The Rage
頭が痛い。一は鈍い頭痛を感じながらも泣き言を言わず、学校の周囲を歩き続けていた。泣き言を言えなかったのは、隣を歩く少女――黄衣ナコト――がいたからだ。自分と同じく、魔術の素養を持つ彼女もまた、自分と同じ頭痛に悩まされている。自分一人だけ弱音を吐いていられなかった。
「そろそろ一周するけど、俺にはどこがどうとか分からないぞ」
「……頭痛が酷くなった場所とか、ありませんでしたか?」
「いや、特にない」
言葉を発するのも、正直辛い。カリュプソの魔法に打ち勝つ様、一はさっきからずっと脳内で自己暗示を繰り返していた。意識が乱れると、持っていかれそうで恐ろしい。
ナコトは表面上は平静を装ったまま、春風から受け取っていた地図を広げる。
「北高は大雑把に言うと、東棟と西棟に分かれているようです。二つの校舎には行き来する為の渡り廊下があり、棟の真ん中には中庭と、棟から離れた場所にグラウンドが一つずつ。東棟の傍にはプールもありますね。そして体育館は、正門近く、と。一般的な、面白みの欠片もない学校です」
「学校に面白みを求めてもしょうがねえよ。それより、何か突破口みたいなのはないのか?」
「難しいですね。こちらから向こうが見えていなくて、向こうからこちらは見えている現状、待ち伏せは避けられないと考えた方が良さそうです。ですが、最終的にはどこからか塀を乗り越えて行くしかないでしょう」
「……なら、グラウンド側からは駄目だな。フェンスが高くて上れそうにない。この、東棟の裏の塀から行くのはどうだ?」
一は見取り図上の東棟を指差した。ナコトはその指を退かし、
「東棟に魔女がいた場合、見つかってすぐ豚ですよ」
東棟をトントンと指で叩く。
「豚を押すな。だったらどうするんだよ? 効果の薄いところなんか見つからないし、どこから行こうとしても待ち伏せがあるんだろ? 四方八方塞がれてて手も足も出ねえじゃねえか」
「せめて、陣がどこに設置されているか把握出来ていれば良かったのですが。そうすれば、陣の形を割り出し、弱いポイントを衝けたのに……」
ナコトは溜め息を吐いた。辛そうだった。
「形、か。なあ、魔法の陣ってさ、どんな形があるんだ?」
「……全て挙げることは不可能ですが、陣には五芒星や六芒星が多く用いられますね。しかし、本当に数が多いんです。今回、相手がどんな形の陣を使っているか読む事なんて不可能ですよ」
「じゃあ駄目か。くそう、魔術の素養なんてあっても役に立たないぞ、ホントどうすんだこれ」
一は頭を掻き、フェンスに手を付く。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「仕方ありません。手近な塀を乗り越えて、中から陣を探しましょう」
「探して潰して、入り口を作る、ね」
「……不満ですか?」
「いや、でもさ、ホント俺何も出来ないんだなあって」
「ですが、入り口を作らなければ他の勤務外は入ってこられません。中の人間は殺されるまま、いつまで経っても『館』に好き勝手させたままです。状況を打開する為の扉を作るのは、あたしたちにしか出来ない事なんですよ?」
諭すようなナコトの口調。
「……分かったような事言いやがって」
「まあ、少なくともあなたよりは。で、どうします、どこから侵入しますか?」
「ええ? そんなのお前が決めろよ」
中途半端に選択権を委ねられても困る。
「あなた、あたしが選んだ場所から入って、待ち伏せに出遭って殺されたらどうしますか?」
「ふざけんな、死ぬまで文句言って死んでからも恨み言連呼しまくるからな」
「――あたしは言いません。あなたが決めたなら、あたしはそれに従います。それで死んだって、絶対にあなたを恨むような事言ったりしません」
「……なんだよ、それ」
ナコトは笑って、
「それにあたし、くじ運が悪いですから。生まれてこの方、当たりを引いた事ないんです」
一にそう言った。
「俺だって言うほどラッキーマンじゃないぞ」
「知ってます。でも、悪運は強そうですから」
「……今度は片目じゃ済まないかもな」
「ええ、でも、あたしがそんな事になりそうなら、あなたはもう一度助けてくれるって、そう信頼してますよ」
ナコトはまた笑う。
「ちっ、期待はしてないんだろ?」
「当然です」
一は舌打ちを繰り返し、西棟から侵入することを告げた。
「……勤務外」
ソファに深く腰掛けている、黒いローブを着た女は呟いた。彼女は『館』の一人、カリュプソと呼ばれる魔女だ。
「ふうん、こっちから、来るの、ね」
たどたどしい手付きで、テーブルに広げられた北高の見取り図をなぞって行く。彼女の白く、細い指先は西棟を指していた。フードで隠れた顔からは、辛うじて唇が釣り上がる様だけが見えている。愉しそうな笑みだった。
「それじゃ、まずは、一人、ね」
一は西棟近くの上れそうな塀まで回り、既に足を掛けている最中だった。
「落ちないで下さいね。格好悪いから」
「俺の体の心配をしろ」
下らない掛け合いをしながら、一は塀を上り切る。上り切った瞬間、頭に激痛が走った。転げ落ちそうになる体を必死で食い止め、片手を塀に付き、もう片方は頭にやる。
「一さん?」
「……いってえ、頭いってえよ」
「あたしだって痛いんですから我慢してください。それより、問題ないですか?」
「あー、おう。誰もいない」
尤も、一たちが侵入したのは学校裏口だ。人がいなくて当然とも言えるが、何の音もしない事が一には恐ろしくて堪らない。
アイギスを地面に投げ捨て、部室棟らしき建物の裏に着地すると、一は安堵の溜め息を吐く。何とか、奇襲も待ち伏せも回避出来たらしい。
「全く、神の盾を粗末に扱うとはっ」
ナコトも一の傍に降り立ち、スカートに付いた埃を払った。
「俺の物なんだから良いだろ。それより、どうするんだ?」
「……ふむ、西棟はすぐそこにありますが、グラウンドは遠いですね。目下、陣を破壊してジャージの人を迎え入れるのが目的ではありますが、さて」
「でも、立花さんたちも気になる。出来るなら合流したいんだけどな」
「それでは、建物内には入らずグラウンドの端っこを進んで、目立たないように正門近くまで陣を探しながら進みましょう」
見取り図を取り出して地面に広げながらナコトは提案する。
「校舎には入らないのか?」
「ええ、囲まれたら怖いですから。外にいればまだ逃げようがあります。あたしたちには魔法が利き辛いから、その気になればフェンスでも塀でも、何でもぶち壊して脱出出来ます」
「……異論ナシ」
そう言われては、校舎に入り辛くなってしまった。
「む、何か音がしませんでしたか?」
「そうか?」
「ええ、グラウンドの方から」
「人間、かな?」
「さあ、どうでしょうね。どの道、あたしたちだけでは『館』に太刀打ち出来ないですから」
ナコトは建物の影に身を隠し、顔を覗かせて周囲を窺う。
「……誰もいないですね。行きましょう」
「おう」
「全く、貴様は役立たずにも程があるな、三森冬」
「……うるせェ、油断しただけだ」
角を曲がったままの三森だったが、一とナコトが彼女を発見して春風に引き渡していた。当の本人は今、学校から離れた場所で煙草に火を点け、機嫌が悪そうに煙を吐き出している。
「あっけなく魔法に引っ掛かるとは。心の弱い証拠だな」
「てめェだって引っ掛かってたンじゃねーのかよ?」
「引っ掛かったのは私ではない。漣だ。尤も、タネさえ分かれば恐れるに足りん魔法だがな」
春風は笑った。彼女を知っていなければ分からない程度の、極僅かな表情の変化ではあったが。
「タネ、だァ? ンなのあんのかよ」
「ああ、簡単な話だ。何でも、学校に掛かっているこの魔法はモノを隠す事に特化しているらしい。目に見える物から、見えないモノまでな」
「そりゃ便利だな」
「意識下に直接影響を及ぼすらしい。つまり……」
春風は言葉を区切り、視線だけを三森に向ける。
「魔法なぞ効かんと、強く思えば問題ないらしい」
「嘘くせー」
「自己暗示もある種魔法だ。自身に語り掛け、言い聞かせる。例えばボクサーのように『自分は強い』とな」
「心だけ強くてもどーしようもねェよ。そのボクサーが鍛えてなきゃ、パンチは当たらないぜ」
「だが、体だけ強くても勝てないだろうさ。信念なき拳では何も掴めん」
「……漫画の読み過ぎだぜ、情報部」
三森は鼻で笑った。
「……貴様の仲間は、その冗談みたいな策とやらを実行に移している最中だがな」
「仲間じゃねェ。ただの同僚だ。あいつらが成功しようがしまいが、私が突っ込めばしまいだろ」
「ふっ、その身一つでか?」
「問題ねェ、高が魔女。私に勝てるわきゃねーだろ」
口に銜えていた煙草を吐き捨て、三森はそれを踏み潰す。視線は学校。尤も、ここからでは何も分からない。
「とっとと魔女とやらのツラ拝んで、凹ましてやりてェもんだぜ」
まだ見ぬ敵に思いを馳せ、三森は笑った。
「へえ、やるじゃないのさ」
肩で息をする神野を見て、女は笑う。
「……こっから先には通さねえぞ」
神野の足元には三十体分の骨が転がっていた。
「あんた、勤務外だね?」
「それがどうした」
鈍くなりつつある腕に鞭を打ち、竹刀を女に突き付ける。突き付けられた女は、尚も笑みを崩さない。
「だったら、死んでもらうしかないんだけどねぇ」
女は面倒そうに帽子の位置を直し、溜め息を吐いた。
「……始めっからそのつもりだろうが。お前ら、一体何者なんだよ、俺たちが何をしたってんだ」
「あんた、ソレを今までに殺した事あるかい?」
神野は質問に答えない。先に質問したのはこっちなのに、無視されて苛立ちが募った。
「ま、勤務外だからそりゃ勿論あるだろうね。それじゃあさ、あんた、魔女を殺した勤務外を知ってるかい?」
「……魔女?」
「ああ、あたしのお仲間さ。仲間を殺した奴を探してる。他の奴らは皆殺しにするなんて息巻いてるけど、こっちゃ年寄りでね。んな体力ないっつーのに」
「……復讐に来たってのか」
考える。神野は今、いまだかつてないくらいに頭を使っていた。目の前の女の言い分をどこまで信じるべきなのかどうかを。
「ま、復讐っちゃあ復讐だね。仲間殺されて動いてるワケだから」
「……魔女が誰なのか分からないけど、俺はやっちゃいない。こう見えてまだ新人なんでね」
女はじっと神野を見つめる。
「ふぅん、自分可愛さに嘘吐いてるようにゃ見えないねぇ」
「当たり前だ。俺はお前に敬意を払う気はないけど、嘘は言わない」
「こりゃまた、育ちの良い坊っちゃんだね」
くつくつと、女は喉の奥で笑った。
「じゃあ、あんたに用はないね。こっちも忙しい身なんでお暇するよ」
「――ざけんなよっ!」
手を上げ背を向けた女へ、神野は飛び掛かる。女は背中越しに、モップで竹刀を受けとめていた。
「……何のつもりだい?」
「お前に用がなくたって、俺にはあんだよ!」
握る竹刀に力を込め、神野は叫ぶ。
「そっちの目的が復讐なら、こっちだって復讐って目的があるんだっ!」
「……あたしゃまだ一人もやってないんだけどねぇ」
「骨を操ってたのはてめえらだろ!」
「ふーん? ま、そういう考え方もありだけど――」
女が遂に振り返る。
「――いつか身を滅ぼしちまうよっ」
モップを斜めに下げ、一息に竹刀を振り払った。神野は一旦下がり、再び切っ先を女に向ける。
「今は関係ねえ! お前ら、くそっ、よくも! 俺たちの友達を何人やりやがった!?」
「知らないよ、大体先に仲間を殺したのはあんたらだろ?」
「やっ、やられたのは一人だろ! 学校のみんなは関係なかった!」
「一人とみんな、かい。はん、命の重さ計って比べるなんて何様のつもりだい?」
「お前が言うかぁっ!」
神野は踏み込み、大上段に竹刀を振り下ろす。が、空を切った。女はサイドステップで攻撃を避け、手に持ったモップで隙だらけの、神野の脇腹を突く。
「……っ!」
神野の腹にモップの持ち手側、その先端が食い込んだ。
「ほらっ、どうしたんだい?」
女は神野の体勢が崩れたのを確認し、そのまま彼の太股にモップの先を叩きつける。一度、二度、
「ってえなこら!」
三度目が来る前に神野は床に転がった。そのまま起き上がり、竹刀を構え直す。再び大上段から打ち下ろす、振りをして、サイドにステップを踏んだ女に横薙ぎへ竹刀を振った。
「へえ……」
女は竹刀を受けとめたが、神野は力任せに壁際へ押し込んだ。
「今すぐ骨を止めろっ」
「出来、ないね。今更止めても無駄って奴さ」
「良いから止めて失せやがれ!」
竹刀とモップの鍔迫り合い。神野は女の力量に驚いていたが、力ではやはり自分の方が上だと認識した。
「ふふっ」
骨の一本でも折ってやろうかと思った矢先、突如女が噴き出す。
「笑うんじゃねえよ、イカれてんのか!」
「がっついちゃって。あんた、まだまだガキだね」
女の目論みに気付いた瞬間、神野は竹刀を下げた。同時に、手首に鋭い衝撃が走る。女の狙いは、股間への蹴りだった。
「ぐうっ……」
急所への攻撃は防御出来たが、女は次にモップを神野の手首に落とす。神野は得物を離すまいと耐えるが、苦悶が顔に浮かんでいた。そこを見逃すほど女は、魔女は甘くない。自由になったモップの柄を神野の頬へ打ち当てると、肩を押し当て壁際から抜け出す。
「勤務外なんて、所詮こんな物かい」
吐き捨てるような女の言葉が、床に倒れた神野へ突き刺さった。
頬が熱い。神野は冷たい床を感じながら、頬に手を当てる。歯が折れたかもしれない。口内から血が出たかもしれない。痛い。痛い。
――それがどうした。
疲れていた。心身共に万全の状態じゃなかった。相手が女だと思って油断していた。女の言葉に揺らいでしまっていた。
――だからどうした。
心の底から沸き上がるのは怒り。腑甲斐ない自分への怒り。
体を流れているのは憎しみ。皆を殺した敵への憎しみ。
「俺は、馬鹿だ」
床に手を付いて、中腰のまま転がっていた竹刀を確保。
「……ホント、馬鹿だ」
立ち上がり、ゆっくりと息を吐きだす。
胸中を過るは怪我をした剣道部員。無残に死んだ三人の部員。虫に侵された担任の教師。骸骨共。目の前の魔女。安田。そして何者にも代えがたい妹。
「お前なんかに、負けてらんねえのに」
――仇を。敵を。かたきを!
復讐の為に、私怨のみで動くのは簡単だ。
「……へえ、まだやるってのかい?」
甘美な誘いに身を焦がす。なんて楽しくて、気持ち良さそうだろう。
「復讐なんて、やめだ」
だが、死んだものは何も言わない。何も思わない。自分勝手な復讐心、そんな名前の欺瞞で動けば自分が鈍る。不様に床に這い蹲る。
ならば、自分のこの竹刀は、握った剣は生者の為に振るおうと、聖者の如く奮おうと、神野はそう決意した。
「悪いけど、次から本気だ。あんたの事情なんて知らない。だけど、ここで俺が倒れちまったら、また友達が、次は妹が危ない目に遭っちまう」
「傲慢な物言いだね。高が人間、その剣が魔女に届くかい?」
「……甘く見てろ。神野の剣、高が魔女一人、届かせてやるさっ!」
神野は踏み込み、女の突きを躱した。だが、すぐには打ち返さない。相手を自身よりも上と捉え、的を散らす。切っ先を上下に揺らしてから、右足で女の下肢を払った。
「なっ……!」
これは女も予想していなかったらしい、思わずモップを手放し受け身の体勢に移る。床に片手を付き、その反動を使って跳ね上がった。
神野は更に踏み込み、無防備な女の喉を狙って突きを繰り出す。だが竹刀は女の片腕に阻まれた。舌打ちし、神野は竹刀を一度引く。相手の得物はこちらの足元にあるからだ。
「魔法でも使ってみるか?」
「そうさせてもらおうかね」
女は床に両手を付き、何事か呟く。
「――骨か!」
しくじったと思うより先、光が神野を通り過ぎた。先刻の光景、骨の復活を思い出してしまい、彼は光を目で追う。
神野が振り返った瞬間、女は転がっているモップ目掛けて走りだしていた。
「なあっ!?」
竹刀を振り下ろすが間に合わない。神野の攻撃は女の三角帽を剥ぎ取るだけに終わる。得物まで奪われ、その上、位置を入れ替えられてしまった。
女は飄々とした様子でモップと、露わになった自らの金髪を弄くっている。
「安心しなー、骨はもう復活しないからさ」
「し、信じられるか!」
「年長者には素直に従いなよ。それよりさ、帽子返してくんない?」
女の視線は、神野が何気なく拾った黒い三角帽に注がれている。
神野も帽子に目を遣った。ただの三角帽にしか見えない。しかし、もしこれが何らかの力の源だとすれば。そう思い、渡すのを躊躇ってしまう。
「……んー? もしかして、その帽子が魔力を持ってるとか思ってるんじゃないかい」
「ちっ、違うのかよ?」
考えていた事を言い当てられ、神野の声は震えた。
「ひゃひゃひゃ、違うっつーの。そりゃそこらで売ってるただの帽子さね」
「……だったら、要らないんじゃないか」
「駄目だよ。可愛い弟子からもらったプレゼントだからね。『師匠、これで魔女っぽく見えますよ』なーんて言いやがった可愛い可愛いわたしの弟子さ」
「…………分かった」
神野は帽子を竹刀の先に引っ掛け、そろそろと女へ近付いていく。
「わたしゃ獣かい」
突っ込みが来た事に驚きつつ、帽子を渡した。
「ん」
女は帽子を被り微調整を加え始める。神野はその様子を黙って見ていた。
「ふうん、礼儀がなってるのかなってないのか……」
女はにやりと笑う。
「待たせたね、きな」
その台詞を言い終わった直後、神野は竹刀を振り下ろした。女はそれを受け止め切り返す。
「おおおっ」
今度はさっきよりも早く竹刀を振るった。受け止められた瞬間、竹刀を引いて次の一撃を見舞う。また止められるも、もう一度引き、打つ。
「くっ……」
女の顔には焦りの色が浮かんでいた。打つ、止められる、引く。打たれる、止める、引かれる。間断無く繰り返される神野の鋭く、素早い乱打。女は凌ぐので精一杯。
かのように見えた。が、女は太刀を受け止めて、神野が引く時を見計らい思い切りモップを跳ね上げる。竹刀が高く浮いたところに、体を捻りモップを横合いに振り抜いた。
当たる。女はそう確信する。
「っと」
引き際を狙われた神野だが、両手で握っていた竹刀を離して手を前に出した。反動が付き、体は反っていたが横薙ぎのモップの柄を掴む事に成功する。女は奪われまいと引っ張るも、神野は離そうとしなかった。
「離しなっ」
「離すかっ」
引き合う両者。
「――そうかい」
均衡状態はすぐに破られる。女がモップから手を離したのだ。急に手を離され、神野はたたらを踏んで後退する。
女は神野の腹を踏み抜き、彼が放った竹刀を拾い上げた。
「竹刀の振り方、知ってんのか?」
「……あんた、モップの使い方分かるのかい?」
「先輩に教えてもらった。床はしっかり磨いて、ってな」
神野は不敵に笑う。つられて女も笑った。
「やるじゃないのさ、人間」
「あんた、魔女の割に泥臭いな。もっとこう、魔法? 使うと思ってた」
「生憎、あんたにゃ勿体なくてね。使っても良いんだけど次の日は腰が痛くなるんだよ」
「……そうかよ」
女は竹刀を下ろし、帽子を被り直す。
「あー、なんだろうね。笑ったら興が冷めちまった」
神野に向かって竹刀を放り投げると、女は窓を開けた。冷たい風が廊下を満たしていく。
「……飛び降りでもする気か?」
竹刀を受け取り、神野は女に軽口を叩いてみた。
「ああ、厄介なのが来てるからね」
「厄介?」
「そうさ。じゃあね、また会うかも」
女は神野に手を振り、身を乗り出して窓から飛び降りた。
「おいっ!」
神野は慌てて駆け寄る。潰れた女の、凄惨な死体を想像したが、彼女の姿はどこにもなかった。
「……って、何で心配してんだ……」
敵を気遣った自分に自己嫌悪。
息を吐き、しばらくの間壁に背中を預けて呼吸を整えていると、階段の方から足音が聞こえてきた。咄嗟に身構え、廊下の角を睨み付けていると、
「あ、けん君だー」
半泣きの立花が現れる。
「……なんで泣いてんだよ」
力が抜け、神野は背中を壁に擦り付けながら再びへたり込んだ。
グラウンドには数十人分の死体が転がされていた。
部室棟の影に隠れながらそこに辿り着いた一たちは暫し、立ち尽くす。立ち竦む。
一は本当に、全く動けなかったが、ナコトに無理矢理背中を押されグラウンドの隅、体育倉庫の裏に移動させられた。後ろにはフェンスがあり、倉庫との間には僅かな空間しかない。
「……気にしたら駄目です」
グラウンドに到着してからの、ナコトの第一声はこうである。
「アレ、なんだよ?」
一は俯き、フェンスに背を預けてどうにか立っている状態だった。
「アレとは? 校庭を闊歩している、剣を持った骸骨の事ですか? 息絶え、それでも尚剣を突き立てられているこの学校の生徒の死体の事ですか?」
ナコトの冷酷な物言いに腹が立ち、一は彼女に掴み掛かる。
「なんで、そんな冷静なんだよ……」
「では、戦いに行きますか?」
「……それは」
「こちらは二人、相手は十体。ルーキーとオールドガールが適うとでも?」
ナコトは胸倉を掴まれたまま、一を見据えた。
「激情に駆られ飛び出すのも結構、恐怖に押し潰され縮こまるのも構いません。でも、無謀な行為は自分一人だけの場合にお願いします。今はあたしだっています。あなたの巻き添えを食うのはごめんですからね」
「……悪い」
一はナコトから手を離し、地面に座り込んだ。
「構いません。あなたのリアクションは予想の範囲内です」
「ひでぇ、ひどすぎるだろ、あんなの……」
グラウンドの土は血の色に染まり、生徒の屍で埋め尽くされ、人間たちを踏み倒し我が物顔で歩く骸骨。
「くそっ、くそっ」
風が吹き抜けるたび、生臭い血の香が一たちへと運ばれていく。
「あたしだって、あなたと同じ気持ちです。恐いし、憎い。でも、目的を忘れないでください。陣を壊し、ジャージの方を呼んで魔女を倒す。これが最終なんです。違いますか?」
一は黙ったまま首を振る。
「……無念、でしょうね。あの人たちは日常を謳歌していた。でも、奪われた。準備も、覚悟も、何もなしに。何も成さないままに」
ナコトは一の傍に腰を下ろし、
「厳しい事を言いますが、この惨状はある意味あなたが引き起こしたんです。勤務外の誰もに責任があるんです」
本心から思ってもいない事を口にした。
「……あなたは生きて、責任を取らなくてはなりません。今日、『館』に殺された人たちに償う為、終わらさないといけません」
我ながら、なんて的外れで残酷なんだろうと、ナコトは思った。欺瞞だ。大儀めいた、名文めいたモノを振りかざす。それでも、それでもナコトは。
「だから、今はあんなの忘れてください。あなたが生き残る事を第一に行動して、他の全ては見捨ててください」
一は俯いたままナコトの話を聞いていたが、
「気が動転してたらしい……」
立ち上がり、アイギスを握り締める。
「お前に諭されるとは。何だか、普通に馬鹿にされた時より馬鹿にされた気分だ」
「それはどうも」
「うん、ありがとう。でも心配すんな、ここの生徒ならいざ知らず、お前を見捨てるような真似は死んだらしねえよ」
「……死んでも、の間違いだと祈りますね」
ナコトは胸元の皺を直して一に手を差し出した。
「それでは、陣を探しに行きましょうか」
「ああ」
一は差し伸べられたその手を掴もうとして、
「あっ」
突き飛ばされる。尻餅を突き、何がなんだか分からない前後不覚の状態に陥ってしまった。
「おいこら黄衣てめえっ」
ナコトは凄まじい勢いでグラウンドを駆け出している。そりゃもう、脱兎の如く。
「……?」
不穏な気配に振り向けば、一のすぐ後ろに骸骨がいた。相手に眼球はないが、思い切り目が合う。視線と視線らしきモノが交錯。
「ぶっ殺してやる!」
対象はナコト。一はそう叫んで彼女の後を追った。そりゃもう、脱兎の如く。