怨徹骨髄
一言で表すならば、彼らが見たのは悪夢であった。
そして、激痛で目が覚めた。
最初に襲ってきたのは胸を締め付けられるような息苦しさ。空気を求め、口を開けて喘ぐと、次に全身に痺れが走る。体を流れる電流の如き熱さに寝返りを繰り返した。火を点けられたと錯覚しそうな熱さに身悶えしていると、最後の、最悪の痛みが頭部に襲い掛かる。何かが頭の中を叩き続けていて、視界がぶれ、涙と嗚咽が零れた。鳴り止む事の無い不快な音と、永劫に続きそうな、脳内を這い回る鈍痛。
しばらくの間、頭を押さえて呻きながら、布団の上で転がり続けていると、直に痺れが治まってくる。か細い呼吸を繰り返す内、胸への圧迫感が消えていった。そして、体から熱が引いていく。徐々にではあるが、楽になっていった。
しかし、消えない。
頭痛だけがいつまでも消えてくれない。頭の外側からも、内側からも何かで殴り続けられているような、激しい痛みが残り続ける。
折角、良い気持ちで眠っていたのに。
時刻は午前三時を回ったところ。浅い眠りを繰り返していた糸原は物音で目が覚めた。暗い部屋の中、隣で眠っているであろう一を確認する為に目を凝らす。
そこには、奇怪な動きをしている一がいた。最初は寝相が悪いのだと思っていたが、寝相が悪いのは自分だったのを思い出し、やがて彼の息が荒い事に気付く。
「……何よ、どっか痛いの?」
自室の布団の上で苦しそうにしている一を見て、糸原はようやく声を掛けた。だが、返答は無い。一は喘ぎ、呻き、痛みから逃れるように寝返りを繰り返しているだけ。
「頭? お腹? あ、それとも顔が悪過ぎて夜中に鏡でそれ見ちゃって苦しんでるとか?」
答えはまだ返ってこない。見かねた糸原は、やれやれ、なんて呟いて立ち上がる。部屋の明かりを点け、この部屋唯一の、外部との連絡手段である電話の元まで近付いた。
「救急車、呼ぶ?」
糸原は受話器を持ち、一に問い掛ける。
一は頭を振った。糸原はそれを否定の意と汲み、受話器を戻した。
「ねえ、やばいんじゃないの」
「だい、じょぶ……」
全然大丈夫だとは思えない。糸原は動き回る一の頭を強引に押さえ付け、彼の額に手を当ててみる。熱はあったが、寝起きだという事を考慮して大した事は無いと判断した。勝手に。
「うわ、汗付いちゃったじゃない」
非難がましく睨まれたので、糸原は口笛を吹いて誤魔化す。正直、そんな事しか出来ない。この部屋には救急箱なんて大層な物は無かったし、薬と言えば、偶に一が服用する市販の胃薬ぐらいしか置いていなかった。
第一、糸原にはこんな状況経験した事が無い。昔は親代わりの長雨と過ごしていたが、彼が病気になる事なんて殆どと言っていいほど無かった。誰かと一緒に暮らしていて、その誰かが苦しんでいても、糸原にはどうすれば良いのか分からない。
「水、飲む?」
今度は首すら振ってくれなかった。一は涙を浮かべて嗚咽を漏らし続けている。それなのに、自分には何もしてやれない。
「……ねえ、もう医者呼ぶわよ」
確か110番だったか、なんて思いながら、糸原は再び受話器を手に取った。
「……いり、ません」
背中越しに一の声。今にも消えてなくなりそうな、頼りない声。
「だって私じゃ分かんないし、あんたしんどそうじゃん」
一は糸原の言葉に眉根を寄せると、壁に手を付いてよろよろと立ち上がる。
「頭、痛いだけですから……」
「泣くほど痛いんでしょうが」
「泣いてません」
強がりにしか聞こえないが、一はそれでも糸原の言を拒み続けて、洗面台に近付き蛇口を捻った。彼は流水に頭を浸し、少しだけ気持ち良さそうに息を吐く。
「……何か、悪い物でも食べた?」
「心当たりは無いです」
一は水を止めても、しばらくの間そのままの体勢でいた。
「本当に大丈夫なんでしょうね」
糸原は積み上げていた洗濯物の中から、乾いていたタオルを一の頭に掛けてやる。だが、彼は身動ぎ一つしない。焦れたので、無理矢理に髪の毛を拭いた。
一も糸原も無言で、広くない部屋には静寂が立ち込める。一は何も言わず、布団の上に戻り、糸原はこたつに潜り込んだ。
「寝れそう?」
沈黙に耐えかね、糸原が口を開く。
「……ちょっと、無理そうです」
「あんた、明日休みよね?」
一は静かに頷いた。
「私もバイト、休んであげてもいいわよ。ほら、アレよ。ご飯とか薬買いに行くし。様子見て、きつかったら病院まで付いてっても……」
「は、ははっ……」
「……何笑ってんのよ」
「いや、何か、糸原さんが優しいから」
怒鳴って叩いてやろうかと思ったが、一の顔色が未だ悪いので我慢する。
「それで、どうなのよ?」
「大丈夫です。流石にマシにはなってきましたから」
「あら、そう」
少し、残念。
「しっかり働いて下さいね」
「どうかしらね」
糸原はそっぽを向き、何の気なしにテレビを点けた。砂嵐が映ったので、舌打ちしてチャンネルを変える。この時間だ、まともな番組はやっていなかった。仕方ないので、詰まらなさそうな通販の番組に目を向ける。
「どうせなら、コレぐらいの時間に深夜アニメやってくれりゃ良いのに」
「……子供が深夜にアニメ見るんですかね」
「さあ、見るんじゃないの?」
完全に目が冴えてしまった。バイト開始まで、あと数時間も残っている事に憂鬱になる。糸原はだるそうに溜め息を吐いた。
「……あの、ニュースやってないですか?」
「ニュース? 興味無いんだけど」
「ちょっとだけで良いんで」
一は辛そうに頭を起こす。
「ん、ほら」
仕方ないので、チャンネルを変えてやった。流れてくるのは作業的な口調の、男性キャスターの退屈な声。読み上げられている情報自体も、糸原にとっては退屈な物であった。
「何よ、気になる事でもあったの?」
「や、特には」
「ふーん。それよりとっとと寝なさいよ」
そうします。一は呟き、布団に潜り込み目を瞑る。糸原は電気を消し、壁を背にして座り込んだ。
結局、糸原は朝が来るまで一睡も出来なかった。
朝、目が覚めると体中が痛い。と言うか、痛みで目が覚めてしまった感じだった。一はゆっくりと体を起こし、鈍痛が続く頭を抱える。窓から差し込む朝の陽光も、今日だけは目障りだった。
「……九時、か」
そろそろ糸原も帰ってくる頃だろう。お腹が減った。動けなくは無いが、動きたくない。朝食は糸原に任せ、自分はもうしばらく大人しく眠ろうと、そう思う。
一は再び枕に頭を埋め、目を瞑った。しばらくの間そうしていると、昨晩の――日付の上では今日の――出来事を思い出す。どうして、あんな目に遭ったのだろう、と。
よくよく考えてみれば、呼吸困難に陥り、全身に痺れが走り、燃える様に熱くなり、あまつさえ激しい頭痛に襲われるなんて、想像もしたくない病だった。そして原因が全く分からない。おかしな物は食べていない。さほど注意はしていないが、手洗いうがいは帰ってきたらやっている。煙草も今は止めている。健康に害を与えるような事をした覚えは無かった。
一は何気なく、伸びた爪を見る。
「と、すれば……」
ぼんやりと、あまり考えたくは無かった事を口にしてみる。
と、すれば。やはりこれの所為だろう。一は爪を眺めては目を反らし、目を反らしてはまた眺めた。
一はもう、人間ではない。ソレの血が混じった半端者なのだ。更に言えばソレでもない。人間の血も混じっている半端者だった。ジェーンの様な人狼ですらない。僅かに、ほんの少しだけソレの血が混ざっているだけ。
突如襲い掛かった激痛。一には心当たりが二つあった。一つはこれ。自身に異物が混入した事により、耐え切れなくなった体が悲鳴を上げている、そんな可能性。内側からの、自業自得の業の部分。
――――――!
考え事に耽っていた一を、電話のベルが引き戻した。
最初は無視を決め込もうとしていたが、ベルの音がやけにうるさく、頭の中に響くので渋々受話器を手に取る。
「……もしもし」
私は不機嫌です。そんな気持ちを込めて、露骨に言ってやった。
『私だ。今から店に来い』
「………………」
電話口から聞こえてきた、遥か上空からこちらを見下ろすような、偉そうな声音。
「嫌です」
一にはそんな人物、一人しか心当たりがなかった。
『何も働けと言っている訳じゃない』
「だったら何しに店まで行くってんですか」
『客が来ている。お前目当てのな』
無駄だと分かっていても、一は受話器に視線を遣ってしまう。
「……なんで俺宛の客がそっちに行くんです」
『お前の住所も連絡先も知らなかったようだ。良いから来い、お前の好きな女の子が来ているぞ』
面倒な話だった。
「どういう意味ですか……」
『良いから来いと言ってるだろう。意味なんて、店に来れば嫌でも分かる』
「ちょっと、遅くなりますけど」
『ん、ああ、構わん』
それだけ言うと、電話口から乱暴な音が聞こえてきて通話が切られる。別れの言葉も無しだった。
「……はあ」
一は溜め息を吐き、頭を掻いて立ち上がる。行かない訳には、いかない。
恐らく、確実に客はあいつだ。一は確信めいた物を感じた。
突然の激痛。心当たり、その二つ目の理由。一つ目が内側ならば、もう一つは、ある種外側のモノ。忘れようにも忘れられない。そんなモノ。
また、ボロクソに言われるのだろう。心が弱っている今の自分がどこまで耐え切れるのか、一は心底から慄いた。
北駒台高校、体育館。北駒台高校の正門から最も近い、校内の施設。
「何時まで使えるんだ?」
「ああ、バレー部が一時から。だから、そうだな、十二時過ぎまでは余裕」
全校生徒と全教師を収容できる広大なスペース。儀式的行事にも使用されるのか、体育館の入り口から一番奥にはステージと緞帳が設けられている。入り口は一つ。手狭ではないが、一度に大量の人間が押し合えばすぐに埋め尽くされるような空間の玄関。体育館のサイドには、二つの出入り口。今は閉められているが、夏場にもなると風通しを良くするために開け放たれている。何の事はない。特筆すべき事などない、平凡な、どこにでもある体育館だ。
体育館には男子、女子の剣道部員が総勢、三十名前後。木製のフロアを半分に区切り、半面ずつ使用しているらしかった。男子の方が若干人数が多く、入り口側の面を陣取っている。思い思いに談笑を楽しんだりする者もいれば、防具の装着に手間取っている者もいた。
「顧問がいないから、少し早めに切り上げてやるか」
体育館の隅に座り込み、他の部員を見回すようにしてから、大柄な少年が笑った。練習前なのか、防具は装着していなかったが、その少年は頭に水色のタオルを巻き付けている。
「安田は相変わらず甘いな。下に舐められてないか?」
大柄な少年の隣に腰を下ろしているのは神野だった。脱いだ学ランを肩に掛け、清潔そうなシャツに身を包んでいる。
「部長のお前が辞めたからだろ、今まで厳しかった分、新部長の俺が優しくしてやってんの」
「何だそりゃ」
安田と呼ばれた少年の笑いにつられ、神野もおかしそうに吹き出した。
「あー、神野、今日はわりぃな。折角の休みだってのによ」
「ああ、良いって言ってるだろ。どうせ今日は暇なんだから」
実は、バイトを休みにして暇にしたのだが。とは言わない。神野は安田に余計な気を使わせたくなかった。
「今日の俺は雑用だからな。何でも言い付けてくれ」
「お? そうか、だったらジュース買って来いよ」
神野は安田の言葉を笑って受け流し、体育館内に目を向ける。
「ん、誰か来てない奴がいるんじゃないか?」
ふと、気になった事を問うてみた。
その問いに、罰の悪そうな顔で安田は頬を掻く。
「あー、一年の村西だな。遅刻の常習犯なんだ」
「ったく、甘やかせ過ぎだ。一応、来るのは来るんだろうな?」
「おー、さっき連絡が来てたらしい」
「やっぱ舐められてんじゃねえか」
安田は申し訳無さそうに顔を伏せた。
「……あー、やっぱお前の方が部長に向いてるわ」
「……そうか?」
実際、そうかもしれないと思いつつ、神野はとぼけている振りをして聞き返す。
そろそろ、部活を始めるには良い時間だ。そう、思いつつ。
一が家を出たのは電話を受けてから三十分後の事だった。
「さみー」
どうしようもない事をぼやき、一は自室の扉に鍵を閉める。
「おう? 出掛けんのか?」
自分を呼ぶ無骨な声に振り返れば、今しがた階段を上ってきたであろう、一と同じアパートの、階下の住人北英雄がいた。相変わらずの無精な格好だった。だらしなく髭を伸ばし、ヨレヨレのシャツと、ヨレヨレのズボンを着ている。と言うか、一はこの格好以外の北を見た事が無い。
「ええ、今からバイトの用事で」
「そうか、まあ、ガンバレや青少年。所でよ、あの女狐はいねえのか?」
女狐と言うのが誰を指しているのか分からないが、一の知っている中で、そう形容出来る人物なら一人だけ。
「糸原さんならバイトに行ってますよ」
「だああ……マジかよ」
北は手すりに背中を預け、力なく空を見上げた。
「用事でもあったんですか?」
「ゲーム機を取られたままだったんでな、取り返しに来たんだよ。畜生、まだあのソフトはクリアしてねえのによ」
アレ、か。一は楽しそうにゲームをしていた糸原を脳裏に浮かべる。
「どうせ店で会いますから、伝えておきますよ」
「……あ、おい。それより今取ってきてくれよ。部屋にあるだろ?」
「北さん、持ち運び出来る物をあの人に渡しちゃ駄目ですよ」
「畜生っ!」
北は空に向かって叫んだ。元気な中年だと、一は思った。
「まあ、勝手に渡しちゃうとあとで俺が殴られるんで」
「はっはっは、尻に敷かれてんのか、坊主?」
「……じゃ、先を急ぎますんで」
「おいおい、怒んなよ」
軽薄そうな声を無視し、一は階段の一段目を踏む。
「それより坊主、顔色悪いんじゃねえか?」
「あー、やっぱり分かりますか」
一は振り返り、頭を掻いた。大分マシになった筈なのだが、疲れは顔に残っているのだろうか。そう思い、意味も無く頬っぺたを摘む。
「調子が悪い時は無理しない方が良いぜ。何だ、風邪でも引いたか?」
「んー、それがさっぱり。原因が分からないんですよね」
「へえ、それともアレか。悪い夢でも見たんじゃねえのか?」
「――え?」
階段の真ん中で立ち止まる一を尻目に、北は手すりに足を掛け、そのまま階下の地面へ飛び降りた。割といつもの事なので一は驚かなかったが、別の事に意識を奪われる。
「……悪い、夢?」
鈍痛が、再び頭の中で活動を開始した。
「おはようございます」
店内に入るなり、一は物憂げに突っ立っているジェーンと、無表情でおでんの鍋の洗い物をしているナナに声を掛ける。
「一さん、おはようございます。今日はどうされたのですか?」
「んー、何か俺宛にお客さんが来てるとかで」
ナナは作業の手を止めず、「そうでしたか」とだけ呟き、納得したように頷いた。
「…………………………」
そしてジェーンは不機嫌そうに一を見遣る。
「……何だよ。どうしたんだ?」
「さっき、お兄ちゃんの知り合いが来てた」
「だから俺が呼ばれちまったんだよ」
「ふーん?」
ジェーンに疑いの眼差しを向けられ、一はたじろいだ。何もやましい事はしていないのに。
「女の子、だったんだケド?」
「らしいな」
「わざわざ、お兄ちゃんに会いにこんな朝早くカラ?」
ジト目で見つめられ、一は心中まで見透かされているような、そんな気持ちに陥る。
「俺が知るか」
「ねえ、お兄ちゃん?」
一はバックルームに向けていた足を止めた。振り返らず、黙ってジェーンの続きを待つ。
「ステイツじゃ、浮気はデスペナルティになるらしいヨ」
「……嘘吐け」
吐き捨てるように言うと、一はバックルームの扉を開けた。少しだけ後が怖かったが、大体、ジェーンとはそんな仲では無いだろうと思い直す。
バックルームに入ると、疲れた顔の糸原と、椅子に座ったままの店長と、
「遅いですね。一体どれくらいあたしを待たせれば気が済むんですか? 無駄にするのはあなたの人生だけにして下さい」
一の、予想していた通りの人物がそこにいた。
その人物、白いセーラー服を着た背の低い少女。彼女はベージュ色のハンチング帽を目深に被り、右目を隠すように眼帯を付け、手では分銅の付いた鎖を弄んでいる。
「久しぶりだってのに、端っから飛ばしてるじゃねえか」
「再会の喜びを分かち合う仲でも無いでしょう。あなた相手に社交辞令の挨拶をする事を想像しただけで、反吐が出ます」
全く以って、一の予想通りの挨拶を交わしてくれたのは黄衣ナコトであった。元フリーランス。クトゥルフの片割れ。『図書館』と呼ばれていた時期もあったが、今の彼女は唯の、図書館の司書に成り上がっている。
「……店長、客ってのは?」
「ああ、それだ。さあ、お前らがいると賑やかで敵わんから持って帰ってくれ」
店長は手を振り、至極面倒くさそうに言い放った。
「あたしをこの人の所有物みたいに言わないで下さい」
「な、うるさいだろ。いきなりバックルームに入ってきてお前を出せとか抜かしやがる。その上、所構わず私達に噛み付く訳だ」
椅子に座っていた糸原は無言で頷く。相当、疲れているようだった。
「あー、糸原さん、心は大丈夫ですか?」
「……一、あんたの客じゃなかったらこのガキもう百回は死んでるわよ」
「あはは……」
一の笑い声は乾いている。さしもの糸原も、勤務明けのナコト責めは耐え切れなかったのだろうと、心中同情した。そして、このまま彼女の罵声を飛び火させるのも悪いと考える。
「じゃ、とりあえず外で話すぞ」
「は? 何指図してるんですか? あなたはあたしの彼氏ですか? 違いますよね、だったらそんな事言わないで下さい」
「……彼氏にだったら指図されても良いんだ……」
一は僅かにショックを受けた。正直、そんなナコトは見たくない。
「あなたは何を言ってるんですか? あたしは外に出ませんよ。今日、あたしがわざわざこんな所にやって来たのは、あなたたちに話があるからです」
「あなた、たち?」
その言葉に、誰よりも早く店長が反応する。座ったままの体勢で器用に椅子を動かし、ナコトの方へ向けた。
「ほう、聞かせてもらおうじゃないか。元フリーランスの話なら、いささか興味がある。何だ? 今度は誰の仇を討ってほしいんだ?」
「ここの人たちは皆性格が悪いんですね。こんな店、早く潰れれば良いのに」
ナコトはわざとらしく溜め息を吐いてから、一を見据える。
「本題に入る前に、一つ確認しておきたい事があります」
一たちを見回した後、ナコトはゆっくりと口を開いた。
「昨日と言いますか、今朝方、そうですね、午前三時頃にあたしは夢を見ました」
突拍子も無い発言に糸原が眉根を寄せ、ナコトを睨む。敵意を微塵たりとも隠そうとしていない、そんな目で。
「あのさ、何なのよ? 何が言いたい訳? 言っとくけど、夢の話なんてね、私の嫌いな、他人から聞く話ナンバースリーに入るのよ」
「一位は自慢話でしたっけ」
一がへらへらと笑い出す。
「話の腰を折らないで下さい。大事な話なんです。特に、あなたたちにとっては」
「……へえ、じゃあ続けなさいよ」
「言われなくとも。……夢の内容は簡単な物です。どこかの学校が、何かに襲われ、人がたくさん死ぬ。それだけの夢でした」
ナコトは平坦な口調で言い放った。その平坦な口調が、一には何故か引っ掛かる。
「そして、私は目が覚めました。途轍もない激痛で。息は苦しくなって、体には痺れが走り、燃える様に熱くなり、目が覚めました。覚まされました」
「何を言っているんだ?」
店長は不思議そうにナコトを見ていたが、糸原には予感めいた物が訪れていた。そして一には確信が。
やはりか、と。一は納得する。せざるを得ない。それ以外、有り得ない。
「さて、一さん、頭は大丈夫ですか?」
優しげな声音で尋ねられ、一の心がささくれ立った。
「……お前の聞き方には悪意を感じる」
「さっきから様子を見てたんですけど、どうやら、あたしと同じ状態みたいですね。まだ頭に痛みが残っていますか?」
「まあ、少しは」
一とナコト、二人のやり取りに意味を見出せなくなったのか、
「さっきから何を言っている? 分かるように説明しろ」
店長が銜えていた煙草を噛み砕いて言った。
「そうですね。簡単に言いますか」
ナコトはえへんと咳払いしてから、
「今日、この街に魔女が現れます」
静かに、それでいて高らかに宣言する。
店長と糸原は呆気に取られていたが、一だけは観念したような表情を浮かべていた。
「……魔女、だと?」
「ええ、魔女です。非常に気に入りませんが、確実に」
問い掛ける店長へ、ナコトは当たり前の様に答える。
「まだ皆さん、話が飲み込めていないようなので説明しましょうか」
鼻で笑うナコトを見て、一は罵声を浴びせ掛けたい衝動に駆られるも我慢する。
「皆さん、『館』と呼ばれるフリーランスをご存じですか?」
「……さあ、初耳ね」
「名前を言うのすら憚られるぐらい当たり前な集団です。正式名称は『湖の魔女の館』。当り前過ぎて、知っている者からは『館』とだけ呼ばれます」
一は以前、その名を春風から聞いていたがだんまりを決め込んだ。
「彼女らは異常に、性質の悪いフリーランスです」
「ふん、性質の良いフリーランスがこの世にいるのか怪しいがな」
「……フリーランスの中でも、とびきりの厄介者です。理由も挙げればキリが無いほどに。あえて幾つか摘むなら、『館』の仲間意識の高さにあります」
一の背中を冷たいモノが通り過ぎていく。
ナコトは一の状態など気付かず、気付いていたとしても、お構いなしに話を続けた。
「本来『館』は積極的に動こうとはしません。必要最低限の活動だけに留めています。むしろ、表舞台に出るのを恐れている節さえあります。恐らく、人の目に触れるのを好まないのでしょう」
「なら、何故お前は魔女が出ると言ったんだ」
店長の威圧的な視線に怯む事無く、ナコトは更に続けた。
「ですから、仲間意識の高さです。彼女らは滅多に動きません。ですが、万難を排してでも動く理由も存在するんです」
「……なるほどな」
話に付いていけなかった店長も、今の言葉で何かを掴んだらしい。
「さて、率直に聞きます。勤務外、あなたたちは魔女を殺しましたね?」
「『館』が動くのは、仲間の復讐の為か」
「……質問、してるんですけど?」
「一、答えてやれ」
一の肩が少しだけ震える。
「魔女……」
震えながら、一は声を絞り出した。どうして、こんな事になってしまったのか。やはり自分はあの時止めるべきだったのだろうか。
だが、どう足掻こうが、幾ら考えようが、事実だけは変わらず、動かない。
――そうだ。
「魔女なら、殺したよ」
あの、魔女を。
マナナンガルと呼ばれる、醜悪なソレを。