第三十五話「んぁッ、ぅぅ、だ、騙されませんよ……ッ、先ほどから、金剛結界が、び、媚薬の仄かな香りと……こ、声を使った、ぁっ、感染呪術を、弾いています……ッ」
そろそろか、と一人呟いたルードルフは、世界迷宮の入り口にて、呪文を空中に展開させていた。
それは"扉"の修繕作業。古くなった門に、セフィロトの樹を基にした図形を再び刻み込みなおすという、重要な仕事。
教会魔術の使い手であり、セーフィルの名を継ぐルードルフのみが、その仕事を担っていた。
「……人の願望に忠実すぎるのも考え物だね。願望の実現と無秩序は、明確に異なるものだ」
セフィラの意味は定かではない。文章という意味のsefer:ספר、物語という意味のsippur:סיפור、輝き/サファイアという意味のsappir:ספיר、境界という意味のsfar:ספר――その名を継いだルードルフの役目は、古に失われたカバラ数秘術の神秘をもって、この世界迷宮の扉を維持することである。
「なあ悪魔。君は、迷宮の核から生まれたんだろう? 迷宮の記憶や、迷宮の意志を教えてくれよ」
からかうような問いかけ。
その場にいる悪魔は、メフィストフェレスとマルコキアス。いずれの悪魔も、心臓の魔石をサファイアに支配されていた。
聖なる書曰く、創世神は、人に十個の戒律を刻んだ石板を授けたという。
神が授けた石板は言葉であり、神の輝きであり、そしてその石板はサファイアで出来ていたとされる。
そして、生命の樹には、同じく十個のセフィラが宿っている。
「特にメフィストフェレス、君は私の命令を無視したね? 私が力を試せと言ったのは、ジーニアスの方だよ。香りの古呪術を駆使して、彼にうまく依頼人をけしかけさせたのはいいとしてだ、何故あの獣人の姫と戦ったんだい? そんなに彼女の素質が恐ろしかったのかい?」
ルードルフの声は、平坦であり、穏和であったが、背筋の凍るような無情さも滲み出ていた――その声を聞いた赤い道化服の悪魔が動けなくなるほどに。
「マルコキアスに至っては、君はまだ何も私の役に立ってないじゃないか。せっかく私が心臓を与えたというのに、もう一度死に直すかい?」
まるで軽い冗談のような口ぶり。だが、それを聞いたマルコキアスは全くそうは受け取っていないのか、ただただ平伏の仕草をルードルフに返すのみ。
いまやその場は、ルードルフただ一人のみが支配していた。
魂の有り様そのものがまるで異様であり、全ての生き物が本能的に恐れる、まさしく特級指定の魔術の使い手たらんとする威容。
「……暦を定めた八賢人は、閏月が均等に渡る六十四年の周期と、閏月と閏日が均等に渡る三百二十年の周期を大事にしたという。だが、宵の明星と明けの明星の千回周期と被るのは、実に千六百年ぶりだろうか」
そしてそれは、世界迷宮が卵――迷宮核を異常に産み落とす周期でもある。
共存できぬものは弑せねばならない、といった呟きが、どこからともなく聞こえた。
◇◇
問:耳が敏感なエルフをベッドに押し倒して、四つん這いになって耳元でささやき続けたらどうなるか?
あらゆるエルフを集めた集合Eと、その部分集合に耳が敏感なエルフの集合E_sがある。
ここでE_sのうち任意の要素eに、以下の操作、ベッドに押し倒す、四つん這いになる、耳元でささやき続ける、を与える。
このとき、操作後のe'と操作前のeの差分を調べることが、この問いへの答えにつながる。
演繹とは、記号論理学の考えに基づいて、記号で記述できる操作となる。
それは「蓋然的」に正しい操作ではなく、必然的に導かれる結論でないといけない。
操作後のe'において、直感に正しいと思われるのは、E_s ∋ e'(耳が敏感なエルフは、耳が敏感なままであるため)だが、本当の意味で厳密な演繹を考えるならこれは正しくない。
反例の一つとして、耳元でささやき続けた結果、耳が鈍感になり、E_s ∌ e'となる可能性を棄却できないからである。
実験的科学は、演繹とは異なる。
統計的に論じる場合は、複数のサンプルに実験を行い、そこから得られるデータが有意水準を満たすかどうか、統計的仮説検定に基づいて判断する。
もし、その際に起きる現象を表現できる一定の数理モデルを与えることができるのであれば、数値シミュレーションを行うことが可能である。
たとえばベクトルeとベクトルe'を置き、それぞれベクトルの要素を心拍数、血圧、等の可観測なパラメタとすれば、そのパラメタ群の差分を調査することになる。
まさに今俺が行っていることが、それである。ポリグラフ調査とはすなわち、可観測なデータから性質の変化を推論することである。
そして、ここまで説明すれば、俺が苦手とする論理飛躍について理解してもらえると思う。
俺の思考プロセスを紐解くのであれば、問いを「操作後のe'と操作前のeの差分を調べる」であると仮定してしまい、演繹か(統計的な推論に基づく)帰納を考える。
だが――複数ある答えの内、俺が苦手とする種類の答えはこれだ。
答:妹がとても怒る。
「 お 姉 様 !!」
「(答えて。あなたは事件当時、現場にいた)」
「はぁっ、っ、ん、い、いいえ……ッ、よ、予想以上ですが、ま、負けません!……んぅっ」
なかなか尋問が進まない。和服を着た篠宮さんは、俺に組み伏せられたまま、すっかり顔を赤らめて、息を弾ませていた。
じっとりと汗ばんだ肌は妙に艶っぽく、乱れた着物と相まって、どうにもよくない方向への想像を想起させてしまう。
エルフは耳が敏感とはよくいったものだが、こんなに敏感な人がいるとは思ってもいなかった。よもやターニャといい勝負かもしれない。
敏感過ぎて、催眠状態になかなか移行しないのだ。囁き自体が彼女の脳活動を刺激し、半ば強制的に覚醒させているのである。
「(あなたは事件が起きたあと、現場に立ち入ったことがある)」
「ッ、かはぁ……っ」
かはぁ、なんて声は、普通は耳元で囁かれた程度で出る声ではない。息も絶え絶えで、いいえという否定さえも、気力を絞り出すようにして答えないといけない有様。
脳が痺れる感覚は当人でないと分からないだろうが、脳を掻きまわされている人間の表情は、何となく理解できる。彼女の表情はまさにそれだった。あえて喩えるならば、背骨の押してはいけない場所を押されてぞわぞわと震えている人間の顔。
……その間ターニャは、俺の脇に手を通して俺を引っぺがそうと悪戦苦闘していたが、無視をする。
「(あなたは怪盗チェストの正体に心当たりがある)」
「ッ……ぅぅ、い、いえ……」
感情の興りを律するように、はぁー、はぁー、と大げさに息を吐く篠宮さんの耳に、もう少しだけ尋問を続ける。涙目で、ぶるる、と余裕なく身を震わせる彼女は、それでも如実に反応を返していた。
問:あなたは事件当時、現場にいた。
答:いいえ。
問:あなたは事件が起きたあと、現場に立ち入ったことがある。
答:はい。
問:あなたは怪盗チェストの正体に心当たりがある。
答:はい。
「(あなたが嘘をつく限り、この尋問はずっと続く。あなたは、怪盗チェストである)」
「は……ぁ、くッ」
声さえ返せず、首を横に振っての否定。呼吸が浅くなり、くぅ、と喉の奥が鳴る音。だが俺のマナマテリアルの手袋伝いに、あいまいな反応が返ってきている。真相に近づいている手ごたえ。
背中から「お姉様ぁ……」と半泣きのぐずついた声が聞こえてきたが、俺は構うことなく尋問を続けた。
「(あなたは、怪盗チェストの共犯者である)」
「~~ッ!? ぁ、はぅ……ぅ」
「(答えて)」
「~~ッ! ぅ、ぅぅ」
一瞬大きくぶるりと震えた彼女に、続けざまに質問を投げかける。反応が大きかったが、おそらくノイズである。
呼吸も浅いまま、震える声で彼女は何かをつぶやいていた。
「ざ……残念ですね……ッ、ノウマク・サマンダ……バザラダン、んふッ……ぁ、バザラモコ・カン(namaḥ samanta-vajrānāṃ vajrātmako 'haṃ)」
(――!? 術式キャンセルが効かない!?)
演算領域にプリセットされていた術式ディスパージョンの魔術アプリケーションが自動的に立ち上がったが、二割も減衰させられずに抵抗される。解析結果は金剛降ろし。
ようやく辛うじて術式を練ることができた、という有体だったが、それでも強力な術だった。
「さ……先ほど、三重目の、金剛降ろしの加護を、発動しました……これで、か、身体は感じますが……っ、せ、精神汚染系の、呪術は、ほとんど効きませんよ……」
「(……? 安心して、あなたには洗脳呪術などは使っていない。これはあくまで尋問で)」
「んぁッ、ぅぅ、だ、騙されませんよ……ッ、先ほどから、金剛結界が、び、媚薬の仄かな香りと……こ、声を使った、ぁっ、感染呪術を、弾いています……ッ」
「(あ)」
なるほど、と俺は合点が付いた。催眠状態にする程度の意図しかなかったが、声に魔力を乗せていると感染呪術扱いになるのだろう。彼女の意識が妙にクリアな理由も納得である。
だがそれは話の本筋ではない。一瞬脱線しかけた話をもとに戻して、「(答えて、あなたは怪盗チェストの共犯者である)」と再度問いかけなおす。
答えは、不敵な笑みだった。
「ふ、ふふ、……わ、私が盗んだという、証拠が……ッ、あるのですか……?」
「(ない、おそらくあなたは盗んでいない)」
「ふ、ふふ、ふふふ……ぁ、くっ」
知っている。手袋から伝わる感情は、相手の自信。
尋問を始めてしばらくして、俺は、篠宮さんがあえてこちらの誘いに乗ってきたことに気付いてしまっていた。
質問を好きなだけぶつけて、精神の揺らぎをどれだけ調べても、それが絶対に証拠に結びつかないという揺るがない自信があるのだ。
証拠に篠宮さんは、こんなに囁き続けているのに、一度も催眠状態にはなっていない。彼女は最初から最後まで、きちんと脳で判断して回答をしている。
「ざ、ざんねんですね……、む、むしろ、わたしのけっぱくを、……っ、しょうめいすることに、な、なりましたね……ふぁっ」
涙目のくせに、ふふん、と強がる声。思わず俺はどきりとしてしまった。なんて可憐なのだろう。
いかに数値計算的に"可憐"である俺でも、この天然の可憐さにはかなわない気がした。涙目で顔真っ赤なのに強がる女性に勝るものはないのだ。
だが俺は、それでも真相に近づいていた。
「(そう、あなたは盗んでいない)」
ひぅ、と耳をぴくぴく動かしてぞわぞわ震える彼女に、まだもう少しとばかりに囁きかける。
手袋のマナマテリアルは、演算領域とのパターン照合の計算をすでに終えていた。
――手をつないでいたのは、別にポリグラフ分析のみのためではない。指紋照合と魔力紋の照合のために必要だったのだ。
「(そもそも怪盗チェストは、何も盗んでない)」
はっとした表情の篠宮さんに、俺はさらなる推理を聞かせてみせた。
俺を引っぺがすふりをしていた背中のターニャも、篠宮さんの髪の毛に妖精を忍ばせることに成功しており――すでに髪の毛との照合も完了していた。
「(怪盗チェストは、学院にとって"盗難に遭った"としたほうが都合がいいものを消すための存在。あなたは、ただ花札で出来た犯行カードを現場に残しただけだった)」
◇◇
「石板を手元に戻すついでに、一連の騒動を君の実力を試すきっかけにさせてもらったよ。実を言うと、君はあまりにも異端すぎて、まだ測りあぐねているところがあるんだよ」
一つ情報を付け加えるとすれば――魔術学院の博物館から盗まれたとされる石板は、サファイアで出来ていた神託の石板である。
一連の事件で盗まれたものも、確実にいくつか存在している。だがそれは明るみには出てこない。
法衣をたなびかせて歩くルードルフは、最近切り取ったオピオタウロスの角を手元でもてあそびながら、学院の人混みの中に消えていった。
問(再掲):耳が敏感なエルフをベッドに押し倒して、四つん這いになって耳元でささやき続けたらどうなるか?
答:妹がとても怒る。




