痩せ腕にも骨
午後、一時三十分。
「おい、立花、呼ばれてるぞ」
神野のいつも通りの午後が始まっていた。
「……うーん……」
昼休みが終わり、五時間目の授業。数学。神野は隣の席で眠っている立花が当てられたので、声を掛けて、起こす。
「起きろって、先生怒ってるから……」
「んー、はじめくぅん……」
だが、立花は一向に目を覚ます気配を見せない。お約束の様な寝言を吐き出し、口からは涎が少し垂れていた。
「神野、叩いて起こせ」
教壇の前に立つ若い男性教師が、苛立っているのかボールペンを何度もノックする。
「……はい」
一クラス、四十人前後の注目を浴びながら、神野は立花の頭を軽く小突いた。
「う」
呻き声を発し、立花は身を捩じらせる。
「や、やめてよぅ……、ボクがそこ弱いの知ってるくせにぃ……」
「どあほっ」
さっきよりも力を込めると、立花は鳴きながら飛び起きた。
午後一時三十分。一の昼は大体この辺りから始まる。
ゼミに出席する為だけに大学へやってきた一は、時間が中途半端に余っているので、構内を意味もなくぶらついていた。
喫煙所近くを通り掛かった時、聞き覚えのある声と、見覚えのある顔とに遭遇する。
小さくて黒いのと、大きくて白い二人。
その二人は言い争いをしているようで、彼らの周りの雰囲気は悪く、近付く者は誰もいなかった。
無視して通り過ぎるのが人情だったが、余った時間を無為に費やすのもまた人情だ。そう考えた一はゆっくりと二人に近付いていく。
「ふざけるなっ! 私は認めん!」
「ははは、ふざけているのは君じゃないか。何をどう考えて喋っているのか、僕には理解できないよ」
近付くにつれ、いつも通りの会話が聞こえてきた。一は何故だかほっとする。
「よう、楽しそうじゃねえか」
「ん? ああ、お早よう先輩、誰よりも会いたかったぞ」
一の姿を認めた小さくて黒い方、早田早紀が嬉しそうに歯を見せて笑う。
「やあ、今日も素敵だね、一君」
次に、大きくて白い方、楯列衛が声を掛けてきた。
「煙草吸わないのに、何だってこんなところ居るんだよお前ら」
一は二人の、微妙に空いた隙間に座り込む。
「うむ。私は吸わないが、先輩は吸うだろう? 先輩はいつ何時姿を見せるか分からない多忙極まりない方なので、こうして先輩が出没するポイントに網を張っていたのだ」
「俺はモンスターかよ」
「モンスター、確かに、一君の素晴らしさと来たらモンスター級だと思うけどね」
「褒め言葉じゃないだろ、それ」
いつも通りに二人の戯言を流していると、一は視線を感じた。
「う、な、何だよ……」
早田と楯列からの熱烈な視線から逃れるように身を捩る。
「いや、先輩、調子でも悪いのか?」
「へ? そんな事無いけど」
訳が分からず、一が首を捻っていると、
「一君、煙草は吸わないのかい?」
良く通る澄んだ声で、楯列が尋ねてきた。
「……あー、なるほど」
一は得心する。そう言えば、この二人と居る時は煙草を吸っていたような。
「煙草は止めたんだよ。っつっても、いつまで続くか分かんないけどな」
「……そうだったのか、いや、良い心掛けだぞ先輩。益々惚れ直してしまった」
「そんな大袈裟な……」
「ノン。煙草を止めるなんて大した事じゃないか、見たまえ、ここに居るもの達を。ほら、煙草なんて害毒をあんなに美味そうに吸っているっ。彼らは生きているだけで害毒なのだよ」
楯列は立ち上がって力説し始めた。
「バカ、喫煙所まで来て何言ってやがる。また敵増やしちまうぞ」
「ふむ。と言う訳で一君、結婚しようじゃないか」
「……唐突だよな、お前って」
「愛は何時だって唐突な物さ。そうだ、一君、君に聞いてほしい事があるんだ」
「ああ、何か言い争ってたな、お前ら」
一は何気なく早田に目を遣った。
「うむ、先輩なら私の考えが優れていると、そう言ってくれるだろう」
「だから、何の?」
「一君。僕は猫が好きなんだよ。猫の気紛れさ、気高さ、実に素晴らしく、美しい」
唐突に、楯列は言った。
「先輩、私は犬が好きなのだ。忠実さ、誠実さ。飼い主に尽くす真の臣下ではないか。見習うに値する心意気だ」
「……ふうん」
一は頷いて、楯列の着けている腕時計で時間を確認する。
「つまり、僕は猫が好きで、犬が、早田君が嫌いなのさ」
「つまりだ、私は犬が好きで、猫が、楯列に死んでもらいたのだ」
「仲が良いのか悪いのか……」
溜め息を吐く。
「で? 俺に何をしろと?」
「うむ。犬か猫。私かこいつ。先輩には私たちのどちらが好きなのか、選んでほしいのだ」
「……なるほど、俺は犬も猫も嫌いだ。そしてお前ら二人のどちらかなんて、選べるわけが無いじゃないか」
「せ、先輩なんでだワン!?」「一君、どうしてだニャ!?」
「アホか、両方好きじゃ無いからに決まってんだろ」
顔を近付かせてくる二人から逃れる為、一は立ち上がる。
「ひっ、ヒドイぞ先輩っ、私が今までにどれだけ尽くしてきたと!」
「んな事はこないだ貸した昼飯代を返してから言ってくれよ」
「では一君っ」
「うわあっ、尻触るな!」
半ば反射的に、一は楯列の鼻を裏拳で打ち抜いた。
「僕だって今まで君に尽くしてきたじゃないか! それなのに、それなのに君はっ」
「あ、おい、鼻血出てるぞ」
「構うものか、君の為に流す血ならば厭う事なんて無い」
「……お、おー」
一はポケットティッシュを差出しながら、素直に感心する。どうしてこうも、人間は気持ち悪くなれるのだろう、と。
「……とにかく一君、選んでくれ給え。この際嘘でも何でも良い。僕は君が言う事になら従える。だから……」
「……目を潤ませて、こっちを見るのは止めなさい」
一は頭を抱えた。
「だが先輩、私か楯列。そろそろ、ハッキリさせるには良い時期だと思うが?」
「……何をだよ」
「ふっ、知れた事を。どちらを娶るかに、そして抱くかに決まっているだろう。勿論、選ばれなかった方には死が訪れる。先輩の手によって、な」
「それこそ痴れた事じゃねえか。相変わらず突っ込みどころ満載な奴だな、本当に」
早田は何故か照れている。
「って言うか、もう授業の時間になるぞ」
「誤魔化さないで貰いたいね、一君。答えを貰えるまで僕は頑としてここを動かないよ」
「じゃあ癌になるまで喫煙所にいろよ。行こうぜ早田、遅刻しちゃまずい」
「先輩の行くところなら何処へでも」
早田は一の腕を取り、力任せに組もうとする。
一はやんわりと彼女の腕を解き、講義棟へと足を踏み出した。
「一くーん? 本当に僕を置いていくのかーい?」
無視し続けると、楯列は鳴きながら飛び起きてくる。一はやっぱりいつも通りだと、内心ホッとするのだった。
午後五時。
「けん君、部活行くの?」
「ああ、大会も近いし、下級生の様子見も兼ねてな」
人の少なくなった教室。神野の夕方はここから始まる。
「だったらさ、もう剣道部に入っちゃえば良いのに」
立花は鞄を振り回しながらそんな事を言った。
「……一度辞めた身だからな。正式には戻りづらいんだよ」
「ふーん。なんで辞めちゃったの?」
お前の所為だとは、言えない。神野は困った顔で手元に視線を落とした。
「俺より強い奴が、あそこにはいないからな」
だから、笑って誤魔化した。
「えへへ、けん君強いもんね」
「……皮肉にしか聞こえねーよ」
「何か言ったー?」
「言ってねーよ」
ぶっきら棒に言うと、神野は鞄を持って立ち上がる。
「でもさー、部活で毎日素振りやるだけでもタメになるよ」
「……だったらお前が入れよ。強いのが入りゃ、皆喜ぶぞ」
「本当はそうしたかったけど、ボク頭良くないから……」
烏の濡れ羽色をしたポニーテールが、力なく垂れていた。
「なあ、毎日素振りやってんのか?」
「ボク? んーん、時間が空いたら、かな」
「……どれくらい振れば、お前に追い付けるのかな」
神野は、もはや、独り言と変わらぬ声量で呟く。
「けん君は毎日素振りしてるの?」
だが、立花はしっかりと拾ってきた。答えなど、欲しくは無かったのに。
「してるよ、毎日。帰ったら、一時間ぐらいは竹刀を握ってる」
「ふーん、少ないね」
「やっぱりそうなのか……」
「ボクに追い付くって意味が分からないけど、今のけん君のままじゃ、立花にはなれないと思うよ」
あっけらかんと。立花は大した事でも無さそうに言った。
「じゃあ、どうしたら良い?」
気に入らないが、自分と立花の力量は明らかに差が開いている。開き過ぎて、ハッキリ見え過ぎている。彼女の助言に耳を傾かせるのは、弱者である自分の義務、といったところだろうか。
「んー、どうせ振るなら、腕が上がらなくなるまでかな」
「……そりゃ、当たり前じゃないのか?」
立花は首を振った。
「上がらなくなっても、また振るの。そうだね、隣で誰かに見てもらえば良いよ。休んだりしたら叩いてもらってさ」
「壊れちまうだろ、んなの」
「大丈夫。人間って丈夫だからさ。繰り返してたら直慣れるし、限界だ、って思うのも伸びるよ」
「……お前、まさか九州にいた頃は」
少しばかり、神野の肝が冷える。
「うん、毎日。生まれてからずっと」
「生まれてから……」
酷い家だと、勝手に思った。思ってから、だからこそこんな酷い奴になれるのだとも思う。
「それと、竹刀だけじゃダメだよ。楽になってきちゃったら尚更ね」
涼しい顔のまま、立花は提げていた竹刀袋――中身は真剣だが――を示した。
「ウチには真剣が無いからな……」
「そうなの? じゃあ買わなきゃ。あ、ボクのお下がりならあげるけど」
「……いや、自分で買うよ」
安いプライドだとは、自分でも気付いている。それでも神野はそう答えた。
「そっか、ん、それが良いかもね」
「ああ、悪いな」
「……?」
「それより、そろそろ補習じゃないのか?」
訝しげにする立花から目を反らし、話を反らした。
「あああ、本当だ。嫌だなあ……」
「ま、俺たち学生は剣だけじゃなくて、違うのも握らないとな」
「うん、そうだね。お寿司とか」
「……腹、減ってんの?」
立花は静かに頷く。
「……こんなんが俺より強いだなんて……」
「けん君、また何か言った?」
「終わるまで待っててやるから、帰りに何か奢ってやるって言ったんだよっ」
「本当に!? やったあ、良し、ボク頑張るよっ」
言うなり、立花は教室から早足で立ち去ろうとする。
「あ、おいっ」
「なに?」
振り返る立花を見て、神野は何故声を掛けたのか、悔やんだ。
「――――」
言葉を、失う。
烏の濡れ羽色の彼女は、廊下側の窓に屈折した西日に照らされて。良く、映えていた。
――眩しい。
それだけを思う。眩しくて、とてもじゃないが直視出来ない。すぐ傍に居るのに、どれだけ頑張って手を伸ばしても届かない存在。
「あ、いや……」
だからこそ、しっかりと刻んでおく。目的を、目標である彼女を見失わないように。
「補習、頑張れよ」
「うんっ、じゃあまたあとでね」
いつか、彼女に追い付ける日が来て。
いつか、彼女の隣に並べる時が来たら。
「……頑張るのは、俺だろ」
いつか、きっと、自分は。
神野は、離れていく立花の背中を、今はただ黙って見送る。
必ず追い付くと、そう、胸に刻んで。
午後六時。オンリーワン北駒台店、フロア。
「お兄ちゃん、シフト考えてるんだって?」
「無理矢理押し付けられたんだけどな」
一とジェーンはカウンターの近くに立ち、遅れている納品のトラックを待っていた。
「もう決まったノ?」
「まだ。皆の希望を聞いてるところ」
「……Hmm、じゃ、アタシはねえ」
「お前、一応社員じゃん。勝手にシフト決めて良いのかよ」
一の心配をよそに、ジェーンは嬉しそうにはにかむ。
「社員をなめないでよネ、お兄ちゃん。シフトぐらい自分の都合どーりにして見せるワ」
「あっそ。だったら聞いとくか。なあ、どこが良い?」
予定調和。社交辞令。
「モチロン、お兄ちゃんと一緒が良い」
「……しっかりしろ社員。誰、じゃなくて俺は何曜日の何時が良いかって聞いてんの」
「もう、アタシはお兄ちゃんとならどこでも良いの」
拗ねた風にジェーンが言うので、一は頭を抱えたくなった。
「……それじゃ、俺が入る日しか来ないって事じゃないか。ウチは新人ばっかなんだから、他の人のフォローはどうすんだよ」
「知らなーい。フリーダムにやっちゃえば良いヨ」
「自覚、あるか?」
どうしてこの店は、こんなにも上の人間が駄目なんだろう。
「お二人とも、お早ようございます」
「ああ、お早よう」
「……グッモーニン、ナナ」
そこに、ナナがやってきた。いつも通りのメイドの格好で。
「今日、シフトだったっけ?」
「はい。店長から、今日は一さんとゴーウェストさんに仕事を教わるようにと」
ナナはよろしくお願いしますと頭を下げた。実に丁寧な、機械的な動作であった。
「またあの人は勝手に……」
早くシフトを完成させなければと、一は強く思う。
「ちょっと待ってナナ、シフトに何か希望あるかな?」
「希望、ですか……」
「うん。他の人にも聞いてるんだけど、中々決まらなくてさ」
ナナは眼鏡の位置を直してから、迷った素振りすら見せず、
「そうですか。私も無いですね」
涼しげに、涼やかな声で言い切った。
「……えーと。困るんだけど。あの、本当に何も?」
「そう言われましても」
「あー、あんまり聞きたくは無いんだけど、その、時間に希望が無いんだったら、入りたくない人とかでも良いよ」
もう何でも良いから、シフトを埋めたい。
「では、折角なので。一さん」
「ん」
「とは入りたくないです」
「んん……」
聞くんじゃなかったと、一は今更後悔した。
「あの、理由聞いて良いですか?」
「前回の様な事があったら困りますから。非常に、非効率です。ところで一さん、何故敬語に?」
「……そういう気分なんです」
ナナは納得いかない様子だったが、そうですか、と一言だけ漏らす。
「まあ、ナナの希望はちゃんと反映させるよ。けど、もし都合が合わなかったら、俺と一緒でも我慢してくれよな」
「……善処します」
一たちに頭を下げ、ナナはバックルームに入っていった。
その後ろ姿が消えるのを見届けてから、一は溜め息を吐く。
「お兄ちゃん、ナナに嫌われちゃったネ」
「そうだね、はあ、もう嫌だ。何も分からないよ。お前が笑ってる理由も分からないけどな」
「ダッテ、お兄ちゃんにバッドバグズが付かなくて済んだんだもん」
「はいはい、悪い虫ね」
尤も、ナナは悪くないし、虫でもなければ人間でも無いのだが。
「シフト、決まりそうに無いや」
「あと、だれに聞いてないノ?」
「えーと、立花さんと神野君。高校生二人かな。あ、堀さんと店長にも聞くだけ聞こうかな」
「ホリはともかく、ボスにも?」
ジェーンは眉間に皺を寄せる。あまりにも、露骨に。
「分かってる。溺れるものは藁にもって奴だよ」
「だいじょーぶっ、見つからなかったらアタシとお兄ちゃんでシフト埋めちゃお」
「……ありがとう、助かるよ」
一は、この日一番長く深い溜め息を吐いた。
午後、八時。
「いただきます」「いただきます」
神野家のリビングに二人分の声が重なる。
「今日も母さん達は遅いのか」
食卓に並べられた、湯気の立ち上る和食のメニューに箸を迷わせながら、神野は何気なく口を開いた。
「兄さん、行儀が悪いですよ」
制服姿の姫が嗜めるので、神野はとりあえず味噌汁を一口啜る。
「制服、着替えないのか?」
「ええ、寝るまでは気を引き締めておかないと」
「家でぐらい気を抜けよ」
「誰かさんがお気楽な分、私がしっかりしないといけませんから」
神野は言葉を返さず、焼き魚の身を解す作業に取り掛かる。
「兄さん、明日はどうするんですか?」
「ん、明日?」
問われてから、しばし考え、明日が創立記念日だという事に思い当たった。
「ああ、部活の手伝いに行くんだよ。明日は顧問がいないって聞いたし。ま、雑用係みたいなもんだ」
「……学校、行くんですか?」
「何驚いてんだよ。俺が休みに学校行っちゃ悪いのか?」
姫は俯き、
「そんな事は……」
心なしか、悲しそうに呟く。
「ん? そういや、姫も明日学校行くんだっけ?」
「あ、はい。委員会の仕事が残っていて」
「そんなの休み明けにやりゃ良いのに。真面目だな、姫は」
神野は笑って、茶椀の中身を片付けた。
「おかわりっ」
「もう、兄さんの方が近いのに……」
姫はぼやきながらも神野から茶碗を受け取り、椅子から立ち上がる。
「俺は朝から行こうと思うんだけど、姫は?」
「私は……、私も、朝から行こうかな」
「じゃ、目覚ましはセットしなくて済むな」
神野は茶碗を受け取り、また笑った。
「どういう意味ですか?」
「冗談だよ。でも、ちゃんと起こしてくれよな」
「もう、そんな事言って。どうせ素直に起きてくれないでしょ」
かもな。そう言って、神野はテレビのリモコンに手を伸ばす。
「あ、兄さん駄目ですよ」
「固い事言うなよ。ちょっとぐらい良いじゃんか」
「ご飯を食べ終えてから自分の部屋で見て下さい」
「面白そうな番組があるんだって。な、良いだろ?」
カタン、と。やけに静かな音が響いた。
神野はその音に息を呑む。
妹の、箸を置いただけの挙動に気圧される。
「……ひ、ひめ?」
姫は目を瞑り、深く息を吸っていた。
「分かりました。どうぞ、兄さんのご勝手に」
まずい。神野は己の行いを悔いると同時に、姫の沸点の低さを恨む。
「その代わり、私も好きなようにやらせてもらいます」
「わ、分かった。分かったよ、俺が悪かった。ほら、リモコンから手離したぞ」
「これからは和食を作りませんし、起こしにも行きません」
「わああ、悪かったって! ごめんっ」
だから、敬語で怒るのは止めてくれ、恐いから。
とは、これっぽっちは残されているであろう兄の威厳を保つ為、喉元で押さえた。
「…………」
「に、睨むなよ……」
「睨んでません。もう、冗談ですよ」
未だ姫はジト目だったが、少しは機嫌を直した様子だった。
「食べる時はテレビ見ないからさ」
「へええ、ま、兄さんのお好きに。ところで兄さん? 私、今日初めてお味噌汁作ったんですけど、お味はどうですか」
迷う余地などない。
「お、美味しいよ。あ、でももう少し薄めの方が……」
「え? 何か言いました?」
「とても、美味しい、です」
最近、女性に振り回されている気がする。
笑顔のままこちらを見ている姫から目を逸らせずに、神野はそう思った。
「はあ……」
「何よ、溜め息ばっか吐いちゃって」
午後、十時。
「いや、シフトが全然決まらないんですよ」
自室の布団に寝転がりながら、一は真っ白な紙を睨んでいた。
「んなの適当で良いじゃん」
「適当にやったら、その分俺に跳ね返ってくるんですよ」
「ふーん。私がやったげようか?」
一は少しだけ考えてから寝返りを打つ。
「結構です。それよりモンスターでも狩ってて下さいよ」
「言われなくても狩ってるわよ。でも退屈ね。これさ、多人数でやるゲームらしいのよ」
「へー、でも残念ですね。俺持ってませんから」
「じゃ買いなさい」
嫌です。一はそう言って目を瞑った。
「何でよ。私と一緒にゲームすれば楽しいに決まってるのに」
「囮とかに使われそうなんで」
「当ったり前じゃない」
糸原が言い放った時、どこからか爆発音が聞こえてくる。
「あー、ミスった」
ゲーム内の効果音だと気付き、一はごろりと頭の位置を変えた。
「明日、朝からでしたっけ?」
「んー? そーよ、起こしてね。私徹夜でゲームやってるから」
「……嫌ですよ。自力でどうにかして下さい」
「じゃあ、にのまえはじめを殺すわ」
やけに冷たい声。
「勝手にどうぞ。ゲームのキャラが何遍死のうが痛くも痒くもくすぐったくもありませんから」
「よいしょっと」
「ん? ご飯ならさっきも食べたでしょ」
立ち上がった糸原を見て、一はあくび交じりに言う。
だが、その糸原がハンガーに掛けているスーツの内ポケットから取り出した物を見て、一の眠気が一瞬で覚めた。
「ちょ、ちょっと? そんな物持ち出してどうする気ですか?」
「はあ? 今さっきあんたを殺すって言ったじゃない」
糸原はオープンフィンガーグローブを嵌め、レージングの感触を確かめている。
「……冗談でしょ?」
「ある所に嘘吐きの羊飼いがいました。『狼が出たぞ』とほらを吹き、慌てふためく村人を見るのが趣味の根暗な羊飼いが」
「なんですか、その話」
「でも、ある日本当に狼が現れて、飼っていた羊は次々に食われていきました。羊飼いは叫びます。『狼が出たぞ!』 と。ですが、村人はまた嘘だと思い信じてくれません」
今更ながら、一は身の危険を感じた。
「そして最後には、羊飼いは狼に食べられてしまうのです。ああ、可哀想。さて、一。今から私に何かされちゃう訳だけど、言い残す事はあるかしら?」
「あの、今の話は?」
「特に意味は無いわ。ほら、立って。寝てるとやり辛いのよ」
「何がだよっ」
一は夜中だという事も忘れて叫ぶ。
「ほらほら、殺されるのが嫌なら、明日間に合うように私を起こすと誓いなさい」
「……素直に言えば良いのに。はいはい、分かりました。分かりましたよ、起こします」
「最初っからそう言えば良いのよ。ったく、余計な手間取っちゃったじゃない」
糸原はスーツの内ポケットにレージングを突っ込み、グローブを外して投げ捨てた。
「すいませんでしたね。じゃ、俺は寝ます。あ、電気消しても良いですか?」
「駄目よ。私ゲームするんだから、目が悪くなっちゃうじゃない」
「目も悪くなっちゃまずいですね。それじゃおやすみなさい」
一は抗議の言葉を聞き流し、目を瞑る。
午後、十一時。
北駒台高校に一つの影。
「……これで、最後」
その影は校庭の隅、目立たない場所に何かを、木の枝で書き込んでいる。意味の無い記号の様でもあったし、意味のある呪文の様にも見えた。
影は人の目が無い事を確認してから立ち上がり、学校の裏口に当たる場所へ向かう。途中、警備員の所持する懐中電灯の明かりに怯えながらも、影は学校から抜け出した。
「………………」
家路へと向かう途中、何度も足を止め、何度も振り返る。
これで良かったのだろうか。
何度も、そう思った。
同時に、こうするしかないのだとも。
「ごめん……」
誰に向けての謝罪の言葉なのか。
後悔と不安と焦燥と、そして少しばかりの期待を胸に秘め、彼女は歩き出した。