。わかってしまった。

 裸の男女が抱き合ってシンクロしたように動いている。

 それは間違いなくご主人様と亮子さん……。

 私は声が出なかった。

 しばらく身動きも取れずにソレに釘付けになった。

 不意に亮子さんの目がこっちを見た気がして、私はもといた部屋まで一目散に逃げた。


 翌朝、育児の疲れで俊彦様の横で寝息をたてていた私を起こしたのは亮子さんだった。

「町子、起きなさい」

 そういう亮子さんの声には育ての親としての優しさと、仕事仲間としての厳しさが混在していた。

「いつも通りだ……」私は眠たい目を擦りながらそう思った。

 昨日のアレは何だったのだろうか?

 今考えれば夢の中の出来事だった気がする。

「町子、ボーとしてないで、早く顔を洗っていらっしゃい」

 そう亮子さんに急かされて、私は俊彦様のことを亮子さんに頼み使用人の棟へ身支度をしに行った。

 ご主人様の棟に帰った時には、もう朝食が始まっていた。

 ご主人様の家族は奥様と俊彦様のみで、席にはご主人様と奥様だけが座り、亮子さんが俊彦様を抱いていた。

 私は哺乳瓶にミルクを作って持っていき、俊彦様に飲ませた。

「俊彦はよく飲むな。きっとすぐに大きくなる」

 とご主人様が愉快気に話されるとき、奥様は静かに食事を進めていた。

 奥様が俊彦様に母乳を与えられたのは生まれて一ヶ月も経たない間だけだった。

 ご主人様と奥様の仲はそんなに良くないようだ。

 いつも必要以上の言葉意外は交わしていないように見える。

 それに奥様は俊彦様に対してあまり愛情を持っていないようだった。

 俊彦様のお世話は私たちに任せっきりにしている。

 それとも、それが金持ちの家では当たり前なのだろうか。

 私にはわからない事だが、奥様が俊彦様に関わろうとしないのは事実だった。


 私は亮子さんの指導のもとで館の仕事を覚えていき、仕事はかなりできるようになっていた。

 食事の準備や館の掃除、ご主人様の身の回りのお世話、洗濯に買い物、客人の接待も。

 私は十四歳になっていた。

 俊彦様も四歳になられ、つきっきりで面倒を見なくても良くなっていたこともあり、私は多くの仕事をこなすようになっていた。

 私は広い庭を横切るように歩く。

 もう初夏である。

 日差しが少し強く照り、草木はその光を浴びて青々としている。

 日の光のように生命全体が強くなっていくような季節だ。

 私は目的地の厩舎に向かって歩く。

 ご主人様がお出かけになられるので、馬車を出してもらうためだ。

 厩舎に着いてすぐ、目的の人を見つけることが出来た。

 笠原修二がその人である。

 笠原さんはまだ十六歳と若いが馬の扱いにかけては右に出る者はおらず、ご主人様がベット(別当。馬の口取りの意)として雇っている。

 笠原さんは一日の大半を馬と一緒に過ごしている人で、この日も厩舎に行けば会えると踏んだわけだ。

「やぁ、町子ちゃん」

 笠原さんは馬のたてがみを撫でながら私に話し掛ける。

「こんにちは、笠原さん。ご主人様がお出かけになるので馬車の用意をとのことです。」

 私は馬と戯れている笠原さんに伝言を伝える。

「わかった。よし、仕事だぞ」

 伝言を受け取った笠原さんは、パートナーである馬に話し掛ける。

 笠原さんと馬たちは互いに信頼し、長年の親友のようであった。

 それは笠原さんが多くの時間を割いて馬の世話をし、築き上げてきたものだろう。

 そんな馬が私は羨ましいと思う。

 このときの私は、この気持ちが何なのか良くわからないでいた。

 十四歳の初夏、私の初恋だった。

 この館には私たちのような雑用をする使用人のほかに、料理人・ベット・植木職など様々な専門職の人たちが使えている。

 それぞれが仲間内であり、他のグループと接触する事は少ないが、私たちは仕事柄、他の職の人たちと接する機会が多い。

 そうは言っても、やはり仲間内での仕事が多く、私が笠原さんに会えるのは一週間に一回程度だった。

 笠原さんがベットを勤める馬車を見送った後、私は亮子さんと共に仕事に戻る。

 亮子さんは私たちを仕切るほどにまでなっていた。

 給仕長にまでなっていたのである。

 私はそんな亮子さんの右腕となって仕事をしている。

 自分が誇らしかった。

 買われた身分とはいえ、ここまで育ててもらった恩は存分に返したいと思っている。


「僕は町子ちゃんがここに来たときの事を覚えているよ」

 笠原さんが私に話し掛ける。

 買い物の帰り、遠回りして厩舎に寄ってみたことは功を奏したようだ。

 この頃の私はコレが恋だと気付いてはいなかったが、やはり笠原さんには会いたいと思っていたのだ。

「あれは僕が六歳のときだったよね」

 笠原さんの話を私は頷きながら聞いていた。

 ベットは笠原さん一人と言うわけではない。

 それでも今厩舎にいるのは私と修二さんだけだ。

 怒られるのを覚悟で厩舎に寄ってよかったと心から思った。

「僕もね、ここに買われて来た身なんだ」

 笠原さんの言葉に私は驚きを示す。

 ただ、声はでなかった。

 仕事の話ならすらすらと喋れるのだが、私事の話となると何故か言葉がうまくでなかった。

「子どもの頃から馬が好きで、八歳の頃には馬は自在に操れたんだ。それでお館様に買われた。あの年は大飢饉だったからね。皆、自分が生きるのに精一杯だった」

「大飢饉だったんだ……」

 私はこの時初めて自分が買われた理由がわかった。

 それまでの私は、両親に捨てられたと思っていたのだ。

 だからご主人様への恩も強く感じていたのかもしれない。

 私は「大飢饉だった」という事実が嬉しかった。

 私は捨てられたわけじゃない。

「始めは嫌で嫌でしかたなかったんだ。お館様のために働くのが」

 このことも私を驚かせた。

 笠原さんはご主人様にも認められるくらい仕事熱心な方だったのだから。

「ここに来て二年経って町子ちゃんが働き出したとき思ったんだ。あんな小さい子でも一生懸命働いているのに僕は何をしているのだってね。それからだよ。仕事に打ち込むようになったのは。だから町子ちゃんには本当に感謝しているんだ」

 そう面と向かって言われて、私は顔を俯いた。

 恥ずかしかった。

 でも、凄く嬉しかった。

 笠原さんに褒めてもらえて。

 厩舎で雑談して帰ると、案の定亮子さんに遅いと怒られてしまった。


 それが梅雨の日だったことを覚えている。

 夜まで雨が降り続けている日だった。

 周りの音が雨の音で消される中、私は誰かに身体を揺すられた。

 眠たい目でその人を確認する。

 その人は亮子さんだった。

 使用人の部屋は給仕長の亮子さんほか限られた人たち以外は、さほど大きくない共用の部屋だ。

 他の人たちはまだ眠っている。

 私は亮子さんに指で指されるまま、その部屋を後にした。

「どうしたんです?亮子さん」

 まだ眠った声で、私は亮子さんに尋ねる。

「今から一つ仕事をしてもらうわ」

 そう言って亮子さんは私を先導するように前を歩く。

 使用人用の小さい棟を抜け、大きい棟へと移る。

 ご主人様の棟。

 私はなにごとかと思いつつ、亮子さんを追いかけるように歩く。

 そして行き着いた先は、ご主人様の寝室。

 亮子さんはドアをノックする。

 中から声が聞こえて、亮子さんは中へと入っていく。

 私の頭の中には、十歳の時の記憶が鮮明に思い出される。

 ご主人様と亮子さんが裸で抱き合っていた姿が。

 私は部屋に入る事に躊躇する。

 幼い頃、「ご主人様がたまたま貴女を見かけ、たいそう気に入り、貴女の親に話を持ちかけて買ったのだ」と亮子さんに聞かされたことがあった。

 その亮子さんの声が頭の中で繰り返し再生される。

「早く入りなさい」

 亮子さんの声が聞こえて、私は我に戻る。

「嫌だ。入りたくない」

 私の中の私は強く拒絶する。

 しかし。

 私はこの状況を拒絶できるわけがない。

 私は買われた身。

 私はご主人様の命には絶対服従の身。

「失礼します」

 少し引きつってしまった声で、私は室内に入る。

「町子はこれから何があるかわかっているようだ」

 ご主人様が感心したように言った。

 後ろでは、亮子さんがドアを閉める音がした。

 この晩、私は「女」になった。

 その一部始終を亮子さん、いや岸田は見守っていた。

 幾度か、頭の中に笑顔の笠原さんが写った。


 朝、日が昇る前に解放された私はふらつく足取りで厩舎へと歩いた。

 驚いた事に笠原さんがいた。

 笠原さんは馬の食事の準備をしているようだった。

 笠原さんを見かけた私は思わず走った。

 私に気付いた笠原さんは驚いた表情をする。

 私は体当たりするように笠原さんにしがみついた。

 私は笠原さんにつかまって泣いた。

 大声で。

「町子ちゃん?どうしたのこんなに早くにこんなところで」

 笠原さんは何があったのかわからず、困りながらも私を介抱してくれた。

 使用人の棟では、朝の準備のために使用人たちが起き始めていた。


 その日、私は共用の部屋から一人部屋に移された。

 理由は明白。

 私は目の前が真っ暗になる気分だった。

 相手が尽くすべきご主人様だったとしても、受け入れられる事とそうでない事がある。

 慕っていた岸田は、私の育ての親である前にご主人様の忠実な僕であった。

 それはわかっていたことだ。

 それでも、私は岸田に期待していた。

 私のことを気遣ってくれると思った。

 私は岸田を信じる事は出来なくなった。

 そこで気付いた。

 私は孤独だ。

 尽くしてきたご主人様も慕っていた岸田も信じられなくなった。

 仕事一本だった私は、他の使用人たちとは仕事仲間ではあるが、そこまで仲がいいわけじゃない。

 お世話をしていた俊彦様は、もう私の手にはいない。

 一人部屋、誰もそばにはいてくれない部屋で私は泣いた。

 ただ、笠原さんの顔だけが浮かんでいた。


 二度目の日は、初めの日の三日後にやってきた。

 仕事中、岸田が近くに寄ってきて、耳元で言う。

「今晩は仕事ですよ」と。

 私は一気に血の気が引く思いがした。

 もうあんな思いはしたくない。

 それでも私に「嫌です」と言う権利はない。

 返事をしない私をキツイ目で見つめる岸田に向かって、「わかりました」とやっとの声で言う。

 その日の仕事はずさんな出来だった。

 夜、私はそこから逃げ出したい思いで部屋にいた。

 ドアを叩く音がして、私は返事をする。

 岸田だ。

「準備はできましたか?」

 私はただ頷く。

「それでは行きましょう」

 岸田が前を歩く。

 その後を重い足取りで私は歩く。

 ご主人様の部屋の前に立って、岸田が私を促す。

 私は一瞬躊躇して、それでもノックをする。

 中からご主人様の声が聞こえる。

「失礼します」

 私はドアを開け、中へと入る。

 岸田はそれを見送ると、部屋の中へと入ることなく去っていった。

「よく来たね。こっちにおいで」

 ご主人様が私を呼ぶ。

 私はご主人様の言う通り、その場所に行く。

 そして、仕事が始まる。

 二回目のソレは、今まで感じた事のない快感に襲われた。

 ただ痛かっただけの一回目とは違う。

 私は快感を得てしまう自分自身が嫌で、醜くて、不潔に思った。

 夜明け前、私はご主人様の部屋を去る。

 涙腺が涙で滲む。

 しかし、泣かなかった。泣けなかった。

 女の意地だ。

 私はまた庭に出る。

 厩舎には、やはり笠原さんがいた。

「あれ?町子ちゃん?」

 笠原さんが私を見かけて声をかける。

 私は思わず、笠原さんにすがって泣いてしまった。

 意地のはずだったのに。

「どうしたの?」

 笠原さんが介抱をしてくれながら私に訊く。

 答えられるわけが無かった。

 私はこんなに醜いのだと言いたくなかった。

 ご主人様の評価を落とすようなことは、使用人として出来なかった。

 だから私はただ泣いた。


 新しく私の「仕事」になった事は、度々行なわれた。

 ご主人様に寵愛を受ける事は、心の拒絶と体の歓喜の間で揺れた。

 心がいかようでも、体は種の継続を望むようだ。

 この「仕事」をするのは私の他にも何人かいるようだという事、その中にはやはり岸田も含まれているという事を、「仕事」中にご主人様が言っていた。

 それに私は気にいられているらしいということも。

 私は「仕事」の後、決まって厩舎に行った。

 夜明け前にも関わらず、そこには決まって笠原さんはいた。

 始めのうち、私は毎回笠原さんの前で泣いていた。

 笠原さんは理由も聞かずに私を介抱してくれた。

 泣かなくなってからも、厩舎には行った。

 厩舎で笠原さんと他愛もない話をして、落ち着いていた。

 この頃になってやっと私は、自分が笠原さんをどう思っているか気付いた。

 そして、その恋を諦めた。

 ただでさえありえないのに、汚れてしまった私に、笠原さんが振り向いてくれるはずもないのだ。


「仕事」の時は、いつもより丹念に体を洗う。

 部屋に戻って、淡く化粧をし直す。

「町子。早くしなさい。ご主人様がお待ちですよ」

 岸田が私を呼ぶ。

 私は頷くだけで声では答えず、岸田の後をついて歩く。

 その日その日の娘を部屋まで連れて行くのが岸田の仕事のようだ。

 私はご主人様の部屋にノックをして入る。

 ご主人様は待ちかねていたように私を迎え入れる。

 私はご主人様の持つ杯に酒をいれる。

 ご主人様はその酒を美味そうに飲む。

 好きなだけ飲んだ後、ご主人様は私の服に手をかける。

 私は、なすがままにされる。

 恍惚とし疲れた体で、私はその場で眠りに落ちる。

 夜明け前に目が覚めて、私は静かに部屋を後にする。

 まだ冷える庭に出て、微かな光を頼りに厩舎へと歩む。

 そこにはいつも彼がいる。


「やぁ、町子ちゃん。おはよう」

 笠原さんが笑顔で挨拶をくれる。

「おはようございます。笠原さん」

 私も笑顔で挨拶を返す。

 少し前だったら出来なかった。

 私は変わってしまったのだろう。

「今日は早起きしたんだね」

 笠原さんが私に言う。

 笠原さんに本当のことは言えない。

 早く起きてしまったときに、来るのだということにしている。

「ええ。それに怖い夢も見ていませんよ」

 私は笑顔で返す。

 泣いてしまったのは怖い夢を見たからだという事になっている。

 少々苦しい気もするが仕方がない。

「そうみたいだね」

 笠原さんが笑いながら言う。

 そして二人で雑談に花を咲かせる。

 私の、一番大切な時間。

 この時だけ、私は幸せを感じることが出来た。


 私は一年でだいぶ変わったと思う。

 そう、あの「仕事」の始めの日からの一年だ。

 十五にしては大人びて見えるだろう。

 仕事人間だった私が、仕事仲間に触れ合いを求めるようになり、友情を築くようになった。

 それは専門職の方たちにも同じようだった。

 あまり人間関係を気にしなかった私が、ひどく明るく人と接するようになった。

 ただ、それは心の中にできた暗闇が生み出した反動だろう。

「仕事」はあいかわらず嫌だったが、心のどこかで割り切れてしまう自分がいた。

 笠原さんの事があいかわらず好きだったが、かなわぬ恋だとすっぱりと諦めていた。

 人との交流を多くして周りに人を集めるのは、拭いきれない孤独を感じているからだ。

 私は私。されど私。だけど私。

 明るい私も暗い私も私で、どちらが本物の私というわけではない。

 だけど心の奥底にはいつも、闇。

 そしてそこにポツンと浮かぶ、月。

 闇と月。

 どちらもここ一年の仲なのに、ひどく慣れ親しんできた気がした。


 その日は「仕事」の日だった。

 一年も経てば嫌でも馴れる。

 私は自らご主人様に奉仕することも覚えた。

 何をすればご主人様が喜ぶかも覚えた。

 そんな自分に悪寒を覚えることは、数え切れないほどだった。

 いつも通り夜明け前に目を覚ます。

 ご主人様もいつも通りまだ横で寝息を立てている。

 私は静かに、服を着て外へと出る。

 厩舎への道を行く。

 いつも通り修二さんに会う。

 笠原さんとも仲良くなって、私はいつしか「修二さん」と呼ぶようになっていた。

 いつも通りお互い挨拶をして、雑談に花を咲かせる。

 太陽が徐々に上がり、辺りを光で満たしていく。

 夜明けの瞬間だ。

 日の出の時間が、私は好きだった。

 私の心にもいつか、と思う。

「どうしたの?」

 一瞬、暗い顔をしたのを修二さんに見られたようだ。

「え?なんでもないですよ?」

 私は何事も無かったかのように笑顔で答える。

「そう?ならいいんだ」

 少し怪訝な顔をして修二さんは言う。

 その様子に、私は少し居づらさを感じる。

「私もういきますね」

 私は笑顔で修二さんに言う。

 いつも、日の出を見届けた後には、部屋に帰るのだ。

 そうして、私はいつも通り、部屋への歩みを進める。

「町子ちゃん、ちょっと待って」

 それを修二さんに止められた。

 私は少しギクリとしたが、笑顔で振り向く。

「修二さん、なんですか?」

 私はそこで、修二さんが真剣な顔をしているのに気付く。

 私も緊張する。

 修二さんは少し思い口調で言う。

「訊きたい事があるんだ」

「なんですか?」

 私も緊張して訊き返す。

「君はここに来る前何をしていたんだい?」

 私の背筋が凍りつく。

 それでも私は、変なことを訊くのですねという素振りをしながら言う。

「部屋で寝ていましたよ?」

「本当の事を教えて欲しいんだ」

 修二さんは食い下がった。

 私は困った表情をする。

 それでも修二さんは私の目を真っ直ぐに見て放さなかった。

 私も真剣な目つきになる。

「本当に寝ていましたよ?だいたい修二さんは、それを知ってどうするって言うのです?」

 修二さんが俯く。

 そしてもう一度顔をあげて言った。

「噂があるんだ」

 それなら私も知っている。

 仕事仲間からも質問を受けたことがあるし、陰でヒソヒソと話されたこともある。

「仕事」のこと。

 同じ場所に住んでいるのだから、噂ぐらいにはなるだろう。

 覚悟はしていたし、それぐらいでは動じなかった。

「それなら私も知っています」

 私は修二さんに答える。

「あくまで噂です。それにその噂が修二さんに関係あるんですか?」

 私はきつい口調で言う。

 この一年、めったに使わなくなった口調で。

 けして修二さんの前では使わなかった口調で。

 修二さんは口を閉ざした。

 私はもう一度部屋への道に向いて歩き出す。

「関係があるんだ。」

 後で修二さんの声がして、私はもう一度振り向く。

「関係あるんだ。君のことが好きだから」


 私は走って部屋に戻って、勢いよくドアを閉めた。

 頭の中はグチャグチャに混乱して、なにが何だかわからない。

 私はドアにもたれたまま、崩れ落ちた。

 息と混乱を静めるために深く深く深呼吸をする。

 ようやく気持ちが落ち着いてきた頃には、仕事の時間に入っていた。

 叶わないはずの恋だったのではなかったか。

 修二さんが私に惚れるなんてことが在りえるのだろうか。

 私の頭はグルグル回る。

 一日中仕事なんて手につかなかった。

 告白を受けた後、私は修二さんに何も答えなかった。

 修二さんの顔も見られなかった。

 ただ、すぐに館の方を向き、一目散に部屋に逃げ帰ってきたのだ。

 あのとき、私はなんと言えばよかったの?

「嬉しいです」?

「困ります」?

「ごめんなさい」?

 どれもしっくりこない気がする。

 日も沈み仕事も終わる。

 仕事私はベッドにうつ伏せに寝転がる。

「自分が好きな相手に好きと言われて困るなんてコッケイだなぁ」

 ポツンとつぶやく。

 その言葉は静かな部屋に吸収される。

 もう厩舎には行けないと思う。

 私は怖い。

 修二さんに嫌われるのは。

 修二さんとの関係が悪くなるのが。


 私は修二さんから逃げ続けている。

 厩舎へ行かなければならない仕事は全て他の人に頼んで行ってもらった。

 あの後も何度か「仕事」の日があったが、ご主人様の部屋から自分の部屋へ真っ直ぐ帰ることにしている。

 歯車の狂った日常に違和感を覚える。

 だけど修二さんに会うよりはよかった。

 こうなってしまっては、もう修二さんに会わせる顔もない。

「町子さん」

 ため息をつきながら仕事をしていた私に、後から岸田が声をかけてきた。

「なんですか?岸田さん」

「なんですか、じゃありません。ここ最近気が抜けすぎですよ。貴女らしくない」

 やっぱり怒られてしまった。

 こんな勤務態度では岸田じゃなくても怒るだろう。

「すみません」

 私は頭を下げて謝る。

「しっかりしなさい。ご主人様がお呼びですよ」

 私は、いぶかしんだ。

 夜なら例の「仕事」だが、昼間に呼ばれる事などあまりない。

 ご主人様にすら、私の勤務態度の悪さが目に付くのだろうか?

 私は緊張した足取りでご主人様の部屋に向かった。

 ご主人様の部屋にノックをして入る。

 机にむかっていたご主人様が私のほうを向く。

「やぁ、町子くん。お疲れのところ悪いね。ココに座りなさい」

 ご主人様が笑顔で私を迎える。

 白髪交じりの頭、蓄えた髭、その顔立ちから風貌まで紳士そのもののように見える。

 夜とは物凄く違って見える。

「聞いた話だが、最近元気がないみたいだね」

 ご主人様が気遣うように言う。

「はい、すみません」

 私は素直に謝る。

「別に責めているわけじゃないのだよ。何かあったのかい?」

 ご主人様は優しいと思う。

 あの「仕事」をさせる以外は。

「いえ、特にこれといった事は……」

 私は嘘をつく。

「貴方のせいです。」なんて言えるわけもない。

「ならいいのだがね……」

 そこでご主人様は言葉を戸切る。

「あるベットが悩んでいたよ。会ってもくれないとね」

 私はドキッとする。

 確実に修二さんだ。

「仲の良さはよく聞いていたんだがね。どうしてケンカをしてしまったのかな?」

 私は直立したまま固まる。

 私に答えられるはずがない。

 私の様子を見たご主人様が言葉を続ける。

「そのベットは私が見込んでいただけのことはあったよ」

 それが、どういうことだかわからない。

 私は考えることができる状態じゃなくなっていた。

「岸田町子を嫁にほしいと私に願い出た」

 ご主人様の言葉が私の頭の中で木霊する。

 その言葉を理解するのに、おそらく私は五秒ほど費やした。

「え?」

 五秒費やして出た言葉がそれだけだった。

 それがやっとだった。

「なかなか見込みのある者だと思わないかい?」

 ご主人様がにこやかに言う。

 私は呆然と立ち尽くしていた。

 ご主人様の言葉に答えらないほどに。

「そこでだ。君はこの話をどう思うかな?」

 私は動かない頭を、無理やり稼動させる。

 つまりは、修二さんが私をくれと言ったわけで、私は修二さんのところに嫁ぐことになる?

 そこまで考えて、私は顔を真っ赤にした。

 それを見てご主人様が楽しそうに笑う。

「まんざらでもないようだね。」

 そこでご主人様は表情を一変させて言う。

「しかし、私は認めなかった」

 私も厳しい顔になってご主人様の方を向く。

「君は私の所有物だ。残念ながら君の意志だけでは嫁ぐ事は許されないんだよ」

 その通りだ。

 だから、叶わぬ恋なのだ。

「私はね、町子くん。君を気に入っているのだ。手放したいとは思わない」

 私は嬉しいような、悲しいような、自分の感情がわからなくなってきた。

 混乱する私に向かって、ご主人様が緊張を解いた顔で言った。

「だけれども。そのベットも私のお気に入りなのだ。だからこういう事にした」

 ご主人様が説明する。

 私は息を飲み込んでそれを聞く。

「この一年でもし君が、私が認めるほどの男になったら、町子くんに求婚する機会を与えよう。君が一年経っても成長しないようならば、町子くんは他の者のところに嫁がせる。とね」

 私はもうすぐ十六になる。

 私が十六歳の間は待ってくれるという事らしい。

 確かに、それ以上は婚期を逃しかねない。

「どうかな?後は君次第なのだがね」

 ご主人様が紳士的な笑みを浮かべて私に訊く。

「はい。それでいいと思います」

 私は答える。

 私もそれがいいと思う。

「そうか」

 ご主人様が笑顔で頷くように私の言葉を受け取る。

「そうそう。その間の君の事だがね」

 ご主人様が思い出したかの様に言う。

「夜の仕事は続けてもらうよ。それと、そのベットに会う事は咎めないが、それ以上のことは認めない。それでもいいかね?」

 ご主人様の顔は再び厳しいものになっていた。

「かまいません」

 私は答える。

「そうか。ならいい」

 そしてまた、ご主人様は笑顔に戻る。

「ご苦労様。仕事に戻ってくれたまえ」

 そう言ってご主人様は机のほうに向き直った。

「失礼します」

 そう言って部屋を出て行こうとする私を、ご主人様が呼び止めた。

「最近は仕事も手につかんほどだったらしいね。ちゃんと気を引き締めるように」

「はい」

 私は謝るようにして言い、部屋を出た。

 結局怒られてしまった。

 だけれど、なんだか気分は良かった。


 その日の仕事が終わった後、私は意を決して庭に出た。

 もちろん厩舎に行くために。

 目的の人物はやはりそこに居た。

「町子ちゃん!」

 修二さんは驚きと喜びとが入り交じったような声で私を呼んだ。

「ごめんなさい」

 そんな修二さんに向かって私は頭を下げた。

「今まで避けていてごめんなさい」

「いいんだ。こうして会いに来てくれたから」

 修二さんは私に頭をあげて欲しいと言わんばかりだ。

「ご主人様から話は聞きました」

 その報告をするために、私はここに来たのだ。

「そうか」

 修二さんは少し照れたように言った。

「それで?」

 修二さんは答えを待ちきれないように言う。

「お話はお受けしました」

 私は笑顔を浮かべて言う。

 笑顔なんて久しぶりにした。

「そうか……」

 修二さんは喜びをかみ締めているかのようだった。

「町子ちゃん。俺、頑張るから」

 修二さんが私の肩を掴んで言う。

「はい」

 私も喜びを表して答える。

 でも、私が言わなきゃいけないことはそれだけじゃない。

「修二さん、あの噂は本当なのです。そしてこれからも……」

 修二さんは真顔になって私を見つめる。

「そんな、そんな私でも言いと仰ってくれるのですか?」

 目が涙目になっているのが、わかる。

 そんな私に修二さんが言う。

「俺は、君じゃなきゃダメなんだ」

 私の目から涙がこぼれる。

 さっきとは意味合いの違う涙が。

 私は修二さんにつかまって泣いた。

 そんな私を、修二さんは優しく抱きしめてくれた。


 それから、修二さんは必死で働いた。

 私も、その気迫に後押しされるかのように今まで以上に頑張って仕事をした。

 あいかわらず「仕事」は心と体のぶつかり合いの中にあった。

 そんな「仕事」帰りの私を、修二さんは暖かく迎えてくれた。

 今まで通りの生活、今まで通りの日常。

 私たちはすでに夫婦のようだった。

 幸せが一歩ずつ近づいてきているような気分だった。

 そんな中、日本は戦火に巻き込まれる。


 一九零四年、明治三十七年二月六日、日露戦争(明治三十七八年戦役)勃発。

 一八九五年の三国干渉以来、露西亜ロシアとの関係が悪化したことは、ご主人様が仰っていた。

 その後、一九零零年に中国で起きた義和団事件を期に露西亜軍は中国東北地方に軍を留め、さらには占領を繰り返して朝鮮へも進出したのだそうだ。

 そしてこの年、ついに日本軍は遼東半島の旅順へと進撃したのだ。

 日本国内は一気に戦争へと向いた。

 日清戦争(明治二十七八年戦役)での勝利が、日本人の好戦的姿勢を後押ししていた。


 私がその話を聞いた時は耳を疑った。

「町子、君は反対すると思っていたよ。だけどそんな顔はしないでくれ」

 修二さんが少し困った顔で言う。

 私はたいそう不機嫌な顔をしているようだ。

「ですが、私は反対です」

 ご主人様が定めた一年に、もうすぐなる。

 修二さんも私も、ご主人様に認めてもらえるだけの働きをしたはずだ。

 もうすぐなのだ。

 なのに……。

 戦争に行こうだなんて……!

「俺はね、こんなものじゃ君をもらえるほどの働きには達していないと思うんだ」

 空を見上げて修二さんが言う。

 それから、私の方を向いて続ける。

「君は自覚がないようだけど、君は相当いい女だよ」

 そう言われて、私はしばし呆然としてしまった。

 数秒送れて、顔を赤くして俯く。

 その様子を見た修二さんが笑いながら言った。

「俺が言うだけじゃノロケに聞こえるけどね。実際に君が街を歩けば、ほとんどの男性は振り向くよ」

 似たようなことを、ご主人様にも言われたことがある。

 私は釈然としていない顔をしていたのか、ご主人様は笑いながら「町子くんは自分を過小評価しているようだね」と笑われた事がある。

「そんなことないと思うのですけど……」

 首を傾げながら言う私に、修二さんは少し寂しげな表情を見せた気がした。

「とにかく、俺が納得できないんだよ。だからこの戦争で立身出世する。そして君を迎えに来るから」

 修二さんは固い決意をした目をしていた。

 もう止める事は出来ない……。

 私はそう思った。

「ご主人様にご相談しましょう」

 私は苦し紛れに言った。

「確かにお館様の許可を戴かなくてはいけないね」

 修二さんはそう言って頷く。

「そうする事にしよう。」

 私たちは二人でご主人様にご相談する事に決めた。


 ご主人様も私と同じく、話を聞いたときは雷に打たれたような顔をしていた。

「わざわざ戦争に出ることもない」

 ご主人様が反対する。

「ですが、私は自分に納得できないのです」

 修二さんがご主人様の目を真っ直ぐに見据えて言う。

「修二よ。私はね、最初から君たちの婚姻を認めるつもりだったのだよ。ただ、二人で生活していくにはまだ心もとなかったから、私が喝を入れただけでね。君が戦争に行く事までは望んでいない」

 ご主人様が諭すように言う。

 国内は戦争賛成派が多数を占め、好戦的であった。

 ただ一部の文化人など、例えば幸徳秋水や堺利彦ら平民社や与謝野晶子などは反戦を唱え、そういった方たちと交流のあったご主人様は、自分自身が日清戦争で多くの使用人たちを失ったこともあり、日露戦争には使用人を出兵させないつもりだったのだ。

「お館様はそのつもりだったかもしれません。でも私は町子を娶るにあたって今のままではダメだと感じているのです」

 ご主人様も、その勢いに飲まれていた。

 使用人が、特に修二さんが自分の主人に対してここまで反論する事など普通はありえない。

 ついには、ご主人様もその出征を許す事になった。

 それから数日後の「仕事」のとき、ご主人様は私に謝った。

「すまない。修二の出征を止める事が出来なかった」

 私は首を振る。

「ご主人様のせいではありませんよ。修二さんは決心した目をしていたのです」

 それが少し寂しい。

 私を、愛した女を残して戦地に赴くのが、そんなに偉いのかと。

 それはご主人様に伝わったらしい。

「町子くん。どうか修二の事もわかってやってくれ」

 今度は私を諭すように話す。

「男には誇りを持たねばならん事があるんだよ。それは、例え生死を問われる事になっても持たねばならん事なのだよ」

 私は納得がいかない。

「では、ご主人様もそのような時がおありなのですか?」

 そう訊かれて、ご主人様は寂しい笑顔を見せた。

「私も五十八歳だ。年老いてしまったよ。しかし、三十年も前ならば、私は修二と同じ事をしたと思う」

 それは、幕末と文明開化という激動の時代を生き抜いてきた、確かに重みのある言葉だった。

「町子くん。君は今日でこの仕事を引退だ。君には苦しい思いをさせてしまっただろう。今からは、あの男のためだけに生きてやってくれ」

 そう言われて私は驚いた。

 今日で引退、か……。

 この「仕事」が楽しいと思ったことなどない。

 いまでも「仕事」に関してはご主人様を恨む。

 この仕事の終わりが意味するところは、やはりそこなのだろう。

「ご主人様、ここまで育てていただきありがとうございました。私は修二さんのもとで幸せになります」

 そう言って頭を下げる。

「いや、君はホントによくできた子だった。これからも館の仕事は任せたよ」

 私は頷く。

 涙が溢れて、声が出ない。

 そんな私を抱きしめて、ご主人様が言う。

「君を育てたのは亮子だ。亮子に感謝してやってくれ」

 私は複雑な思いになった。

 確かに育ての親は岸田だ。

 しかし、岸田は私を守ってはくれなかった。

 それでも、私をここまで育て上げたのは岸田だ。

 私の中で二つの思いが葛藤する。

「ゆっくり仲直りしていけばいい」

 ご主人様が優しく呟いた。


 出発の前日の夜、修二さんが私の部屋に来た。

 修二さんがこの部屋に来るのは初めてだ。

 勿論、私が修二さんの部屋に行ったこともない。

 修二さんの部屋は、他のベットとの共用なのだが。

 ご主人様のいい付け通り、清く正しい付き合いをしてきた。

 ただ、それも今日で終わり。

 出征していく男が女を抱くのは、しきたりのようなものになっていたと言っても過言ではないのではないか?

 それは、種を残そうとする人間の本能によるものなのかもしれない。

 修二さんが私を抱き寄せる。

 そして、接吻。

 そのまま、ベッドに倒れこむ。

 あぁ、愛する人に抱かれるという事は、これほどまでに気持ちのいいものなのか。

 私たちは行為に夢中になった。

 別れの時が迫ってくる中、ただ夢中になったのだ。

 朝目が覚めると、私を見ていた修二さんが笑顔を見せた。

「おはよう」

「おはようございます」

 と返事をする。

 何だか恥ずかしかった。

「町子、絶対迎えに来るから。そのときは結婚しよう。」

 修二さんの言葉に、私は頷く。

「これさ、俺だと思って肌身離さず持っていてくれないか」

 そう言って修二さんが大切にしていた懐中時計を渡される。

 私はそれを受けとる。

 修二さんは優しい笑顔を私に見せた。


 修二さんが居なくなってからは、私はもぬけの殻になったような気がした。

 多くの人たちが私に励ましの言葉をかけてくれ、元気付けてくれた。

 特にご主人様は人一倍私のことを気に掛けてくれた。

 ご主人様も修二さんを止められ無かったことに、罪悪感があったのかもしれない。

 そのおかげで、私は少しずつ元気を取り戻した。

 修二さんからはたまに手紙が来、私もそれに返事を書いた。

 手紙が来る間は、修二さんは生きているのだ。

 私は、一刻も早く終戦になりますよにと願わなかった日はなかった。


 修二さんが旅立った後の頃から、岸田が体調不良を訴えるようになった。

 薬も効かず、岸田は日に日に衰えていった。

 岸田は医者にかかることを拒んでいたが、そういうわけにもいかなかった。

 診断結果が出るや否や、そのことがご主人様に伝えられ、一気に館に衝撃が走った。

 診断結果は虎列剌コレラだった。

 伝染病の一種である虎列剌による死亡率は、かなり高いものである。

 患者は専用の診療所に隔離され、周りに移らないようにする。

 岸田は体調を崩してからしばらく立つ。

 館中に広まっていれば、館全体に広がっているということもありえない話ではない。

 すぐに全員の診断が行なわれた。

 幸い、他に感染者はおらず、虎列剌が蔓延することは無かった。

 もともと栄養を偏りなく取る日本人は、虎列剌にはなり難い方なのだ。

 それでも多くの患者が命を落としているのだが。

 裕福なご主人様に雇われている者たちにはかかりづらかったのだろう。

 しかし、岸田の場合は虎列剌に感染する前に、風邪にやられたのがいけなかったようだ。

 岸田はすぐに近くの虎列剌の診療所に移された。

 そのときのご主人様の心配ようは、傍から見ても大変なものだった。

 この時初めて、ご主人様と岸田が愛し合っていたのだと気付いた私は鈍感だろうか?

 岸田は、私や他の女のように「仕事」としてご主人様に抱かれていたわけではないのだ。

 二人は愛し合って、お互いを求めていたのだ。

 奥様との不仲は、二人の間に愛が存在しないからなのだろう。


 私は、岸田の代理として給仕長を務めるようになった。

 そして、岸田の凄さをしる。

 私は仕事で一杯一杯になっていた。

 彼女はこれだけの仕事を、顔色を変えることなく務めていた。

 しかし、おかげで修二さんの居ない寂しさは紛らわせたと思う。

 ご主人様は相変わらず元気がなかった。

 私はそんなご主人様にできるだけのことをした。

 修二さんが言ってしまったとき、ご主人様は私をよく気遣ってくれたのだ。

 そのお返しをしなければならないと思った。

 ご主人様は食が細く、ため息も多くなり、夜の「仕事」も求めなかった。

 調子が良くないのは目に見えてわかる。

 私は酒が入らないと寝る事が出来なくなっているご主人様に晩酌をし、お休みになられたのを確認してから、同じ部屋のソファで寝るようになった。お互い、愛するものがいない間柄なのだ。

 寂しさを紛らわしあった。

 給仕長の仕事をするようになって、私はまた会う機会が少なくなっていた俊彦様と接する機会が多くなった。

 俊彦様のしつけと健康管理は給仕長の仕事のようだ。

 俊彦様は幼い時の記憶もあるのか、私を慕ってくれた。

 私に俊彦様のしつけができるか不安だったが、なんとか上手くやっていけた。

 岸田にしつけられた自分の記憶があったから。

 思えば、私は岸田にお世話になりっぱなしだったではないか。

 岸田は私を我が子のように育ててくれた。

 そんな私に冷たく当たられるようになれ、岸田はどう思っただろうか。

 私は俊彦様が、岸田にあたる私のように私にあたるところを想像する。

 とても堪えられるものではなかった。

 私の目から涙が落ちた。

 私は何年間も岸田に悪い事をしてしまっている。

 私は岸田が、亮子さんが帰ってきたらすぐに謝ろうと心に決めた。


 日露戦争が開戦して早十一ヶ月。

 年を一つ越えた一月の新聞の一面に、大きな見出しが載る。

「旅順開城 大日本帝国、旅順ノ攻略ニ成功セリ」

 日露戦争開戦以来の激戦地、旅順を日本は攻略する事に成功した。

 日露両軍ともに何万人という死傷者を出しての勝利だった。

 これで戦争終結に一歩近づいた、と思う。

 同時に修二さんの安否が気にかかる。

 修二さんからの手紙の間隔は前よりも長いものになっていた。

 さらに数日後、露西亜で起こった「血の日曜日事件」が新聞の一面を飾る。

 露西亜の民衆は帝政に対しての不満を爆発させたのだ。

 しかし日本も、その国力を戦争に使い果たしていた。

 列強に比べれば乏しい国力で、日本はよく露西亜と戦ったものだ。

 戦争も終わりに近づいている。

 そんな中、一通の手紙が届く。

 その内容を見たご主人様は崩れ落ちた。

 享年三十七歳、岸田亮子は虎列剌によって病死した。

 当然、私にも衝撃が襲う。

 やっと仲直りする決心がついたのに。

 私は俊彦様の前で泣いた。

 その場で泣き崩れた。

 まだ、何も知らない俊彦様が私のことを気遣ってくれた。

 しかし、私はそう落ち込んでばかりもいられなかった。

 ご主人様はさらに酷かったのだ。

 床に伏せってしまって、一日中部屋から出なかった。

 私はご主人様の介護に追われた。

 それから本調子を取り戻されるまでにかなりの時間がかかった。


 まだご主人様が伏せっていた三月のある日、修二さんからの手紙が届いた。

 一通の手紙と共に。

 その簡素な手紙にはこう書かれていた。

「笠原修二、奉天ニテ戦死セリ」

 目の前が真っ暗になって、私は崩れ落ちた。

 気が付いたときには自室のベッドの上だった。

 ベッドの脇の机には、水差しと手紙が二通置いてあった。

 修二さんからの手紙と例の手紙。

 夢では、ない。

 現実が私に突き刺さる。

 私は泣いた。

 嗚咽して、なお泣いた。

 泣き疲れ、涙が枯れ、それでも泣いた。

 泣いて、泣いて、泣いて、死のうと思った。

 私も修二さんのところに行こうと。

 私は館を上へ上へと登る。

 そして飛び降りようと思ったとき後から声をかけられる。

 声の主はご主人様だった。

「ご主人様……どうしてこんなところに……?」

 ご主人様は部屋で伏しているはずだった。

 しかもここは使用人の棟である。

「飛び降りはあまりよくないな。体がグチャグチャになってしまう」

 ご主人様が憐れむように言う。

「最後の姿がグチャグチャではいやだろう?」

「それなら首を吊ります」

 私が近寄るなと言わんばかりに言う。

「首吊りか。しかしあれは筋力がなくなって排泄物が出る。後片付けするものがかわいそうだろう?」

「なら、海に身を投げます」

「溺死か。溺死は体がブクブクになって臭いぞ」

「なら火の中に」

「真っ黒焦げになる」

「ならば、一思いに刃物を刺します」

「あれは、痛いぞ。すると自制が効いて死にきれない事が多い」

 ご主人様はことごとく反論する。

 私は怒って叫ぶ。

「じゃあ、どうしろっていうのですか!私は修二さんがいなきゃ生きてく意味なんて無いんです!」

 ご主人様も厳しい顔つきになって言う。

「生きている事自体に意味があるんだよ。町子くん。それにね、修二は君が死んで喜ぶとは思えないよ」

 私はその場に泣き崩れる。

「じゃあ私はどうすればいいんですか?」

 もう私はわからない。

 最愛の人が死んだのだ。育ての親とも喧嘩別れしたのだ。

「生きて欲しい。ただ、生きて欲しい。生きることに目的が欲しいのなら、私のために生きてくれ」

 そう言ってご主人様が頭を下げる。

 主人が使用人に対して頭を下げるなどありえない行為だ。

「ご主人様。頭をあげてください」

 私は困りきってしまう。

「私も一緒なのだ。亮子が死んだ。修二が死んだ。私より若い、私の愛するものが次々と消えていく。これ以上愛するものを失いたくはないのだ」

 そう言って、なおも頭を下げたまま私に頼む。

 私は、亮子さんにつらい思いをさせた。

 私は、修二さんを戦争に行かせてしまった。

 これ以上、誰かが私のために傷つくところを見たくない。

「わかりました。だから頭をあげてください」

 そう言ってご主人様に言い寄る。

「ありがとう。」

 そう言ってご主人様は頭をあげた。

 修二さん、ごめんなさい。

 私はまだ貴方のところには行きません。

 貴方の分までご主人様に、この人に恩を返すまでは。

 だけれど、私の中には虚無感が漂い続けた。


 私たちは、ご主人様と私は、また体を合わせるようになった。

 お互い、最愛の人がいないという虚無を抱えている。

 人肌が恋しい。

 世界に一人だという間隔を、お互いが埋め合う。

 お互いの傷ついた心を、舐め合う。

 私たちは互いに、互いがいなければ生きていけないと思う。

 これも一つの恋のカタチではないだろうか。

 私たちは毎晩のように体を寄せ合った。

 私たちがやっと立ち直ったころ、戦争は終わっていた。

 日露戦争は九月に終結した。

 十月にはポーツマス条約が、亜米利加アメリカの仲裁の元で行なわれていた。

 多額の費用と多数の死傷者を出したにも関わらず、見返りを求められなかったこの戦争で、日本全体が病んだ。

 それは、まるで今までの私たちのように。

 ひょっとしたら、私たちは皆より早く立ち直っただけかもしれない。


 ふと思うことがある。

 私が辿っている道は、実は亮子さんの通ってきた道ではないかと。

 私はご主人様といることを望む。

 二人だけの特別な関係がある。

 私は懐中時計を見る。

 結局これは形見の品となってしまった。

 時計が七時を指す。

 今日も一日、仕事を頑張ろう。

 俊彦様は優秀だった。

 物覚えがよく、応用力もある。

 将来、ご主人様の後を継ぐものとして期待がかかる。

 そんな中、奥様が視界に入る。

 奥様はしばらく俊彦様を見つめた後、興味なさ気に去っていった。

 私は奥様が苦手だ。

 それは俊彦様の母親として接しないからか、ご主人様との間柄からなのか、何なのかはよくわからない。

 ただ、性が合わないからだけかもしれない。

 俊彦様はそんな奥様を見つめていた。

「……寂しい?」

 私は俊彦様に訊く。

 訊いてから、これはしてはいけない質問だったと気付く。

 私は心苦しいかったが、言葉は取り返せない。

「ううん。」

 俊彦様が答える。

「町子がいてくれるから寂しくない」

 俊彦様が私に向かって言う。

 私は、俊彦様を抱きしめたい気持ちで一杯になる。

 けれども、それは叶わない。

 私は使用人でしつけ役、俊彦様はご子息で仕えるべき相手なのだから。

 午前の勉強が終わって、俊彦様と食事に向かう。

 奥様は既にいらっしゃっていた。

 私たちに遅れてご主人様がやってくる。

 そして、三人の食事が始まる。

 静まり返って、ナイフとフォークの動く音だけがした。


 あれ以来、ほとんどの夜を私はご主人様と共に過ごしている。

 一人では夜が怖い。

 闇が私の心を襲う。

 人の温もりがないとおかしくなってしまう。

 ご主人様が仕事で館に戻らなかったときは、ほとんど眠る事が出来ない。

 目を閉じるだけで闇はやってくるのだ。

 こんな中、俊彦様が一人で寝ているのかと思うとぞっとする。

 親の温もりが欲しいのだろうに。

 もし私が使用人ではなかったら、今すぐ一緒に寝に行くのに。

 そんなことを考える。

 ご主人様にそう言ったことがある。

「それでは男として強くなれないよ」

 とご主人様は言われた。

 はたしてそうだろうか?

 人の温もりを知らない人間が人の上に立てるだろうか?


 十四歳の時からそうだが、ほとんど毎晩を共にするようになった今でさえ、私は身ごもることはなかった。

 私は子どもを産む機能が壊れているのかもしれない。

 そう思うと、いっそう俊彦様が愛しく思える。

 赤ちゃんの時から面倒を見ているのだ。

 我が子同然なのだ。

 実際、私はご主人様との子どもが欲しかった。

 修二さんとは一晩しか共にしていないのでできるはずが無かったのだが、これだけ夜を共にし、数え切れないほど繰り返しているのに私には子どもが出来なかった。

 もし、妊娠すれば……。

 その子どもは、認められないだろう。

 それでも私は絶対に産む。

 そして、私のような経験をしないですむように育ててやりたい。

 そう思った。

 私はもう十八歳になる。

 婚期も晩年だが、結婚する気はない。

 私はこの世で、ご主人様と俊彦様しか愛していない。

 それ以外の男性は受け入れられない。

 ならば亮子さんのように、使用人として一生尽くしたい。

 私の中には、やはり亮子さんの思いが生きているのかもしれない。

 ご主人様はすでに還暦を迎えていた。

 もう子孫を残すの機能を失ってしまい、ご子息は後にも先にも俊彦様だけとなった。

 それでも私たちは一緒に夜を過ごしていた。

 ご主人様は自分のもの以外で、私の相手をしてくださった。

 なんだか、それが悲しかった。


 ある頃からご主人様は体調の不良を訴え始め、昼夜問わず人を近づけなくなった。

 勿論、夜を私と共に寝ることも避けた。

 あの頃のままの私ではない。

 夜も一人で寝ることが出来たが、やはり心は闇を恐れていた。

 早くご主人様と一緒に寝たいと思う。

 ご主人様の体調が気がかりだった。

 俊彦様は八歳になられ、自分の信念を持ち、主張のできる子になっていた。

 ご主人様に近づけない今、俊彦様だけが私の心を満たしてくれた。

 そんなとき、私はご主人様に呼ばれて部屋に赴いた。

 部屋の前には専属の医師が立っていて、私はマスクを手渡された。

 そのマスクをして、私は部屋をノックする。

 中からやたら懐かしい声がして、私は嬉しくなってしまった。

 私は部屋の中に入る。

 ご主人様は信じられないほどやつれていた。

「町子。久しぶりだね」

 そう言ってご主人様は笑顔を浮かべる。

 しかし、その顔は笑顔になりきっていない。

 苦痛で顔が歪んでいた。

「ご主人様、大丈夫ですか?」

 思わず私は駆け寄る。

 しかしご主人様はそれを静止した。

「町子、それ以上近づいてはいけない」

「どうしてですか?」

 私にはわからなかった。

 お互い愛し合っている仲ではないか。

「町子、今から話す私の話をよく聞くんだ」

 ご主人様が苦しそうな表情を浮かべながら言う。

「はい」

 私は心配ながらもそれ以上は近づけず、頷く。

「私はね、町子。結核なのだ。もう長くはない」

 結核―。

 そう聞いて私は目の前が真っ暗になった。

 修二さんの戦死の知らせを聞いた時と同じだ。

「今まで黙っていてすまなかった。ただこれはお前と明美にしか話さないつもりでいる」

 明美とは奥様の名前だ。

 私の目から涙がこぼれる。

 その場に立っていることが出来なくて、床に座り込む。

「町子。よく聞いて欲しいのだ」

 ご主人様は続きを話したいらしい。

 私は顔を手で覆い、涙を流しながらも頷いた。

「明美は俊彦の面倒を見るつもりはない。後継ぎの俊彦はまだあの歳だ。廣井家はもう終わる」

 私は泣きながらも聞き逃すまいと必死で聞く。

 これはご主人様の遺言だ。

「私の遺産は明美と俊彦で折半にする。館も売って金にする」

 不治の病、結核は確実にご主人様を蝕んでいるようだ。

 私はまた、最愛の人を亡くすのか。

 涙が止まらない。

「そう泣くな町子。お前に頼まなければならない事があるのだ」

 ご主人様が優しい声で言う。

 私は顔をあげて、グシャグシャの顔をご主人様に向ける。

「俊彦のことはお前に任せる。俊彦への遺産もだ。あいつが一人前になるまで面倒をみてやってくれ」

 私は何度も頷く。

 ご主人様のためならば何だってする。

 だから、死なないで。

「そんな顔をするな。どう頑張っても私はここまでだ」

 それを察したご主人様が告げる。

「後のことは明美と話し合ってくれ。くれぐれも俊彦のことは頼んだぞ」

 もう私には頷く事しか出来なかった。

 遺言を聞いた私は部屋から出て行く。

 結核は伝染するのだ。

「それとな、町子」

 ドアに手を当てる寸前、ご主人様が私に声をかける。

「町子。お前を愛している」

「私も……です。ご主……人様を……愛し……て……いま……す」

 やっとのことで声を出して、私は部屋を出る。

 その直後、崩れ落ちた。

 ご主人様の部屋には私と交代で奥様が入っていく。

 今は奥様に最期を告げているのだろう。

 私は泣いて、立ち上がれない。

 そこに俊彦様が来た。

 最期に俊彦様にも会っておこう事だろう。

 私は思わず俊彦様を抱きしめて泣いた。


 ご主人様の葬儀の後、私は奥様と一対一で向き合った。

 今までにこんな事はなかった。

 私はなんとなく居心地の悪さを感じた。

「あの人から聞いていますね?」

「はい」

 奥様の質問に私は答える。

「なら話が早い。遺産の半分は貴女に渡します。俊彦のことは任せましたよ」

 そう言って席を立とうとする。

「待ってください」

 私はそんな奥様を止める。

「俊彦様は貴女の子ですよ。可愛くないのですか?」

 その問いを受けた奥様はしばらく何かを考え込んでいた。

 そしてもう一度席に座りなおす。

「いいでしょう。貴女に昔話をしてあげます」

 そう言って私の顔をしっかりと捉える。

 私も真剣に聞く態勢に入る。

「私とあの人は政略結婚でした。愛も何もない、ね」

 私はそのことは知っていた。

 お互いの態度でわかるし、ご主人様にも聞いていた。

「結婚前、私には好きな人がいました。けれどこの結婚でその想いは潰えたのです。なのに、あの人を愛せるでしょうか?」

 私も無理だと思う。

「それに、あの人は女癖が悪かった」

 それも賛成だと思う。

 そうじゃなきゃ、私の十四歳からの「仕事」はありえない。

「そう思っていました」

 え?と私は思う。

 それを奥様は感じ取ったらしい。

「わからないですか?あの女癖が悪いあの人に、子どもは一人しかいないのですよ。」

 確かにそうだ。

 それはおかしい。

「子どもが出来ないのは女のせいです。でもあの人は違った。最初はあの人も多くの女を抱きました。それでも子どもは出来なかった。だからあの人は、どの女とも子どもが出来ないという事は、自分がいけないのだと思われました」

 だから多くの女に手を出していたのか、と妙に納得してしまった。

「そう考える事が、世の常識から外れてはいますが、出来なかったということはそうなのかもしれません」

 私もそう思う。

 あんなに抱かれた私にも子どもは出来なかったのだから。

「だから、ようやく私が身ごもった時には大喜びをしていました。よく正妻のお前が身ごもってくれたと言いました」

 その時のことは幼心に覚えている。

 館全体が祝賀していた。

「そうでしょう。正妻の子なら跡取りにできますからね。でもそれだけじゃなかった。私が何も言われずにすんでよかったと言いました」

 ご主人様らしい気遣いだと思う。

 世の中では子どもが出来ないのは女のせいなのだ。

 子どもが出来なければ、奥様が悪いことになってしまう。

「あの人はいい男でした。俊彦もすごく可愛がってくれた。それでも私はあの人を愛せなかった。私の心の中には結婚前に恋したあの人が居続けた」

 その気持ちはわかる。

 ご主人様に汚されても、修二さんを愛しつづけた私と同じだ。

「俊彦後もいろんな女を抱いて子作りをしたようですが、結局ダメだったようですね」

 確かに誰も身ごもることはなかった。

 子どもを望んだ私でさえ。

「だから、俊彦はあの人の唯一の子なのです。廣井家の最期の望みなのです。それでも私は俊彦を愛せなかった。愛した相手の子ではなかったから」

 そういうものなのだろうか?

 自分の腹を痛めて産んだ子でも愛せないのだろうか?

 私にはわからなかった。

「そんな私が俊彦を育てる権利はありません。町子さん。貴女のようにあの人に愛され、俊彦に愛され、あの人を愛し、俊彦を愛する人にこそ、俊彦は育てられるべきなのです」

 私は知らず知らずのうちに一本の涙を流していた。

 それを見て奥様が言う。

「あの子を、俊彦を頼みましたよ」

「はい」

 私は力強く答えた。

 奥様は納得したように部屋から出て行った。

「貴女に話せてよかったわ」

 と言い残して。


 住むところが無くなった私と俊彦様は、ご主人様の遺産で小さな家を購入した。

 岸田町子、十八歳。

 廣井俊彦、八歳。

 世間から見れば、若い私たち二人の共同生活が始まった。

 俊彦様は、家庭内での学習から尋常小学校へと通われるようになった。

 私が昼間の面倒を見切れないためである。

 ご主人様の遺産を減らしながら、二人で生活していくわけにはいかない。

 このお金は、将来俊彦様がもっと大事なことに使われるべきものだ。

 私はご主人様のお知り合いだった方の工場で働けるように頼んだ。

 日本は紡績業からの産業革命によって、工場での労働力を欲していた。

 私と同じように、実質は身売りとして多くの少女が工場で働いていた。

 そんな中、私も仕事をさせてもらう。

 わずかな前借金のみで働いている少女たちに比べ、給料の貰える私はどれだけ幸せか。

 労働力があるにも関わらず、私を給料を払ってまで雇ってくれる工場主にも感謝した。

 それでも二人分の生活費を稼げるわけではなく、結局足りない分は遺産に頼った。

 結局、私は婚期を逃したことになるだろう。

 工場主が見合いを進める事もあった。

 しかし私自身、結婚をする気がなかった。

 俊彦様のお世話をしなければならなかったし、もう恋愛をする気もなかった。

 もうあんな苦しい想いをする必要もない。

 もともと修二さんが死んだ時に捨てるはずだった命だ。

 それをご主人様に預け、今は俊彦様のために。

 私は、何があっても俊彦様を守ろうと心に誓った。


 俊彦様は尋常小学校に通われ始めたころ、私が一緒でないと嫌だとごねた。

 実際、ごねたわけではないが態度がそう示していた。

 それでも学校で友達を作るようになり、学校での事を楽しそうに話されるようになった。

 いつの間にか俊彦様は成長していく。

 一緒に入っていたお風呂を一人ではいるようになり、反抗期にもなった。

 いつごろからか、私たちの関係を知った俊彦様は、私のことを「町子」と呼んでいたのを「町子さん」と呼ぶようになった。


「町子さん、話があるんだ」

 俊彦様が十四歳の時のことだった。

「なんですか?」

 私は、普段とは違う俊彦様の様子を感じとっていた。

「俺は陸軍中央幼年学校に進学したい」

 私は、その言葉に愕然とした。

 陸軍中央幼年学校は、その名の通り陸軍の軍学校だ。

 その上には、陸軍士官学校がある。

 陸軍士官学校は、卒業後には高等官に任命されることや、学費が掛からないということから志望者も多く、帝国大学に次ぐエリートだった。

 陸軍中央幼年学校は、その陸軍士官学校にもっとも近い学校なのだ。

「俊彦様は軍人になられるおつもりですか?」

 私が訊く。

「はい」

 俊彦様は頷く。

「俊彦様、どうか軍人だけはお辞めください」

 私は、どうしても俊彦様に軍人にはなって欲しくなかった。

 私の頭の中に、修二さんのことが写る。

「町子さんが軍人を嫌っているのは知っています。しかし、廣井家再興のためには、これが一番の近道なのです」

 俊彦様は、決意の目でいる。

 ああ、修二さんの時と同じだ。

 あの時の悲しみが、頭の中に蘇える。

 私は涙する。

「町子さん……」

 俊彦様が悲しげな表情に変わる。

「どうしても……どうしてもそのお考えは変わらないのですか?」

 私は涙ながらに訴える。

「町子さん、どうしてもなのです。私には廣井家を再興しなければならない義務があるのです」

 俊彦様は俊彦様なりに、ご主人様が亡くなったのち、崩れた廣井家に対して責任感を持っていた。

 それは、私がご主人様を思う気持ちから来たのかもしれない。

「俊彦様、私はどうしても許す事が出来ません」

 私は訴える。

 それは、廣井家に仕えていた者としてではなく、育ての親としての言葉だ。

「町子さん!」

 俊彦様が叫ぶ。

 しかし、私は聞く耳を持たずに自室に逃げた。

 私は懐中時計を見る。

 修二さんの形見の。

 あの想いだけは繰り返したくはない。

 私は銀行の通帳を見る。

 莫大な金額が預金されている。

 ご主人様の遺産の。

 これだけあれば、商売でだって廣井家を再興できるではないか。

 私としては、陸軍士官学校より、東京帝国大学に行って欲しいのだ。

 なんだって、軍人なんかに。

 それはきっと、俊彦様の男としての意地だろう。

 俊彦様は、自分が幼いばかりに廣井家を潰してしまったと思っている。

 だから、ご主人様の威光を使わず、身一つでもう一度、廣井家を立て直したいのだろう。

 だから軍人か。

 私は、俊彦様と自分を重ねていた。

 幼い頃に何も解からぬまま、落ちていった人生を。

 だから、私のようになって欲しくないのだ。

 俊彦様には、幸せになってもらいたい。


 その日以降、俊彦様は私と口を利かなくなった。

 自分の信念を貫きさせてくれない私を恨んでいるのだろう。

 それでも、軍人だけは……。

 俊彦様が口を利いてくれない間、私の頭の中はあの頃に戻っていた。

 修二さんを、ご主人様を、亮子さんを思い出していた。

 私もこんな風に亮子さんに迷惑をかけたのだろうかと苦笑する。

 そして、はっとした。

 私は今、亮子さんの立場に居るのだ。

 自分のことを一番わかって欲しかった、亮子さんの位置に。

 私は今まで俊彦様を育ててきた。

 だから、俊彦様の事は何でもわかっている気でいた。

 それを踏まえて、軍人になることに反対してきたのだ。

 本当に?

 それは私の都合じゃないか。

 私は十四の時、亮子さんを恨んだ。

 私を解かってくれなかった亮子さんを。

 あれは間違いなく亮子さんの都合だった。

 しかし、亮子さんから見れば、私をわかった上で、進んで受けさせたものかもしれない。

 ご主人様を愛していた亮子さんが、その「愛」を私にも体験させたくて。

 自分が良いと感じることが、他人にとっても良いと感じることではない。

 私は今、俊彦様の思いを踏みにじって自分の意見に従わせようとしている。

 ご主人様の「愛」を受ける事よりも貞操を守る事のほうが幸せだった私を、亮子さんが自分の意見に従わせ「愛」を受けさせたように。

 俊彦様にとっては、確実に生き残る事よりも廣井家再興の方が大切なのだろう。

 そこが、私の価値観との違い。

 ならば、俊彦様は軍人になる方がより幸せになれるのだ。

 私は思わず苦笑いをしてしまった。

 育てる事を完璧にこなしていたつもりで、その本質を見落としていた事を。

 そして涙が頬を伝った。

 私は亮子さんに愛されていたのだと思って。


「俊彦様。どうか陸軍中央幼年学校にお進みください」

 私は俊彦様に告げる。

 俊彦様はあっけに取られたような顔をしていたが、すぐに喜びの表情に変わった。

「町子さん、ありがとう」

 そう言って頭を下げた。

「俊彦様、おやめください」

 私は驚いて、俊彦様に頭をあげてもらおうとする。

「僕は町子さんに本当に感謝しているのです」

 俊彦様は、頭を下げたまま言った。

 これは育ての親として、受けとっておけばいいのだろう。

 陸軍中央幼年学校に進学した俊彦様は優秀な成績だった。

 二年間の在学を経て、問題なく陸軍士官学校にも進学をする事が出来た。

 エリートである陸軍士官学校に進学を決めたのだから、俊彦様はかなり頭が良い事になる。

 私も鼻が高かった。

 これで、軍人になる事は決まった。

 私は少し悲しくなった。

 それがわかってか、俊彦様は少し申し訳ない顔をした。

 せっかく陸軍士官学校に進学を決め、喜びたいのだろうに。

 私は、親としてまだまだのようだ。


「町子さんは、戦争で誰かを無くしたことがあるのですか?」

 ある夜、俊彦様が私に聞いた。

 私は、修二さんの事も、ご主人様との私的な関係の事も、俊彦様には話したことがなかった。

「どうしてそう思われるのです?」

 私は聞き返す。

「町子さんは、街で軍人と会っても、ちゃんと尊敬を持っていらっしゃるように見える。それなのに私が軍人になる事を一度反対したという事は、戦争で誰かを失った事があるということではないかと思いました」

「さすがに、陸軍士官学校生ですね。賢いです」

 私は喜びの笑みで言った。

「それは誰だったのですか?」

 俊彦様の質問は続く。

「・・・初恋の人です」

 なんだか、恥ずかしい気分になりながらも俊彦様に答える。

 俊彦様はもう十六だ。

 いつのまにか色恋沙汰の話をする年齢になっている。

 今まで色恋沙汰の話がでなかったのが不思議なくらいの歳だ。

「町子さんはその人のことを愛していたんですね」

 俊彦様は少し寂しげな顔で言う。

「ええ」

 私も少し寂しげな声になってしまった。

「今でも愛しているのですか?」

 俊彦様は続ける。

「そうですね・・・愛していますよ」

 私は笑みで答える。

「愛した人は、死んでも心の中で生き続けるのです。例え別の人を愛するようになってもね」

 私の中にも、まだ愛する人たちは生き続けている。

「そういうものですか」

「俊彦様にはまだ難しい話でしたね」

 私は笑顔で言う。

「ところで、俊彦様には好きな人はいないのですか?」

 色恋の話になって、私は気になっていたことを聞いた。

 俊彦様の顔が少し赤くなっている。

 その様子が微笑ましい。

「無理にとは言わないので、気が向いたときにでも教えてください」

 俊彦様が困らないように、私は助け舟を出しておいた。

「いえ、言います」

 しかし、俊彦様は覚悟を決めたように言った。

 そんなに覚悟を決めなければならない事なのか。

「では、どうぞ」

 つい、私も姿勢を改める。

「私はずっと、町子さんの事を好いていました」

 俊彦様が言う。

 部屋は一瞬無音になる。

「いえ、俊彦様。そうではなくて恋愛の話を……」

 私の話に割り込んで、俊彦様が言う。

「ですから、私は町子さんのことを愛しているのです」

 私の思考回路は、話についていけてはいない。

 俊彦様が?

 私を?

 それは、家族としての話ではないのか?

「勿論、女性として、です」

 私の考えを読んだかのように、俊彦様は付け足した。

 そして、二人とも無言になる。

 俊彦様が、私を。

 考えた事も無かった。

 私は赤ちゃんの頃から俊彦様を知っているわけで、今までも育ての親としてしか接してきたことがなかった。

 しかし、俊彦様は違ったのか。

「私は……」

 沈黙を破って俊彦様が話し出す。

「私は陸軍大学校まで進学して見せます。そうすれば、戦地に赴くこともなく、中央で働く事が出来ます。だから、戦死することはないのです」

 私は俊彦様の言葉に耳を傾ける。

 そして、安堵した。

 俊彦様は、戦死をしなくてすむのか……。

「だから、町子さん。悲しい想いはさせません。もし私が陸軍大学校に進学する事が出来たら、私と結婚してください」

 そこまで聞いて私は唖然とした。

 結婚を?

 俊彦様はそこまで考えていたのか。

 もう、何が何だかわからなくなりそうだ。

「しかし、俊彦様。私はもう二十六です」

 婚期はとうに過ぎたようなものだ。

 それに。

「それに、十も違います」

 十も歳の差がある。

 私はもうおばさんだ。

「そんなことは関係ありません。私は町子さんのことが好きなのですから」

 俊彦様は、真っ直ぐと私を見ていた。

 私は俯く。

「考えさせてください」

 しばらく黙り込んだ後、それだけ言うのがやっとだった。

「わかりました。良い返事を期待しています」

 そう言って、俊彦様は自室に去っていった。


 その夜、私は眠る事ができなかった

 今まで俊彦様の事を「男」として見てこなかったのに……。

 今では「男」としての俊彦様で一杯だ。

 俊彦様は私を愛していると言った。

 私だって愛している。

 でもそれは、家族愛のようなものだ。

 だから、恋愛対象として見てこなかった。

 男としての俊彦様は、と考える。

 ドキドキするほどのいい男だ。

 容姿端麗で、聡明、気品もあるし、軍学校へ行っているので体力もある。

 それに、私のことをわかってくれている。

 今までの十六年間、ずっと一緒に生活してきたようなものだから。

 文句のつけようがない。

 だけど……。

 私は俊彦様の育ての親だ。

 義理の義理ともいえるような親だが、それでもその立場の人間と結婚となるのはどうだ。

 しかも十歳の差がある。

 世間からしても珍しいし、奇妙なものだろう。

 俊彦様のこれからの人生に関わりかねない。

 立派に軍人になれたとしても、昇進に関わりかねない。

 それに、私からの愛がなければ、それも俊彦様に辛い思いをさせてしまうだろう。

 ご主人様と奥様の関係のように。

 私は俊彦様を愛している。

 それは、家族としてのはずなのだ。


 朝、私が朝食を作っている所に、俊彦様も起きてきた。

「おはようございます」

 そう言って座る。

 いつもと変わらない俊彦様が、そこにあった。

 しかし、私は緊張しっぱなしだった。

 一睡もしていないのに目が冴えている。

 何故か私の方が、俊彦様を意識してしまう。

「町子さん、昨日の事は気にしないでいいですよ」

 見かねたように、俊彦様が言う。

「ただ、返事だけは聞かせてください」

 その返事を考えるのに大変なのよ、と言いかけてやめた。

 私は、頑張っていつものように振舞った。

 それからというもの、頭の中は俊彦様の事だらけだった。

 いや、今までもそうだったのだが、気にすることが違う。

 親としてから、異性として俊彦様の事を考えるようになったのだ。

 家に二人で居るときは、それだけで息が詰まりそうだった。

 会話も以前より少なくなった。

 俊彦様は今まで通り接してくれるのだが、私はどうもそのように行かない。

 夜もほとんど眠れない日々が続いた。

 俊彦様は、一度決めたことは、貫き通す方だ。

 その分、決めるまでには多くの時間をかけて考えている。

 その俊彦様が、私に求婚したということは、世間の対面は気にしないことにしたという事だろう。

 世間からどう見られるかより、私を選んでくださったという事だ。

 それは、嬉しいものである。

 女として、それほどの喜びはないのかもしれない。

 問題は私の気持ちなのだ。

 家族としての愛か、男女としての愛か。

 私が抱く愛次第なのだ。

 最近の私は、俊彦様のことで頭が一杯でドキドキしている。

 ただそれは、いきなりの事で私がいっぱいいっぱいになっているだけだ。


 俊彦様は陸軍士官学校に進学されてからも、成績は上位であるようだ。

 陸軍士官学校では、成績は発表されないが大体は先生の態度や周りの出来でわかるそうだ。

 このままいけば、陸軍大学校も夢ではない。

 やはり私は、決断しなければならないようだった。

 私はまだ、決められずにいる。

 俊彦様へは、やはり家族愛しか持っていない気がする。

 しかし、俊彦様の事を考えるとドキドキする。

 それは、気が動転しているからだろう。

 私の中で、堂堂巡りが続く。

 森の中で迷って同じ場所をグルグルと周るように。

 そして何周もして、景色も見慣れてきて、ようやく気付くのだ。

 茂みに隠れている道があることに。

 ただ、森の木々の葉が、その道を見えにくくしていただけのように。


 私は頭の中で堂堂巡りをしていた。

 俊彦様のことをどう思っているかについて。

 同じ事を何度も何度も考えて、やっと整理がつくようになってくる。

 そして整理がつき始めて、やっと気付くのだ。

 自分が俊彦様の事をどう思っているのか。

 ただ、私の思い込みがそのことをわかりにくくしていただけで。

 俊彦様の告白を受けて、もう一ヶ月近い日の夜、私は俊彦様と向かい合って座った。

「遅くなりましたが、この前のお話の返事をさせていただきます」

 私は緊張しながら口を開く。

「どうぞ。例え断られても町子さんのことは、恨みませんしね」

 俊彦様が笑顔で言う。

 だが、その中には緊張を感じられた。

「はい。では申し上げます」

 俊彦様は息を飲む。

「そのお話、喜んで受けさせていただきます。よろしくお願いいたします」

 そう言って、私は頭を下げる。

 私は俊彦様のことが好きなのだ。

 ただ、それが家族愛であると思い込んでいただけで。

「こちらこそよろしく」

 そう言って俊彦様が頭を下げた。

 俊彦様が、今までに見たことが無いほどの喜びの顔をされていたのがわかった。

 その日の夜、私たちは夫婦の契りをした。

 久々の逢瀬は、気持ちよかった。


 私たちの生活態度はがらりと変わった。

 家を仕切っていた私が、俊彦様の一歩後ろを歩くようになり、家のことは俊彦様が仕切るようになった。

 夜は何度も体を合わせたが、子を成さないように努めた。

 まだ、面倒を見切ることはできないと思ったからだ。

 お互いの呼び名も変わった。

 俊彦様は、再び私を町子と呼ぶようになった。

 私は、俊彦様をあなたと呼ぶようになった。

 俊彦さんは、二年後無事に陸軍大学院に進学し、それを契機に私たちは結婚した。

 やはり、世間の目は私たちを奇特に捉えたようだった。

 それでも俊彦さんは毅然に構え、それを物ともせぬ成績を出した。

 私も妻として、これ以上ないといえる振る舞いをした。

 四歳から、家事に従事している私にとってはそれが当たり前であったのだが。

 いつしか私たちは、年齢差のことなど気にされず、美男美女のよく出来た夫婦として有名になった。

 結婚した翌年には子を成した。

「由紀」と名づけたその子を、私たちは大切に育てた。

 陸軍大学校を卒業した俊彦さんは、中央に配属された。

 軍本部の一員として。

 軍でもかなりの高官だった。

 私たちは、ご主人様の館を買いなおし、使用人を雇うまでになった。

 私は幸せだった。

 愛する夫がいて、子どもがいて、私がいる。

 今まで夢見てきたものが叶った気がした。

 偉い人たちとの交流だって、疲れるが慣れたものだった。

 今まで、使用人として見てきたものだったのだから。

 ただ、家族という小さな愛の塊がいとおしくて仕方が無かった。


 幸せは長くは続かない。

 それは絶頂を迎えれば、後は落ちるだけだからかもしれない。

 俊彦は、仕事で家を空けることが多くなったし、外にも女がいるようだった。

 それを咎めるようなことはしなかったし、できなかった。

 男はみんなそのようなもので、そうでなければ返って異様と思えるし、私はもとを正せば身売りで買われた、卑しい身分の人間なのだ。

 それでも、俊彦は私を愛してくれたし、私も愛していた。

 ただ、由紀以降は子どもが出来なかった。

 どうやら、俊彦もご主人様と同じらしい。

 考え方もご主人様と同じらしく、私のことを責めることはなかった。

 私は俊彦に、ご主人様との関係も修二さんの事も話したことはなかったのだが。

 由紀は私を慕ってくれたし、私も母親として由紀を愛していた。

 俊彦も合わさって、家族仲良く出かけることもあった。

 使用人たちも私を慕ってくれた。

 私だって元使用人なのだ。

 使用人の気持ちはよくわかる。

 そんな話のわかる奥様は珍しいのだろう。

 私は使用人とも気軽におしゃべりができるような関係を築いていた。

 絶頂は過ぎても、私は幸せの中にいたのだ。

 そう、修二さんと結婚を目指して頑張っていた頃のように。


 そして、幸せに破滅がやってくる。

 一九ニ三年、すでに大正に入って十二年の九月一日。

 関東大震災。

 その揺れは、関東地方の多くの命を奪った。

 俊彦はその内の一人となった。

 廣井俊彦、享年三十三歳。

 若すぎる死だった。

 俊彦は、仕事中地震に見舞われて建物の下敷きになった。

 私は泣くしかなかったのは言うまでも無い。


 私の人生は常に「闇」の内にあった。

 飢饉、身売り、慰安婦、愛しき人を失う絶望――。

 だが、闇の中にあって私を照らしてくれる「月」があった。

 亮子さん、修二さん、ご主人様、俊彦――。

 私は「闇」の中で、「月」と共に明るい生活をする事を夢見て生きてきたのだ。

 黒月之夢。

 それが、私の人生だった。

 しかし、月と太陽が共に昇ることはない。

 例えわずかな間、共に同じ空にいることができても。

 そう、修二さんや俊彦のときのように。

 私は、闇夜と共にある。

 いままでも、これからも。

 そして、ご主人様に頼まれた俊彦は死んだ。


 長々と、私の半生に付き合っていただいてありがとう。

 この手紙を貴女が読む頃には、私はこの世にいないでしょう。

 しかし、どうか悲しまないで下さい。

 私はようやくにして、闇夜で覆われたこの世を去ることが出来たのです。

 俊彦が死んでから、私の「月」は貴女でした。

 そして、貴女は嫁いで行った。

 私と貴女が見込んだ人なら間違いはないでしょう。

 安心して、幸せになりなさい。

 ご主人様に命を預かられ、それは俊彦に受け継がれ、そして貴女が受け継ぎました。

 そして、貴女は私の手を離れて幸せになった。

 私も役目を終えたのです。

 だから、どうか泣かないで下さい。

 私は、私の愛した人たちのもとへと行くだけなのですから。

 私の宝である懐中時計と、銀行の預金通帳、結婚指輪は同封します。

 ここまで読んだのならわかるでしょうが、私の愛した三人の形見の品です。

 どうか、私に代わって大切にしてください。

 そして、どうか寂しがらないで下さい。

 貴女の隣には、貴女を幸せにしてくれる最愛の人がいるのですから。

 私も、最愛の人の隣に行くだけなのですから。

 由紀、私は幸せでしたよ。

 貴女の母親で。

 だから、由紀、貴女も幸せになりなさい。

 私は、空から貴女の事を見守っていますから。

                                一九ニ五年 廣井町子

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