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ドッグファイト


 狼男は死んだ。

 あっけなく、情けなく、簡単に死んだ。一は彼の死体を見つめ、冷静に事実を受け止める。

 ……決して、彼が弱い訳ではなかった。恐ろしく強くもなかったが、一からすれば充分な脅威とも言えた存在。そんな彼をあっさりと仕留めた人物。ジェーン=ゴーウェスト。

「……ふぅ」

 一は今から相手をする彼女の事を考え、深く溜め息を吐く。

「ボーイ、油断するなよ」

「出来るかよ」

 彼女を助けに来たはずの自分が、どうして彼女と戦う羽目に陥ってしまったのか。

「……嬢ちゃんとやり合うについて、一つ忠告だ」

 周囲の様子を注意深く探りながら、コヨーテは一に声を掛ける。

「絶対に、噛まれるな」

「難しい注文だなあ、おい」

 その忠告は絶対に殺されるな、と、ほぼ同義だと一は認識した。

「どうひいき目に見ても、ジェーンは俺より強いよ」

「知ってるさ。だが、噛み付きにぐらい注意は払えるだろ? そうすりゃ、幾ら爪で裂かれても構わないんだからな」

 それでも、ジェーンの戦闘においての速さを見た事がある自分にとっては難しい話だと、一はそう思う。

「しんどい話だってのは分かってる。だけど、やらなきゃいけないんだ」

「……ホント、しんどいわ」

 背中合わせのまま、一とコヨーテはジェーンの襲来を待った。



 一たちの狙いは一つ。

 ジェーンの動きを止める事である。なるべく彼女に手傷を負わせないよう、チャンスは一度きり。彼女が自分達に攻撃を加えるその隙にアイギスで動きを止める。それだけだった。

 だが、アイギスを発動させるには幾つかの条件がある。

 一つは視界がクリアである事。最近一は気付いたのだが、要するにこれは対象の相手を視認出来れば良い、ぐらいの条件らしかった。木立に囲まれた散歩道。木々の合間から差し込む月明かりよりも暗闇の比重が大きかったが、全く見えない、レベルの暗さではないので問題はない。

 二つ目、声を出せるか。喉を締め上げられた一だったが、声帯まで潰されてはいなかった。精々、声が少し擦れる程度のダメージ。問題ない。

 三つ目、相手の名前を知っているか。問題ない。こと、今回の標的に限って知らないはずが無い。補足しておけば。三つ目の条件についても一には気付いたことがある。それは、相手の名前についてどれだけ知っているかで効果の程が変わるという物だ。音、字、由来、対象の名への執着度などなど。

 つまり、相手の事をより深く、より多く知っていればいるだけ、アイギスは効果を発揮しやすく、更に威力が上がるらしかった。一先ず、道具(アイギス)については問題ない。

 問題なのは人だ。

 アイギスが力を発揮するには、前提として一がジェーンを確認しなければならない。しかし、彼女は速いのだ。それこそ、一の目では追いきれないほどに。おまけに今のジェーンは狼、獣としての血が色濃く顕れている。理性よりも本能が勝った彼女の身体能力は以前とは比べ物にならないくらいに向上していた。獣だから、限界を知らないのだ。体が幾ら悲鳴を上げても、彼女は走り続ける。

 ……一たちが見晴らしの悪いこの場所から動かないのも、ジェーンの速度が原因だった。彼女のスピードに対抗する為、あえて見晴らしの悪い散歩道に二人は陣取る。広い場所では、上下左右三百六十度から彼女の攻撃がやってくる。見えない攻撃。ガーゴイル事件でのジェーンと、ディルと呼ばれた男の戦闘は一にとって大きな収穫と言えた。あの時、ディルは徐々にスピードの落ちるジェーンに対してカウンターを取る事が出来たが、自分にはとても出来そうにない。

 ならば、そのスピードを発揮させなければ良いだけの事。足場も悪く、視界も良好とは言えないこの場所は自分たちだけでなく、ジェーンにも足枷をさせる事が出来ると一は踏んでいた。

 おまけにこっちにはコヨーテがいる。彼の索敵能力は高い。血の臭いが染み付いたジェーンの位置を捕捉する事も可能、いざ彼女が現れるに際し、木の葉や木々といった障害物がある限り全くの無音で登場するのも不可能だ。奇襲を受ける確率もグンと低くなる。

 コヨーテが見つけ、一が捕らえる。充分な情報も戦力も無い今の状況では、ベストな選択肢だと、一は思っていた。



「……近いっ、来るぞっ」

 鋭くコヨーテが叫んだ。

 一はアイギスを広げて周囲に目を配る。

「どっちだ?」

「右だ、ミーの方から来るっ」

 咄嗟に、一はアイギスを右へと広げた。

「……いや、左だっ」

「はあっ?」

「なっ? ち、違う、後ろっ?」

「おいっ!」



 どっちが強い。

 誰が強い。

 どっちが弱い。

 誰が弱い。

 ――下らない考え。

 そう、分かってはいても気にはなる。

「ねえ」

「……ンだよ」

 疑問を自分の中で溜め込むのは好きじゃない。

「あんたと私って、どっちが上なのかしらね」

 だから、糸原は率直に聞いてみた。

「…………はあ?」

 少し遅れた納品のトラック。

 苛々しながら商品のおにぎりを並べていた三森は、しばしの間作業の手を止める。

「上って、何がだよ?」

「勤務外として、に決まってんじゃない。それ以外にあんたが私と勝負できる所なんて無いでしょ」

「喧嘩売ってンなら買うぜ。こっちは休憩時間が短くなってイライラしてンだ」

「あー、そう。文句なら私じゃなくて業者に言ってくれる?」

 糸原は適当に弁当を並べながら、気楽そうに笑った。

「……ちっ。勤務外として、どっちが上か? アホかてめェ、ンなモン私に決まってるだろ」

「まっ、自信家ー」

「そうじゃねェよ。単純に私の方が長いんだから、経験値積んでる方が上だろうがよ」

「ふーん。まあ、それもそうかしら」

 反論しようかとも思ったが、糸原はあえて黙る。

「……ま、タイマンでやり合ってもお前には負ける気がしねェけどな」

「だったら、誰には負けんのよ?」

「あー? 私に一対一で勝てる奴なンて、いる訳ねェだろ」

「やっぱ自信家じゃん」

 じゃなくて。三森はそう前置きした後、

「そもそもな、勤務外同士を比べるのがアホだって言ってンだよ」

 頭を掻きながら、詰まらなさそうに口を開いた。

「……ふーん?」

「私たちの相手は人間じゃねェんだよ。ソレだよ、ソレ。だから比べたってしょうもねェ話だ。相性ってのもあるし、勤務外だからって前線向きの能力持ってる奴だけじゃねェしな」

「あんたは、前線向きよね」

「そンでもって、一対多なら面倒な事になる。火ィ使えるからって、私はその……器用じゃねェからな。結局は肉弾戦に頼るっきゃない」

 あはは、と。糸原はお気楽そうに笑う。

「囲まれたら終わりって事ね」

「つうか、それが普通だろが。でも、お前は違う。便利な物持ってるから、囲まれてもまだマシな方だろ」

「……しんどいのに変わりは無いけどね」

「そう言う訳だ。私ら勤務外同士で比べるのがアホって話が良く分かったか?」

「うん。あんたをぶちのめす時には数呼んでフクロにするわ」

 三森の手の中のおにぎりがチリチリと音を立てた。

「やっっっっぱお前ムカつく」

「そんじゃあさ、私らの中で戦いたく無いってのは誰?」

 糸原は三森の怒りに気付いているのかいないのか。

「……戦いって言うか、殺したい奴は目の前にいンだけどな」

「良いからとっとと答えなさいよ。あ、おにぎり燃えてるわよ?」

「うるせェな、後で食うから暖めてンだよっ」

 ツナマヨのおにぎりを握り締めながら三森は憤る。

「で、誰?」

 三森はラベルの読めなくなるまで燃えたおにぎりをゴミ箱に捨てて、考え込むように目を瞑り腕を組んだ。

「……一対一でやり合うなら、あのチビは嫌だ」



 コヨーテは必死で周囲に意識を飛ばした。

 ――おかしい。

 臭いは確かにしている。紛れもない、ジェーンに染み付いたであろう人狼の血。

 最初は自分の右側から、続いて左、背後、そして前方。四方八方から彼女の気配がざわめき立つ。

「どっちなんだよっ」

 背中を預けたパートナーが酷く頼りなかった。彼の声からは容易に焦りと不安が窺い知れる。全くもって素人と組むのは嫌な物だった。

「ミーにばっかり言うなよっ」

「鼻が利くのはお前だろうがっ」

 利き過ぎるのも考え物だと、コヨーテは自信の鋭敏すぎる嗅覚を呪う。

「まるで囲まれてるみたいだ……」

 ジェーンがこちらの考えを読んで惑わしているのだろうか。しかし、こちらの索敵能力を惑わせるほど超高速で森の中を移動できるはずが無かった。彼女はあくまで一人。だが、集団で包囲網でも作っているかのようなこの気配。じりじりと狭まってくる血の臭い。

 狩る者と狩られる者。

 この二つに世界が分類されるというなら、コヨーテたちはしっかりと狩られる者のカテゴリに区分けされていた。



「……なんで、あの子なの?」

「あー、まずお前には負ける気がしねェ」

 三森は忌憚の無い意見を述べた。

「……へえ」

 他人の機微に疎い自分でも糸原の機嫌が悪くなっている事に気づき、三森は内心でほくそ笑む。

「糸は面倒だけど燃やせば良いしな」

「はっ、あんたなんかに出来るかしらね」

「出来なきゃ懐に飛び込んでボッコボコにする」

「それが出来ないって言ってんのよ」

「絶対ボコる。マウント取って顔の形変わり果てるまで殴りまくってやる」

 気にせずに三森は告げた。

「同じ理由でコーコーセー二人に負ける気もしねェな」

「武器燃やして終わり? 単純な奴ね」

「単純なンが一番強いんだよ」

 糸原は悔しそうに爪先で床を踏み鳴らす。不規則なリズムが彼女の精神状態を表しているのかのようだった。

「そいじゃあ一は?」

「……ある意味一番面倒な相手だけどよ、何か一発殴ったら終わりそうな気がする」

「まあ、比べるのも可哀想よね」

「あー、ちなみに店長と堀さんはナシな」

 今、思い出したように三森が言う。

「どうしてよ?」

「ありゃ、規格外だ。論外論外。比べるまでもねェよ」

「……えーと、どっちの理由で?」

「…………決まってンだろ」

 何も言わずとも、二人は納得したように揃って目を瞑った。

「あー、そいじゃあ本題なんだけど。どうしてあの子が一番ヤなの?」

 微妙な空気を取り繕うかのように糸原が話題を逸らす。

「あ、ああ。そりゃアレだ。一番面倒な相手だからだよ」

「その言い方だと、一応は勝てるって嫌味に聞こえるんだけど?」

「悪かったな。けど、まあ事実だぜ。負ける気はしねェよ」

「へーん、良いもんねー、何が勤務外よー、負ける気はしねーよなのー、馬鹿じゃないのー」

 糸原は口を尖らせながら弁当を雑な手つきで棚に置いていく。

「でもな、あいつにゃ無傷で勝てるとは思っちゃいねェよ」

「はーん? その言い方だと私たちには無傷で勝てるって聞こえるんですけど?」

「……私の言い方が悪かったよ」

 諦めたように、三森が大きく息を吐いた。



 背中を預ける相手がこんなに頼りないとは思っていなかった。口先だけは達者。未だ付けたままのピンクの首輪が酷く滑稽に見える。

「囲まれてるだって?」

「……そうとしか思えない」

「相手はジェーン一人だろっ」

 そう思い、そう考え、そう結論して、自分たちは逃げ場の少ない一本道に踏み止まったと言うのに。

「裏目に出ちまったとしか言えないな」

「お前だって俺の意見に納得したろ!」

 動くに、動けない。まだ、本当に多人数に囲まれているのかどうか把握できていない。コヨーテの勘違いだという事も有り得る。計画はそう簡単に捨て切れなかった。


 ざざっ


 びくりと、聞こえてくる音に過剰反応してしまう。

「……風が吹いただけだぜ」

「知ってるよ」

 もう、嫌な予感しかしなかった。しかし、動けない。そも、人間とは危険な状況にあっても動く事が出来ない生き物だ。大多数の人間が、どんな状況であっても現状維持を望む。それがどんなに自身を追い詰める事になるのか、気付きもしないで。



 三森は並べ終えたおにぎりを一瞥してから、隣でケースを積み上げている糸原に視線を向けた。

「一本だ」

「……何が? あんたの脳味噌の皺の数?」

「いい加減にしねェとマジで怒るぞ……」

「冗談よ、冗談。ホントは十本ぐらいあるわよね」

 諦めた。

「じゃなくて、あのチビと私がタイマンでやったら、腕一本ぐらいは持ってかれるって言ってンだよ」

「ふーん。あんた、意外と謙虚ね。でも、どして? あの子ってそんなに強いの?」

「強いってか、早いンだよ」

「あー、女で良かったわね」

「何言ってんだお前」

 煙草に火を点けながら、三森は呆れ顔を隠せなかった。

「早いって、追い付けないの?」

「見えねェ。全く。一回しか見た事無かったけどよ、ありゃやべー。伊達に社員は張れねーって事だな」

「……でも、いつかは目が慣れるでしょ。向こうだってずっと同じ速さで動ける訳無いんだし」

「慣れるまでにやられちまう。だから、腕一本でもサッサとやっちまって捕まえるっきゃねェ。一度捕まえりゃ、体格差で押し切れる」

「ひゅー、乱暴」

「てめェが振った話だろうがっ」


 ――それでも。


 それでも、と。三森は僅かに不安を覗かせる。勝てると言ったのは、あの日見たジェーンの力、アレが彼女の全てだとした場合だ。同様に、糸原も、立花も、神野だって手の内全てを明かしていない気がしていた。

「まあ、私らが戦うなんてねェ話だと思うけどな」

「……あははー、そうね」

「……?」



 音を聞いた。

「……犬だ」

 身動きが取れなくなって数分、ようやくコヨーテが口を開ける。

「なんだって?」

「犬だよ。間違いない。ミーたちは囲まれているんだ」

「犬に、か?」

「それも大量の犬だ。この、鼻に付く感じ……間違いないね」

 血の臭いに混じって、微かに漂う獣臭。コヨーテは鋭敏に感じ取っていた。

「……なあ、どれくらいいるんだ?」

「……さあ。とりあえず、逃げ場が無くなる程度には」

 敵の姿が見えないというのが、これほど恐ろしい物だとは思わなかった。一は無駄だと分かっていても、必死に目を凝らして周囲を観察する。

「今は、見えないところで待機してるんだろうね。でも、合図一つで奴らは飛び出してくるぜ。なんせ犬だもんな」

「合図って……誰の?」

「決まってんだろ」

 ゴクリと。唾を飲む音ですらやけに大きく感じられた。

「さて、ボーイ。作戦はどうするよ? このままだとまずいんじゃないか?」

「開けた場所に出るか?」

「……それこそ、向こうの思う壺だな。一斉に囲まれて終わり(ジエンド)さ」

「このままここに居てもジリ貧だぞ」

「逃げようとすりゃ、ミーたちの後ろから嬢ちゃんが襲ってきそうだけどな」

 だったら、どうしろと言うのだ。頭を抱えて蹲りたくなるのを堪え、一は何とか意識を保つ。



 作戦は軽々と破綻した。

 まず、一たちがジェーンの力を見誤っていた事。傷一つ負わせようともしない。なんて事を何故考えていたのか。実に甘かった。お互いに無傷で済ませようなんて都合の良い話、所詮は甘い空想、机上の空論。

 そして索敵能力の無効化。二対一。コヨーテの鼻はあくまで相手が単体の時にこそ効力を発揮する。そして一のアイギスも能力の都合上、集団には相性が悪い。アラクネ、土蜘蛛戦では、知能レベルの低さもあり、『土蜘蛛』にだけ条件がまだ働いたのだが、今回は『犬』。彼らは哺乳類。決して虫レベルの知能ではない。生物の中では賢い部類に入る、と言っても良いだろう。そして決して『犬』と一括り出来ない。犬とは言え、様々な種族が存在する。余程の犬好きでない限り、目の前に現れた犬の『名前』など浮かぶはずが無い。二対多の状況になっただけで、ジェーンを拘束する可能性も薄まる。

 何とも脆い作戦(・・)だった。



 見上げた月は、やけに綺麗だった。

「……逃げ場は無いのか?」

「全方位囲まれてるね。いや、何と言うか、死ぬには良い日だって事か?」

「死んでたまるか。俺は子供ん時から、ジジイになって、畳の上で死ぬって決めてんだ」

「はっ、ダイオージョーかい? 良いねえ、それ」

 皮肉っぽく、コヨーテは嘯く。

「夜が明けるまでジッとしといてくれねえかな……」

「そりゃ無理そうだな。奴ら殺気立ってやがる」

「先に言っとくけど俺、弱いからな」

「……知ってるよ。分かってる、なるべく犬どもの相手はミーがやる。傘に篭って何とか凌いでおいてくれ」

 何も期待していない。諦観の表情をコヨーテは浮かべた。

「だが」

「……何だよ?」

「嬢ちゃんの相手は任せた。完璧に任せたぞ」

「……貧乏くじ引かせやがって」

「生憎、ミーはくじなんて引いた事無くてね」

 二人が軽口を叩き合っている間にも、殺気めいた獣臭が近づいてくる。獲物を逃がすまいと、徐々に包囲の網を狭めてくる。

「そろそろ、来るぞ」

「とりあえず、ジェーンは任せろ」

「声が震えてるぜ」

「……うるせえ」



 影が、一つ。

 しなやかな、長い影。

「周り、見てきましたよ」

 影がもう一つ。

「凄いですね。この公園、犬だらけですよ。街中の犬全部が集まってるんじゃないですか?」

「そうか」

「野良犬騒ぎも仕方ないってもんですね」

「ふん、犬如きで駆り出されるとはな」

 後からやってきた、少し興奮した様子の男に対し、最初から居た女は男の報告を冷静に受け流した。

 公園の街灯(・・)の上に立つ男女はしばしの間公園内に視線を遣る。

 男女とは情報部の春風と、その部下である漣だった。

「漣、一番犬が集まっていた場所は何処だ?」

「え、と。確か、あっちの森みたいな場所ですね」

「……成る程な」

 納得したように呟く春風を、怪訝な様子で細波は見る。

「あの、何がでしょうか?」

「気にするな」

「嫌な予感がするんですけど。もしかして、ジェーン=ゴーウェスト絡みの話ですか?」

 漣は先日仕入れたばかりの話を思い出し、少しだけ憂欝になった。

「気にするな」

「……気にしますよ。もし彼女が居たらマークしないと駄目だって言われてるじゃないですか」

「そして、ジェーン=ゴーウェストがソレならば勤務外の要請をしろ、とも言われているな」

「う。分かってるじゃないですか」

「当然だ」

 無感情に、無表情に、春風は告げる。

「……今回は大人しくしてくださいよ。あの蛇の時、始末書を書いたのは誰だと思ってるんです?」

「あそこに一一とジェーン・ゴーウェストがいるわけだな」

「なっ、ちょっ、お願いしますよ……情報部の仕事しましょうよ……」

 情けない声で漣は懇願する。無駄だと分かっていても。

「安心しろ。一一らと接触は取らん」

「あ、本当ですか?」

 良かった、と、漣は安堵の息を吐いた。

「……まあ、犬ぐらいは退かしてやっても良いか」

「は?」

「後々役に立つかもしれん」

 春風はぼそりと呟き、散歩道の方へと飛び去った。街灯から街灯へと飛び移る彼女の背中を眺め、漣はいつものように頭を抱える。

「……この仕事辞めようかな……」



「……犬が、減った?」

「犬が、え? なんで?」

「さあね。だが、気配は確実に薄れてる」

 不思議そうにコヨーテは呟いた。

「抜けられそうか?」

「いや、そりゃ無理だな。あくまで減ってるのは森の外側の犬たちだよ」

「……誰か、いるのか?」

 さてね。周囲を見回し、コヨーテは姿勢を低くする。

「嬉しいハプニングだが、そろそろミーたちも気合入れようか」

「ああ……」

 言われなくても分かっている。

 既に一の耳にも獣の唸り声が聞こえていた。寒気がする。今から、本当にジェーンと一戦交えるのか、あの(・・)ジェーンと。

 ――でも、やるっきゃない。

 アイギスを握る手に力を込め、一は虚空を睨んだ。


 永劫とも思える一瞬の静寂の後、


「――――ッ!」

 森の中から飛び出してくる黒い影。

 一は咄嗟にアイギスをそちらに向ける。

「こいつぁミーがやるっ」

「……頼むっ」

 喉元を食らい合おうとする野犬とコヨーテから距離を置き、一はジェーンの襲撃に心を構えた。

「ジェーンっ!」

 呼んでも無駄だと理解しているが一は呼びかける。

「――ッ!」

「うわっ」

 背後から叫喚。相手の正体を確認しないままにアイギスを広げ、一は振り返った。二頭。黒く、細い野犬が二頭。尖った耳と短い尾。筋肉質で、それでいてしなやかな体。訓練されたそれ(・・)は人間では勝てないと言われるほどに強い犬種、ドーベルマン。

「嘘だろっ」

 振り下ろされる前足をアイギスで弾き、二頭目の牙は傘の中に篭りやり過ごす。しかし、牙を突きたてようとする片方に気を取られている内に、もう片方に背後を取られてしまった。挟撃を避けるため、一は柵を飛び越え森の中に入り込む。少しでも小高い場所さえ見つかれば、地の利を得られる。そう考えて行動した一だったが、完全に裏目に出てしまった。

「――ッ」

 即ち、三頭目のドーベルマンの登場。

 不意を衝かれ、アイギスを持っている方の手を前足で引っ掛かれ、アイギスを手放してしまう。犬は好機と見たのか、一気に一に襲い掛かった。前足を巧みに使い、獲物を押し倒す。後ろ足で抵抗する部位を押さえつけながら、一息に一の喉元に口元を寄せた。

「駄犬が――」

 走り来る灰色の影。歌う犬が容赦なく爪を振り下ろす。きゃいん、と甲高い悲鳴を上げ、横っ腹を切り裂かれたドーベルマンが一から飛び退く。その隙に一が体勢を立て直し、落ちていたアイギスを拾った。

「……助かったよ」

「苦労してるようじゃないか」

 野犬たちはコヨーテの威圧に気圧されたのか、一たちを取り囲むだけで動きはしない。体全体を震わせ、野犬たちの血をコヨーテは飛び散らせる。

「……やっぱ、殺したのか?」

 一の問いに一呼吸おいた後、

「やらなきゃ、やられるぞ」

 ゆっくりと、まるで自身に言い聞かせるかのようにコヨーテは言い放った。

「こいつらに、罪は無いんだよな……」

「ミーたちにだって罪なんて無いさ。それとも何か、愛犬家の類かい?」

 一は「まさか」と首を振る。

「ジェーンはこの近くに居るのか?」

「多分ね。犬たちに命令してるのも嬢ちゃんだろう」

「馬鹿みたいな話だよ」

 アイギスを持ち替え、ズボンで手汗を拭う。心臓は、小刻みに揺れていた。頭がぼうっとする。

「ボーイッ」

「っ!」

 呼ばれて、一は我に返った。視線を戻すと、すぐ目の前でコヨーテが『敵』の喉元を食い千切っているところだった。数秒間牙を突き立てた後、痙攣する獲物を地面に叩き捨てる。コヨーテは口内の肉と血を吐き捨て、周囲で萎縮している野犬たちに威嚇の咆哮を放った。

 獣でなくても……その咆哮がどんなに恐ろしいか、一でも分かる。一は身震いしてコヨーテの後姿に目を奪われた。血が、灰色の体全てに(あか)がやけに映えている。

「どうした犬ども、ミーたちには時間が無いんだ。かかって来なよ」

「――!」

 言葉が通じたのかどうか、群れの中の一頭がコヨーテへと飛び掛る。図体の大きな犬だったが、中々に機敏な動きであった。それでも、その動きを上回る速度でコヨーテは駆ける。犬の背後を取ると、後ろ足を爪で引き裂いた。だが犬は低く唸るだけで動じない。首だけ動かして、コヨーテに食らい付こうと口を大きく開く。

「でかいだけあって鈍いな……」

 コヨーテは呟くと、相手の脇腹に自身の牙を捻じ込んだ。傷口からは血が溢れ、コヨーテの口内に侵入していく。牙を突きたてながらも、コヨーテは窒息すまいと滴る血液を飲み込んでいく。大きな犬は必死でもがくが、小回りの利くコヨーテには追いつけない。やがて、血液を流しすぎたのか犬がふらりとよろめいた。その隙を見逃すはずも無く、コヨーテは自分よりも大きな犬の、喉元へと標的を変える。口を開き、牙を立て、皮を裂き、肉を噛み千切る。深く、深く傷口を作り、開いていく。

 他の犬たちは恐れをなしたのか、取り巻くように二匹の戦闘を眺めていた。



 一は周囲を警戒しながら、コヨーテの戦闘を眺めていた。

「ひでえ……」

 勝手に口が動く。

 目の前の情景。相手は、ソレではない。なのに。

 ――なのに。

 余りに惨く、余りに酷く。苛烈で、峻烈で、それでいて鮮烈。

 一は頭を振って、強く自分を意識する。自分を保つ。

「そうだ……」

 関係無い。忘れろ。仕方ない。

 呪文みたいに何度も頭の中で唱えた。自分が何をしに来たのか、何をすべきなのか。あんな物(・・・・)、犠牲にすらなりはしない。

 すう、と、大きく息を吸い込み、

「――ジェーン」

 自分でも驚くほど澄み渡った声で彼女を呼ぶ。

「近くで見てるんだろうが、出て来いよ」

 耳を澄ませ、意識を尖らせ、一は神経を研ぎ澄ませた。

 このままでは被害が広がってしまう。もう、止めなくてはならない。自分たちだけの問題では無くなってしまう。

 だが今なら、今ならまだギリギリのラインで間に合う。

「ジェーンッ!」

 答えは、すぐに返ってきた。


「――がっ!」


 一の、すぐ後ろから。

 風が吹いたと思った次の瞬間、一は森の中を転がっていた。

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