ファビュラス・ハデス 05: 誘惑 人間以外
05: 誘惑 人間以外
利兆は、女が出て行くと部屋の戸棚からタブレットを取り出しそれを漆黒の前のテーブルに置いた。
続いて利兆の指がタブレットの液晶の上を撫でるとデスプレィからは、先ほどの女と漆黒の映像が映し出された。
音量が絞ってあるが、二人の会話の録音も再生されている。
どうやら室内に隠しカメラがあったらしい。
「警察に協力しろとは言ったが、記念テープまでは頼んでいないぜ。」
「実をいうと儂は今、感心しておるんだ。君のような甥っ子が本当にいればと、心底思う。特にジェシカ・ラビィの敵討ちのくだりでは涙が出そうになったくらいだ。冗談抜きで、状況はまさに君が言った通りだ。ジェシカ・ラビィの件は、ある程度のおとしまえを我々自身の手でつけねばならん。あれを放置しておけば、この儂の力自体が疑われる事になる。」
「だろうな。バイオアップした犯罪者や逃亡者は、もう金輪際、あんたを頼らなくなる。これから先は判らないが、この業界は今は彼ら、つまり処置者側の売手市場らしいからな。彼らにそっぽを向かれると、あんたの商売は成り立たなくなるな。」
利兆が泣きを入れ始めるのは当然のように思えた。
だがしかしこの時点では、漆黒は利兆に対する評価を誤っていたのだ。
漆黒が考えるような「SEX産業を泳ぐ古株シンジケートのボス」以上の側面を、利兆は隠し持っていたのだ。
例えばこの老人の、『過去のある処置者』に対する影響力は絶大なものがあった。
単に娼館の経営者としての権力だけではないのだ。
敢えて言えば、それは「人望」だった。
逆に、だからこそ利兆はジェシカ・ラビィの後始末について、漆黒がさっき言った当て推量以上の必要性を感じていたのだ。
「どうだ?このまま儂の甥になってしまわんかね。失礼だが、君がうちの娘達と話をしている間に、君の事は調べさせてもらった。自慢じゃないが、君のIDのバックグラウンド情報に、儂の甥っ子である事を組み入れるのは実に簡単な事なのだよ。」
「それが、俺がお前に協力する見返りということだな?」
漆黒は暗い表情で答えた。
以前の漆黒であれば、自分のIDのバックグラウウンドを故意であっても、偶然でもあっても、それを覗き込んだ人間を決して許しはしなかった。
が、今は違う。
その事が、どれほど漆黒の心を痛めつけようと、あのバックグラウンドは、完全には秘密に出来ない質のものだという事を、彼は思い知らされて来たからだ。
彼がクローン人間である事は、このバックグラウンド情報のもう一つ奥の階層に隠されていて、職場では統合署長が腹を括って開示請求してやっと知ることが出来るレベルだ。
勿論、彼らはそんな事をしない。
多くのトラブルを抱え込んでまで、それを知るメリットが何処にもないからだ。
しかし、それでも、それはバレる時にはバレる。
利兆は既に漆黒の正体に気づき始めているのかも知れない。
「いいね。さすがに飲み込みが早い。君がこのバックグラウンド情報を手にすることによって計られる便宜は数しれんぞ。」
漆黒に与えられた仮IDであっても、ちゃんとしたバックグラウンドが付加されていれば、見た目には人間のものと変わりがなくなる。
ある意味、不正登録取得で完全に人間になりすましてるクローン人間と同じになるのだ。
悪魔の誘惑だった。
正直なところ、漆黒は今、利兆が提案した事を、何度も過去において夢見たことがあった。
漆黒自身は、自分がクローンであることを卑下したことはない。
一度もないと言えば嘘になるが、人の世の実情を見れば見るほど、クローンと人間との差異は何処にもない事が分かったし、人間であっても「人非人」は、掃いて捨てるほどいるのだ。
だからこそ逆に、漆黒には「普通の人間に与えられるID」への執着があった。
「有効なバックグラウンドね。あんたが落ち目にならんかぎりという条件付きだがな。」
「これは手厳しいことをいうな。だが君のID情報は最低じゃないのかね。犯罪歴がない事以外は、これ以上のマイナスポイントなど着けようがないという酷い状況だ。君のような才能のある若者が、それ相応の学歴や技能を身につけれなかったのは、そのせいだろう?それもこれも、あの事実のせいだ。だが儂のバックグラウンドを付け加える事によって、その状況は帳消しに近い状態になるかも知れない。」
「それ以上言うな。第一、あの事はかなり深い階層まで潜らないと調べられない筈だぞ。お前はそれを知っている。それだけで、俺はお前を引っ張れるんだ。」
そうさ、引っ張れる。
そして人間の利兆は、直ぐに釈放される。
その代わりに俺は何度目かの人生の大ダメージを受けるという事の運びだ。
そして今、二人が話している「あの事」とは、漆黒の正体がクローン人間であることを指しているのか、それとは違うことを意味しているのかは、ハッキリしていなかった。
もちろん漆黒からは、それを問い質すことは出来ない。
「誰が、階層を潜って調べたと言ったのかね?君の置かれている状況は、少し見識のある大人が、表層のID情報を見るだけで十分推測出来るんだ。それに君は、それを肯定した。」
やっぱりクローン人間である事まではバレていないのか?
そして漆黒は、利兆の申し出に、心が半分奪われている自分に気づいて愕然とした。
気を付けろ、これは甘い罠だ。
俺はコイツで何度やばいめにあった事か。
「君が、この条件下で現在の仕事を完了すれば、刑事の任務を全うした事になり、同時にこの私は、自分の身内の力でケリをつけた事になる。」
「その後で、俺は警察をお払い箱になる。」
「そうかな?それは道義上の問題だろう。法的には、身内に私のような人間を持ったからといって君を警察を首に出来る理由はどこにもない。君が無視していれば済むことだ。第一、道義上なら君より他に汚職警官が山ほどいて、しかももっと悪辣だろうが。それにもし君が、今の職場を追い払われるような事があったとしても私には君をいつでも迎えいれる用意がある。どうかね?」
「、、条件はともかく、俺とお前の目的が今、同じなのは確かなようだな。」
漆黒は、胸に貯めていた息をゆっくり吐き出すように結論づけた。
利兆は、ニヤリと笑った。
「判った。とりあえず、この話は内容の変更なしで、保留しておこう。そして、これは儂からのプレゼントだ。ジェシカ・ラビィについては、元ローズマリー館支配人ブルーノ・ベンソンが多少なりとも情報を握っていると思われる。ウチの娘達よりな。、、彼については、煮て食うなり焼いて食うなり好きにしてもらって構わない。ただし警察で奴を保護するなんて真似だけはしてほしくないもんだが、、。」
「そいつの居場所は?」
「私の影響力の及ぶ世界全てに圧力をかけた。いつかはやらねばと思っていたが、、この業界で誰がナンバーワンなのか、そろそろはっきりさせる時が来たようだ。奴の居場所がわかったら、一番に君へ連絡させる。」
李兆の顔に一瞬だが隠し通せない凄みが浮かんだ。
馬面でも怖い。
密教に登場する憤怒相の馬頭明王というところか。
「俺たちの優秀な先輩たちが、いかにして堕落の道を辿っていたのか、今ようやくわかって来たような気がするぜ。お前達の用意する罠は、甘すぎる。」
漆黒は、ソファから立ち上がりながら利兆に声を掛けた。
利兆はソファに深く沈んだまま、力なく皺だらけの片手を上げた。
疲れが出たのかも知れない。
そこには一瞬、年相応の老人の姿があった。
先ほどまでの渋みのある悪党然とした気配が消え失せていた。
この落差、それが年を取るという事かも知れない。
この世に誕生して、数年で今の姿になり、そして何時までも若いままというクローンの漆黒にして見れば、それは実に不思議な光景だった。
「なぁに。君は儂が見た刑事の中でも、かなり上等な部類に入っているよ。自分自身を侮辱するには当たらない。世の中に崇高な奴はごく少数しかいないが、屑やけだものは掃いて捨てるほどいるんだからな。」
漆黒は駐車場で待っていた鷲男の顔を正面から見た時、罪の意識がわずかに自分の心の中で沸き出している事を発見した。
そしてあろうことか、漆黒はスピリットから目をそらせてしまったのだ。
ドク・マッコイは、スピリット達を任せる指導教官を集めていったものだ。
「今、世間は警察に対して不当な評価を下している。確かに警官のモラルや能力が低下しているのは認める。だがそれは全てを言い当てている訳ではない、警察には、諸君らのように、この無垢なる精霊達を導くのにふさわしい清廉で勇敢な人々が多くいるのだ。」
あの日の言葉を、未だに漆黒は覚えている。
清廉さも勇敢さも、単純な所にはない。
それは秘められた所にある。
例えば、死と対峙した時、人は何を持ってそれに立ち向かうか?
ドク・マッコイの言葉に、うち震えるような年齢ではなかったが、その言葉は、漆黒自らの内に隠している誇りとはっきりと共鳴していたのだ。
俺が、なぜ犯罪者達が死ぬほど憎いか。
奴らは、俺に与えられたかりそめの「人生」を費やしてこの世界を破壊し続け、つまらない世界を通り越して危険で狂った世界にしてくれたからだ。
この世界に生まれ惰性で行きてる奴らと違って、俺は自分の意思で、この世界で行き直す事を選んだのだ。
奴らが、元の世界を返せないなら、この俺が奴らに落とし前を付けさせる。
ただそれだけの事だ。
だが今日は、利兆が示した取引に漆黒の心は揺らいだ。
もの思いにふける漆黒をよそに、鷲男は今までと違って漆黒の指示を待つまでもなく車を発進させていた。
鷲男の学習能力が、その効果を発揮して見せたのだろう。