狼とこうしよう
「お兄ちゃんは、アタシの事が嫌いなんだ」
怖気が走った。
「パパと、ママと同じだヨ。何にも言ってくれない。何も思ってくれない」
いつもと変わらない、彼女の甘い声。
「アタシの事なんてどうでも良いんだ。アタシがどうなっても気にしないんだ」
本当に、怖気が走る。
一は倒れたまま、顔だけを動かした。睨み付けるように彼女を見上げる。
既にジェーンは変わっていた。頭からは犬みたいな耳が生え、爪が異様に長い。何より、纏わり付く雰囲気が圧倒的に獣じみていた。隠そうともしない、血の臭いと猛々しい野性の本能。
「ジェーン、話がある」
だけど、一にはそんなもの関係ない。倒れたままの不様な体勢で、呼び掛ける。
「……話?」
「ああ、そうだよ」
背中を擦りつつ、一はゆっくりと立ち上がった。
「その、なんだ。今まで、色々と俺が悪かった。だから、ちゃんと話をしよう。させてほしい」
ジェーンには、まだ一のことばを聞く分には理性が残っていた。
「……ふーん」
トン、トン、トン。
落ち葉だらけの冷たい地面を爪先で慣らす音。
何処かで、聞いたことのあるリズムだと一は不意に思う。
トン、トン、トン。
「ふふっ、話かあ……」
――ドン。
リズムが、変わった。
その音を何処で聞いたのか思い出す前に、一の体に衝撃が走る。
「うああっ!」
風が吹く。それだけで一はしゃがみこんでしまった。しまったと気付くより先、顔を上げて正面のジェーンを確認する。いない。
――何処にっ?
今更ながら、この場所を選んだのは間違いだったのではないかと、一はおぼろげにそう思う。遮蔽物と障害物だらけの森の中。果たして、ここは本当にジェーンのスピードを止めるに至る場所なのだろうか、と。
とにかく、一は一人でいるのは危険だと判断し、コヨーテの元まで戻ろうと落ち葉を踏みしめる。瞬間、後頭部に鈍い音。痛みは後から訪れた。
「だっ……」
痛みを逃がす為に、何でも良いから声を出す。倒れてはならないと足に力を込め、それでも体は言う事を聞かない。枯葉と湿った土の混ざり合う地面に手を添え、一は何とか踏みとどまった。
「もう、遅いよ」
声が聞こえる。声だけが聞こえてくる。聞き間違えようの無い、あの可愛らしい声。
「ジェーンッ」
応えるべく、一は姿の見えない妹に呼びかける。
「ダメ、なんだよ」
風が走る。木々の合間を縫うように、一直線に一へと向かう。
「くっ……」
今度は腹部を叩かれた。見えない攻撃。葉だけが揺れ、枝だけが震える。まるで森がジェーンに味方しているかのように、彼女の姿を隠していた。
これでは、アイギスが使えない。ジェーンの姿が見えない以上、メドゥーサの力を行使するのも不可能だ。おまけに、盾としての役割も彼女の速さの前には果せそうにない。
「いい加減にしろよっ、俺はお前とこんな事しに来たんじゃないんだよ!」
一の声には苛立ちが混じっていた。完全に、作戦は破綻した。ジェーンの驚異的な速度を妨害する為に選んだこの森。関係なかった。彼女の速さが、一たちの計算よりも速かっただけの事。地の利もクソもない。障害物の影響を受けているのは一だけであった。
無言。三度、風が吹く。
「ちくしょうっ」
吐き捨て、一は正面に広げたアイギスを掲げ、木の幹に背を預けた。どこから来るのか分からないなら、こうして死角を減らせば良い。姿を見せたところを確実に捕まえる。しっかりと頭の中で意識し、繰り返す。
「こっち」
「あ?」
姿は見えないのに、声だけ聞こえてくる。惑わされる物かと、一は正面を睨み付けた。刹那、首に何かが巻き付く。
「だから言ったのに。お兄ちゃん、頭がお留守だったよ?」
ジェーンの、足だった。
「なっ……」
「ふふっ、手こずらせないでよ」
口調こそ優しかったが、首に巻きついている足はちっとも優しくなかった。ぎりり、と。一の首を一切の躊躇なく締め上げ始める。
一は必死で足を退かそうと、ジェーンの素肌に爪を立てた。しかし、全くと言って良いほど、彼女は反応を見せない。見上げた彼女の顔は酷く楽しそうだった。
許しを乞おうとも思わない。
怒りを買おうとも構わない。
情けを掛けようなんて以ての外だった。
「はっ、はっ、はあ……」
群がる野犬どもに鋭い眼光を浴びせかけ、コヨーテは短い呼吸を繰り返す。彼の自慢の毛並みはとっくに崩れていて、灰色の体は返り血だらけになっていた。
犬どもはコヨーテに対し、集団で襲い掛かるような事はしなかったが、一匹を倒しても、新たな一匹が群れから現れ、倒しても、現れ続ける。いつ終わるか分からない。先が見えない。それでも、決して手は抜けなかった。もし自分が倒れるような事があれば、終わってしまう。自分がここで犬たちを押さえているからこそ、あの情けない男が好き勝手に出来るのだ。そして、ジェーンを救えるのも、恐らくはその男だけなのだ。
「くそっ」
歯痒い。恩人に仕立て上げたジェーンに対して、何もしてやれない。
「――っ!」
「しつこいじゃねえかっ」
まともに息すらつかせて貰えない。既にコヨーテの爪は何本か剥がれ、片目は返り血で塞がれて、四つの足全てに疲労が蓄積されていた。
相手の犬は小柄だが、コヨーテよりも動作が俊敏であった。
お互い、背後を取ろうとしてぐるぐると相手の尻尾を追っかけあう。正真正銘のドッグファイト。周囲の犬が焦れ付く程度に時間が経ってから、急に立ち止まったコヨーテが戦いのペースを掴んだ。小柄な犬は面食らい、立ち止まる。立ち止まってしまう。
――始まるのは残虐な解体劇だった。血が吹き荒れ、肉が飛び狂い、犬どもの怒声と罵声が森に木霊している。必要以上に、執拗に、コヨーテは動かなくなった犬に攻撃を加え続ける。別に、加虐癖があるわけではなかった。あくまで、威嚇行為。示威行為。分かりやすく、示してやっているのだ。これ以上近付くな、と。
「――!」
「――っ!」
しかし、犬たちは恐れない。コヨーテに怯まない。むしろ、今夜ここに集って、そして死んでいった仲間の仇を取るといわんばかりに力強く猛り、吠え立てる。
「これだから犬ってのは嫌いなんだよっ」
愚かにも真正面から飛び掛かってきた犬の目玉を爪で刳り貫き、コヨーテは盛大に吠える。月に向かい、彼に向けて、彼らに届くと願って。
「助けないんですか?」
「……誰をだ?」
「一一と、あの犬ですよ。結構やばそうな展開になってるじゃないですか」
眼下に広がる森の道。情報部である春風と細波は、高い電灯の上から状況を見下ろしていた。
「あれは犬じゃない。コヨーテだ。良く覚えておけ」
「はあ……」
春風はあくまで無感情に、無表情に戦闘を眺めている。
今までを振り返ってみれば、その事が細波にとっては恐ろしかった。何しろ、この春風という上司には表情と感情がないからだ。滅多に感情を表に出さず、表情すら変わることがない。自分以外のモノに無関心を装っているような。それでいて、彼女は顔色一つ変えることなく大胆な行動に移るのだ。
「今日は、俺の言う事聞いてくれるんですね」
「……誰がだ?」
「あなたが、ですよ。あの勤務外と接触しないでくれるんですよね?」
最近、細波は胃痛が酷くなっていた。薬はもう手放せない。キリキリと、常に身を苛む感覚に悩まされる毎日。原因は明らかであった。
「ふん、そうだな。今日はもうその必要もないだろう」
「……今日は? 今日で終わりそうなんですけどね、あいつ」
少しばかりの期待と、敵意を込めて言い放つ。
「あれは唯の人ではない。勤務外だ。良く覚えておけ」
だが、春風は不敵に笑った。ように、見えた。
「はあ……」
考えろ。考えろ。考えろ。
足りなくなる酸素空気を全て頭に回して、思考回路を起動させる。
回せ。回せ。回せ。
この危機的状況を乗り越えろ。
何度も言い聞かせ、自分を奮い立たせ、一はジェーンを睨み付けた。
「ふふっ、死にそうだね、お兄ちゃん?」
既に意識は飛びそうで、視界からは色が消えつつある。苦しい。首に食い込むジェーンの足。ギリギリと締め上げる彼女に抵抗しているのは、自身の右腕だった。首と、ジェーンの足の間に挟まって隙間を生み出している。ギリギリで息が出来る。だが、苦しい。この腕さえ手放せば、力を緩めれば、どれだけ楽になれるだろうか。
「イイ、顔だよ? もっと好きになっちゃいそう……」
手放す物か。
そうは行くかと、一は力を振り絞る。まだ、まだ終わっちゃいない。馬鹿みたいに薄っぺらく、吹けば飛んでしまうような軟い作戦は、まだ破綻していない。何故なら、未だジェーンは気付いていないからだ。一たちの狙い、アイギス発動に気を取られていない。いや、それ以前に――
「くっ……」
一は左手の感触を確かめる。しっかりと、アイギスを握っている事を確認する。酸素はまだ足りている。息はもう少しだけ、持ちそうだ。ならば。
「ん……」
ジェーンは拘束を解いた。一の体が一瞬だけ軽くなり、すぐに重くなる。支えを失った一のからだが地面に無様に倒れて落ちた。
――死んだか。
獲物の死を感じ取り、狩人は弛緩する。
「あーあ、終わっちゃったなあ」
驚くべき事に、ジェーンは腕一本で自重を支え切っていた。木の幹に刺したままの爪を引き抜きながら、軽く言い放つ。
「よっ……と」
引き抜いた際の反動を利用して、ジェーンは軽やかに跳躍した。くるくると。森を抜け出し、月下に踊り、再び森に戻ってくる。くるくると。一の顔のすぐ傍に着地すると、愛おしそうにその顔を撫ぜた。手向けのつもりで、見開いたままの瞼をそっと閉じてやる。
「お兄ちゃん……」
触れた頬が、まだ温かい。ついさっきまでここにあった『生』を感じ取り、ジェーンは身震いを起こした。
「好きだよ」
甘い、甘い、甘ったるい洋菓子のような声。
「アタシも、すぐにそっちへ行くから――」
一はもう少し、ジェーンについての考えを改めるべきだった。彼女の能力。性格。性能。その他諸々。
もっと、考えるべきだった。本当にこの場所で良かったのだろうか、と。結果から言えば、軽々と駄目だった。舗装されていない道。連立する背の高い木々。見通しの悪い、僅かな月光しか望めない暗い場所。障害物。遮蔽物。木。草。葉。枝。森。全てが一たちに牙を剥いて、全てが獣たちに味方した。
ジェーンは障害物を障害物と認識していなかった。人間のままでは決して感じ取れなかった風のニオイ。森のざわめき。獣の言葉。それら全てを活用して、風の様に森を駆け抜ける事が出来た。彼女の瞳には、障害物はもはや足場程度でしかなかった。三百六十度、上下左右、天上天下どこにでも移動する事が出来た。この場所は、完全な独壇場。獣たちのフィールド。彼女の、一人舞台。
もっと考えるべきだった。
「――そっちってどっちだよ」
手を掴まれ、視線を合わされ、ジェーンは慄いた。
「なっ……!」
声が出ない。言葉が出てこない。そうこうしている内に組み敷かれる。馬乗りになった一に、手首を遠慮なく掴まれた。
「はっ、離してヨっ」
「いっ――てぇ!」
足をバタつかせ、無防備な一の背中に何度も蹴りを入れる。膝を立てる。爪を立てる。噛み付こうと顔を動かす。
「触らないでっ! 退いてっ!」
一は、退かなかった。何度蹴りを食らおうが、膝を入れられようが、爪を立たれようが、手首に噛み付かれようが、決して退かなかった。
「……うるせえっ、好き勝手やりやがって、俺の話を聞けってんだ!」
何で、どうして。死んだ筈の、殺した筈の彼が自分に圧し掛かっている事実が信じられない。力が入らない。月の魔力に狂い、血に餓えた闘争本能に任せた筈なのに、力が入らない。彼に触れられてから、狼としての血が薄れていくようだった。
「……う、うう……」
感情が溢れ出す。怒り、悲しみ、どれも違うような気がする。これは、安堵だろうか。ジェーンは自問自答を繰り返した。
「泣くな馬鹿っ! 耳を塞ぐな、目ぇ瞑んな!」
「うるさいっ、うるさいっ!」
喋るな。口を開くな。その声を、聞かせるな。彼の声はどうして、どうしてこうも響くのだろう。どうして、こんなに胸を打つのだろう。苦しい。苦しい。
ジェーンはもう少し、一についての考えを改めるべきだった。彼の能力。性格。性能。その他諸々。
もっと、考えるべきだった。本当にこんな事をしでかしてしまって良かったのだろうか、と。結果から言えば、軽々と駄目だった。『兄』しか残されていない世界。戦慄する先の見えない日々。見通しの悪い、僅かな希望すら望めない暗い場所。障害物。遮蔽物。三森冬。糸原四乃。立花真。オンリーワン。自分以外のモノ全て。全てが自身に牙を剥いて、全てが自分以外の誰かに味方した。
一は、障害物を障害物と認識していなかった。二年前のままでは決して感じ取れなかった外のニオイ。周囲のざわめき。他人の言葉。それら全てを活用して、当たり前の様に日々を生き抜く事が出来た。彼の瞳には、障害物は何でもなかった。どうでも良くなっていた。三百六十度、上下左右、天上天下どこにでも移動する事が出来た。この場所は、この世界は、完全な独壇場。人間たちのフィールド。彼らの舞台。
もっと考えるべきだった。
終わりは、突如訪れた。
「何だ……?」
睨み合いを続けていたコヨーテと野犬たちの間に漂い続けていた闘争の空気が嘘の様に消えて失せた。犬たちはしばしの間、コヨーテと、蹲り倒れている犬たちに目を落とす。
「まさか……」
コヨーテの疑問を確信に変えたのはすぐだった。一匹の犬が立ち去ると、次々と他の犬も立ち去っていくのだ。ある犬は傷ついた仲間を銜え、引き摺り、連れて行く。体格の良い、動けない数匹の犬と、もうどうしようもない仲間を残し、森からはほぼ全ての犬が姿を消した。
警戒しながらも、コヨーテは血の付いていない地面を選び腰を下ろす。体中が痛くて、ぼろぼろで、疲れ果てていた。もう今は、一歩たりとも動きたくない。それに。
「はっ……」
兄妹の間に水を差すのは酷く無粋で、自分の美学からは外れていた。
――上手くいった。
とりあえずは上手くいった。予想通りだった。ジェーンは、絶対に狼じゃあない。信じていて良かったと、一は安心する。
「こっちを見ろって言ってんだっ」
ジェーンの体からは、さっきまでのような力が抜けきっていた。分かっていた。彼女は月に狂い、血に酔い、本能に任せて行動しているわけではなかったのだ。そう、見せ付けているだけだった。でないと、息を止めて死んだ振りしているだけの下らない手に引っ掛かるはずもない。
「やめてっ、やめてえっ」
一は無理矢理にジェーンの顔を固定する。涙声で訴える彼女を、折れそうなくらい細い体躯を震わせている彼女を、無理矢理に自分の方へ向かせた。
「くっ、離して! 離さなきゃ殺す、殺すっ! 殺してやるんだからっ!」
「やってみろ!」
とりあえずジェーンを落ち着かせないことには話にならない。一は彼女の頭を掴み、強引に立たせる。木の幹に頭を押し付けると、自分の体重を思い切りかけた。
「痛いっ」
もう恐ろしくはなかった。ジェーンが元に戻っている事に、いや、元から変わってなど、壊れてなどいない事に気付いたから。
「いい加減にしろってんだっ、もうバレてんだぞ馬鹿!」
「バカはそっちでショ! 殺すったら、殺すんだから!」
「やってみろって言ってるだろ! つうか、暴れんのやめろよっ落ち着けって!」
「じゃあ離してヨっヘンタイ、ヘンタイヘンタイ!」
「離したら逃げるだろうがっ」
「アタシの勝手じゃナイ! もうっ放っておいてってば!」
「放っておける訳ないだろ!」
「うるさいっ! いまさらになって……パパとママみたいにアタシなんてムシすれば良いじゃナイ!」
「意味が分からねえよ! しっかり喋れっ、言いたい事があんなら言え!」
「聞かなかったのはお兄ちゃんのくせに!」
「お前だって何も聞かなかったじゃねえかっ! 俺だけのせいにするんじゃねえよ!」
「お兄ちゃんでしょっ!? 気付けバカ! ミツモリやイトハラたちばっかり構って、アタシなんてどうでもよかったんじゃナイ!」
「どっ、どうでも良いわけないだろ!? お前だって気付け! 何年の付き合いだと思ってんだっ」
「二年ヨ! たった二年でそんなの分かるわけナイ!」
「たったって言うな!」
「言ったのはお兄ちゃんでショ!?」
「言ってねえよ!」
「い、いいい言ったわバカ!」
「うるせえバカ!」
一旦、仕切りなおし。
一はジェーンから離れると、アイギスを投げ捨てて、肩で息をして天を見上げた。馬鹿みたいに、月は真ん丸で綺麗だった。
「……何しに来たんだ俺は……」
「……知らないわよ」
ジェーンも肩で息をしながら、乱れた髪を整える。頭から生えた耳がしゅんとうな垂れていて、ついさっきまで纏わり付いていた気持ちの悪い雰囲気が掻き消えていた。
「はあ……とりあえず、謝るよ」
「何をヨ……?」
「全部。ごめん、やり過ぎたし、言い過ぎた。それと、今まで放っておいて、わ、悪かった……」
作戦が何だ。アイギスが何だ。考えていた事は全て水泡に帰って、残ったのは陳腐な言い訳だけだった。
「……毛、痛んだら責任とってよネ」
「何でもしてやるよ」
「服も、顔もドロドロ……。お風呂に入りたい……」
「新しい服も買ってやるし、新しい顔だって用意してやる。風呂は、その、銭湯に連れてってやる」
「バカみたい」
微笑んで、ジェーンは座り込む。
「馬鹿とは何だ。ところで、俺だって全身が痛いんだけど?」
叩かれて、蹴られて、地面を転がって、血を浴びて、おまけに吐いた。今着ている服を脱ぎ捨てて裸にでもなった方がマシだと一は笑った。
「……ゴメン」
「……良いよ」
「アタシこそ、色々ひどいことしちゃった」
「良いよ。気にすんな妹。兄は寛大であるぞ」
今更兄と名乗るのは、少し、気恥ずかしい。
「うそ。本当はおこってるんでショ?」
「お前さ、構って欲しかったんだろ?」
「なっ? な、何言ってるの!?」
「残念だけど、途中からなんとなーく気付いてた。だってさ、本当に俺を殺す気だったらとっくに俺なんか死んでるよ」
何気ない口振りで言うので、ジェーンはもう何も言い返せなかった。
「でも、フツーはおこる」
「怒ってない。家族だろ、これぐらいは何とも思わねえよ」
「……家族、じゃナイ」
ぼそりと、ジェーンは躊躇うように口にした。
「家族だ」
きっぱりと、一は反論する。
「フェイクよ、アタシたちは兄妹じゃナイ。お兄ちゃんが、そう言ったんでしょ」
「お前、店長に何か言われただろ」
ジェーンは何も言わなかったが、彼女の目が怯えているのを一は見逃さない。もう、目を離さない。
「……騙し合ってても、他人同士が飯事やってても、兄妹ごっこやってても良いじゃねえかよ。周りの奴なんて無視しようぜ。だってさ、安心、するだろ? 家族の振りでも何でも良いさ。俺たちが良ければ、それで……」
「でもっ、ダメだよ……、もう、ダメなんだよ。だって、だって、おかしいんでショ? アタシたちがフリをするのって、変、なんだよ?」
「そんなの気にすんなよ」
「するよっ! だって、だって――」
「――血が、繋がってないからか?」
弾かれるように、縋るように。ジェーンは一を見つめた。瞳は悲しい色に濡れていて、声は震えていて。
どうしようも、無い問題。
「……もう、ムリだよ……」
「無理、じゃないだろ」
そんな事、とっくに気付いていた。
「何、言ってるの?」
「俺は、もう家族を手放したくない。お前と離れたくない」
だから、誤魔化す。欺く。偽る。取り繕って、欺瞞に満ちた詭弁を弄する。
「繋げりゃ良い。血なんかよりも、もっと良いもんでさ」
「……お兄、ちゃん?」
どうなるか分からない。ジェーンの心が動かない限りの、最後の手段だった。ずっと、気付いていて、気付かれていて、『絶対にするな』と釘を刺されていた事。
でも、これしかなかった。こんな事しか思いつかなかった。
「俺を、噛め」
言い切った後、ジェーンの息を呑む音が聞こえた。
「な、何で……?」
「お前だって気付いてるし知ってるだろ、なあ、人狼」
「……アタシに、人狼に噛めって、そう言ってるの?」
「あー、ちなみに、どうなるか分かって言ってっから」
人狼に噛まれた者は、人狼になる。人を捨て、狼を手に入れる。何度も、コヨーテから言われていた事だから。間違いない。
「バッ、バッカじゃないノ!?」
「でも、これしかないだろ?」
「そ、そこまでする必要なんて!」
「あるね。分かったんだ。もうさ、言葉だけで分かり合えるタイミング、逃しちまったんだよ。俺が」
「……ア、アタシみたいになっちゃうんだヨ?」
俯いて、ジェーンは声を絞り出す。
「それが目的だ。おら、一思いに噛んでくれ」
一はジェーンの傍まで近付いて、少しも迷った素振りを見せずにしゃがみ込んだ。
「こっ、来ないでってば!」
「良いから噛めって」
「ムリに決まってるじゃナイっ、辛いんだよ、半分でもソレになっちゃうんだよ? 耳はこんなトコから生えてくるし、爪だって、長く、なるし……、今はガマンしてるけど、しっ、しっぽだって生えちゃうんダカラっ! そっ、ソレなんかに、お兄ちゃんをソレなんかに出来るわけナイよっ」
「つべこべ言うなっ」
「つべこべって何ヨっ」
涙を浮かべて、ジェーンは訴える。
「……っ、何だよっ、お前は俺が嫌なのかよ!」
「そういう意味じゃないっ、お兄ちゃんこそ、自分で本当に何言ってるか分かってんの!?」
「分かってるって言ってんだろ」
「ソレに、なるんだよ?」
「違う」
そうじゃない。
「俺は、お前と一緒に居たいだけだ。ずっと。これから先、何があっても。でも、ごめん。俺、頭悪くて、鈍くて、器用じゃねえから。だから、こういう事しか思いつかないんだ……」
「分かってたくせに。遅いよ、バカ。家族になんか、もう戻れっこナイ」
「……だから、噛んでくれよ。そしたらさ、ギリギリ、間に合うだろ?」
血なんかよりも、もっと確かで。それでいて、血よりも不確かで。
彼女と同じモノになれば近付ける。離れなくて済むかもしれない。そんな事、誰も決めてない。だけど一は決めた。もう、決めた。
「…………本当に、知らないから」
そっと、ジェーンは一の肩に顔を近付ける。ぶっきら棒な物言いの中でも彼女の嬉しさのような物が感じられ、一は少し救われた。
「なあ。痛く、すんなよ?」
「……知らない」
そう言った彼女の歯が尖っている事に、今更ながら一は気付いて、怖気づく。
「う。歯、長いんだな」
「知らないって言ってるでしょ」
「……あー、そうでしたね」
「……ねえ」
「何?」
今まで、異性として意識していなかった存在だったというのに。一とジェーン。互いの吐息が掛かる距離で見つめ合ってしまい、一は思わず視線を逸らした。
「狼ってさ、オスとメス、一度パートナーになった同士は死ぬまで絶対に離れないんだって」
「? それが何だよ?」
「浮気もしないし、パートナーに近付く奴には攻撃したりするんだって」
「……ジェーン?」
「死ぬまで、ずっと二人でいるんだって」
意味が分からない。どういう事だと尋ねる前に、一の肩口へジェーンの歯が突き刺さった。