The Witch Hate the Living!
「気に食わんが、その手しか私にも思い付かないな」
ナコトの作戦と呼べるかも怪しい話を聞いてから、店長は詰まらなさそうに紫煙を吐き出した。
「なあ、黄衣、本当に上手く行くんだろうな?」
「魔術の素養を持っているのはあたしたちだけです。これしか手は無いでしょう。それとも何ですか、怖いんですか?」
「……そりゃ、怖いよ」
一は素直な気持ちを口にする。
「まあ、あたしはあなたにはあまり期待していませんから。それより店長、情報部と勤務外の方に電話を」
「私に指図するな」
店長は言いつつ、乱暴に受話器を引っ掴んだ。
一件目の用事、情報部に連絡を終えてから、次に店長は勤務外店員である三森に連絡を試みる。何度目かのコールの後、
『今日は家から一歩も出ねェ』
静まり返ったバックルームに、三森のぶっきら棒な声が小さく響く。
店長は少しだけ目を瞑り、煙草に口を付けた。
「文句を言う相手を間違えるな。私ではなく、黄衣に言え」
『ああン? あのフリーランスか? 何だってあいつが出てくンだよ』
店長は電話口の三森へ、かなり適当に今までの経緯を説明する。
しばらくの沈黙の後、
『嫌だ』
それだけ答えると、三森は電話を切ってしまった。
「使い物にならんな、あいつは」
「や、でも三森さんじゃないと……」
一は不安に駆られる。三森は今回の『館』戦において、非常に重要な戦力なのだ。糸原でもなく、ジェーンでもなく、ナナでもない。相手が未知数の力を持つ『館』だからこそ、北駒台店最強の、近畿地区でも最強の呼び声が高い三森が必要なのだ。のっけから作戦が破綻するのを恐れるのも無理は無い。
「だがな、本来なら三森は今日休みだ」
「俺と黄衣だけじゃ死んじゃいますって!」
「だったら……」
店長は受話器を一に渡す。
「……えっと?」
「お前が説得しろ。私は嫌だ。面倒だからな」
――クソ女。
一は内心物騒な台詞を吐き、何度も溜め息を吐いた。
「仕方ない、か」
壁にピンで留められた紙に書かれた、目的の人物の番号を何度も確かめながら入力し、呼び出し音を待つ。
『……しつけェぞ店長!』
いきなり怒鳴られ一の身が竦んだ。しかし、怯む訳には行かない。こうしている間にも神野や立花、北高の生徒たちは危機に晒されているし間接的には自らの身にも災いが降り注ぐのでもう必死。
「あ、あのう。お、俺です。一です。せめて話だけでも聞いてもらえませんか?」
『なっ、お、おあっ? てっ、てめェがなンで電話掛けてくンだよ!』
何故だか、焦ったような声を三森は発する。
「だって店長が……」
『っ! とっ、とにかく嫌だぞ! 私は今日休みなンだから!』
「そこを曲げて何とか……。あー、実は……」
一は今までの経緯を説明した。それはもう懇切丁寧に。
しばらくの間、また沈黙。
「三森さん、本当お願いします……」
『……私が行かなきゃ駄目なのかよ?』
「って言うか、三森さん以外考えられないです」
糸原のレージングも、ジェーンの速さも、ナナの力も、三森の前では霞んで見える。一も今までに多種多様な異能を見たり、異能と戦ってきたが、中でも三森が一番強く、格好良い。
勤務外になる前、釣瓶落としや鎌鼬から助けてもらった事を差し引いても充分にそう思える。だから、一はハッキリと言葉にした。
『わ、私じゃないと?』
「駄目です。駄目なんです。お願いします、来てくれたらもうこの際です、何でも言う事聞きますから!」
『…………そ、そうか。でもなあ……』
電話口から溜め息が聞こえてくる。
「お、お金なら必ず払いますから」
『金じゃねェよ! 馬鹿かてめェは!』
「えっ? 違うんですか?」
『私をあの守銭奴と一緒にすンなっ、ちっ、くそ、馬鹿。分かったよ、行きゃあ良ンだろが。どこだ? 北高だったか、そこに行っとけば良いんだな?』
「あっ、はい、そうです」
『……借りだぞ。良いか忘れンなよ? 絶対に返してもらうからな!』
「もっ、勿論です。あの、ありがとうございます」
『ふん』
やがて向こうから電話が切られる。受話器をゆっくりと所定の場所に置き、一は深く息を吐いた。
「どうでした?」
「めちゃめちゃ緊張したよ」
ナコトは一を睨み付ける。
「そんな事は聞いていません。首尾はどうだったのですか?」
「来てくれるって。あー、良かった。首の皮が繋がった思いだよ」
「結構。それでは急ぎましょうか」
一は頷いて、ロッカールームからアイギスを持ち出してくる。
「それじゃ店長、行って来ます」
店長は頭を掻き、煙草を空き缶に押し付けた。
「一、そう暗くなるな」
「……なってませんよ」
「心配もするな。物事はそうそう都合悪く進まんさ。学校内には神野と立花もいる筈だからな、案外あっちでとっくに解決してるかもしれん」
一は口を開けた。間抜けな顔だった。
「えー、と? もしかして励ましてくれてるんですか?」
「客観的な事実を述べたまでだ」
「まあ、少しは気が楽になりましたけど」
「そりゃ良かった。おら、とっとと逝って来い」
追い払う様な手振り。
「……はいはい。じゃ、ジェーンも留守番頼むな。店長もナナも、いまいち信用出来ないからさ」
「こっちは任せて。お兄ちゃんこそ気をつけてよネ」
「何たって、相手は魔女だからな」
一は他人事の様に苦笑する。
「ゼッタイ、帰ってこなきゃダメなんだカラ。ン、ケガもしてきちゃイヤだよ?」
「当たり前だろ。俺は痛いのが嫌いなんだ」
「約束破ったら、ハリセンボン」
「わーかったって、お前が許してくれるまで何本でも飲んでやるよ」
「ふふ、分かった。それじゃ、take care」
ジェーンは少しだけ名残惜しそうに微笑んだ。
「……I'm going.」
一も背中を向けて答える。バックルームの扉を開け、フロアに足を踏み入れた。
「痛いのは嫌いだそうですね」
後に続くナコトの、笑いを噛み殺した声。
「……それがどうしたよ」
「さっきのやり取り、中々痛快でしたよ」
「うるせえ」
『館』が行動を開始してから三十分弱、オンリーワン北駒台店もこうして動き出した。
広がる血。転がる体。突き刺さるは赤錆びた西洋の剣。
脈を取らなくても、呼吸を確認しなくても分かる。彼らはもう――。
「っざっけんなよ!」
校舎内に突入した神野、安田を出迎えたのは剣山にも似たオブジェ。三体の人間だったモノに、剣が無造作に、一種無残に突き刺さっている。
安田は蹲り催してくる吐き気を堪えていた。自らが部長を務める剣道部。その部員が三名もああなっていれば、そうなる。責任感、絶望感、次は自分の番かと、本当にここから抜け出せるのだろうかと、処理仕切れない感情がない交ぜになり彼を襲っていた。
神野は何も言えない。安田には何もしてやれない。終わってしまったのだ。彼らを助ける目的で、意を決し体育館から出て来たというのに、なのに。
「……一度、戻るか?」
口をついたのは安い言葉。まだ十分も経ってはいないが、このまま校舎内に留まるのも気が引ける。確実に、ソレは複数で動いていて、まだこの近くに潜んでいるのだ。
「……残った奴らに、どう、説明すりゃ良いんだよ……」
「今は黙っておいた方が良いかもしれないな」
「今は?」
壁に手を付きながら、安田はよろよろと立ち上がる。彼は信じられないと言った表情で神野を睨みつけていた。やけにぎらついた双眸で。
「お前、ふざけんなよ。お前はそれで良いさ、今が終わればそれでさぁ!」
「な、何言ってんだお前?」
神野は安田の剣幕に圧され、思わず後退する。
「お前は辞めた人間だろ! 学校から出れたとしてっ、その後で説明して、責任を問われるのは俺なんだ! 剣道部の命は俺が預かってるんだよっ、忘れたのかよ!?」
「おっ、俺は、そういう意味で言ったんじゃない」
「聞こえちまうんだよ、そういう風にさ!」
忘れた訳ではない。神野は決して『部長』の肩書きが持つ意味を忘れた訳ではない。自分だって、短い間とは言え部長の地位にいたのだ。
「……悪かった」
ただ、日常で起こったあまりにもな出来事に気が動転していて安田の立場まで頭が回らなかった。それは事実で、だから神野は真摯に受け止めて謝罪の言葉を口にする。
安田はそこからしばらくの間、まともに口を開く事はなかったが、
「すまん」
時間が経つにつれ冷静さを取り戻した。さっきは言い過ぎたと思ったのか、神野へ頭を下げる。
「今は内輪で揉めてる場合じゃないよな」
「……いや、お前の立場にまで気が回らなかった俺が悪い」
二人は顔を見合わせ、照れくさそうに頭を掻いた。
「ま、二人して謝り合ってる場合でもない、か」
気まずい空気を払拭したくて神野は作り笑いを浮かべる。安田もそれに倣った。
「それじゃ改めて聞くけどよ、どうする、体育館に戻るか?」
「まだやめとく。正直言って、今は戻るのが怖い。なんつーか、整理がついてないって言うか、みんなの前で叫んじまいそうだ」
「なら、職員室か……」
そこなら自分たちよりも頼りになる大人がいる。その近くには保健室もあった。付近が安全ならば、負傷者の為に包帯程度の治療なら受けさせてやれるかもしれない。
「良し、とりあえず東棟に向かうか」
安田は頷き、竹刀を握り直す。
神野は今更ながら周囲に意識を巡らした。敵の気配など感じ取れないが、物音はしない。一先ずの安全を確認して東棟へと足を向けた瞬間、がくりと、膝から力が抜けて崩れ落ちる。
「あ……」
「神野!?」
落雷で撃たれた事は無かったが、今は、今だけは撃たれたい気持ちだった。駆け寄る安田の声も耳には入るが頭には届かない。
そう、神野は気を取られていたのだ。突然のソレ。負傷した部員。血に塗れたオブジェ。生き残りたい。そう、思い過ぎていた。
「ああ……」
頭の中が真っ白に塗り潰され、その中でも一つだけ、一人だけが彼の脳内に浮かび上がる。
――神野姫。
今日、彼の妹も、ここにいた。
この戦場に、この地獄に、このどこかに彼女はいる。
「やばい……」
どうしてこんな大事な事を忘れていたのか。他の事に気を取られ、他の事に気を回す暇がなかったのは確かだ。それでも、それでも。
「おい、神野!」
大事な妹を他の事と一緒くたにしてしまった自分が許せない。
「…………安田」
自分への憤りを力に変え、神野は立ち上がる。
「先、戻っててくれ」
「……神野?」
「俺、最悪だ」
「おい、どうしたんだよ?」
神野はゆっくりと息を吐き出し、たっぷりと空気を吸い込んだ。少しだけ血の臭いが混じっていて、気が遠くなりそうになる。
「妹が、ここにいるんだ」
自らにも言い聞かせる様に、そう、神野は言い切った。
立花の決断は早かった。
刀を胸元で水平に構えると、連なっていた骸骨たちに切っ先を当て、一息に貫く。
そも、選択肢など最初から用意されていない。半分程度片付けたとは言え、前方には未だ大量の骸骨が列を成す。後ろは空いているが、背中を向ける訳にはいかない。
「ふふ、向かってくるのね」
正体不明の女。迂闊な隙を見せれば何をされるか分かった物ではない。
「お前がやったのか!?」
立花は骨の壁、その向こうにいるであろうソレに叫ぶ。刀を引き抜くと、三体の骸骨が崩れ落ちていった。
「あなた、ここの人間かしら?」
「そうだよっ」
「残念、そんなの振り回してるから勤務外かと思ったのに」
ソレを切り刻みながら、立花は女の独白を心中で繰り返す。自分が勤務外なら何だと言うのだろうか。
「何でこんな事をするんだっ!」
かしゃかしゃと鳴り響く骨の行進に負けないよう、立花は必死で叫んだ。
「恨むなら、勤務外を恨みなさいな」
「勤務外が何をしたって言うんだ!」
「……何ですって?」
刹那、空気が凍り付く。闘気ではない。体の芯まで冷たくさせる暗い熱気。
「勤務外が何をしたかって、聞いたんだ」
この場を支配するのは殺気。口を開くのですら躊躇われる重苦しい重圧。それらに負けない為、立花は声を張った。
「ふ……」
女は口元を歪ませる。
「ふふ……」
『館』の一人、パシパエは笑いを堪え切れない。
「ふ、ふふ、あは、はっ」
「わっ、笑うな!」
パシパエのもたらす熱狂的な狂気。立花は気圧されまいと声を発した。
「ふふっ、良い、良いわ。予定より早いから驚いたけど、良いわ、私ってツイてる」
「……?」
立花は一度、骸骨の群れから、パシパエから距離を取る。
「確認するまでもない事だけれど、あなた、勤務外よね?」
「そうだよ、それが何だ」
「そう、だったら死んで頂戴」
「――ッ!?」
足元から悪意。確認しないままに後方へ跳躍。そこで立花は悪意の正体に気が付いた。
目を覆いたくなるグロテスクな姿。見る者全てに嫌悪と不快を抱かせる醜悪なフォルム。
「いきなりなんで……?」
骸骨たちの足元から、数匹のムカデが姿を覗かせていた。それも、立花が今までに見た事が無いくらいに大きい。
「可愛いでしょう、私の虫たち。ふふ、そんな顔しないで?」
「くっ、む、むかでが何だ!」
確かに、多足のムカデは姿こそ恐ろしかったが、所詮は虫だ。突き刺せば、貫けば、斬り込めば終わり。
「安心なさい。こんなのもいるから」
パシパエの声に応じるかの如く、骸骨たちが一斉に道を作る。割れていく骨の中から現れたのは――。
――ぎちぎちぎち。
「どう? 自信作よ?」
現れたのは一匹の巨大なサソリだった。近くにいた骸骨たちは、サソリの出現によって壁に追い遣られ砕かれていく。
サソリの中身を覆う殻は赤と青を混ぜた、紫に成り切れていない中途半端なカラーリング。それでも、立花を絶句させるには充分な体躯。廊下の天井に届くくらいのサソリは自らの鋏状になった手を開閉させている。その度にぎちぎちと、奇怪な音を体の何処からか響かせた。
「さ、行きなさい」
パシパエは微笑みながらサソリの尻尾を撫でる。それが合図だったのか、巨大なサソリはぎちりと音を立て、立花に狙いを定めた。
「うわああああっ!」
立花は叫んで、敵に背を向けた。狭い廊下ではあの巨躯に勝ち目が無い。あの手に挟まれれば、あの尻尾で刺されれば致命傷だ。そんな計算は立花になかった。それ以上に、何よりも嫌悪感が先立った。どれだけグロテスクであろうが、小さければ我慢は出来る。しかし、あれは何だ。
本能から来る恐怖心に任せ、立花は廊下を駆けた。背後では骨の砕ける音、踏み潰される音。そして、
「――――!」
追い掛けてくるサソリの足音。
泣き出しそうになるのを堪え、立花は廊下の角で一瞬だけ迷い、二階へ上がる事を選択。あんな化け物を体育館まで連れて行けないと彼女が考えられたのは、もはや僥倖と呼べただろう。
神野と安田は体育館へ戻るのを選ばなかった。助け出す筈だった剣道部員三名の救出が不可能となり、どうするか迷っていた二人だったが、神野が妹の存在に気付いたのが決定的であった。
神野は自分一人で助けに行くと主張していた。が、安田は頑として首を縦に振らなかったのだ。
「何度も言うけど、これは身内の問題だからな。危なくなったらすぐに逃げろよ」
「こっちだって何度も言うけどな、お前の妹はお前の家族であると同時に、俺と同じ学校の生徒でもあるんだからな。ここまで来て見過ごせるかよ」
二人はもう何度繰り返したか分からないやり取りを交わしながら、東校舎四階の図書室へ向かっている。その理由は一つ、図書委員である神野姫がいるとすれば、そこの筈だからだ。
「……本当に、図書室にいるんだろうな妹さん」
「ああ、多分な。委員会の仕事が残ってるって言ってたから」
「図書委員だからって、図書室で仕事するとは限らないだろ」
安田は不安げに呟く。図書室は東校舎の四階、その一番奥にある。即ち、地理的に一度四階まで上がりきると、もう逃げ場は無い。校舎は四階が最上階で、屋上へと続く階段こそあれど、肝心の屋上は開放されていない。囲まれればもう上に行く事も下に下がる事も出来ないのだ。下手をすれば、自分たちは死地に向かっている事になる。
「だったら、体育館に戻れば良いだろ」
「……お前を見捨てるなんて出来ないって言ってんだろ」
これも、この短い間に何度繰り返されたやり取りか分からない。
二人は西校舎から入り、渡り廊下を抜けて東校舎の、二階へと続く階段にまで差し掛かっていた。
「待てっ」
先頭を進んでいた神野が声を潜め、停止を促す。
「何だよ?」
「足音がする……」
「え……?」
言われてから、安田も目を瞑り、耳を澄ました。
――ずる、ずる。
「……本当だ」
確かに、階段の方から足音らしき物が聞こえてくる。
「でも、変だ。何かを引き摺るような、かなり遅い足音じゃないか?」
神野は握った竹刀に力を込めた。
「ま、またあの骸骨が?」
「分からねえ、けど……」
「やるしか、ないか」
覚悟を決めた二人は神野を先頭に、竹刀を向けて廊下の角を曲がった。
「なっ……」
そこで二人が見たモノは、男の形をした何か。階段の踊り場からやって来る、倒れた人間。倒れながら、階段を一段ずつ下ってくる。まるで、何かに引き摺られているかのように。
「……社会の水島だ」
「水島先生!?」
呆然と発した安田の呟きに神野が反応を見せる。何故なら彼は、神野のクラス担任だったからだ。
だった。彼の右半身は存在していない。スーツごと、恐らくあの骸骨の剣によってバッサリと斬り抉られている。そして、二人に何の反応も見せない。顔も下げたままで、うつ伏せになっていた。
「死んでる、のか?」
「じゃあ何で動いてんだよ!」
二人の声に反応したのか、ふと、男の顔が上がる。神野は期待した。まだ、彼が生きているのではないかと。そして、次の瞬間には絶望する。
顔を上げた男の口、鼻、目からは多種多様な虫が顔を覗かせたのだ。教師であった男の顔を、体を、好き勝手に蠢く無法の侵入者。
「げっ……」
安田はその侵入者を見て、強い嫌悪感を覚える。
「こいつらがあっ!」
だが神野は、嫌悪感を覚えるより先、強い敵意を虫たちに抱いた。飛び出し、階段を三段飛ばしで跳躍、男の体から離れた虫へ攻撃を仕掛けていく。足で踏み潰し、竹刀で追い払い、元教師であった男の体から異物を取り除こうとする。
「おい神野っ!」
遅れて、安田も神野に続いた。腰は引けていたが、彼もまた必死に虫を潰し続ける。
一分か、二分が経過しただろうか。無限に沸き続けるかと思われた害虫を、二人は何とか駆除に成功した。
残されたのは、虫共に食い荒らされた哀れな屍。
「神野、先生の、その……どうするんだ?」
安田の感覚も、神経も、とっくに麻痺しかかっていたが、『死体』とは言わなかった。言えなかった。口にするのは簡単だが、何かが失われてしまうような、そんな恐ろしい衝動を感じたからだ。
「悪いけど、置いていこう。今は時間が惜しい」
「ああ、分かった」
残酷だが、神野の意見は正鵠を射ている。この場に留まり死者を悼む時間は無い。まだ、ここには生きている者が残っているのかもしれないのだ。ならばそちらを優先させない都合は、ない。
二人は心が磨り減るのを感じながらも、階段を上っていく。
四階までの道のりは、驚くほどに平坦な物だった。骸骨一体、虫一匹に出くわす事無く。二人は図書室目指して進んでいく。安堵するとともに、人間一人に出会えない事を嘆いた。
「……今日が創立記念日でまだマシだったかもな」
「え?」
安田の呟きを受け、神野の足が止まる。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
そう言えば、と。神野は固まっていた思考回路を溶かしに掛かった。
――どうして、ソレは創立記念日に来たのか。
骸骨たちに知恵が無い事は分かっている。だから、神野はおぼろげながらも、裏で誰かが糸を引いている事に気付いていた。
円卓の騎士。
店長たちから以前、その名前を聞いた事がある。ソレを操り、徒党を組ませ、あるいは自らも戦場に出、人間たち、勤務外に害を成す存在。
自分が北駒台店と関わる前、大きな事件があった。オンリーワンの指示により、街中の人間が避難した、勤務外とソレとの戦い。最近になって知ったのだが、その戦いは『アラクネ事件』と呼ばれていたり、『蜘蛛戦』だとか店の人間が呼んでいるらしい。
その『蜘蛛』以降、集団で動くソレや、明確な意図を持った、持たされたソレが増えているのも神野は理解し始めていた。
つまり、今回も。
「おい、神野?」
「……おお、わりぃ」
もう少しで何かが繋がりそうだったのだが、安田の声で我に返る。どうせ、自分では大した推測も立てれない。神野は頭を振って、雑念を払い除けた。
やがて二人は階段を昇りきり、廊下へと差し掛かった。
神野は逸る気持ちを抑える。この廊下の角を曲がれば、図書室が見えるのだ。
「安田、慎重に行くぞ」
「おう。分かってるって」
心臓が高鳴る。この先に、妹がいる。いる筈だ。言い聞かせながら、神野は廊下を曲がる。図書室の、一際大きな扉が目に飛び込み、その扉の前でたむろする骸骨たちを見た瞬間、神野は駆け出した。
安田の声も耳に入らない。相手が何体いるのかも見えていない。慎重に行こうなどと誰が口にしたのか。胸を焦がす憎悪と憤怒だけが神野の心をせき立て、手足を稼動させた。
「どけええええっ!」
すぐそこに、すぐ傍に妹がいるかもしれないのに――!
神野は自分へ振り返る骸骨たちに竹刀を打ち込んでいく。ひたすら打ち込み、道を作っていく。竹刀の直撃を受け骨が砕け、蹴りを受けて壁に叩きつけられ、骸骨たちはまともに剣を振るう暇がなかった。
「……すげえ」
出遅れた安田は後方で、ただぼんやりと神野を眺めている。思わず口を出た言葉は半分が賞賛で、半分が畏怖だった。いつもの、さっきまでの神野じゃない。そう、まるで、まるで。
「――きんむ、がい……?」
確信を持てないまま、何の証拠も持てないまま口にした言葉だった。だが、果たして自分たちのような一介の学生がああまでなれるのだろうか。幾ら妹がいるかもしれない、だけで、あのソレの只中に飛び込めるものなのだろうか。
「ちっ」
短く舌打ちし、安田は竹刀を握り直した。事実がどうであれ、友人とその妹の危機なのだ。怖い。その気持ちは嘘じゃない。このまま尻尾を巻いて、神野を見捨てて体育館まで逃げ帰り引き篭もりたい。だけど、あいつを見捨てるのは出来ない。
このままおめおめと逃げ帰っても、死んでいった部員や先生にも申し訳が立たない気がする。
「うあああああっ!」
第一、目の前の戦い振りを見て燃えない訳が無い。男なら、血が沸々と沸きあがるに決まっている。だったら、自分だって飛び込まない訳には行かない。
安田は声を張り上げ、恐怖感を無理矢理掻き消した。神野の打ち漏らした骸骨に、がむしゃら攻撃を加えていく。礼節も基本の型もあった物じゃなかったが、相手が相手だ。
「あらら、こりゃまた……」
二人の意識は完全に骸骨に向かっていて、新たに背後から現れた登場人物に気付く事もなかった。
その人物は何故か、手にモップを持っており、黒い三角帽とマントを身に着けている。そう、どう見たっていかにも魔女な出で立ちをしていた。