第二十一話「これこそが雄効果(male effect)と呼ばれるもので、フェロモンが作用して、生殖制御中枢の活動を促すという事象である」
今、世界には特級指定魔術の使い手が七人いる。
魔女術。ユースティティア。
陰陽術。篠宮百合。
竜魔術。アネモイ・カッサンドラ・ドラコーン。
王国魔術。アイリーン・ラ・ニーニャ・リーグランドン。
教会魔術。ルードルフ・サロムス・セーフィル。
刻印魔術。ナーシュカ・イナンナ。
精霊魔術。ティターニア・アスタ。
そして、世界最高の魔術師、八賢人の座は八人とされている。
最後の一つの座は――未だ決まっていない。
風紀委員の仕事は簡単である。
暴れている人間を取り締まること、適当に学校を巡回すること。たったこれだけ。他には何も必要ない。強いて言えば、点検事項を校内チェックリストに記入していくという作業や、定期報告会に向けた成果物作業等はあるが、これは持ち回りの仕事なので気楽なものであった。
これは【魔術学院アカデミア】の風紀委員が、一般的な学校の風紀委員よりも“楽をしている”のも一因である。
「あんま無駄に取り締まってもお互い疲れるだけだしな。服装とかぶっちゃけ自由でいいんだよな」
この学校の風紀委員長、ナーシュカはおおらかな人間であった。服装の乱れは綱紀の乱れ、という意見を「嘘つけ」の一言で黙らせてきただけある。というより当のナーシュカの服装が奇っ怪なのだ。漆黒の学生帽と詰め襟、胸元にはサラシ、ちょっと足りない身長を盛るための鉄下駄――オリエント・ジャポニズムの伝承にあるジャポニカ・バンチョーそのものである。
善悪や正義という観点よりも、ナーシュカの裁きは極めて単純明快である。すなわち――悪いやつは俺が潰す、である。
有り体に言えば、学校で一番怪我人を出しているのはナーシュカである。
理由もこれまたひどい。
「オレは誰でもいいからぶちのめしたいだけだ。痛い目見たくなきゃあ、オレに手を出させる口実を与えるな」
彼女の掲げる風紀とは、“筋を通さないやつは鉄拳制裁”、である。
あまりにも独断専行が目立つナーシュカの振る舞い。彼女の行いは、生徒会専門委員会風紀委員と生徒会執行委員会に奇妙な力関係を与えている。
すなわち、生徒会の一員としての風紀委員のみならず、執行委員会と対等に口を出せる組織、専門委員会としての風紀委員の顔である。
生徒会執行委員会が行政機関であるならば、司法機関は専門委員会風紀委員である――風紀委員は法の番人として、各生徒に睨みを効かせるのであった。
すなわち風紀委員とは。
服装の規定などにおおらかな、堅苦しくない自由な組織であり。
暴力装置としての自衛力と治安維持能力を持つ組織であり。
そして生徒会執行委員会に比肩しうる影響力を持った、特級魔術師ナーシュカの率いる組織である。
そして、そんな風紀委員の一人である俺は今。
学校の畜舎から逃げ出した牛と戦っていた。
◇◇
現代魔術は異世界をクロールするか 第四章
◇◇
「ええい暴れ牛め、この黄道十二宮が一人、牡羊座のアリエスが貴様を――ぐああっ!?」
ぶもぉお、と牛が吠えた。身体の前半分は牛、後ろは蛇でできているその異形の魔物は、凶悪な突進力をもって、立ち向かう者たちをちぎっては投げちぎっては投げと派手に暴れていた。
その名はオピオタウロス。
オピオ(Οφιό, Ophio)は蛇を意味し、タウロス(ταυρος, Tauros)は牛を意味する、まさに文字通りの姿をした魔物である。
「ふふん、やはりここは闘牛倶楽部のエース、私、パウエレーラ・エスカミーリャがお相手するしか――きゃああっ」
「パウエレーラさん!? くそっ、ラ・マタドーラのパウエレーラさんが太刀打ちできないなんて!」
悲鳴があちこちから上がる。
オピオタウロスは、神話にもその名が出てくる魔物である。
そのため編み込まれている呪術的文脈が強固であり、魔術への抵抗力も強く、並の魔術師で歯が立つ存在ではない。
これでもし角があれば人死にが出てもおかしくない。角を切り落とされていたのは僥倖という他ない。
一体なぜこの牛が暴れているのか。
原因は、かつて数日前に滋養強壮薬を飲みまくってしまったこの俺、ジーニアス・アスタにあった。
(やばいやばいやばい、あの牛、俺の匂いに興奮してやがる……!!)
畜舎の扉が壊れて脱出してしまったオピオタウロスは、滋養強壮薬の匂いを色濃く身にまとった俺目掛けて、まっしぐらに突き進んでいた。
――雄効果、という言葉がある。
季節性繁殖動物として知られるヤギやヒツジなどでは、非繁殖期に入っている雌の群れに雄を導入すると、雌の卵巣活動が賦活されて排卵に至ることが知られている。
これこそが雄効果(male effect)と呼ばれるもので、フェロモンが作用して、生殖制御中枢の活動を促すという事象である。
ウシなどの哺乳類は、フェロモン感知に特化した嗅覚系を持っており、これを鋤鼻系と呼ぶ。イヌとほぼ同等の嗅覚をもつウシは、ヒトよりも匂いに敏感である。
そして、幼い頃から生物工学の観点で優秀なオスとしての指向性を遺伝的・生理学的に選んで育ってきた俺は、フェロモンも優秀であった。
ざっくり言えば、より優れたエピジェネティックな情報を遺伝子データベースに保存しつつ、多目的最適化問題のパレート解を解くようにしてより優れた生物へとゆっくり作り変わっているこの俺が、遺伝子的にモテないはずがないのだ。
つまり、滋養強壮薬を飲んだせいで、なんか普段よりもフェロモン的なやつがたくさん出ている俺が、偶然脱走していたウシに目をつけられたのだ。
(うおっ、危なっ!?)
ぶもぉおお、とオピオタウロスが嬉しそうな声を上げて駆け寄ってくる。お目当てのものを見つけた子供のような走り方。
牛歩という言葉があるが、ウシの速さは馬鹿にならない。競技用じゃないおとなしいウシでさえ、成人男性平均とほとんど変わらない速さで走る。下半身が蛇なのはせめてもの救いである。
ひらりひらり、と舞い踊るようにオピオタウロスの突進を回避する。さながら気分はマタドールである。だがしかし、普通に走って逃げるよりも瞬発力ととっさの判断力が必要であるため、体力の消耗も大きい。
(くそっ、走り回ったり跳び回ったりしながら、このまま畜舎まで誘導しないといけないのか……!)
息がすっかり上がった状態で、なおも身体に鞭打って地面を蹴る。
刻一刻と厳しさの増す状況に、思わず舌打ちが溢れた。
もちろん、いざとなれば睡眠薬を注入すればいい。マナマテリアルによって作られた睡眠誘導ナノマシン。最古の魔女ユースティティアから学んだ調薬の知識を活かした睡眠薬も混ぜ合わせており、効果は折り紙付きだ。
しかし、考えもなしにこの場で彼女を眠らせてしまうのは憚られた。
ウシの体重は数百kgにも及ぶ。特に下半身蛇であるオピオタウロスは、通常の牛よりも体が大きく、成人男性20人から30人ほどの重さにまでのぼる。そんな重さの巨体を運ぶなんて想像したくもない。
できればこのまま俺が牛を惹きつけて、畜舎まで誘導したいところだ。
牛を誘導するためには当然、透明化の魔術も使えない。ずっとオピオタウロスに姿を見せつけなくてはならない。
殺傷してしまうような魔術も使用不可である。
俺にできることは、肉体強化魔術を使ってあちらこちらへと走り回るのみである。
(だめだ、息が上がってきた……っ、病み上がりにこの運動は中々きついな……!)
オピオタウロスを直視しつつも、時々背後を確認しながら、畜舎のある方向へと飛び退く。
この緊迫した状況下で、さらに何が厳しいかというと、時々事情を知らない生徒がこの場面に出くわすので、彼らを安全に避難させるために俺が気を引きつけなくてはいけないのだ。
先程、運悪く何人か巻き込まれてしまったが、あれは仕方がない。あれは向こうがこちらを助けようとして巻き込まれてしまったのだ。俺のことしか視界に入ってないウシに思いっきり跳ね飛ばされていたが。怪我がなさそうだったのが不幸中の幸いである。
せめてもう誰も巻き込まれてくれるな――と祈りながら、後ろへと、後ろへと飛び退く。
しかしその刹那のことであった。
「えっ、ジーニアス君?」
なんと、俺の進行方向には和服を着た謎のエルフがいたのだった。
(危ない――!)
咄嗟にその女性を抱きかかえる。お姫様抱っこは既に経験済みである。ついでにいえば女の子をお姫様抱っこしながら追手から逃げ回るのも既に一度やっている。
ずしりと手に激痛が走る。まだ完治しきっていないこの手には、あまりにも負担の大きい行為である。だが俺は歯を食いしばって、その女性を手放さないように力を込めた。
「きゃああああああああっ、きゃああああ、きゃあああ、きゃあああ!?」
和服の美人の銀髪エルフは、耳まで真っ赤にしてきゃあきゃあ叫んでいた。
軽い。すらりとした見た目なのにこうして抱きかかえると呆気ないほど軽く感じる。なんと嫋やかなのだろう。瞬間的に俺は、胸が高鳴るのを感じた。これぞナデシコ・ビューティフルではないか。
運命だろうか。
もしかしたらこれが運命かもしれない。
「初めまして、お嬢さん。夢でも見てるのかな、天使がいるように見えるんだけど」
「な、な、な、な、何言ってるんですかジーニアス君!?」
さくらんぼを思わせる赤い顔で、そのエルフは高い声を一段上ずらせた。戸惑ってる。可愛い。綺麗な人が困惑してる顔は最高だと昔から相場が決まっている。
わずかに離れたところからウシが、ぶもおおおおっ、と追い立ててくるのも、もはやどうでもよくなっている。
「私です! 私ですよ! 生徒会長の篠宮百合です! 覚えているでしょう!?」
瞬間、脳天に電撃が走った。
生徒会長。俺にウィンクをしてくれた可愛い人。和服の似合う銀髪エルフ。全てが一つの線で繋がった。人の顔を覚えるのが苦手な俺でも、これはもう二度と忘れることはないだろう。
「覚えてます、覚えてますとも、私にこっそりウィンクの合図を送ってくれた人でしょう。ですがその恋の秘密鍵暗号は私には難しすぎたようだ、今夜二人でDiffie-Hellman方式の鍵交換とでも洒落込みませんか?」
「か、か、か、かぎっ!? ななな何言ってるんですか!?」
鍵という単語で、何やらあらぬ想像をしたのか生徒会長はさらに顔を真っ赤にして口元をもにょもにょとさせていた。
可愛い。可愛すぎる。
このまま寮室に持って帰ってもいいだろうか。
ぶもぉおぉおぉお、と突進の勢いを増すオピオタウロスを脇目に、俺はそのまま畜舎へと急ぐ。早くこの一件を片付けないといけない。
でないと、この甘い逢瀬の時間がなくなってしまう。
思わず脚に力が入る。
俺のアストラル演算領域で、オルフィレウスの輪が駆動し始めた。迷宮のコアの破片を核とした魔力炉によってマナ分裂連鎖反応が次々と始まった。
「きゃっ」
そのときである。走っている振動で、和服の胸元がはだけて、足元がぺろりとめくれ上がった。
瞬間、俺はすべての意識がそこに集中してしまった。
――制御を崩した俺が、オピオタウロスの突進をその全身で受け止めたのは間もなくのことであった。
◇◇◇
噂が立った。
農学部棟の敷地内、畜舎から少し離れたところで、ほぼ全裸の不審者が現れたという。
そばにはお気に入りの匂いがする衣服に顔を埋めているウシがおり、事件に巻き込まれた生徒会長は顔を真っ赤にして何も喋らなかった。
そしてその日から、とある風紀委員に武勇伝がまたもや追加されたという。
ウシを骨抜きにした全裸男。牛を調弄ふ男。
(風紀委員の仕事のどこが楽なんだ? 俺の運が悪すぎるのか?)
ウシの突進を受け止めて腰を痛めてしまった俺は、何とも腑に落ちない気持ちでもやもやしたまま、かさむ治療費のことで頭を悩ませるのだった。




