月光カーニバル
お兄ちゃん。
お兄ちゃん。どうして、ここからいなくなるの?
どうして、ここじゃないところに行くの?
ねえ、どうしてアタシを置いていくの?
「あー!」
「……うるさいぞ」
オンリーワン北駒台店、バックルーム。
突然上がった大声の主に、店長が非難めいた視線を向けた。
「……何でもないけど?」
声の主は糸原。店長とは視線を合わそうとせず、そそくさとバックルームから立ち去ろうとする。
「待て。今隠したものを出せ」
「はあー? 何にも隠してないわよ。無い物出せって言われてもそりゃ無理な相談よね」
「……糸原、こっちを見ろ」
糸原は背を向けたまま固まっていたが、背後からの無言の圧力に屈した。
「ん。好きなだけ私の顔見て良いわよ。ほら、超美人でしょー」
「目が泳がないな」
「あったりまえでしょ。私、後ろめたい事なんかしてないもの」
「無駄に偉そうだな」
「偉そう? あら、正々堂々胸張って背筋伸ばして生きてくのが悪い?」
「いや、悪くない。それより糸原、制服のポケットが膨らんでるぞ」
「は? んな訳な……あ」
何気ない店長の口振りに糸原は引っ掛かった。つい、ズボンのポケットに手をやってしまったのだ。
「……で、何を盗んだ?」
「盗んでないわよっ」
糸原は眉を釣り上げ、ポケットにしまっていた物を店長に向かって放り投げた。
「お前は嘘が上手過ぎる」
片手でそれをキャッチすると、店長は楽しげに笑う。
「嘘が上手いってのに、どーしてバレんのよ……」
「どうにも不自然に見えたんでな。まあ、私以外には通じると思うぞ。特に一や立花には」
「褒め言葉になってないんだけど?」
「さて。ん、これは?」
店長は首を傾げ、手の中の物をためつすがめつ見返した。
「……キー、ホルダー?」
チェーンの付いた、可愛らしくデフォルメされたピンク色の猫。
「子供の喜びそうなおもちゃよ。珍しい商品だから、ちょっと弄ってたの、そしたら……」
糸原の言葉を受け、なるほどと店長が呟いた。……猫の、尻尾が取れている。
「……なんで隠そうとするんだ……」
「だって、弁償とかイヤだし」
「けち臭い奴だな。まあ、今回は特別だ。お前は初犯だから見逃してやろう」
「……ホント?」
「ああ。壊れてしまった物はしょうがない。それに、所詮はガキのおもちゃだ」
つまらなさそうに言いながら、店長は猫のキーホルダーをごみ箱に投げ捨てた。
「何? 捨てちゃうの?」
「商品にならんからな」
「接着剤で直して、立花にでも上げれば喜ぶんじゃない?」
「……私が立花を喜ばせる理由が無い。と言うかだな、一度壊れてしまった物をやるのも可哀相だろう」
うーん、と糸原は腕を胸の前で組んで唸っていたが、あっさりと「それもそうね」と切り捨てた。
そう、壊れたモノは直らない。
最初は何が転がっているのか分からなかった。だからもっとそれに近づいて、顔を近づける。するとようやく鈍い頭の鈍い脳味噌が緩々と思考を開始し、理解した。
「……うあ」
目的地である公園に辿り着いた一とコヨーテは、一番にそれを発見した。
「酷いな……」
バラバラに飛び散っている、恐らくは人間だったモノを見下ろし、コヨーテは哀れむような口調で呟く。
『素敵な散歩道。森林浴を楽しもう』、そんな謳い文句が書かれた看板に背を預けて一は頭を振った。
「……最悪だ」
「ふうん、やられたのは二人みたいだな。さて、どうするよリトルボーイ?」
「どうするったって……」
一はもう一度、現場に目を向ける。あまりにも凄惨な光景だった。二人分の血液と臓物がそこら中にこびり付き、そこに居る者には鼻が曲がるような血の臭いが吐き気を訴えかける。逃げ出したくなるのを堪え、
「……このままにはしておけないだろ」
一は声を絞り出した。
「じゃあ嬢ちゃんはどうなっても良いんだな?」
「な……?」
そういう事だろ。コヨーテはどことなく冷淡な声音で言い放つ。
「そんな事言ってねえよっ。だったらお前は放っておけって言うのか?」
「……そうだ。選べ。選ぶ事を覚えろよ。いったい、ユーは何をしにここまでやってきたんだい」
「……っ! 分かってるよ!」
分かってる。分かってる。だけど心は揺れ動く。捨てていけ。置いていけ。どうせコレは死んでるモノだ。何を優先すべきなのか分かってる。そう、一は自分に言い聞かせる。何度も、何度も。
「……行くぞ」
一は背の高い木々が連立する散歩道へと歩きだす。
今は、それで良い。そうやって自分を正当化しないと、壊れてしまいそうだった。
「リトルボーイ、歩きながらで良いから聞いてくれ。もし、もしだ。ユーは……嬢ちゃんが壊れていたらどうするんだ?」
「元に戻す」
「具体的な答えが聞きたいね。壊れてるモノをどうやって直すって言うんだ?」
「ジェーンはモノじゃない。壊れたりしないさ」
「気に入らない答えだな。良いかい? 直らないから壊れたって言うんだぜ」
「直らない物なんか無いさ」
「……バラバラになったモノは?」
「欠片を全部集めてくっつければ良い」
「欠片がなければどうしようもないぜ」
「新しいのを持ってくりゃ良い」
「おいおい……」
「心配すんなよ」
呟いて、一が徐に足を止める。
「俺たちは、壊れるほど立派な形を持っちゃいない」
「? なんだそりゃ?」
「歪、だってさ。だから壊れるほどのモノは作っちゃいない。いや、端っから壊れてたかも知れないな」
「…………だから、日本人は嫌いなんだ」
コヨーテは一に背を向けると、一匹でスタスタと歩いていってしまう。
彼の憮然とした様子に苦笑しながら、一も後を追い掛けた。
どうして? どうして? どうして!?
頭の中を占めるのは疑問と驚愕のみ。予想外、予想以上の状況に対してこれからどうするのかすら、今の彼には分からない。
「はっ、はっ、はっ……!」
みっともなく舌を垂らして喘ぐように呼吸を繰り返す。休みたい、止まりたい、早く楽になりたい。だが、足を止める事はできない。何故なら彼の背後には明確な『死』が居るからだ。
「……くそっ、くそっ!」
朦朧とする意識の中、口を吐いて出るのは呪いの言葉。効き目なんてまるで無い、確かにそれは一種マジナイでもある。
今にも倒れこみそうなほど疲弊している彼は何度も振り返り、追跡者を確認する。その度に死との距離は縮まっていて、絶望に身を捩りたい気分だった。
視線を前に戻すと出口が見えた。背の高い木々が連立する散歩道。頭上から僅かに注ぐ月明かり。彼は思わず安堵する。
「はっ、はっ、はぁっ……!」
ここになってようやく、彼の思考がまともになり始めた。考えるのは唯一つ。なぜ、俺が負けたのか。みっともなく逃げ回っているのか。こんな筈じゃなかった。彼は心中で悪態を吐きながら、さっきからうるさいぐらいに訴えかけている右腕の痛みに顔を歪ませる。
「ぐっ……」
スッパリと、根元から、彼の右腕は消えていた。傷口からは鮮血が滴っていて、散歩道に道しるべを作っているようにも見える。
バランスを崩したまま、彼は走った。走って走って走って走って――
「捕まえた」
肩に、手が置かれた。やんわりと、体を労っているような。そんな手つきで。
「あ……」
情けない声が漏れる。
「ぎっ!」
声は苦痛を秘めた物に変わった。置かれていた手に力が込められ、爪が食い込んでいく。深く、静かに。彼は逆らう事も出来ずにただ正面を見つめていた。
「ネ、どうして逃げるノ?」
問い掛ける声は恐ろしく穏やかで優しい。寒気がする。
「たっ、助けてくれ……」
死を間近に感じた瞬間、思わず救済を求めた。求めてしまった。もはや、彼の中に戦う意志は存在していない。生きたい、死にたくない。本能が彼にそうさせたのだ。
「お、お願いだ。命だけは……」
生きてさえいれば、復讐の機会もいずれ訪れよう。戦闘衝動に身を焦がし、血肉に心を踊らせる彼にとって今の行為、状況は屈辱でしかない。
「たのむ……」
だが、今だけだ。これが最後だ。自ら望んで人としての半分を捧げた。戦う為、血を味わい肉を引き千切り魂を震わせる為に。だから、ここで終われない。まだ死ねない。生きてさえいれば、生き延びさえすれば。
「………………」
長い、長い長い沈黙の後、
「ダメ」
舌足らずな、やけに可愛らしい声で死刑は宣告された。
道を進んでいた一たちは、道しるべに気が付いた。
「……血だ」
臭いに敏感なコヨーテが、一を制し辺りに鼻を向ける。
「まさか、また……」
一の脳裏に先程の死体が過った。ズタズタに引き裂かれ、死に際し人間として最低限の誇りさえ失ったあの、死体。
「いや、死んじまうような量じゃない。ほら、見なよ。跡が向こうに続いてる」
コヨーテは顎をしゃくり、道を示した。一は指し示された方角に目を凝らす。……確かに、言われてみれば点々とした血痕が続いていた。
「ま、ここで血生臭い出来事はあったみたいだけどね」
「……この先に、あいつがいるのか?」
「可能性は高いだろうね。けど嬢ちゃんがいるって事は奴もいるって事になる」
「……先を越された、んだよな」
「間違いなくね」
深く、大きな溜め息を吐いた後、一は確かな足取りで歩きだす。
「正直、鈍ってるよ。あいつと会ってもどうしたら良いか分からなくなってる」
「……ミーは、なるべくなら嬢ちゃんを助けたいと思ってる。ユーも、好きなようにやれば良いじゃないか」
「そのつもりなんだけどな」
「土壇場に弱い男は嫌われちまうぜ?」
「……そうかい」
「――――――!」
「!」
静寂を破り捨てる、悲痛な声。木々の合間を抜けて聞こえたその声に一とコヨーテは弾かれたように顔をあげる。
「今のは……」
「近いぞっ、リトルボーイ!」
先んじて走りだすコヨーテ。
「待てよっ! 結局っ、どうすりゃ良いんだ!」
一はコヨーテの背中を追い掛ける。到底追い付けそうになかった。
「やりたいようにしなよっ!」
「でもっ!」
「兄ちゃんだろっ!」
コヨーテの声は徐々に遠くなる。ある程度舗装された道とはいえ、月明かりの届きにくい森の中では心許ない。躓きそうになりながら、必死でコヨーテに追い縋りながらも、一は声を振り絞る。
「そうだよっ! 兄ちゃんだよっ!」
「だったら気にすんな! やりなよっ、それにっ」
「はあっ!?」
いよいよコヨーテの後ろ姿が見えなくなってきた。もはや声さえも届いているのかすら怪しい。
「それにっ、今夜は月が綺麗じゃないか!」
嬉しそうな声。
「……見えねえよ!」
ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃん、アタシ会いに来たんだよ。あなたが手紙の一つもくれないし、電話の一本もくれないから。来てくれないから、来たんだよ。
なのに。なのに。
どうしてこっちを見てくれないの。どうしてアタシを無視するの。どうして、あいつらばかり気にするの。
おかしい。おかしいよ。おかしいっ。おかしい! おかしいっ!
狂ってる。
許せないよ、お兄ちゃん。アタシのお兄ちゃんはそんなんじゃない。そんなんじゃダメなの。ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ。アタシのお兄ちゃんはもっと優しくなきゃダメなの。もっとアタシの事を大切にしなきゃイヤなの。もっと、もっとアタシだけを見てよっ!じゃないと。
じゃないと――
辿り着いたその先で、ジェーンは笑っていた。人狼だったモノを見下し、その亡骸を踏み付けている。彼女の右手はやけに水気を帯びていて、左手は何かを掴んだままだ。
「あ……」
一は、声を掛ける事が出来なかった。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、一が見慣れていた筈の。
「……ジェーン」
「待て。待て、動くなよ」
血に濡れた素肌に淡い月光が反射して、この世の物とは思えない雰囲気を醸し出す彼女。
……一は、見惚れていた。
知らずの内に一歩踏み出し、ついさっき全力疾走したばかりで膝が笑っているのにも構わずにもう一歩。一歩、近付いていく。誰かに操られているような不確かな足取り。
「待てよっ」
背後からコヨーテの声が聞こえてくるのにも意に介さず、夢遊病患者みたくおぼろげな足取りで一は進んでいく。
「――――」
そんな一を見て彼女は笑う。ジェーン・ゴーウェストは哂う。
「ジェーン……」
「お、兄……」
向かい合った二人は手を伸ばしあった。真っ白な一の手。真赤な、ジェーンの手。
「――――――ッ!」
後ろから音の風。一は耳を押さえ、その場に蹲った。
「ああああっ!」
突然の衝撃に、ジェーンは耳を押さえ地面を転がった。
「ボーイ! 中てられるな!」
音波の正体はコヨーテの咆哮。
「……う」
一は今初めてここにいるのだと気が付いたように辺りを見回す。
「そこから離れろっ!」
だけど、一の足腰は言う事を聞いてくれなかった。見かねたコヨーテが一のコートの襟元を噛んで引っ張っていく。
――待てよ!
そう言いたかったが、頭の中がガンガン響いていて声が出せない。代わりにコヨーテの首輪を掴み、一は彼の進行を妨げる。
「仕切りなおしだっ、ユーは無防備過ぎる」
まだ、ここにはジェーンがいるのに。何を、仕切りなおすというのだろう。一には何一つ理解できなかった。
「はなせ」
「……何だって?」
「はなせっ」
力の入らない腕を無理矢理動かし、コヨーテを退かす。
「待つんだっ、今はやばい! 嬢ちゃんはやばい、予想外なんだよ!」
何が予想外だ。内心で悪態を吐き、一はよろよろと立ち上がった。
「ジェーン」
未だ苦しそうにして転がっているジェーンを見つめ、一は歩き出す。
「……っ」
頭が痛い。ぐらぐらと視界が揺れている。息もし辛い。
「う、あ、ああ……」
「……待ってろよ」
――俺が、助けてやる。
一とジェーンの視線が交差。
「ジェーン……大丈夫か?」
怯えた表情のジェーンを安心させるように微笑むと、一は彼女へ手を差し伸べた。
「やめろっ!」
雑音。雑音。
「……あ、あ」
「大丈夫だって……」
ちゃんと、自分の思ったとおりに喋れているだろうかと一は不安になる。なんだか舌が痺れているような感覚がしている。
「……お、にい……」
ああ。
なんて可哀想なんだ。血に塗れて、泥に塗れてぐちゃぐちゃの顔と服。
なんて可哀想なんだ。彼女の体は酷く震えていて、彼女の瞳は酷く潤んでいて、彼女の手は酷く――
「え?」
――冷たかった。
手が触れ合った瞬間、一自身を引き千切らんばかりの力で腕を掴まれる。宙に浮く体。地面と中空、視界は反転。持っていたアイギスは振り落としてしまう。視界の隅でそれを捉えながらもどうする事も出来ない。
「う……」
吐き気。吐き気。吐き気。
「がっ……!」
体は直ぐに腹から地面へと叩きつけられる。胃の中の物全て口からぶちまけて、一は視界さえも吐瀉物で覆われた。
「ねえ、お兄ちゃん」
一の頭上から声がする。舌足らずな、とても可愛らしい声。
「……は、はっ、はっ……」
息が出来ない。苦しい。苦しい。一は必死で自分の戻した物から顔を上げ、無理矢理体を捻らせる。仰向けになって酸素を取り込もうと口を何度も動かした。
「……お兄ちゃん」
呼んでる。呼んでる。妹が呼んでいる。だけど返事なんて出来そうにもない状態だった。
「お兄ちゃんっ」
ぐい。引っ張られる。
「……う……」
「聞いてるのっ!? 返事してよ!」
右腕を無理矢理引っ張られて立ち上がらされる。次に首をロックされた。一の喉元にまで人狼のモノであろう血がこびり付く。
「ねえっ、ちゃんとアタシの話を聞いてるのっ!?」
声を出せなかったので一は首をゆっくりと縦に振った。首肯を認め、ジェーンはぞんざいに一を地面に落とす。
「ねえ、アタシのコト好き?」
思わず顔を上げた。本当に予想していなかった質問。なんだ、それは。今ここで言う事なのか。違うだろう。
「……ジェーン?」
咳き込みながらも一は問いかける。聞きたいのはそんな事じゃない。言いたいのはそんな事じゃない。
「好き? ね、どうなの?」
だけど、異常に昂ぶっているジェーンには何を言っても届きそうに無い。とりあえずは素直に従っておくべきだと一は判断する。
「あ、ああ……」
蹴りが飛んだ。油断しきっていた一の腹に鋭い痛みが走る。また吐いてしまいそうだったが何とか堪えた。
「なっ……!?」
「ハッキリしてヨ」
「……なっ、何を……」
もう一発。今度は蹲っていた一の後頭部にジェーンの踵が突き刺さる。もう悲鳴すら上がらなかった。一はどうしようもないほどぐちゃぐちゃに混乱している思考回路を必死に繋ぎ止める。
「イエスかっ、ノーで答えてっ!」
「……イ、イエスっ」
「――じゃあ、タチバナは?」
「……え?」
ぞくりと、底冷えするようなジェーンの声に一の背筋が震えた。彼女のこんな声、今までに一度だって聞いた事が無い。
「答えてよっ!」
もう、一は顔を上げられない。とてもじゃないが、ジェーンの、妹の顔を見ようとなんて思わなかった。ここまで来てやっと気付いた。
「……た、立花さんは……」
「早くっ!」
――怖い。
まるでソレを目の前にしているような感覚が一の体中を支配する。犯していく。
「き、嫌いじゃない」
一の腹部にさっきよりも強い衝撃。
「イエスかノーって言ったじゃナイっ!」
この答えは紛れも無く一の本心だった。心の底から人を好きになる事も無ければ心の底から人を嫌いになる事も無い。だからこその「嫌いじゃない」。中途半端な、彼の答え。
「……イエスだ」
「……ふぅん」
値踏みするような、心の底まで覗かれるような粘っこい視線が一に注がれる。
いつの間にか一は手に汗をかいていた。
「じゃあイトハラは?」
「イエスだ」
「ボスは?」
「……ノー」
「ミツモリは?」
「…………イエス」
「オッケー」
背中に衝撃。息を全部吐き出して地面に崩れ落ちた。何が起きたのか分からない。
「ねえ、お兄ちゃん? どうして? どうしてなの?」
それはこっちの台詞だと言ってやりたかったが、やはり満足に息すら吸えない状態なので、どうしようもなかった。
「アタシが好きなんじゃないの?」
――ああ、そうだよ。
何とか体を起こし、一はうつ伏せから仰向けに体勢を移す。
「……好きだ」
「じゃあどうしてっ!?」
びりびりと、一の鼓膜にジェーンの怒声が襲い掛かった。
「どうしてあいつらの事も好きなの!? 見ないで、話さないで、思わないで好きにならないでよ! アタシだけ好きでいてよ! おかしいじゃないっ! アタシのお兄ちゃんがアタシ以外を好きだなんて、おかしい! 全部、全部嫌いって言ってよ! あいつらなんて好きじゃないって、そう言って! じゃないと許さないっ」
――これ、何だ。
一は目の前にいるのが誰なのか、分からなくなっていた。声も、顔も、全てジェーンの物なのに。もう分からない。それとも、自分が間違っていたのだろうか。今までこれがジェーンだと、そう信じていただけだったのだろうか。
「……はっ」
ここから逃げたい。助けてほしくて一は視線をさ迷わせた。さっきまでいたはずのコヨーテの姿が消えている。立派にお兄ちゃんをこなせない自分に愛想を尽かせたのかもしれない。
「ははっ……」
口元が歪む。自嘲がどこか空々しかった。
「笑わないでよ! ……ねえ、どうなの? みんな、アタシ以外の奴はみんな嫌いよね? そう、よね?」
「……ああ」
馬鹿馬鹿しい。
白々しい。
何が兄だ。何が妹だ。何が家族だ。結局はごっこだ。子供の、薄ら寒い吐き気を催すようなママゴトだったんだ。店長に言われた事を脳内で反芻し、一は全てを投げ捨てたくなる。
――そうだよ。全部嫌いだ。みんな死んじまえ。
「嫌いだよ」
「タチバナも?」
「嫌いだよ」
「イトハラも?」
「嫌いだよ」
「……ボスも?」
「死んじまえ」
「…………ミツモリも?」
「……ああ、大嫌いだ」
「そっ……か。そっか、ふふ、良かった」
凄絶な笑みだった。一に対して半ば強制的に言わせた言葉に、ジェーンは心底から喜んでいる。
「じゃあ、死んでくれるかな、お兄ちゃん?」
最初はジェーンが何を言っているのか理解しようとしなかった。だけど一は霞掛かった意識の中でそれも良いかと軽く頷く。
「良いよ」
「ふふっ、ありがと。断られたらどうしようかと思ってた」
「一思いにな」
「……? いつだってアタシはお兄ちゃんだけを思ってるよ? だから、死んで欲しいの。もう、お兄ちゃんは誰にもあげない。お兄ちゃんの全部をアタシの物にするんだ。ね、今お兄ちゃんが死んじゃえば、アタシのモノになってから死ねるんだよ?」
スタンディングオベーションでもしてやろうかと一は笑った。
「ふふっ、それじゃあね」
「ああ……」
一は寝転がったまま月を見上げる。綺麗だった。今までに見てきた中でも極上に。最期に見る景色にしては上等だろうと、月と、血に塗れたジェーンを網膜に焼き付けてから目を瞑った。
「アタシもすぐにそっちへ行くから」
「ああ、待ってる」
「――待つんじゃないっ!」
何かと何かがぶつかるような音の後、ジェーンの口から悲鳴が漏れる。
「……」
一は気だるげに首を動かして、森の方へと吹っ飛ばされたジェーンを見遣った。
「何やってんだリトルボーイっ、ここまで死にに来たってのかよ!」
「……コヨーテ」
ジェーンの横合いからぶつかって来たのは今まで姿を眩ましていたコヨーテだった。彼は一が落としてしまっていたアイギスを地面に転がす。
「こいつを拾いに行ってたんだよ」
「もう、必要ねえよ」
「何度も言うが、ユーは無防備すぎる。今の嬢ちゃんは異常なのさ。ボーイは中てられてたんだよ」
「……中て、られた?」
「正直言って、ミーは嬢ちゃんを見くびってた。たかが人狼、しかもハーフの出来損ないってね。だけど違う。こいつはやばい。今日が満月ってのも差し引いたとして、ありゃ本物だぜ」
一はふらふらと立ち上がり、近くの木の幹に背を預けた。
「どういう事だよ」
「時間が無いから手短に説明するけど、月は人を狂わせるんだよ。特に、今日みたいな満月の日はね。それでもってあの嬢ちゃんだ。頭がおかしくならない方がおかしい」
「ジェーンは、人間だ」
「半分はね。もう半分は狼さ」
「……俺がおかしくなってたのは認める。でも、どうしろってんだよ」
コヨーテは油断無く、ジェーンが飛んでいった方向を睨みつける。
「ミーの見たところ、嬢ちゃんとはまともに話も出来そうにもない」
「誰が見てもそうだよ」
「話が出来る状態に戻すんだ。最悪、今晩どうにかすれば嬢ちゃんの狼としての力は弱まる。そうすりゃ嬢ちゃんの理性も帰ってくるだろ。時間を稼ぐのがベターだね」
「……駄目だ。ベストじゃない。今のあいつじゃ何をしでかすか分かんないぞ。ここで俺たちが止めるんだ」
「それこそ、どうするんだい?」
一は溜め息を吐いて、転がっていたアイギスを拾い上げた。
「大人しくさせるしかないな」
「だから、どうやって?」
「……気が引けるけど、ボコボコにして縛り上げるしかないだろ」
「…………それが、ベストなのかい?」
「………………知るか」
遠吠え。遠吠え。遠吠え。
血の臭いと仲間の匂いに誘われて彼らはやってくる。列を作り、群れを成し、彼らは駒台公園とへ進軍を開始する。恐れていたモノがここにいる。
だから、彼らは助けを求めていた。団結し、それを何とかする為に。片方は何とかなった。後は、もう片方。
そうだ。
今宵、ここは月光の――