Empty admonition
私はただ、子供が好きだっただけだ。
「待ってるだけってのも退屈よね」
一とナナが出て行ったバックルームで、糸原は椅子にだらしなく全身を預けながら呟いた。
「だったらてめェが行けってンだ」
「耳聡いわね、あんた。何よ? そんなに私に構ってもらいたいの?」
「あー、そうだな。とりあえず店から出ろよ。ミーティングが終わったってのに、何でまだいやがる」
バックルームには今、三森と糸原、それに店長しかいない。ミーティングは店長の判断で終了、という事になった。ジェーンは堀の手伝いに、神野と立花はミーティングが終わってすぐに帰宅。
「一々うるさいわね、私の勝手でしょ」
「……はっ、そりゃ悪かったな」
店長は二人の会話に、もう口を挟まない。只管にパソコンを操作し、彼女らを認識せず、意識からシャットアウトしているかのように無反応だった。
「ねえ、今までにもこういう事ってあったの?」
「どういう事だよ?」
「だーかーらー、悪戯よ、悪戯。ホントに大丈夫なんでしょうね?」
三森は、ほんの少しだけ愉しげに口元を歪める。
「あァん? 何だよ、お前、あいつの事が心配なのか?」
糸原は、愉しげな三森に気付いているのか、いないのか、
「そうよ」
そう、一言だけ放った。
「……お、あ、そ、そうか」
そして三森は黙る。何か、見てはいけない物を見たような風に顔を逸らして。
「何? 私が人の心配しちゃいけないっての?」
「ンな事言ってねェだろ。ただ、なんつーか、お前が素直に答えるのが気持ち悪いってだけだ」
「あら、そう」
髪を手で梳き、流れるように糸原は立ち上がった。実に優雅で、実に嘘くさい。
「あン? 帰ンのか?」
「暇だから、本持ってくるのよ。……どうも、長くなりそうな気がするし」
「……何が長いって?」
尋ねる三森に、糸原は振り返って微笑んだ。
「一の帰り」
「はっ、言ってろや」
糸原に笑い返し、三森は三つ並べた椅子の上に寝転ぶ。
「あら、あんたは帰らないの?」
「うるせー」
別に良いけどね。そう呟いた糸原とは、三森は目が合わせられなかった。
やけに鮮やかだと、一は目の前に広がる血を見て、そう思った。
「どうやら、隠れ切れなかったようですね」
黙り込む一の頭上から、涼しげな声。
「……この人が……」
メタリックブルーの携帯電話を握り締めたまま動かない女性。もう、動かない彼女から視線を離せず、一は呆然と呟く。
「ええ、連絡をした方でしょうね」
ナナは塀を難なく飛び越え、女性の傍らに着地した。
「悪戯じゃ無かったんだな……」
「そのようです」
言いつつ、ナナは女性の服を捲り上げる。
一瞬、ナナが何をしているのか一には分からなかったが、
「おいっ、何やってんだっ」
すぐに、思い出したように声を荒げた。
だがナナは、どうして一が焦っているのか分からない様子で、その手を止めない。
「やめろって」
一がナナの肩を掴み、ようやく彼女は腰を上げた。
「……一さん、止めろとはどういう事でしょうか?」
「なっ、お前本気で分かってないのか?」
「私は彼女の損傷部位を確認したいだけです。今のところ、マナナンガルの可能性が高いですが、傷口によっては、もしかしたら別のソレの仕業かもしれないんですよ」
「だからってそんな……、死体を辱めるような事っ」
「いけない事、でしょうか?」
ナナの発言に、一はしばらくの間、二の句が告げなかった。
「本気で、言ってるのかよ」
「これはもう死んでいます。ならば、生きている人間を救う為、未だ生きているソレを殺す為に使うのは至極全う且つ、効率的だと思うのですが」
当然だと、ナナはそう言い切る。その通りかも知れない。だが、一には受け入れがたい事だった。
「……お前の言ってる事は分かるよ。でも、ダメだ。良くないよ」
「それは人道的観念から来る発言でしょうか?」
「え?」
「なら、一さんはソレとの戦闘において自身が死ぬ事よりも、モラルを優先するのですか?」
「……誰もそんな事言ってないだろ」
一の煮え切らない態度を見て、ナナは首を振る。
「いいえ、そういう事になります。どうやら、一さんは自身よりも他者を優先する傾向にあるようですね。そして場合によれば、人間よりもソレを優先してしまうカテゴリの方のようです」
「勝手に、分析しないでくれ」
「失礼致しました。ですが、私と共にやってきた以上、私は一さんを死なせる訳には参りません。他の何よりも、誰よりも優先させて守らなければならないのです」
深く頭を下げ、ナナは一を宥めるように優しげに言った。
「……それは、俺が生きてる人間だからか?」
「勿論です。ですから一さん、敵を確認する為にも、作業に戻らせていただけませんか?」
「…………勝手にしてくれ」
一は半ば諦め、塀に足を掛ける。とてもじゃないが、ジッと見ていられる気分じゃなかった。
「一さん、どちらへ?」
「向こうに行ってる。安心してくれ、勝手に出歩いたりしないよ」
「かしこまりました。すぐに終えますので、しばしお待ちを」
返事はせずに、一は塀の向こう側に降り立つ。コンクリートのブロック塀に背を預け、夜空を見上げた。途端、どうしようもなくやるせない気持ちに襲われる。
結局、助けられなかった。自分はなんて無力なんだろうと、持っていたアイギスをぞんざいな扱いで地面へ落とす。何の役にも立たない。どうしようもない。自身に腹が立つと同時に、やり場のない憤りも感じた。先刻のナナの言動、オンリーワンのつまらない体制、規則。目に映るモノ全てが、耳に入るモノ全てが一を苛立たせる。それでいて、決して口にも、態度にも表そうとしない自分がもっと嫌いになれる。
「くそっ……」
足元に転がっていた小石を蹴飛ばそうとして、空振った。
「くそっ」
情けない。八つ当りすら満足に出来ない自分が嫌で嫌で堪らない。目を瞑り、意識を無理矢理にニュートラルに戻そうとするも、どうしても焼き付いて離れない。
あの、メタリックブルーが離れない。
ソレに殺された彼女は、最期に、どこに、誰に電話を掛けようとしていたのか。家族だろうか、友人だろうか、恋人だろうか。一には分からない。もう誰にも分からないのだ。
「……ちくしょう……」
今までの犠牲者とは違う。一の知らないところ、知らない間に死んだわけではない。彼女はついさっきまで、自分たちに助けを求めていた。届いていた。届くはずだったのに。
気を抜くと、泣いてしまいそうだった。だから一は体が震えるのを堪え、歯を食い縛る。
「一さん、終わりました」
ナナの声が少しだけ有り難かった。
「……どうだった?」
「腹部に小さな傷口がありました。鋭いモノで穿ったような……、マナナンガルの手口に酷似しています。間違いないかと」
「そう、か」
こうして話していれば意識が散らされ、気が紛れる。
「……ん。でも、本当にマナナンガルなのか?」
「どういう意味でしょうか? 一さんは私の検証を信用できないと?」
「いや、信用はしてるよ。だけどさ、マナナンガルってのは妊婦を、胎児を狙うって言ってなかった?」
塀越しなのでナナの表情が窺い知れない。一は無難にフォローも付け足す。
「ですから、ほぼ間違いないと」
「いや、だからさ……」
「マナナンガルは胎児を狙います。ですから、私の言っている事に間違いはありません」
どうにも納得しづらい。一はもっとストレートな疑問を口にするべく唾を飲んだ。
「この人、妊娠していたようです」
もっと真っすぐな、もっと早い直球に返されて一は黙る。
「残りがありましたから、間違いありません」
「妊娠って……」
そんな、酷い話があるのかと、一は頭を抱え、すぐに上げた。
「……ナナ、今なんて言った?」
「残りがありましたから、間違いありません」
「残りって、何の……?」
何が、どこに残っていたというのか。一の背筋がぞくりと粟立つ。
「ご覧になりますか?」
塀越しから、涼やかな声。一は誘われるように、塀へ足を掛けた。上り切る前に、血のニオイが鼻を突く。
予想はしていた。予感もしていた。
「う……あ……」
塀を乗り越えた一の視界に、赤が飛び込んでくる。
ナナのメイド服が塗れていた。濡れていた。
「お、前……!」
唾棄すべき、破棄すべき出来事。一は眩暈を覚え、何事もなくその場に立っているナナを睨みつける。
「お前っ! 何やってんだ!」
割かれて、開かれた肉。鮮やかな赤。死んだ目撃者。哀れな彼女。死んでしまった後ですら、無残にも彼女の肉は。
「? ですから、作業をしておりました」
「何のだよっ!」
叫び、一は地面に降り立つ。人家の庭だという事も忘れ、声を只管に荒げた。
「何で! 何でこんな事が出来るんだよ!?」
腹部を露出させた彼女を指差し、一は心の底から湧き上がるモノを口にする。
「勝手にしろと言ったのは一さんの筈ですが? ですから私は作業をしていたのですよ」
ナナは淡々と言い放った。それが無性に、腹が立つ。
「……っ! 死んだ人間の腹を掻っ捌いてかよ!?」
「そのお陰で、マナナンガルの仕業だと断言できるのです」
「ふざけんな! お前は人間を何だと思ってやがる!」
「これはもう、人間ではありません」
女性の、開きっぱなしの腹の中から痩せ細った肉塊を無造作に掴み上げ、ナナは一を見据えた。
その瞬間、一はアイギスを放り出し、ナナの顔面を殴りつける。ナナは身動ぎ一つせずに、一の拳をそのままにした。
「何のつもりでしょうか?」
「人間だ!」
拳が、痛い。
「……一さん?」
「その人も! お前が掴んでるその子も! 人間なんだよ!」
「いいえ、これはもう人間ではありません。死んでしまったのです。唯の、肉の塊です」
「違う!」
一は拳を下げ、力任せに首を振る。
「違いません」
「違う! 違う! こっ、こんなの間違ってる!」
「では、私はどうすれば良かったのですか?」
ナナは少しだけずれていた眼鏡の位置を指で押さえながら、やはり無機質な声で問いかけた。
「うるせえっ、お前は正しいよ! 正しいかもしれない! でもっ、人間をこんな風にするなんて、これじゃあまるでソレじゃねぇかよ!」
「ですが、それでも私は……」
「…………」
うな垂れるナナを見て、ようやく一の頭が冷めてくる。出来る事なら、一生茹ったままの方が良かった。自分の情けなさを再確認する羽目になるのなら。
「……ごめん、そんなつもりじゃ、無かったんだよな」
まるで子供だ。嫌な事からは逃げ出し、目を逸らし、怒鳴り散らして殴りつける。
「人間を、助ける為なんだよな」
分かっていた。ナナは人間ではない。人形なのだ。それでいて、人間を守ろうと、そう言ってくれていたのに。
「分かって貰えたのなら、嬉しいです」
「うん。でも、こういう事は前もって言っといて欲しかったかな。慣れてないし」
「申し訳ありません、私もまだ人間の機微には疎いようです」
何だか、どこかで聞いたような台詞だったので、一はこの状況下で笑ってしまう。
「どうしました?」
「いや、なんでもない。それよりごめんな、その、殴っちゃって……」
一は拳を後ろ手に隠し、もう片方の手で頭を掻いた。
「気にしないで下さい。私に痛覚はありませんし、それに、幾ら人間に近いとは言え、自動人形ですから」
「でも、女の子だ。だから、ごめん。……どうしよう、一発殴るか?」
「一さんの発言の意図するところは分かりませんが、私は何も気にしていません」
「でもなあ……」
姿、顔だけでは、ナナはどう見ても普通の女性。一の心には罪悪感が圧し掛かる。
「では、私が一さんを殴れば、一さんの気が済むのですね?」
「ん、ん。まあ、そういう事になるんだけど」
「そういう事でしたら」
ナナはエプロンドレスのポケットからハンカチを取り出し、丹念に手を拭いた。
「ところで一さん、私はどれ位の力で殴れば良いのでしょう」
「……はい?」
「力を入れ過ぎると、顔ごと吹き飛ばしてしまうかもしれません。顔が飛んでも、一さんは生きていられますか?」
ナナが余りにも真面目な顔で尋ねるので、一は笑えない。
「言っとくけど、指一本、爪の先、体のどこが飛んでも俺は死ぬぞ。あと、お前には手加減って選択肢が無いのかな?」
「常に全力。これがオンリーワン近畿支部技術部の、私のポリシーですので」
「成る程。良し、今度ご飯でもおごってあげよう。いや、おごらせて下さい。だから許して、お願いします」
深く。一は深く頭を下げた。
「ですから私は気にしていないと申し上げましたのに。それと、食事のお誘いは丁重にお断りさせていただきます。私に食機能は搭載されていませんから」
「じゃあ、エネルギーは何なの? もしかしてネジでも巻けって言うのか?」
「失礼な。私を何だと思っているのですか」
「あ、ごめんごめん。……じゃあさ、何で動いてるの?」
「一さん、飛行機はどうして飛ぶのかお分かりですか?」
「……さあ? 揚力とか、気圧とか、どうのこうのじゃないの?」
そう言えば、シルフも同じことを言っていた気がする。
「いいえ、お客様の愛によって支えられているからなのです」
「何だよそれ」
思わず笑ってしまった。まさか彼女の口から冗談じみた戯言が聞けるとは思ってもいなかったから。
「では一さん、私がどうして動いていられるかお分かりですか?」
「お客様の愛に支えられてるんだろ?」
「その通りです」
上手く誤魔化されてしまった。一は息を吐き、ナナに背を向ける。
「行こう。マナナンガルってのを見つけなきゃな」
「かしこまりました」
「……あのさ、その人たち、置いていくのか?」
「ご安心を。タルタロスや情報部の方達がすぐに対処してくれるでしょう。そう、私は聞いています」
一はそんな事初耳だったが、ナナを信じる事にした。冗談を言う事はあっても、ソレに関して彼女は決して嘘は吐かないだろうと、そう思う。
「ひでえ話だ……」
「一さん、何か?」
「何もっ」
塀を飛び越え、一は着地地点で足を挫いた。
当座の一たちの目的は、マナナンガルの下半身を捜すという事に決定した。言い伝えでは、日の出までに彼女の上半身と下半身が分かれたままだと、日光に当たり滅ぼされる、らしい。
「さっきのゴミ置き場、あそこにあったのがそうかもしれない」
「可能性は高いでしょうね。こんな事なら、あの下半身を持ってくるべきでした」
「……そんな奴の隣歩くの嫌だよ」
「仕方ありません。先程の場所で、マナナンガルが戻ってくるまで待ちましょう」
そう言ってナナは歩きだす。
「って、本当に来るのかな?」
一もナナを追い掛け、隣に並んだ。並んでから、彼女の血に塗れた服を見て、少しだけ下がる。
「ソレだって自分の弱点は把握しているでしょう。日の出までに必ず戻る筈です」
「……でもさ、ただ、待ってるだけで良いのかな?」
あの、死体。一はアレを思い出し、またソレが新たな獲物を狙っているのではないかと、新たな犠牲者が出るのではないかと危惧した。
「そうですね、こちらからソレを捜すのも良いのですが、相手は飛行型です。地上から、しかも二人で捜索するのは非効率的かと」
「でも、また誰かが殺されたら……」
「……本当に甘い方ですね、一さんは。しかも、自分には厳しくしたがらないタイプです」
ナナは眼鏡を一旦外し、取り出したハンカチでレンズを拭う。
「だから、そんなつもり無いって」
「待つだけ、と言うのがお嫌いでしたら、ソレを誘き出す手もあります」
「…………どうやってさ?」
「囮を使います。マナナンガルは妊婦を狙う傾向にありますから、近辺で囮に使う妊婦を捜してみる、と言うのは如何でしょう?」
間を空けず、
「ダメだ」
一は半ば、ナナの発言に割り込む形で声を発した。
「でしょうね。今までの一さんを見ていたら、そう返すのだろうと予測はしていました」
「だったら言うな」
「言わせたのはあなたです。待つのは嫌いなのでしょう? ですから私は別の打開策を提案したのです」
「俺が悪いみたいに……、ああ、いや、俺が悪いのか……」
「異論が無いのでしたら、夜明けまであそこで待ちましょう」
もう、すぐそこまで見えてきた目的地を指差し、ナナは真っすぐに歩き続けた。
「夜明けまで、随分掛かりそうだな」
「では仮眠でも取りますか?」
「……どこでだよ?」
「私の膝をお貸しします。安心してください。ちゃんと柔らかいですから」
何がちゃんとなのか分からないが、一にとって魅力的な提案なのは確かだった。血に汚れたとはいえ、ナナはメイド。メイドなのだ。メイドに膝枕。ああ、なんて甘美な響きなんだろう。
一は天を仰ぐ。
「えっと、マジで?」
「ええ、私は睡眠を特に必要としませんし」
そしてナナを見た。主に下半身あたりを。凄く、とても良い感じに眠れそうだった。
「じゃあ、ソレが出てくるまでお願いしよう、かな」
「かしこまりました。では一さん、どうぞこちらに」
ナナはにこりと微笑み、道路の端に腰を落ち着かせる。誰かがこの道を通る可能性など、今の一には考えられなかった。
「……そ、それじゃあ」
「ええ、どうぞご遠慮なく、ごゆるりと。眠っても問題ありませんよ。しっかりと叩き起こしますから」
一の歩みがピタリと止まる。
「……叩き?」
「はい。叩き起こします。ソレを目前にして寝惚けたままでは一さんが危ないですから」
「確か、君たちのポリシーって……」
「はい、常に全力。後悔しないように力を残さず、惜しむな。そう言われてきました」
ナナは、やはり笑顔を崩さずに言った。
「あの、やっぱり良いです」
自分の顔面がコンクリートに埋まるのを想像し、一気に一の気持ちは萎える。一時の快楽より、やはり命の方が大事だ。
「そうですか? 遠慮なさらずとも良いのに……」
「ごめん、俺まだやりたい事あるからさ」
悲しい顔で死刑宣告されるのは、意外と堪えるものだと一は学んだ。
夜明けまで粘る必要は無かった。
一たちが件のゴミ置場近くの人家、そこの庭で待っていたところ、十分も経たずにソレが現れたのだ。
その姿、正しくコウモリ。但し、元よりも大分離れ、崩れている。人間の上半身に翼を生やし、顔付きは人間とコウモリをムチャクチャに混ぜたような、醜悪なモノ。
「すげえタイミング……」
翼をはためかせて舞い降りたソレを見て、一は何とも言えない気持ちになる。
「今日の狩りは終了というところでしょうね。この辺りは、少ないとはいえ人も通りますし、目立った行動はとれないのでしょう」
「どうする? 正面から突っ込むのか?」
とりあえず、一は堀直伝の策を提案してみる。
「無策無謀も良いところですね。却下させていただきます」
「……なら、打開策を述べよ」
「打開策を持ち出す程追い詰められてはいませんが、そうですね、とりあえず待ちましょう」
ナナは酷く落ち着いていた。ならば自分だけ慌てふためくのも損だろう、と、一は考える。
「安心してください。見ていれば分かります」
塀から身を乗り出すと、マナナンガルは今まさに、元に戻ろうとしているところだった。
分かれていた上半身と下半身。解れた肉。千切れた皮。滴る血。マナナンガルはそのどれもを意に介さない様子で、自らの、二つの身体の断面図を重ね合わせていく。解れたモノ同士が絡み合い、繋がり合い、溶け合っていく。
「……うわ……」
一はその光景に耐え切れず目を逸らした。肉の混ざる過程が目に焼き付き、プチプチ、と、何かが蠢き、泡立つ音が耳から離れない。強烈な嫌悪感と嘔吐感が胸に残って、必死で堪える。気を抜けば確実に戻してしまう。
「一さん、ご気分が優れないのですか?」
「……あんなの見たら優れる訳無いよ。くそう、変な物見ちゃった」
「そうでしたか。ですがご安心を。もう元に戻りましたから」
半信半疑で、一はもう一度塀から顔を覗かせた。
「って……マジかよ」
先程まで見えていた醜い姿が幻だったのかと思える程、余りにも当たり前に、忽然と、超然と。美しい女性がそこにいた。コウモリの面影はどこにもなく、長い茶髪を揺らして、女性は颯爽と歩き出す。
「……人間、じゃないか」
「半分は、ですが」
ナナは呟き、塀に足を掛けた。
「ちょっ、何するつもりだよ?」
「仕留めます。マナナンガルは人間時に大した力を持ちません。今が絶対の好機かと」
「じゃなくて、アレはどう見たって人間じゃないか。それを……」
一は狼狽していた。そう、どう見たってアレは人間にしか見えない。ナナは、彼女はその人を――。
「――殺します。完全に、完璧に、完膚なきまでに殺し切ります」
「でっ、でも……」
「姿は人間でも、半分はソレなのです。命令を受けた以上、見逃す訳には参りません。それに、お忘れですか? アレは、人を既に殺しているのですよ。それとも一さんは、この先新たな犠牲者が出ても構わない、と?」
ナナは涼やかな声で、流れるように捲くし立てる。そんなの、言われなくても分かっているのに。
「そんなつもりは……」
全く無かった。とは言い切れない。ソレが人間に戻った時、一の気持ちは揺らいでしまったのだ。本当に、殺しても良いのか、と。一瞬でも一時でも、確かに、揺らいでしまったのは事実だった。
「では行って参ります。一さんはどうぞここでお待ちを。私一人でも充分過ぎますから」
お前が居ると邪魔だ。そう言われている気がして、一は俯く。
「……ごめん、一つだけ聞いて良いかな?」
だが、これだけは聞いておきたかった。
「……手短にお願いします」
ナナは迷惑そうな表情を取り繕うかのように、柔和な微笑を見せる。
一は一拍置いてから、切り出した。
「もし、俺や、北駒台の誰かに少しでも、少しでもソレの血が流れていたら、ナナはどうすると思う? どうしたい?」
一の質問に、ナナは少しだけ考える素振りを見せ、
「……この状況下でのその質問、一さんの意図は全く以って計り知れませんがお答えしましょう。もし、皆さんの中にソレが混じっていても、命令が無ければ私はどうもしません。ですが、殺せと言われれば殺します。完全に、完璧に、完膚なきまでに」
完璧な笑顔で、そう言った。
「……そっか。ありがとう、安心したよ」
「私の答えに満足して頂けたのなら光栄です。では」
ナナは塀を飛び越え、ソレに向かって走り出す。
「……まあ、そりゃそうだよな」
一は、長く伸びた自分の爪をぼんやりと眺め、自身の立ち位置を再確認した。
――ソレの血が混じった半端モノ。
完全に人間でも無ければ、完全にソレでも無いのだ。
ナナが言ったように、いつ何が起こって殺されても、殺しても仕方がない。仕方がない。そう、決めたのだから。妹の為に、自分の為に堕ちたのだから。
「……はっ」
思わず自嘲する。ここまで来て、一体何を期待していたのか。誰に期待していたのか。コンクリートの冷たいブロック塀に頭を預け、一は笑う。
間もなくして、一の耳が酷く長い女性の断末魔をとらえた。
それを聞いて、一はまた笑う。それはどうしようもなく乾いた笑いで、どうしようもないからこそ、乾いていたのかもしれなかった。