ファビュラス・ハデス 06: 戸惑う逃亡者
06: 戸惑う逃亡者
ブルーノ・ベンソンは、モーテルのベッドルームで浅い眠りに伴う寝覚めの汗に震えながら、利兆という老人を見くびっていた事を後悔し始めていた。
これから彼の生きるべき新天地には、利兆による破門回状が回っており、その規模の大小に関係なく、ありとあらゆるSEX産業が彼に門前払いを食わせていたのだ。
それに、彼の卓越したジゴロとしての能力を買って声を掛けてくれていた三つのファミリーさえも、手のひらを返したように態度を変えていた。
彼らは『落ち目の利兆の爺の所から離れるんならいつでも俺達が面倒みてやる。』そう言って向こうからコンタクトして来た連中の筈だった、、。
それが今はどうなんだ。
利兆の顔色を伺うだけではなく、利兆が放ったという刺客の為にブルーノの居場所の情報を流そうとしている節まであった。
故にブルーノは、こんな場末のモーテルで隠遁し、自ら缶詰状態にならざるを得なかったのだ。
ブルーノは手のひらの中に顔を埋める。
ブルーノは決して肝の据わった男ではない。
それに利兆がそう思いこんでいる様に、ブルーノは周到な計画や根の深さを持ってして、利兆を裏切ったわけではないのだ。
ブルーノは、ただ利兆の経営方針の古さ(利兆本人が新しいと思いこんでいる分だけ、より最悪だった)や、毎朝金勘定をしては金庫にそれをしまい込み、月に一度、利兆にそれを献上する事に苦痛を感じていただけだ。
何が「電子マネーは信用ならない」だ。
何故、いちいち収益を現金化する必要があるんだ?
今時、現金を持っている方が手間がかかる。
そんな時代がかった現金主義のシステムに嫌気がさしていたのだ。
スマートさに欠ける。クールじゃない。
月に一度だが、利兆に売上金を上納するときの自分の姿を思い起こすだけで惨めな気分になる。
それだけの事だったのだ。
それに娼館ローズマリーを離れようとした具体的なきっかけ、それはあの刑事のせいだった。
よりにもよって、本物の刑事だ。
民間警察なら一・二の企業を除いて、金の力で何とでもなる。
所が本物となるとそうはいかない。
特に「処置者」を扱うローズマリーの様な店では、本物の刑事に目を付けられるのは致命的だった。
だから利兆が、自分の傘下の店で刑事の聞き込み等を許すはずはなかったし、それを受けてしまえば、利兆はその結果生じるありとあらゆる責任を、ブルーノに転嫁し、彼を責めるのに決まっていた。
利兆は、ブルーノを事あるごとにけなしていたから、利兆がそうするであろうぐらいの事は予測がついた。
「お前ごときに、この店を任せているのは、ここではお前の女たらしの才覚が必要だからだ。前科持ちのオンナどもや性転換者に脅しは、効き目がないからな。しかし、お前の実力では警察に何時摘発されてもおかしくない、そんなお前に、この店が切り回せる訳がないんだ。だからこの儂が何度も何度も、こうやって老体に鞭打って此処へやって来ざるを得ない。」
そういった類のフレーズが、事あるごとに繰り返されて来た。
それに利兆は、警察を徹底的に嫌っていた。
どうやら若い頃に、さんざん警察にはいたぶられた体験があるらしい。
だが、実際の所、ブルーノは刑事の脅しに屈して実地調査の要求を承諾してしまっていたのだ。
抜き打ちではないから、そこでの業務違反発覚時の処罰には即決性があって、それからは逃れようがない。
しかもその承諾は、自分自身が直接その刑事に会う事なしに、部下を通してやってしまったのだ。
そしてブルーノは、娼館ローズマリー経営の何処が違法で何を隠して良いのかさえも判らない自分に、この時、気付いたのだ。
「警察だと?今の警察になんの力がある?奴らなんぞ敷居さえ跨がせなければ、鼻薬でなんとでもなるんだ。それをお前は!しかも、右も左も判らぬ手下の若造にそのデカの相手をさせただと?」
利兆は、そういった、どうでも良い物事の手順に拘るのだ。
それでも暫くは、利兆に感づかれる事なく立ち入り調査の件は自分で処理をしてしまえるとブルーノは思っていた。
しかし、その調査当日の夜明け前、ブルーノは自分が幼子になって利兆から金勘定を間違えたと酷く責められている夢を見て飛び起きてしまった。
その時になって初めてブルーノは、今日が利兆のローズマリーへの訪問日である事を思い出したのだ。
下手をすると実地調査にくる刑事と利兆が鉢合わせをするかも知れない。
そうなれば最悪なことになる。
その時、ブルーノは娼館ローズマリーを離れる決心をしたのだ。
いろいろな事が重なっただけさ。
それに面倒な事は御免だった。
今まで面倒な事はすべて自分の周りの人間が処理してくれていた。
実際にブルーノは天性の美貌と物腰でそうやって来たのだ。
処置を受けて自分と同じ様な生き方をしている男も随分みてきたが、彼らはみんなしくじっている。
しくじりの原因の一つ目は、まず彼らの美貌が何かをモデルにした借り物にしか過ぎない事だとブルーノは考えていた。
つまりだ。端正すぎて見飽きてしまうのだ。
それが天分とまがい物の微妙な差だった。
ジゴロとしての性格も手管も同じ事が言えた。
ブルーノは意識して自分を愛する人間を食い物にしている訳ではないのだ。
結果として「そうなる」だけなのだ。
今回の利兆への離反行為も煎じ詰めればそういう事だ。
悪意があった訳ではない。
巡り合わせが悪かった。ただそれだけだ。
それなのに、この俺の今のありさまはどうだ。
と、いう形でブルーノの思考は一向に深まることもなく、ただ現状を嘆いているだけだった。
つまりブルーノは、ただただ、そういう男だったのだ。
「どうかしたの?お腹でも減った?何か間に合わせのものでも作りましょうか?朝食ってほどでもないけど」
ベッドの隣で寝ていた女が、起きあがってそう言った。
ブルーノは自動的に出てくる反射行為の様に、愛情一杯のとろけるような笑顔を女に見せた。
スクランブルエッグとこんがり焦がしたベーコン、新鮮なオレンジジュース、それらを交互に優雅に口に運びながらブルーノは何気なく訪ねた。
質素とはいえ、ブルーノが隠遁用に仕入れておいた携帯食では味わえないメニューだ。
こんな食事なら部屋の窓に下ろしてあるブラインドを上げて、目一杯の朝日と共にこれを楽しみたいものだとブルーノは思った。
「材料はどこで仕入れたんだ。ここのモーテルの親父に頼んだのかい?」
「いいえ。昨日の夜、私が買いに出かけたのよ。」
ブルーノの顔色が変わった。
この女、あの後で、幸せそうに眠りこけていたんじゃなかったのか?
この俺とベッドを共にした後、夜中に24時間営業のマーケットに出かけたというのか?
信じられない女だ。今までの女はブルーノに満足しきってぐっすり眠り込んでしまうのに。
だが事実は逆だった。
ブルーノがこのブロックに流れ着いて間もなく引っかけたこの女性は、彼とベッドを共にした幸せが原動力になって夜中の買い物に出かけたのだ。
この甘いマスクの逃亡者との生活が、彼女の母性本能を強く発動させたという次第だ。
「ここから一歩も外に出るなと言っておいただろう。」
「無理言わないで、1週間も外に出ないなんて、、たとえ貴方と一緒でも、そんな事は不可能よ。第一、これからどうする積もりなの。行くあてがないなら私の実家へしばらく身を寄せましょうか。両親なら私が説得してみせるわ。」
「そんな事はどうでもいい。外に出て、何かおかしな事に気付かなかったか?」
「いえ別に。私だって、おおよその事情は飲み込んでいるつもりなのよ。貴方の迷惑になるようなドジは踏まないわ。」
といいながらペネロペは外出した時間の中で、自分にはどうしても思い出せない空白の時間がある事を隠していた。
それに、その空白に気付いたのは、モーテルに帰ってきてから、買い物の荷物を整理した時だったのだ。
買い物袋から、買った覚えも、もらった覚えもない、酷く卑わいな印象を与える小さな人形が転がり出てきたのだ。
人形を作ってある材料は、どこにでもある様な薄汚れた布やボタンだったが、所々に人の毛が編み込まれてあった。
ペネロペには、その人の毛に見覚えがあった。
それはペネロペとブルーノの陰毛だったのだ。
その人形がきっかけとなって、ペネロペは自分の記憶の中に空白があることに気付いたのだ。
それが何時間なのか、どんな場所で起こったのか、それさえも判らないのだが、ただ、空白がある事だけが強迫観念の様に『判る』のだ。
誰かに拉致されて、何かをされたのだろうか?
それともこれは自分が作った?ブルーノの陰毛を手に入れられるのは今の所、自分だけの筈だ。
それさえも判らないのだ。
記憶の完全な抜け落ちは、ペネロペの人生の中では異常な出来事であり、その事自体が大きな不安となっていた。
もしかしたら私は悪性の神経症にかかっているのかも知れない。
あるいは止めた筈の「薬」の後遺症が、今頃出てきたのか?
それにその事を思い出そうとすると、脳味噌に焼きゴテを押されたような痛みが走るのだ。
さらに、その『痛み』は、罪悪感まで兼ね備えていた。
空白の時間帯の事を考えることは、神の命に背くことだとさえ感じ始めていた。
「薬」の後遺症や神経症は罪悪感を引き連れてくるのだろうか?
『空白の時間の事は忘れろ。それは罪深い事だ。』
『痛み』はそうペネロペに命じているようだった。
しかしペネロペは忘れていた。
自分自身が産まれてからこの方、神の事など一度も考えた事がないことを。
ともかくペネロペは、ブルーノとの会話を外出の件から反らしたかった。
その為には、自分の両親の事を持ち出すのが一番効き目がある事を知っていた。
「そんなに利兆って人の追っ手が怖いなら、やっぱり私の家に行くべきよ。私の父親には大手民間の警備保障の知り合いが沢山いるのよ。」
『警備保障だと?黙れ、この馬鹿女。』
ブルーノが手にしていたフォークの動きが、小さな怒りで止まった。