Natural Born Witches
北駒台高校。その空き教室の一室に立花はいた。
「……うー」
黒板に埋め尽くされた大量の文字。聞いた事も無い様な話を垂れ流し続ける数学教師。教室内には十人ほどの生徒が男女関係無く集められている。ペンの走る音。教科書を捲る音。幾つもの溜め息。
「はあ……」
立花の溜め息も、その中の一つだった。他のそれと溶け合い、混ざり合い、消えていく。
今日は折角の創立記念日だと言うのに、どうして補習なんて受けなければならないのだろう。本来なら、昼までゆっくりして、バイトに精を出すだけだったのに。立花は楽しかった筈の今日を夢想し、もう一度溜め息を吐いた。
窓の外を見れば、グラウンドにはサッカー部や陸上部が走る姿。今頃、体育館では神野たち剣道部も竹刀を振るっているのだろうか。出来るなら、自分も頭より体を動かしたい。授業の内容が全く理解出来ない訳ではないが、やはり、立花は肉体労働の方が気が楽だった。
北駒台高校。体育館。
迸る数十人分の気合の声を耳心地良く聞きながら、神野はふと、壁に掛けられた大きなアナログの時計に目を遣った。時刻は、九時を三十分ほど回った所。
「おせえな……」
神野は体育館の玄関付近に立ち、正門に目を向けている。部活動に遅れている、一年の村西とやらの到着を待つ為だ。連絡が来てから既に三十分。村西の家は学校からそう遠くない。十分もあれば辿り着く道程で、そろそろ到着してもおかしくない頃合だった。
踏み鳴らす足は苛立ちを示している。早く来い。遅刻する奴は好きではないが、心配ぐらいはする。何かあったのではないか、と。
だが、今日は折角の創立記念日だ。少しぐらい長く眠っていたいし、部活動に行きたくない気持ちも神野は重々承知している。
「にしても」
今日はやけに外が静かだ。正門から視線をずらし、神野は通学路を眺める。創立記念日なのは自分の学校だけだろうし、いつもなら、もう少し人が通っていてもおかしくはない。グラウンドの方からは他の部活動の生徒からの声が聞こえてくる。校舎からは流石に声は聞こえてこないが、今頃は立花たち十数人が補習を受けている頃だろう。
神野は一度体育館のフロアに目を遣ってから、部員たちの熱気で蒸し暑い体育館から、一度涼を取ろうと思い立つ。
ドアに手を当て押し開けると、一陣の風が神野の体を吹き抜け、体育館中に広がっていった。
オンリーワン北駒台店。バックルーム。
中に居た一、糸原、ナコトは完全に沈黙していた。
「どうした黄衣、答えろ」
理由は明白で、実に明確である。店長がナコトに投げ掛けた質問が、彼らの沈黙を生んだ。
――お前が、『館』のメンバーなのかどうかを教えろ。
と。店長はそう問い掛ける。
しばしの沈黙の後、口を開いたのはナコトではなく一だった。
「……あの、店長?」
「どうした、一君?」
「こいつが『館』だったら、俺、死んでるんですけど……」
「だろうな」
にべもなく店長は答える。
「だったら、こいつが『館』な訳――」
「――今朝見た夢の内容とやらを教えろ」
「……は?」
一は口をぽかりと開けた。
「一、お前が見た夢の内容だ。言え」
「んな事言っても……」
強い口調に押され、怖い目で見られても、一には上手く説明出来る自信は無い。『館』の魔女がもたらした、魔法による影響の悪夢、予知夢であっても、結局は夢なのだ。夢の内容を正確に記憶し、把握できる人間など存在しない。
「全部は覚えてませんからね」
「構わん。むしろ都合が良い」
「……えーと、内容っても断片的なイメージなんですけど、まず笑い声が耳に付きました」
一は目を瞑り、夢を思い出しながら話を始めた。
「その声に心当たりは?」
「多分……無い、ですね。女の人たちの声ってのは分かりました。あと、学校、ですね」
「その学校に見覚えはあるか?」
「無いです。ただ、校庭や校舎、体育館が見えましたから、多分、学校じゃないかって」
店長は煙草を床に落とし、その吸殻を踏み付ける。
「他には?」
「……結構、学校には人がいたような気が」
「見覚えのある人物はいたか?」
「いえ。見た事の無い人たちばかりです。制服を着てたから生徒と思われる子たちと、あと、何人かのスーツを着た、多分教師っぽい人たち。それと、笑っている女性、ですかね」
その後も、店長は一に質問を続けた。その結果、夢の中での出来事の時間帯は昼間だとか、かなりの人数が死に瀕していたとか、様々な事実が判明していく。
「では、誰が学校の人間を襲っていたのか分かるか?」
「……えっと、その……」
一は言葉に詰まった。幾ら思い出そうと頑張っても、何故かそれだけは思い出せない。そもそも夢に出ていなかったのかもしれない。
「分からない、か。まあこんな所だろう」
店長は一人だけ納得した風に、深く息を吐く。
「今のお話はどういう意味だったんですか?」
疑念を持たれていたナコトが、堪えきれずに口火を切った。店長は彼女を三白眼で一瞥すると、新しい煙草に火を点ける。
「『館』の存在。魔術、魔法の存在。勤務外への罠。それが仕掛けられた場所。お前らが見た夢。黄衣、お前の話は実に面白かった。勤務外の認識について、幾つか間違っている所もあったが着眼点は素晴らしい」
「だから、それとあたしが『館』だって疑う事に何の関係があるんですか?」
「お前の話は素晴らしい。お前が、嘘を吐いていなければ、の、話だがな」
「……嘘、ですって?」
ナコトは敵意を剥き出しにして店長を睨んだ。
「こんな朝早くにご苦労な事だがな。私にはまだお前の目的が見えない。一は知らんが、私は基本的に黄衣、お前を信用していない。大前提として、お前の話を信じるにはお前を信じなければならん。今の所、私はお前を信じるつもりはない。さあ、どうやって前提を退かしてもらおうか」
「何を言えば、信用してもらえるんですか?」
「そうだな、お前は何故『館』の名を口にした?」
「それは……」
口篭るナコトを見て、店長は楽しげに唇を歪ませる。
「魔術は魔法に影響を受けるんだったな。魔法が行使されれば、近くにいる魔術の素養を持つ者に影響を与える。それは理解した」
「店長、別にこいつはおかしな事言ってないと思うんですけど」
「一、お前に備わった魔術の資質が珍しいのと同じく、いや、それ以上に魔法を扱える者は少ないだろう。この世界に百人もいれば多いくらいだと、私はそう思う。『館』は唯でさえ少ない魔法を使える魔女が集まっているらしい。だがな、魔法を使える者全てが『館』に属していると、そう思うか?」
「……分からない、ですけど」
異能は勤務外になり、フリーランスになり、あるいは、ソレにもなる。なれる。なるしかない。
「一、お前は勤務外だ。黄衣は元、とは言えフリーランスを経験している。同じ魔術を使える身だというのに、所属は分かれているじゃないか。同じ力を持っていても、同じ考えを持つとは限らん。時と場合に応じ、敵味方にも分かれる事もあるだろう。なのに、何故黄衣は魔法が発動したからといって、『館』を想像した? 想像出来た?」
「元、フリーランスだったからじゃないの?」
糸原はナコトを横目で見ながら、店長に顔を背けて発言した。
「それもあるだろうな。普通の人間なら、悪夢を見て激痛に襲われたとしても、それが魔法だとは気付かんし、魔女の仕業だとも思わん。その上、自身に魔術の素養があるとも思わんだろうな」
「だったら……」
「『館」について、随分と詳しいようだな、黄衣」
ナコトの肩が分かりやすいくらいに震える。その様を見てしまい、一の全身を寒気が走った。
「あたしだってフリーランスでしたから。同業者の情報は嫌でも耳に入ってくるんです」
「違うな。お前にとって、『館』は唯の同業者じゃない。お前は『館』を嫌悪している。憎悪している。恐らくは、悉く皆殺したいと思っている」
「あっ、あなたなんかに分かる筈がっ」
俯いていたナコトは、弾かれるように店長を睨み、
「分かるんだよ。私には分かるんだ」
また、俯いた。
「あ、あたしは……」
震える声。震える体。
「黄衣、外に出てろ」
「……え?」
その姿を見て、一はどうしようもなくなって声を掛ける。
「店の前で待ってろ」
「で、でも……」
「ちょっと頭冷やしてろ」
一は躊躇するナコトの肩を押し、半ば無理矢理にバックルームから追い出した。追い出してから、壁に手を付いて溜め息を吐き出す。
「店長、苛め過ぎです」
「質問していただけだ。エセフェミニストが」
「……どのくらい、黄衣を信用しているんですか?」
「九割信用している。あいつが嘘を吐く理由が見つからないからな」
店長は涼しい顔でそんな事を言った。
「一割は、あいつがもし、本当に『館』だったらって、そういう可能性ですか?」
「『館』でなくとも、『敵』であるなら何でも良いが、まあ、そういう意味だな」
「つまり、店長はあいつが『館』のメンバーだとは、一割くらいしか思ってない訳ですね」
「お前な、仮にも私は店長だぞ。険のある言い方をするな。第一、私が疑わないで、他の誰があいつの話を疑うって言うんだ。良いか、他人の話を真に受けるのは構わんがな、とばっちりが来るのはお前ら勤務外だぞ? 少しでも危うい物を取っ払ってやろうという、私の親心が分からんのか」
店長は大変ご立腹のようである。
「ねえ、さっきの話が本当だとしてさ、私らはどうしたら良いのよ? 嫌よ、みすみす罠に突っ込んで行くなんてさ」
「とりあえず、情報部に駒台中の中学と高校を洗わせる」
「ふーん、一応、あの子の事を信じるんだ」
「不満か?」
別に。糸原は短く返すと、一を見た。
「行ってやんないの?」
「……店長。とりあえず、どうしたら良いですかね?」
「情報が確定するまでは動きようが無い。ま、それまではフェミニストらしく奴を慰めにでも行ったらどうだ?」
一は反論を試みようとするも、上手く言い返せる自信が無かった。
店を出ると、ナコトはすぐに見つかった。店前の駐車場の隅で丸まるように膝を抱えている。
「ほら」
一は慰めの言葉は選ばず、持ってきたビニール袋を渡した。ナコトはしばらくの間それを受け取ろうとはせずに見つめていたが、
「……何ですか、これ」
やがて、躊躇いがちに袋を手にする。
「俺の優しさが詰まっています」
「………………」
中身の入った袋が宙を舞った。一は慌てて着地点に先回りし、両の腕でしっかりとキャッチする。
「投げるんじゃねえよ!」
「投げてません。捨てたんです」
「凹んでんのに口だけは達者だな」
一は袋をナコトに突き付けた。袋の中身はまだ暖かい中華まんと缶コーヒー。
「……同情、ですか?」
「温情だ。寒かったろうから持ってきたんだよ」
「情けを掛けられたり、借りを作るのは好きではありません。大体、外に追い出したのはあなたでしょう」
「あのままだったら泣いてたろお前」
ナコトは缶のタブを開け、口を付ける。一は少しだけ安堵した。
「……泣きません。涙なら、全て流し切りましたから」
嘘吐け。一は心の中で突っ掛かる。
「あっそ。ああ、アレだ。今、情報部が動いてくれてるらしい」
「とりあえず、と言ったところでしょうね。まあ、来た甲斐はありましたか」
「なあ、どうして来てくれたんだ?」
中華まんを齧ろうとしていたナコトは動きを止めた。
「あ、あなたを心配していたからです」
「嘘吐け。まあ、その気持ちが一割でもありゃ嬉しいけどさ」
「……言い過ぎたかな」
「あ?」
何でもありません。そう言ってから、ナコトは中華まんを齧った。
「ところでさ、今日お前休みなの?」
「ええ、それが何か?」
「この後、予定でもあんのか?」
「あたしのスケジュールを知ってどうするつもりですか? 今の質問は立派なセクハラです。告訴します」
つまり、ナコトは折角の休日の午前中を費やしてここまで来たらしい。自分を朝から電話で呼び出し、悪口を言いに来た訳ではないと、一はそう思った。
「……店長たちはまだお前の事信用してないけどさ、あんま気にするなよ」
「別に、その位で気にするつもりはありません」
「お前ってさ、攻撃的な分、打たれ弱いよな」
「少しくらいあたしに優しくしたからって、あたしを分かったような発言をするのは止めて下さい。吐き気を催します」
ナコトは缶の中身を一気に呷る。
「まあ、元気が出たようで何よりだよ。ついでに本当の事も喋ってくれると良いんだけどな」
「……それは、嫌です」
「月並みだけど、なんで?」
「あ、あなたに、その……怒られるかも、しれないから……」
ナコトは俯き、ぼそぼそと喋る。一は珍しい物が見れたと驚き、
「何だよそれ? 俺が怒るから?」
腹を抱えるほど笑った。
「わっ、笑わないで下さい!」
「俺が怒ったところで気にもしないだろうが」
顔を真っ赤にして詰め寄るナコトをあしらいつつ、一は口元がにやけないように堪える。
「とっ、とにかく! 今はまだ言えませんっ、言いたくありませんっ」
「分かった分かった、気長に待つよ。それで、この後どうするんだ? 一応、話は済んだんだろ」
「…………別に予定は」
「あー、やっぱりな」
「……たくさんあります」
ナコトが見栄を張っているのは一目瞭然だった。
「へー、例えば?」
なので、一は彼女を泳がしてみる。仮に予定が本当だったとして、それはそれで興味深かった。
「た、例えば、合コン、とか」
「ほう、お相手の方々は?」
「は、歯医者さんです」
出だしから苦しい。どうやら黄衣ナコト、アドリブにはとことん弱いらしい。
「あー、なるほど。医者かあ、ちなみにどこで知り合ったんだ?」
「は、歯医者で知り合いました」
「あはははははは!」
一、思わず大爆笑。ナコトには常日頃虐げられっ放しなので、一矢報いたと、とんでもなく気分が良くなっていた。
「……と、これぐらいで気は済みましたか?」
「なっ……?」
「あなたが楽しそうだったので、少し付き合ってあげようと思ったのですが、気分はどうですか?」
「うっ、嘘だっ! 今までのは演技だと言うのか!?」
一の言葉を受け、ナコトはニヤリと微笑んだ。
「あたしの掌の上でくるくると踊るあなた。実に微笑ましかったですよ」
「……くそっ、予定が無いのは本当なのに!」
悔しくて仕方がない。
「まあ、その通りと言えばその通りなんですけどね。さあて、冷やかしついでに週刊誌の立ち読みでもしてきましょうかね」
「……ふーん、暇なのは暇らしいな。だったらどっか行くか?」
「はあ!?」
ナコトは目を見開いた。
「嫌だったら良いよ。けどさ、んな露骨に態度に出すな。俺だって傷付く」
「……あなたって、よっぽどのマゾなんですね。今まで、あたしに何回悪口を言われたか覚えてないんですか?」
「数えられる範囲なら数えてたんだけどな」
もう、諦めた。
「……それに、あなたたち勤務外はあたしを信用してないんでしょう」
「まあ、俺も信用はしてないな。利用はしてるけど」
「面白い事を言いますね。まあ、良いでしょう。そんなにエスコート役を買って出たいんなら、あたしの暇潰しに付き合わせてあげない事もありません」
「そりゃどうも。感謝感激、光栄の極みでございますね」
一は天を仰ぐ。良い、天気だった。
「暇潰しとは言え、今日中に『館』は動くのですから。それまでの間、だけですよ」
「分かってるって。あんまり店から離れるのは却下だな」
「でも……そうだな……。ふふ、帽子でも買いに行こうかな」
かくいう一も、今日は、今だけは休みなのだ。だから、隣で楽しそうにしている彼女に付き合うのも悪くはない。目前に避けられないであろう戦いが迫っているのなら尚更だと、そう思った。
良く晴れている。今日は良い天気なのかもしれない。
しなやかな長い影。南駒台高校の屋上に立つ影こと、オンリーワン近畿支部情報部、二課実働所属、春風麗はそう思った。
今日の彼女はスーツ姿である。彼女の折れそうな程長く、細い手足を包むのは、恐らくはブランド物であろう黒いスーツ。腰まで届くくらいの長髪は無造作にゴムで縛られていた。
「春風さん、こっちじゃ何も見つかりませんでした」
その横に、同じくスーツを着た男が飛んでくる。
彼は春風と同じく、オンリーワン近畿支部、情報部二課実働に所属する、漣と呼ばれる青年だ。
「……そうか」
漣の報告を受け、春風は僅かに顔を曇らせる。尤も、彼女は平時から感情を変えず、表さず、常に同じ顔でいるので、その変化に隣の彼は気付かなかったが。
「罠があるとすればここの筈なんだがな」
「駒台の中学、高校ならここが一番生徒数が多い。勤務外を誘き寄せる罠を仕掛けるなら、格好の的だったんですけどね」
「北の情報が虚偽である可能性が高くなってきたな」
まさか。漣は笑う。そんな事はありえない、と。
「北には奴らがいるからな、こちらを踊らしているかもしれん」
「……得になりませんよ、どっちにしたって」
「忘れたのか? 我々はオンリーワン近畿支部情報部、二課実働だぞ。情報を偽る事はあっても、偽られる事は許されない」
春風は漣に目を向ける。やはり、無表情のままで。
「警戒は俺だってしてます。しかし、まだ候補は残っているじゃないですか」
「北校、か。今日、あそこは創立記念日だぞ。果たして『館』が人の少ない所を選んでくれるかな」
「……創立記念日? 初耳でした」
「……まあ良い。無駄だと分かっていても行くしか無いからな」
呟くと、春風は屋上に設けられた、転落防止用の金網を助走もなしに飛び越えた。
彼女の体は重力に従い落下。地面に向かう途中、校舎三階の開いていた窓枠に膝を曲げただけの状態で着地し、また飛ぶ。縛られた髪の毛は風の影響を受けて揺れるも、彼女の姿勢がぶれる事はない。グラウンド近くに建てられたポールの頂点に両足を乗せると、次の跳躍で校内最後のフェンスを乗り越えていった。
「……気持ち良さそうに飛んでくれるよ」
スーツの襟を正すと、漣も後に続いて飛翔する。
驚く事に、彼らの姿を目撃した者は誰一人として存在しなかった。
震えていた。
震えていた。
「はっ、くっ……」
彼女は震えていた。かちかちと歯を鳴らしているのは寒さの為では決してない。
制服に皺が寄ってしまうほど体を掻き抱いているのは寒さの為では決してない。
堪え切れぬ恐怖が漏れ出ているのだ。
目尻に涙を浮かべた彼女は今、女子トイレ最奥の個室にいる。ハンカチを噛んで声を抑えようとはしているが、止まらない嗚咽は個室の壁など意味も為さない。反響して、彼女の耳朶を打ち続ける。自分の声がこんなにも悲しそうに、虚しそうに、白々しく聞こえるのを彼女は初めて知った。知った上で泣き続ける。
覚悟ならしているつもりだった。他者が死ぬ事も、自らがそうなる事も。
しかし、理解はしていても納得は出来ていない。彼女はまだ、無常で無残で、無駄な死を見るのに若過ぎた。命があっけなく終わるのを知るのが早過ぎた。この世界に足を踏み入れるのが絶望的なまでに遅過ぎた。
「……うぅっ……」
そう、過ぎた事だった。
まだ宴は始まっていないとは言え、もう始まるのだ。覆水は盆には返らない。
絶対に覆らない。宴の決行は魔女によって定められたのだから。
それでも彼女は目を瞑り耳を塞ぎ口を閉じ、出来る限り心を無くした。見たくない。聞きたくない。話したくない。感じたくない。
狭い個室に、目に見えない罪悪感が密集して、密着して彼女に問い掛ける。
この宴を始めたのは誰の所為だと。
私の所為だと彼女は返した。
胸が苦しくなり、彼女はやおら制服のボタンに手を掛ける。最初こそ普通に外そうとしたが、小刻みに震える指が邪魔して上手く行かず、力任せにボタンを引き千切った。胸元が露わになるが関係ない。見ている者など誰もいない。仮に誰か見ていたとしても、彼女は躊躇わなかったかもしれない。
壁に手を付き息を吐き、彼女は崩れそうになるのを堪えた。
しばらくの間、彼女はそうしていたが、淡い光が自分を照らしている事に気付き口元を手で押さえる。
光は彼女の、体の中から溢れだしていた。青く、赤く、白く、時に眩しく。
やがて、光は一定の光度を保ち始めた。色だけは相変わらずバラバラで。しかしそのカラーリングも赤の比重が増していき、
「あ……」
真っ赤に染まる。
「あら、もう時間?」
「らしいわね」
豪奢な作りのソファに腰掛け、優雅とも言える仕草で紅茶の入ったカップを置いたのは二人の女性。
「……予定通りよ。外に出た者も、中に入ってきた者もいないわ」
先の二人よりも、幾分か深くソファに体を埋め、何かを探るように目を瞑る一人の女性。
その三人の女性全てが、真っ黒なローブに身を包んでいた。顔まですっぽりと隠れるように、体の線など分からないように。
「始まったのは良いけどさ、あの子を見てないかい?」
窓の傍に陣取り、蓮っ葉な口調で話す四人目の女性。
彼女はローブこそ着ていなかったが、黒い三角帽を被り、黒いマントといういかにもな出で立ちだった。
四人とも、年齢は二十代後半か、三十代前半に見受けられる。共通点はその服装。一人を除いて黒いローブで統一され、除かれた一人ですら色は黒で統一している。
「……あの子なら、ここの三階、かしら」
「ふうん。まーた引き篭もっちまってんのかい……」
黒い三角帽を被った女性は、壁に立て掛けておいたモップを引っ掴んだ。
「先に始めといてくれ。あたしゃ、馬鹿弟子を探してくる」
「そうね、お願い。骨を操れるのはあの子だものね」
「あいよ」
短く返し、モップを掴んだ女性は部屋から出て行く。
「……私はここにいるから」
「はいはい、分かってるわよ。しっかり陣を守っといてよね」
更に二人の女性が立ち上がり、
「留守番よろしくねー」
残る一人に軽口を叩いて出て行った。
戦場へと、赴いた。
『彼女』らが出向いた戦場の中でも、今までの規模からすれば格段に小さなフィールド。
それでも、不満は無い。
殺された仲間の仇が討てる事を思えば、彼女たちにとって戦場なぞ大きな問題ではなかった。
問題なのは、誰が殺したか、と言う点。恐らくはこの街の勤務外であろうが、この狭い町に、異常な勤務外が何人も居過ぎている。的を絞れない。
的を絞れないなら、的を増やせば良い。
ここを罠にして、のこのこと現れる勤務外、ならず全ての人間を殺せば良い。そうすれば済む話だ。
彼女達はいまいち人間の社会の話は良く理解していなかったが、この学校という場所には人がたくさんいるらしい。あの子はそう言っていた。
とりあえず、今は見せしめに何人か、半分ほど死んで貰おう。全員殺しては、折角の罠が意味を失う。かと言って、生き残らせ過ぎてもつまらない。出来るなら、この場にいる大半の者には、死んでいったマナナンガルの様に無残に、無駄に、無常に、無益に、無慈悲に無下にして、死んで貰わなければ、殺さなければ気が済まない。
だから、だから。
今が昼であっても、今日が二月一日でなくても、八月一日でなくても、十一月一日でなくても、ましてや五月一日でなくても魔女の夜宴は始まるのだ。