歌え、犬ども
三日後。
一は三日ぶりにオンリーワンへと足を運んだ。シフトの確認と、店長にお小言を頂きに行く為だった。
この三日の為に、一はシフトの変更を願い出た。突然の事だったので、店長は許してくれなかった。殆ど、サボリであった。
「おこられるカナ?」
「……だろうな」
ジェーンと、二人で。
殆ど、丸まる三日間。一とジェーンは二人で過ごした。二人だけで過ごした。あの夜が終わった時、二人でそう決めた。
一は今回の事件での協力者でもあり、加害者でもあるコヨーテを探したが、彼の姿はどこにも見えなかった。まるで、始めからこの世界にいなかったみたいに。
仕方無しに、公園を立ち去った一たちは一旦着替えを取りに戻り、ジェーンの部屋――勤務外店員だらけのあのマンション――でゆっくりと過ごした。
それから、二人は昼過ぎに目覚めて、店に連絡を入れ、寝食忘れて只管に話し続けた。悲しい話。嬉しい話。腹立たしい話。楽しい話。無駄話。下らない事をして、下らない事で笑った。もっと早くこうしていれば良かったと、二人は思った。
店に向かう道すがら、一は物陰に隠れている、見覚えのある後姿を発見した。
「……ジェーン、先に行っといてくれないかな?」
「何でヨ?」
むすっとした顔でジェーンに睨まれ、一はたじろぐ。
「い、いや、二人揃って行ったら糸原さんたちに弄られるじゃん」
「……アタシは別にかまわないんだけどナー?」
「俺は構うの」
「お兄ちゃん、アタシのコト離さないって言ったのに。あの分厚い夜を忘れちゃったノ?」
「まあ、本にしたら辞典になりそうなぐらい喋ってたけどな」
それを言うなら熱い夜だ。しかも熱くなかったし。喉まで出掛かった言葉をグッと飲み込み、一は頭を掻いた。
「ほら、色々突っ込まれたら面倒だろ?」
「むう? バット、お兄ちゃんのコト自慢したいんだけど」
「……アレだよ、アレ。俺はさ、こないだの事、二人だけの秘密にしておきたいんだよ」
「……二人、だけの?」
一は曖昧に頷く。
「そっ、か。そっか。ふふっ、じゃあ仕方ないネ。ふふー、いーヨ、二人だけのシークレット、ね?」
すごく、罪悪感で満たされる。
「じゃあ、悪いけど先に行っといてくれるか? ついでに、俺の分まで謝っといてくれると嬉しいんだけど」
「バカ。そーゆーのはレディにやらせちゃダメなんだから」
「あー、ごめん」
「別に、いーけどネ。それじゃ、またあとでネっ」
手を振って駆け出すジェーンを眺めながら、一は溜め息を吐いた。吐いた後、どう声を掛けるか迷った挙句、
「……久しぶり、だな」
ありきたりな言葉をぶつけてみる。
沈黙が流れた後、罰が悪そうな表情を浮かべた彼が出てくるのは、すぐの事であった。
オンリーワン北駒台店、バックルーム。
「……シフトの変更だと……?」
「は、はい」
神野剣は怯えていた。
「ほーう。ここは良い度胸だな、と言っておくべきか……」
この三日、店長の機嫌が大いに悪い事に。理由はもう一つしかない。一と、ジェーンだ。二人がこの三日、無断欠勤に近い形で店に姿を現さない事に、店長は大変ご立腹なのだ。無理なシフト交代に頭を悩ませながら、腹を立たせながら。
「何とか、ならないでしょうか……?」
更にもう一つ。追い討ちを掛ける様に神野と立花のシフト交代願い。
火に油を注ぐような、火に油を注いでいる感覚に苛まれながら、神野はちらりと店長の顔を窺う。
「……午前から、午後に変更、だったな?」
「……はい。あの、ウチの学校が創立記念日で、俺、剣道部の手伝いに行かなきゃならないんです」
「手伝い、か。……まあ、良いだろう。奴らも帰ってくるらしいし、一たちと交代で何とかなりそうだな」
「あっ、ありがとうございます!」
勢いよく、神野は頭を下げた。
「待て、神野。立花はどうした? 立花の理由を聞いてないぞ」
「……あー、その」
「第一だな、何故あいつは私に直接言いに来ないんだ。人伝でのシフト交代はするなとあれ程言っただろう」
非常に、言い難い。が、言わなければならない。神野は静かに、覚悟を決める。
「あいつ、補習食らってるんですよ」
「……補習?」
「ええ。創立記念日に、テストの点が良くなかった奴ら集めて、補習、です」
店長は深く溜め息を吐いた。
「頭も悪いのか……」
何か反論してやろうかと思ったが、出来なかった。
「まあ、転校してきたばかりですし、慣れてない……の、かな」
「はあ、事情は分かった。だが、今度は自分で言いに来るように立花には伝えておけ」
「そう言っておきます」
話は終わった。あまり長居したくなかったし、何より店長と一対一で話すのはまだ苦手だった。
「すいません、よろしくお願いします。それじゃ」
「――ああ、そうだ。神野、明日、暇か?」
「……は、はあ、学校が終われば、暇、ですけど」
質問の意図が分からない。が、嘘を吐くのは嫌いだったので、神野は正直に答える。
「そうか、なら立花も暇だろう。都合が良い。明日、ミーティングを行うから店に来い」
「ミーティング、ですか?」
「そうだ。新人が来るんでな、自己紹介も兼ねて、今後について適当に話し合おうと思う」
「……適当、に。ですか?」
「そうだ。適当にな」
ぷかあ、と。紫煙を吐き出し、なんでもないように店長が述べた。
「分かりました。それじゃ……お先に失礼します」
「おう、気をつけてな」
神野がバックルームを出ると、見たくないものを見てしまう。見て、しまった。三森と糸原がレジで喧嘩している。どうしようかと、頭を捻った。無視して帰るのも一つの手だが、下っ端の身分で失礼な真似も出来ない。何より、挨拶は大事だと思い直す。
どこまでも真っ直ぐで、可哀想なぐらい真っ直ぐだった。
「ヤに決まってンだろうが、ボケ」
「ボケとは酷い言い草じゃない。ノータリンの分際で私に意見すんじゃ無いわよ」
「……喧嘩売ってンだよな? そうだよな?」
「あー、はいはい。売ってる売ってる。大安売りの超お買い得。今ならキャッシュバックもサービスで付いてくるから、良いから言えって言ってんのよ」
「ざけんなよっ! 何でンな事しなきゃなんねェンだ!」
「うっさいわね、良いから一が来たらやれって言ってんのよ!」
早速気が殺がれる。口汚く罵りあう二人の先輩。恐ろしい光景だった。
「あ、あの……」
恐る恐る、腰が引けながらも声を掛けてみる。
「ん」「お」
二人の顔、四つの瞳がこっちに振り向いた。
「……丁度良いわ。ねえ神野、ちょっと話聞いてよ。って言うか、聞きなさい」
神野の姿を認めた糸原が、やけに居丈高に物を言う。
「は、はあ、話?」
「そう。こいつったら私の提案を呑めないって言うのよ」
「誰が呑むかよっ! おい、お前からも何とか言ってやれ」
「と、とりあえず話を聞かせてください……」
今度は三森に睨まれた。しまった。これでは巻き込まれてしまう。そう思っても、もう遅い。
「よし、説明してあげるわ。あんたさ、メイド喫茶って知ってるわよね」
「……一応は」
「最近テレビ見て知ったんだけど、アレめちゃめちゃ流行ってんじゃない。だから流行に乗っかろうとした訳よ」
今更!? 古っ! とは突っ込めない。良くもまあこの人たちに立ち向かえる物だと、神野は一を尊敬し直した。
「もう流行ってねェよ。とっくに下火だっての。何が良いってンだ、あんなの」
「金払ってメイドさんと遊べるんでしょ? お触り禁止の。健全な風俗、良いじゃない。廃れはしても決して消える事はないと思うんだけど」
「……あの、メイド喫茶と、その、二人が喧嘩してた理由ってのは何なんですか?」
神野の言葉に、糸原が「それよっ」と嬉しそうに反応する。
「お帰りなさいませ、ご主人様。これ、何の挨拶だか分かるわよね」
分かるわよね。男なら。そう問われているようで、試されているようで神野は答えるのに少しばかり躊躇う。
「ええと、メイドさんの挨拶、ですよね?」
「そうっ、どうよ!? 超可愛いじゃん! ヤバくない!? ご主人様よ、最高じゃない。こんなん言われたらもう発狂モンよ、発狂モン」
「……お前、薬使ってるだろ」
「という訳で、この挨拶をウチでも取り扱ってみたいと思ったわけよ」
口に茶でも含んでいれば噴出していただろう答えに神野の心が折れそうになった。
「でもさ、新しい商品を取り扱うのには情報が必要なのよね。マーケティングよマーケティング。いきなり私が言って、失敗したら目も当てられないし、何より恥ずかしいじゃない? だからこいつに言わせようとしてるんだけどさー」
「言うわけねェだろ! お前一人でやってろよ!」
「なのにこいつったら、頑なに拒むのよ」
「……はあ」
とりあえず相槌。
「で?」
「……はい?」
「神野、あんたはどっちに味方するわけ?」
「はい!?」
何故いきなりそんな話に繋がるのか、全く理解出来ない。
「私はこいつに言わせたい。こいつは言いたくない。これじゃあいつまで経っても話は平行線なのよ」
「一生交わるはずねェだろが。大体だな、私はお前が隣に居るってだけでムカつくンだよ」
「という訳で、第三者に決めてもらおうと今決めたのよ。ほら、さっさと選びなさい。私を敵に回すか、こいつを敵に回すか」
どっちの味方に付くかではなかったのか。神野は頭を抱えた。仮に、仮にどちらかを選んだとする。
糸原を選んだ場合→三森に燃やされる。
三森を選んだ場合→糸原に殺される(恐らく自身が思っているよりも残酷な手段で)。
「うあああ……」
どっちを選んでも破滅だった。死ぬしかなかった。
「ほら、さっさと決めなさいよ!」
「お前、私にまで喧嘩売るつもりじゃねェだろな?」
「に、にのまえさーん!」
助けて!
「……三日ぶり、だったかい?」
「そうなるな。元気だったか?」
駒台の街の目立たない路地裏に、一と、コヨーテはいた。
「まあね。相変わらずここの保健所連中はしつこいけど」
「元気そうで何よりだ」
ひとまず、一はコヨーテが変わっていなくて、この街から帰っていなくて安心する。
「飯とか、どうしてたんだ?」
「……ああ、心配ないさ」
そう言いつつ、コヨーテの顔色は若干悪そうだった。
「ふーん。飼い主でも見つかったのか?」
「…………まあ、そんなところだよ」
「何か、気のせいか元気無いんじゃないか?」
「………………気のせいさ」
これ以上はこの話題に触れないでおこう。一はコヨーテを気遣ってみる。
「こないだは、ありがとな」
「ミーは何もしていないさ。それを言うなら、ミーの方こそ礼を言うべきだな」
「そんな事ないだろ。お前がいなきゃ、もう、駄目だった」
本当に。一は本当に、コヨーテに感謝していた。
「嬢ちゃんとは、仲直りできたのかい?」
「……ああ」
「話は、聞けたのかい?」
「まあ、ね。予想してた通りって言うか、気持ちの良い話ばかりじゃなかったけど」
本当に。
「……お前さ、ジェーンに謝りに行かないの?」
「生憎、ミーと話せるのはリトルボーイみたいな、変わった連中だけでね」
「茶化すなよ」
「さてね、ユーモアの足りない人種だな」
コヨーテは牙を覗かせて笑う。
「……お前にも、聞いといて貰いたい話があるんだけど」
「へえ、聞こうじゃないか?」
一はコンクリートの塀に背を預け、
「おじさんと、おばさん。つまり、ジェーンの両親なんだけど……」
躊躇いがちに話し出した。
「……ジェーンを、棄てた、らしいんだ。いや、言い方が悪いけど」
「……そうかい」
思うところがあったのか、コヨーテは粛々と一の言葉を受け止めて、続きを促す。
「あの日、お前とジェーンが出会ったあの日。ジェーンは覚えてないんだけど、木から落っこちて、気絶してて、気付いたら、見た事も無いところにいたんだってさ」
何も知らないまま。何も分からないまま。何も、理解出来ないまま。
「不幸中の幸いっつーのか、幸い中の不幸っつーのか、オンリーワンのアメリカ支部の近くだったらしくて、事情を察してくれた勤務外に拾われたんだ。そんで、休ませて貰って、体、調べられて。……おじさんたちに迎えに来て貰って、拒否、されたんだってさ」
その時彼女は、どんな気持ちだったのか。どれだけ泣きたかったのか。どれだけ怒りたかったのか、どれだけ死にたかったのか、どれだけ、殺してやりたかったのか。一には分からなかった。
「半分が、もうソレの娘なんて恐ろしいって、さ」
聞きたくなかった。分かってはいても、予想してはいても、彼女の口からは、絶対に聞きたくない話だった。
二年間。楽しい楽しい二年間。世話になった、自分のような人間の面倒を見てくれたあの家族が壊れる様など、誰の口からも聞きたくなかったのに。
だから、逃げていた。一は、ジェーンから逃げていた。怖かったから、嫌だったから。
「……行く当ての無くなったジェーンは、勤務外になった。なるしかなかった。どんな気持ちであいつが過ごしてたのか、俺にはまだ分からない」
一が本人から聞いた話では、とにかく、若さと力に飽かせた勤務外生活だったらしい。スポンジのような吸収力。瞬く間に勤務外としての力を付けて行き、ジェーンは社員にまで昇りつめたらしい。異例の人事だったが、実力主義の国ならではの処置だったそうだ。
「SVになってからは、日本に、ここに来る事をずっと考えてたってさ」
オンリーワンの社員ならば、ある程度融通が利く。自由がある。
「……そうじゃない。ここじゃない。リトルボーイ、嬢ちゃんはあんたのところに行こうとしてたと思うぜ」
「……あの国を出たかったって、言ってた。自分の……国なのにな」
推しても、知れない思い。
「俺は情けなかったよ。あいつが頑張って話をしてくれて、泣くのを耐えてたってのに、俺が、泣いちまった。駄目だよな、ホント。頼ってきてくれたのに、俺から折れちゃ駄目なのにな」
「リトルボーイ……」
「……あいつの話は、これぐらいだ。もう腹一杯だろうけどな」
「その口振りだと、デザートまで用意してるみたいだな?」
「さて、用意してるのはどっちだろうな」
一は不敵に笑ってから、
「聞きたい事がある」
そう、口火を切った。
「こないだの犬、ありゃ何だ?」
「……何を言うかと思えば。犬は犬だろうに」
「あの犬を操ってたのは、誰だ?」
「嬢ちゃん、だろ」
違う。そう言って、一は首を振る。
「俺もそう思ってたけど、ジェーンが言ってた。あの犬たちは知らないって。自分には、そんな力無いってな」
「だったら、何だって言うんだい?」
「お前だろ、コヨーテ」
一は真っ直ぐにコヨーテを見据えた。
「確かに、お前を呼んだのはジェーンかもしれない。あいつの声が聞こえたのはお前かもしれない。だけどさ、お前が、犬を呼んだんだろ?」
「へえ、ミーが呼んだって言うなら、何だってミーが奴らに襲われなきゃなんなかったんだい?」
「さあ。そこまでは分からねえよ。大方見当は付くけどな」
「……とりあえず、その見当って奴を言ってみなよ」
ゆっくりと、息を吐いてから、
「お前さ、死ぬつもりだったろ」
一はゆっくりと吐き捨てた。
「俺たちが、俺が、ジェーンを助けられなかった場合の話だ。お前、俺に聞いてたよな? 『壊れたらどうする』ってさ。俺は答えた。『壊れたら直す』、『ジェーンは壊れてなんかいない』って。じゃあ、お前の答えは? 壊れていたらどうするってんだ?」
「……」
「お前、ジェーンを殺すつもりだったな? 多分、ついでに俺も。んで、俺たちを殺した後、死ぬつもりだったんじゃないか?」
コヨーテは答えない。一は気にせずに続ける。
「お前はあのジェーンを見たとき、助けられるかどうか線を引いたんだ。無理だって、そう思ったんだ。だから、犬を呼んだんだろ? 有耶無耶にしたかったんだろ? 助けて欲しかったんだろ?」
「ミーは……」
「責めるつもりはないよ。それは、俺の役目じゃないからな。だけど答えろ。お前は、お前は何だ? お前は、何を知ってるって言うんだ?」
詰るような、責めるような口調で一はコヨーテを問い詰めた。
「……ミーも、謝るつもりはないよ。あんたにはね」
「良いさ」
溜め息を吐き、コヨーテは一区切り置いてから、
「ミーは、円卓の奇士だ」
そう、宣言した。
オンリーワンの敵対組織。ソレを創り、ソレを操り、人間を殺し、人間で遊ぶ。
実態、目的こそ定かではないが、確実に言える。声高に言える。
円卓は、敵だ、と。
一はそう、思っていた。
「なん、だって?」
「ミーは、円卓の元、メンバーだ。とは言っても、末端クラスだったけどね。席に名を連ねていなかったし」
「……な? どういう、意味だよ?」
突然の告白に、一の頭は付いていかない。
「そのままの意味だけど? まあ、色々やったような気もするね。だけど、次第にミーは奴らのやり方に付いて行けなくなったのさ。ただ奴らとミーとで会話出来たから、暇潰しにいただけ」
「それじゃ、お前、追われていたってのは……」
「自らの意思で来る者は拒まず、自らの意思で去る者は決して許さない。これが、奴らの理念、仲間意識って奴でね」
コヨーテは何でも無い事の様に、さらりと言ってのける。
「安心しなよ。ミーはもう抜けた身だからさ。ま、入ったつもりも無かったんだけどね」
「……信用、出来るのかよ」
「信用するかしないかは、ミーが決める事じゃない」
「俺たちの、味方なのか?」
それを決めるのも自分じゃない。そう言わんばかりに、コヨーテは口を開かない。
「だったら、教えろよ。その、円卓の目的ってのは何なんだ? 一体、そいつらは何者なんだよ?」
「さあね。言ったろ? ミーは居ても居なくても同じようなポジションに居たってね。奴らのやりたい事なんて何一つ見えてなかったさ」
「……その言葉を信じるのも、俺、なんだよな?」
「そうして貰えると、ミーとしては助かるね」
一は考える。考える。オンリーワン、勤務外、円卓、青髭、八岐大蛇、フリーランス。色々な人がいて、色々なソレがいて、色々な事が起こった。喜怒哀楽。全ての感情をぶちまけた二ヶ月弱。
「やっぱ、知らない」
「……何がだい?」
「お前は信じる。だけど、お前の言葉は信じない。少なくとも今は」
結局。考えても、無理なものは無理なのだ。
「保留って事にしとくよ」
一の言葉に、コヨーテは面食らってから、笑った。楽しそうに、おかしそうに。本当に、面白そうに。
「そうかい。そりゃ良いや。良いんじゃないのか」
「とりあえず、今日の事だけ考えるよ」
「ふうん?」
「だから、今までの話全部込みでもう一度聞くぞ?」
どうぞ、と、コヨーテは尻尾を揺らす。
「お前さ、ジェーンに謝りに行かないのか?」
「さて、どうだろうね」
「……ま、良いや。それを決めるのは、俺じゃないからな」
今、この街にコヨーテがいる。それだけで充分だった。
「謝る気が無いなら、こんな所でうろうろしてる筈無いもんな」
「そりゃどうだろうね。この街は、存外過ごしやすいから」
「お気に召して何よりだよ」
「はっ、リトルボーイ、あんたが言う台詞かい?」
「……」
「? どうした?」
急に一が黙ったので、コヨーテは不思議がる。
「ああ、あの、さ」
「なんだい? 言いたい事があるなら言ってみな」
「いや、もうタイミングは逸したんだけどさ、その、リトルボーイって爆弾みたいな名前、やめてくんないかな?」
「今更じゃないか」
「だから躊躇ってたんだよ」
一は頭を掻きながら、コヨーテから視線を逸らした。
「ボーイって歳でも無いから、何か恥ずかしいんだけど」
「ミーからすりゃ、まだまだ青二才なんだがね」
「一一ってんだ。もうボーイはやめてくれ」
ぶっきら棒に名乗る。
「ふうん、ハジメ、ね。中々良い名前じゃないか」
「良い名前だろ?」
それじゃあな、と一は手を振る。ひとまずの、別れの挨拶。
「ああ、そう言えばリトルボーイ。体の調子はどうだい?」
引止めの言葉に少し気落ちしながら、
「ん。すこぶる良いよ」
振り向いて、一は答えた。
「月を見たら、興奮したりしないかい?」
「……あー」
成る程。コヨーテはあんな手を打った自分を心配しているらしいと、一は得心する。
あんな手。
人狼に噛まれて、人狼になった、こんな自分に。
「中途半端なハーフに噛まれたお陰かな。大した影響も無いよ」
「そりゃ結構な事だね」
「あー、でもアレだ」
「ん?」
一は手を掲げてみせる。コヨーテの意識が自分に向くのを確認してから、
「爪が伸びるの早くなった」
罰が悪そうに、そう言った。
詰めの甘い話で申し訳ありません。