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第五十話「みんな、触手に身を預けるんだ! むしろ触手に取り込まれたほうがキラーアントの攻撃が届きにくくなって、状況をいったん立て直せる! 展開型非協力的ゲームにおけるリスク支配的なナッシュ均衡だ!」

 軋轢に耐えかねた結界が半壊する。同時に篠宮さんが壊れた結界を半分ほど魔力に転換して、二枚の札を投げた。



「くっ――急急如律令! いでよ前鬼、後鬼!」



 篠宮さんの鋭い声と同時に二つの鬼の影が出没する。大きな鉄斧を携えた赤鬼と水瓶を抱えた青鬼。陽と陰。顔面には前と後の文字。

 前方のキラーアントの幼虫の群れに突撃して幼虫たちを薙ぎ払う赤鬼。後方からやってくる新たなキラーアントたちに霊水をかけて生命力を奪いとっていく青鬼。



 崩壊しかけた戦線がかろうじて維持される。

 押し寄せる幼虫たちを、前鬼と熊の子の英雄が体を張って押し止める。後方からの奇襲を、後鬼と影の腕が抑え込む。稀代の術師、篠宮さんの窮余の一手である。



 だが――天井の防御は手薄になった。穴開きだらけの結界が、緩やかに崩壊していく。無数の触手が、大盾の英雄でも捌ききれない物量で襲いかかり、とうとう俺たちを直接攻撃し始めた。



「いやああああああああああああっ!!」



 ぬるり、と。

 触手に頬を触られたターニャが絶叫する。

 呼応して拳ほどの光の球体――精霊たちがずらりとターニャの背後におし並んで、強烈な音を放ち始めた。

 音魔法。音楽的ミームや呪術的旋律を用いることで、空間そのものを音楽で支配する空間作用型魔術の一つ。今流れているこの不快な不協和音は、まさにその音魔法である。

 圧倒的な音の奔流が、音の届く範囲のものたち全てを包み込み、そしてあらゆる生物を拒絶する。



 だが――効果は薄い。

 触覚や前肢で音を知覚するキラーアントはともかく、触手に聴覚器官はない。音の呪術がほとんど効かないのだ。かといって音に込める呪力をさらに大きくすれば、今度は味方の俺たちに悪影響が出てしまう。

 ターニャが今ひとつ十分に活躍できないでいるのは、俺たちへ遠慮しているためだ。幼虫たちの足止め程度に効いているのが、せめてもの僥倖だろうか。



「んひぃっ!? 無理無理無理無理っ!」



 アイリーンが涙目になって飛び上がった。背中に二本の触手。

 俺も先程触られたが、やけに人肌っぽい温度でしっとりしているのが気色悪かった。おかげでワイヤートラップの振動魔術の維持がほどけてしまうかと思った。



「ふぎゃあっ、こ、こりゃ、やめんかっ!」



「あああっ!? くそったれ、ざっけんなっ、ちょ、あっ、ひゃっ」



「大丈夫だ、害はない! 触手は体を舐め回してくるだけで、せいぜい微弱な精神汚染を与える程度と、魔力を少しずつ吸い取る程度だ! キラーアントに集中すれば命に別条はない!」



 触手で混乱しかかっている皆に優先度を伝え直す。

 単純なフィッシャーの線形判別器の組み合わせで作った脅威度スコアリングモデルによると、キラーアントのほうが触手より遥かに生命への脅威度が高い。触手にぬるぬるされながらもキラーアントに集中すれば、まだ戦線は支えられるだろう。

 だが事はそう単純に割り切れるものでもないらしい。ぎゃあぎゃあと皆が叫んでいるのが分かった。



「っ! 不届き者め! その身を以て償うがいい!」



「ひぃ、は、破廉恥ですっ、あ、あっ」



 竜の息吹が吹き荒れて、和紙のカラスの群れが乱雑に飛び交う。

 ほぼ全員嫌悪感と恐怖でひぃひぃ言いながら魔術を維持している。何だこれ。何の戦いだろう。



「う゛え゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!?」と珍しくナーシュカの魂の絶叫が聞こえてきた。見れば、体が半分に千切れた幼虫がびちびち悶えながらナーシュカにくっついていた。男勝りな彼女には珍しく泣きが入っていた。

 このままでは埒が明かない。俺は叫んだ。



「安心してくれ、数理モデルを信じろ! 触手や幼虫には牙も毒もない! 何より剛体ではなく粘弾性がある! 剛性率が低い魔物なんか、物理的脅威度は低いし、いざとなれば千切ればいい! だから後ろからくるキラーアントの成虫たちと目の前のクイーンさえ退ければいいんだ! これは生命脅威度から行動計画を絞ったベイジアン・ナッシュ均衡で――」



「あ゛ーっ、あ゛ーっ、生きてる、生きてるっ!! ううあああああっ!」



 ナーシュカの絶叫。

 触手に首筋と脇を舐められて、太ももを幼虫に這いまわられて、半泣きになりながらも、クイーンの突進を何度も無数の刃物の紋様(シジル)で防いでいるナーシュカはかなり偉い。恐怖で呼吸がだいぶ怪しいが。



「いやああああああ……お兄様ぁ……お兄様ぁ……っ」



「ん、ふ、ふぅ、ぅぅえっ」



「んぎゃあっ、無理無理っ、げ、『幻力のアランブサ』!!」



 何度もえずきながら泣き崩れているターニャ。大粒の涙を浮かべながらも頑張っているナーシュカ。毛を逆立ってびくびく震えているアイリーン。みんな、もはや触手に襲われて殆どいっぱいいっぱいといった様子である。

 比較的落ち着いているのは俺ぐらいだろうか。篠宮さんは汗びっしょりで顔面蒼白になりながら触手に耐えているし、黒猫のユースティティアも影の腕の維持と触手の責めで息を乱しながらも歯を食いしばっている。いつも毅然としているアネモイでさえ「くぅっ」と顔をゆがめているので、生理的嫌悪は相当強いのだろう。

 ここが正念場――と俺は声を張り上げた。



「みんな、触手に身を預けるんだ! むしろ触手に取り込まれたほうがキラーアントの攻撃が届きにくくなって、状況をいったん立て直せる! 展開型非協力的ゲームにおけるリスク支配的なナッシュ均衡だ!」



「お兄様ほんと鬼畜ですね!?」



 みんな俺を鬼を見るような目で見ている。そんなに変なことを言っただろうか。

 触手によってもたらされる弊害は、せいぜい皮膚もしくは表皮の感覚受容器の興奮によって起こる皮膚反射だ。体性感覚における不快感。局所的皮質ネットワーク内における情報処理の結果であり、計算論的神経科学の観点で言えばそれはクオリアだ。



「っ、いかん! 妾の影の腕じゃ食い止めきれんっ」



 ユースティティアがトネリコの杖を握りしめながら叫んだ。後続のキラーアントの勢いが強くなったのだろう。手に青筋が浮かぶほどの力でドルイド呪術を行使しているようだが、状況は芳しくなさそうである。



「みんな、クイーンと兵隊アリに集中するんだ! 触手や幼虫はせいぜい身体を這いまわるだけだ!」



 這いまわる、という言葉でとうとう篠宮さんまで泣いてしまった。

 予想以上に触手が悪く働いているらしい。これは計算外である。皆の心も限界が近いのだろう。

 だが俺のオルフィレウスの輪はようやく二つ。極大魔術・アストラルバーストの発動に踏み切るには術式制御の不確定要素が大きすぎる。



「……一か八かだ」



 決断の時である。

 そもそも、いかに触手の害が薄いからといって、ずっと放置できる問題ではないのだ。皆の術式がこれほどにかき乱されている以上、触手を先に戦闘不能にしたほうが状況を改善できるかもしれない。

 方針転換するなら今だ。



「……クイーンと兵隊アリを頼む、俺は触手の中心部まで単身で一気に突っ込んで、一撃かましてくる」



 気色悪いが仕方ない。幸い、精神汚染は俺にはあんまり効いていない。

 ならば俺が特攻して、内側から強烈な一発をぶちまけるのがいいだろう。

 この役目を誰がやるのがベストかと言えば俺である。誰かがやらなくてはいけないことだ。

 だが俺の言葉に、今度はみんなが動揺した。



「なんじゃと!? 他に方法があるじゃろうが!」



「ばっ……てめぇ! 勝手に危険な真似するんじゃねえ!」



「うええええやだやだ、私も絶対やだけどジーニアスがやるのも絶対やだ!」



(みんな俺が触手に突っ込むのも嫌なのか……?)



 心配してくれているのだろうか。確かに背筋がぞわぞわするが。靴の中に芋虫がいてそれを履いちゃった、ぐらい気色悪い。もしくは耳の中に虫が入っちゃった、ぐらいだろうか。

 でもみんなのようにぼろぼろ泣くほどではない。

 口早に俺は諭した。



「若い女王種が二体来てる。迎え撃つなら、触手を無視する必要がある。でも触手の妨害が無視できないなら、触手に一撃入れて沈黙させる必要がある。適任は刻印魔術を使えるナーシュカだが、そんな精神状態じゃ――あ」



「――――」



 思わず。

 言うつもりじゃないことまで口走ってしまった。



 それを聞いたナーシュカは、息を詰まらせていた。開かれた目にはますますの大粒の涙。心が引き裂かれたような顔をしている。



「……お、オレが、やれば、お前は無事……」



「ナーシュカ違う、俺がやる、だから」



「オレが、やる……から、お、オレが、覚悟を」



 ぼたぼたと虚ろな目で涙をこぼすナーシュカ。緊張で過呼吸気味になっているが、こんな彼女をひとりでいかせるわけにもいかない。



「馬鹿言うな、ナーシュカは無理するな、俺が」



「オレ、オレが、守んなきゃ、だって」



 ばちゅ、と幼虫がはじけた。熊の子の英雄の一撃。だがタイミング悪く俺の横顔にぶちまけられる。ひ、とナーシュカの上ずった悲鳴が聞こえる。



 直後――恐ろしい衝突音。

 死にかけの女王が、狂ったように頭蓋を結界にぶつけて暴れている。

 呼応して、キラーアントたちがぎぃぎぃと鳴き声をあげていた。幼虫も、背後からぞろぞろ来る兵隊アリたちも、共鳴して叫んでいる。



 使役される式神たちと、英雄たちと、影の腕と――それでも捌ききれぬ物量のアリの群れ。

 竜の咆哮が爆轟を上げて周囲を薙ぎ払うも、さすがにアネモイにも疲労の影が見え隠れしている。



 もう猶予はない。突入するなら今を置いて他にない。俺が行くしかない。

 だがナーシュカは、暗い絶望に塗れた瞳で――それでも悲壮な覚悟で、俺に目で訴えていた。

 "オレが行く"と。


ぼろぼろに泣きくずれるヒロインと「ゲーム理論上は問題ない」という主人公。

こう、無自覚でヒロインの気持ちをあっさりぐちゃぐちゃにしていくのが書きたかったんですよね……(ゲス顔)

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― 新着の感想 ―
[一言] き、机上の理論……!
[良い点]  私達の世界で魔力とやらが存在したら。発見されたら。  その神秘は数学的に解析されていくのではないか、と思わされました。 [一言] でもジーニアスは爆発して良いと思う(笑)。
[良い点] タイトルからもう酷い!
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