ファビュラス・ハデス 20: 新たなる神話の創世
20: 新たなる神話の創世
街の建物群が、数分前に降り始めた雨に反応して独自の匂いを立ちのぼらせ始める。
今日はメガエヤーが人降雨を降らせる日だった。
結構、雨脚が速い。
勿論、この世界に豪雨は数少ない。
豪雨は、人々のリクエストに応えて、年に数回の大盤振る舞いとしてあるだけだ。
雨の中、石造りのアパートメントにレインコートを羽織った一人の女性が入ったのを確認して、二人の男がその後に続いた。
二人とも、雨具の類はいっさい身に付けていない。
なんの変哲もないダークスーツだ。
多少の雨など気にしていては勤まらない職業なのだろう。
一人は、先の男より頭一つ身長がある。
その動きは洗練されて、まるでファッションモデルの様だったが、どこか剣呑な部分があった。
よく見ると、その男の頭部には人間のそれの替わりに、猛禽類の鳥のものが乗っかっていた。
その鷲男の前を行く人物は、二人の人間関係からして先輩か上司にあたるようだった。
かといって男が、それほど年かさという訳ではない。
青年と言えば青年で通る、濡れた様な少しウェーブのある黒髪を持った東洋系の男だった。
三人は、玄関ホールのエレベーター前で、昇降を示すパネルを見つめていた。
勿論、女性はパネルを見つめるふりをして、男達を、中でも特に鳥の頭を持つ男の事を観察している。
三人は同時にエレベーターに乗り込んだ。
彼女にとって、もう一つ気になる事が起こった。
エレベーターに入った時から、彼ら二人の男達は行き先のボタンを押さなかったのである。
行き先が彼女の階と同じだというのか?
だが彼女の部屋がある階には、個室が三つしかない。
そのうち二つは老夫婦のものだ。こんな怪しい男達が出入りするような階ではない。
「チエコ・サリンジャーさんですね。」
とうとう、東洋系の男の方が口をきいた。
その声を聞いてサリンジャーは、日本という国の過去にあったらしい「わび・さび」という言葉を思い出した。
サリンジャーの知識では「わび・さび」は、「不足の美」を現す言葉だが、この男の不足は「飢え」に近い。
彼のミステリアスな風貌が、その思いのきっかけを作ったのだろう。
「あなた達、何者?私は、『李』と個人契約を結んでいるのよ。」
チエコ・サリンジャーは容姿に似合わぬきつい声で答えた。
最近の女達は、何かといえばすぐに民間の警備保障の名前を出したがる。
そのおかげでレイプ犯罪が激減したのは事実なのだが、、。
レイプ犯罪が減った理由は簡単だ。
『李』に限らず大手の警備保障会社が、被害者の復讐を、彼らに成り代わって、法の目の網をかいくぐりながら徹底的に行って来たからだ。
つまる所は、人々が本当に望むのは無力な警察ではなく、そういった存在なのだ。
漆黒は、しかたなく昔から相も変わらぬ警察手帳を相手に提示するという手段をとった。
サリンジャーはその手帳を素早くひったくると、顔写真が貼ってある証明書の部分と、漆黒の顔を見比べる。
もちろん、ここまでする女性はいない。
お嬢様風な見てくれとは、まったく異なる内面を持った女性なのだろう。
「そちらの人のは?」
サリンジャーはちらりと横目で鷲男のほうを盗み見る。
本当はまじまじと穴のあく程、鷲男を観察したいようだったが、彼女の社会的なステイタスがそれを許さないのだろう。
「私のでは不十分ですか?彼は、まだ見習いの警官なんです。身分証明書に当たるものはありません。何処かで、お聞きになった事があるでしょう?彼はスピリットなんです。」
「精霊、、。」
サリンジャーは言葉を飲み込む。
漆黒は、サリンジャーの専門が民族考古学であり、テーマが『神話の成立起源』であった事を思い出した。
今、まさに彼女の目の前には、精霊が舞い降りたことになる。
「少し、お聞きしたいことがあるんですが、、。」
漆黒が用件を切り出そうとした時、エレベーターのドアが開きサリンジャーは意を決したように早足で自分の部屋に通じる廊下を歩き始めた。
「精霊だか、何だか知らないけど私は警察に用はないし、協力しなければならない謂われもないわ。」
サリンジャーは、自分の部屋のドアーを大きく開け放つと、そこで立ち止まって追いすがって来る漆黒達に向かってくるりと振り向いた。
両手は腰に当てられている。
所謂、仁王立ちという奴だ。
もっとも彼女の意に反して、そのポーズは、どう見ても威圧的というよりは、どちらかというとチャーミングさを感じさせるものだったが。
「さあ、どうするの?ここから入ったら不法侵入の現行犯よね。」
きっかり自分の鼻先の前でドアを叩きつけるようにして閉められる事を予想していた漆黒は、虚を突かれると同時に、サリンジャーの度胸に半分感心しかけていた。
「あなたが、私たちを招いてくれるのなら、そうはならないでしょう?」
その時、鷲男が渋い深みのある声で言った。
まだ完全には、オウムが喋るようなニュアンスが拭い去れてはいないが、その声には聞く者を魅了せずにはおかない不思議な魅力があった。
なんといっても彼は精霊なのだ。
サリンジャーが不思議なものを見るように鷲男を見た。
今度はエレベーターの時のような横目ではなく正面からだ。
それも突き刺すように。
「あなたの乗った車は、夜中のドライブで橋を渡る時、横を走る車をはじき飛ばしませんでしたか?その車に乗っていたのは我々なんです。」
漆黒は思い切って話の核心に入った。
この女性には、そういった方法が適していると判断したからだ。
そして、もう一つの理由は、そうしなければ何時までもサリンジャーが鷲男を見つめ続けているような気がしたからだ。
これを世の中ではなんと表現していたか?
そう、一目惚れという奴だ。
漆黒はそう感じたが、すぐにそれを否定した。
その考え自体が、何か、神を冒涜しているように感じられたからだ。
いやそれは、神ではなく人間の愚かしい常識という奴かも知れない。
よく考えてみれば判ることだ、人は何にでも心を魅惑される生き物なのだ。
その対象が鷲の頭を持つ男であっても不思議ではなかろう。
第一、鷲男は、恋愛対象というカテゴリーを外せば、誰の目から見ても十分すぎる程、魅力的な生き物だった。
「私が、あなた方をはじき飛ばした訳じゃないわ、、。」
サリンジャーは、そう言うと、ドアを開けたまま部屋の奥に入っていった。
「どうやらお招きにあずかったようだな。ドンファン君。」
漆黒は、彼に続く鷲男に囁いてから後ろ手でドアを閉めた。
「あなたのお話をお聞きすると、まるで私は、悪の教団の女幹部のように聞こえますね。」
サリンジャーは、彼女が用意した紅茶の入ったカップを両手でくるむようにして、紅茶をほんの少し啜った。
勿論、漆黒は、彼の知り得る全てをサリンジャーに語って聞かせた訳ではない。
だが、一人の娼男が殺され、その殺害と教団が関係することだけはボカさずに説明した。
「だが実際に美しいあなたに会って、そんな風に考える警官はまずいないでしょうな。」
漆黒がうち解けた口調で笑いながら言う。
「随分、女性に甘い刑事さんなのね。」
サリンジャーは、カップをソーサーに置きながら、鷲男の前に置かれてある紅茶を気にしてそちらに視線を走らせる。
鷲男は紅茶にいっさい手を出していない。
嘴とカップではいかにも取り合わせが悪い。
「で、あなたの今回の役どころは、なんだったです?」
彼女の答え方で、教団側の漆黒達に対する圧力の強さが判る筈だった。
教団側の人間でないチエコ・サリンジャーが、一度ヘブンに連れて行かれ、再び大学に戻された事などを考えると、教団には今回の一連の出来事を容易にもみ消す算段と実力がある事が想像できたが、、。
「その前に、あなたの勘違いを一つ訂正しておくわ。私はヘブンには行っていないの。正確には『ヘブンの根っこ』よ。そこで追い返されたのよ。車に乗せられて途中からずっと目隠しをされていたけど、私には確信があるわ。」
「確信?多くの平凡な人間は、ヘブンどころか、根っこにさえ滞在し続けるのが難しいと言うのに?」
「どうして見たことがない場所が、判るのかっていいたげね?私は小さい頃、ヘブンの根っこにいたの。入院手術という形でね。私が彼らに連れて行かれたのは、奇しくもその病院だったと言うわけ。」
チエコ・サリンジャーは、試すような目つきで鷲男と漆黒を同時に見つめた。
「私、奇形で生まれたのよ。」
彼らの時代において奇形という言葉は亜人類と同様に一種のタブーに近かった。
漆黒の心臓は動悸が激しくなった。
タブーを聞かされたという以上に、漆黒は何故かこの手の話に弱い。
それは彼がクローン人間だからという理由ではなく、漆黒賢治が残した記憶の残りかすに由縁するものだった。
漆黒賢治が奇形とどう関わっていたのかは知らないし、知りたくもないのだが、何故かざわめく感情だけが、その言葉にまつわりついている。
しかし表面上、漆黒は冷静に彼女の危険なカミングアウトのふりをした挑戦を受ける事が出来た。
それは漆黒が刑事という職業についていた、お陰だった。
刑事は決して容疑者に弱みを見せない。
「確かに、二十年ほど前なら、『根っこ』は、そういった手術の最先端技術を持つ病院が多数集中していましたね。」
『驚いた。奇形とは!今の美しいあなたからは想像も出来ませんね。』と、もし漆黒が返していたら、この会話は、この時点で途切れていただろう。
それどころか漆黒達は、この部屋から追い出されていたかも知れない。
「今でもそうよ。身体改変の周辺法律が整備されて、そのあおりを喰らった病院も多かったけれど、『根っこ』がそれらの技術的最先端処置を受けられる場所である事には変わりはないわ。知恵の実は、天国から落ちてくるのよ。『根っこ』の住人が、一番早くそれを拾える。」
「知恵の実ね。あなたらしい表現だ。、、で、あなたは現在の職業であるその専門性を買われてヴゥードー教団に招へいされた?」
漆黒は話の流れを、本来の捜査に戻した。
それは勿論、任務の遂行の為であったが、それ以上に、漆黒はチエコがこれから話し続けようとする私事の内容が苦手だったからだ。
特に、漆黒は幼い人間にまつわる身体変容についての話が苦手だった。
「新しい神話の創世に関われと言われたの。語り部になれと、あるいは神話づくりのアドバイザーね。」
「新しい神話ね。ヴゥードーらしいごたくだ。」
「そうでもないわよ。あの教主を見れば、あなたも考えが変わるわ。それに今は、新しい神話が生まれ出ても不思議ではない時代ではないかしら?こうして生身の精霊達が闊歩しているんだから。私には判る、彼らは決して作り物ではない。バイブレーションが人間とは違うもの。」
チエコは、鷲男を陶然と眺めた。
「教主は、どんな男なんです?」
チエコの協力が得られれば、彼女のイメージから教主の顔を抽出できる。
いや、それでは、あのDDVと同じ事になる。
抽出作業に入った途端に、ジッパーなどの「お上」に嗅ぎつけられてしまう。
今度はパーマー捜査官はいないのだ。どんな反応が返ってくるか判ったものではない。
そして今、「お上」は漆黒達の非力さを楽しんでいるに過ぎない。
下手な動きを見せると、たちまち叩かれる。
ほおり投げたボールを犬が走ってくわえ、主人の下に持ち帰る。
主人はそれを取り上げて、またボールを遠くに投げる。
そうしている間はゲームは続く。
犬がボールをくわえて離さなければ、飼い主は激怒するだろう。
そうするのは、ずっと後で良いのだ。
我慢することだ。
チエコの証言だけでも充分、捜査を進展させる事が出来る。
「とても美しい男だった、、。相手が女でも男でも、その美しさに囚われてしまう、そんな綺麗さよ。」
そう表現したチエコだったが、彼女自身は、教主を崇拝しているような雰囲気はなかった。
第一、スピリットに関心を寄せる女性なのだ。
人とは違う嗜好を持っているのだろう。
「どこにいても、目立つような人物ですか?」
「それは保障するわ。ただし、もし彼が人前に現れたとしてだけど。私は教会で、彼から彼がこれからやろうとしている事の説明を受けた。これが他の男の言葉ならお笑いぐさだけど彼の口から出る言葉なら全てが真理のように思えた。彼は美しい現人神ね。」
「秘密のベールに包まれた男って奴か、、。所で、あなたがコンサルを依頼された神話創世のあらすじっていうのは、どんなものなのかな?」
「彼らは、汚濁した世界の浄化から、彼らの神話を始めたかったみたい。」
「大洪水から脱出するノアの箱船みたいに?」
「ノアが主人公ではないわ。大洪水を起こす怒れる神が中心なのよ。」
「人類に対する天敵か、、、。ハルマゲドンでも気取ってやがるのか。天の軍勢、、ふざけやがって、、。」
「今、何と言ったの?」
今までは喋りながらも鷲男を観察するのに夢中に見えたチエコが、急に漆黒に視線を戻した。
変わってはいるが、頭の焦点が緩んだ女性ではないようだ。
「いや。何でもない。」
「そう、それならいいわ。色んな意味でね。そんな態度で私から全てを引き出せるなんて考えない事ね。私は善意で警察に協力しているだけなのよ。あなたに全てを与えなければならない義務はないわ。」
「ああ、、。こんなご時世ですからね。多くは望みませんよ。警察は絶対的な権力足り得ない。民間の警備保障に頭が上がらないぐらいだ。しかし、こちらにも都合というものがある。一方的で申し訳ないんだが、あなたに何かを差し上げて情報のギブアンドテイクとは行かないんですよ。でも、もう少し、話してもらえませんか?そうすれば、私の部下だって、もう暫くはこの部屋に居られるってもんだ。」
漆黒は、相手の恋愛感情を利用するのは、せこくて酷い駆け引きだと自覚していた。
だがここで引き下がるわけにはいかない。
それに漆黒が見たところ、少なくともサリンジャーは鷲男に関してだけは、正常な判断力を失っているように見えた。
「あなたって、とんでもない下司野郎ね。」
「ありがとう。で、あなたはその病院で何を見たんです?」




