忌避すべきモノ
ああ、今夜は月が――。
「お兄ちゃん」
振り向いた彼――つまり一一――は絶句していた。驚愕の表情を顔に浮かばせ、お世辞にも美形だとは言えない間の抜けた顔を心なしか引き攣らせている。
――やった。
少女――ジェーンゴーウェスト――は一が期待通りの反応を見せた事に内心ほくそ笑んだ。
「………………」
「どうしたの、お兄ちゃん?」
ジェーンは困惑する一へと追い討ちを掛ける。もう一度、上目遣いに呼び掛けてみた。
「う、あ、え?」
効果は覿面だったらしく、一はジェーンから目を逸らしオロオロとするだけ。
「熱でもあるの?」
ジェーンは背伸びして、一の額へ自分の額を持っていく。彼は「うえぇっ?」とか喚いたが気にせずにピタリと額同士をくっつけた。
「……あれ?」
至近距離で。ジェーンは一の顔を観察し始める。そして一分ばかりの時間を要して気付いた。
「本当に熱いじゃない」
「離れろよ!」
肩を力任せに押されてジェーンはよろけてたたらを踏む。
「ちょっと、レディに何するのよ?」
「おっ、お前こそ何のつもりだ!」
「ハーン?」
顔を真っ赤にして怒鳴る一に怯む事無く、ジェーンは口笛でも吹きそうなくらい軽い態度で臨む。
「いきなりお兄ちゃんとか言うな! 恐いわ! イタリアのギャングかお前は!」
「……ギャング?」
「……ああ、知らないか」
ジェーンは素直に頷いた。
「とっ、とにかく。俺をお兄ちゃんと呼ぶのはやめろ」
「……兄さん?」
「違う」
「お兄さま?」
「そうじゃないっ」
「兄上っ」
「だーかーらー」
「兄チャマ、チェキ☆」
「てめぇわかってやってんだろ!」
ジェーンは素直に頷いた。
一は溜め息を一つ吐き、あのなと前置きをしてから、
「呼び方の問題じゃない。俺を兄と呼んだり、兄と思うのはやめろって言ってんだ」
気だるげに口を開く。
「えー、どうしてよ? アタシが納得出来る理由を教えてくれなきゃ、パパたちの前でお兄ちゃんの事お兄ちゃんって呼ぶからね」
「……ややこしい奴だな。理由も何も無いよ。俺は、お前の、兄ちゃんじゃない。そんだけで充分だろ」
ジェーンは不満げに頬を膨らませた。一は少しだけ躊躇う素振りを見せたが、構わずに話を続ける。
「お前とは血が繋がって無い。本当の兄妹じゃないのに、そんなのおかしいよ」
「お隣のフィーはライアンの事を『お兄ちゃん』って呼んでるじゃない」
「それは、あの二人が幼馴染でご近所さんだからだろ」
「納得出来ない」
強く、固い意志を込めてジェーンは言い放った。
「納得しろよ。世間体ってのもあるの。良いか? お前みたいなちっちゃいのに俺みたいな奴が『お兄ちゃん』って呼ばれてみろ。それを聞いた人はどう思う?」
まず『小さい』発言に腹が立ち、次に一の『お兄ちゃん』と言った時の声音が気色悪かった。
「……仲が良いのねって思うんじゃない?」
「誰がっ! 日本人がちっちゃい子に無理矢理兄さんと呼ばせて気持ち悪いって思われるわっ」
「本当にネガティブなんだから……」
ジェーンは彼の自虐的と言うか、常に後ろを向いた姿勢が嫌だった。そこさえ直してくれれば、もう少し好きになれるのに。
「考えが深いと言え」
「考えるだけで行動に移さないだけじゃない。なんで日本人って周りの目を気にするのよ? そーいうの疲れない?」
「はっ、疲れないね。しょうもない話をお前とするよりかはな」
「………………」
時間が経つにつれ、仲が良くなるにつれ、ジェーンは一の性格、本性を理解し始めていた。
「あのさ、お兄ちゃんって性格悪いよね」
「おまけに口も悪いし頭も悪い。顔も悪いし、背も低ければ金すら無いって奴だ」
「もうっ、自分を悪く言うのやめなよっ」
本当に気に入らない。誰もそんな風に思っちゃいないのに。
「うるさいな。だったら俺の事を兄ちゃんなんて呼ぶなよ。無視すれば良いじゃねーか」
「そっちが仲良くしようって言ったんじゃない!」
「誰が兄ちゃんと呼べなんて言ったよ」
「……っ!」
だったら。
「確かに仲良くしようとは言った。だけど兄妹みたくしようとは言ってないね」
だったら。
「うっ、うるさい。アタシの勝手でしょ」
目の前の、一一を、なんと呼べば良いと言うのだろう。
――はじめ。
無理だ。そんなの今更だ。恥ずかしくて照れ臭くて情けなくて。だから誤魔化そうとしたのに。
「……おい、泣くなよ?」
「泣いてないっ!」
「……あっそ。とにかく兄ちゃんは禁止な」
素っ気ない態度。一は手を振り自室の扉に手を掛ける。いつもそうだ。彼は用が無い限り、自分の世界に閉じ篭る。こちらから呼び掛けない限り、絶対に姿を現さない。
「……お兄ちゃん」
「……おい」
卑怯だ。ずるい。とにかくやり方が汚い。思えば、いつからかジェーンは一に惹かれていた。あの日一緒に夜空を見上げた時か。もしかしたら、最初に顔を合わせた時かもしれない。ない。関係ない。
「お兄ちゃん」
気になるのに、そうさせたのに、彼からは決して動かない。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「やめろってば……」
だったら、自分から動かなければしょうがないではないか。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんっ」
「やめろって!」
振り向かせてやる。認めさせてやる。認めてやる。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!」
「………………もう、好きにしなよ」
日が沈みかけた頃、彼女は目を覚ました。朧げな記憶。微かな、甘い感覚。夢を見ていたのだと、彼女は認識する。
「……熱い……」
酷く、喉が渇いていた。思えば昨夜から何も口にしていない。そして何故か体が痛かった。彼女はブロンドを靡かせ周囲を見回す。見覚えの無い景色だ。まだ夢の続きにいるのだろうか。現実味を帯びない、ぼやけた視界。一面の緑。差し込む橙。森の中にでもいるのか。彼女は頭を振って、耳を澄ませる。すると、微かに聞こえる人の声。活発な幼い声。ここらで家族らしき人たちがピクニックをしているようだった。時折母親らしき人物が子供に注意を促している。楽しそうな家族の弾んだ声。いったい何故、自分はこんな所にいるのだろう。考えれば、思い出そうとすれば、鈍い痛みが頭を揺らした。それでも彼女は思い出す。
土に汚れ血に塗れた服。あの人が昔、可愛いと褒めてくれた服。
「……っ」
痛い。頭が痛い。だけど彼女は思い出す。そう、昨夜だ。思い出せ。自分は何をしていた。
ああ、そうだ。歩いていた。誰かと。誰と? 曖昧な記憶を引っ張り出せ。痛む頭に、楽しげな声が耳障り。
ああ、そうだ。彼と。一と。兄とだ。それから、それから。それからそれから。
「……ぅ」
手が痛い。痛い。傷なんて負っちゃいない。なのに痛む。シクシクと、ズキズキと痛む。
――ああ、そうだ。
「くあっ……!」
流れ込む。蘇る。止めてくれと必死に思考を脳を回路を遮断。出来ない。昨夜の光景、その断片ときに塊が奔流となり、彼女の脳内を怒濤となり進む。壊す。犯して回る。理性が砕かれていく。助けを求め空を仰げば一面の茜色。太陽は沈みかけ、月が現われていく。見えてくる。
月が。月が。月が。月が。
月が彼女を騒つかせた。滾らせた。本能が、本能という本能が叫ぶ。闘争を。闘争という闘争を求めて叫ぶ。彼女の体を構成する細胞から原子、一つたりとも意を違わず、一つに口を揃えて渇望する。
血を。血を。血を。血を。
「かっ……は……」
熱い。異常な熱が彼女を支配していく。抗えない。逆らえない。気を抜けばすぐにでも堕ちてしまいそうだった。地を掻く。爪の間に土が入り込もうが爪が剥がれようが構わない。意識を逸らす。それだけに全力を尽くす。
「……う……」
情けない。自然に涙が零れた。どうしてこんな目に遭わなければならないのか。どうしてこんな気持ちにならないといけないのか。
ネガティブな感情は怒りに取って代わる。怒りは本能を呼び覚ます。分かっているのに、どうしても気持ちは殺せない。委ねてしまいたい。だが、最後に残る理性が彼の存在を訴えかけていた。なっていいのか。次に彼と会うときに獣の姿でいいのか、と。彼女へ必死に語り掛ける。
「うっ、うぅ……」
ダメだ。ダメだ。そんなのダメだ。誰が許しても、囁いても、認められない。認めてたまるか。謝るんだ。彼に、会って謝るんだ。その一心を支えに、彼女は吐き気を堪え、土を掻き、渇いた喉で嗚咽を零しながらも耐える。次第に、衝動は弱まっていく。熱も冷めていく。血も、引いていく。
「はっ、はっ、はっ」
短い呼気を繰り返し、彼女は期待した。いける。大丈夫だ。
「ねえ、お母さぁん!」
ぞくり、と。一瞬にして血が凍った。
「待ってよ、お母さんっ」
息が出来ない。酸素が吸えない。すべての神経が耳に集う感覚。
「母さんってば!」
静寂の後、どす黒い波が彼女を再び襲った。
茜色が短い間街を覆ったあと、すぐに暗闇がやってきた。薄い雲が街を包み、雲より遥か上からの明かりを途絶えさせている。
「なあ、まだ見つからないのか?」
一は駅前のベンチに体を預け、傍らで地面に鼻を寄せているコヨーテに尋ねた。
「……なんなら手伝ってくれても良いんだぜ」
「風邪気味でね。今日は鼻が詰まってるんだ」
「はっ、そりゃお大事に。家に帰ってママのミルクでも飲んでたらどうだい?」
一は一昔前のスラングをゆっくりと噛み締めた後、
「ママとは喧嘩してんだよ」
吐き出すように言い放った。
コヨーテは面白くなさそうに尻尾を揺らし、駅前一帯を眺めまわしたあと眉根を寄せた。
「匂いが薄いな」
「……何の?」
「あいつのだよ。人の形を保ってやがったし、キツイ香水を振りたくってやがった。どっちに行ったのか見当が付かないと来てる。ふん、奴に狼としての誇りは無いらしいな」
一は男と出会った時、その、匂いなどには気が付かなかったが、鼻が利くコヨーテが言うなら間違いは無いのだろうと思案する。
「……キツイ匂いが残ってるなら、それを追えば良いだろ」
「残り過ぎだ。ここらに香水だけが溜まってやがる。匂いを辿っても、奴までは着かないと思うぜ。恐らくだが、ミーたちの追跡を振り切るために別の香りを付けてるとも考えられるしな」
「でも、やるしかないだろ」
「……分かってるよ」
あの後、一は男を追い掛けようとした。だが、コヨーテがそれを止めたのだ。匂いなら覚えていると。そう言って。一にはコヨーテの考えが読めなかったが、その手の事に関しては一日の長があると判断し、素直に従った。従った結果が今の状況。恨み言の一つでも言ってやりたかったが、一はそうしなかった。ただ、後ろで急かすのだ。
「だから、そうプレッシャーを掛けないでくれよ」
「かけてねえよ。見てるだけだろ」
コヨーテはまだ何か言いたげだったが、首を振り一から顔を逸らす。
しばらくの間、一人と一匹は口を開かなかった。一切合切の言葉を忘れて数十分。ベンチに深く腰掛けたまま、一が空を仰ぐ。
「……なあ、そろそろ良いんじゃないのか?」
「…………何が、だい?」
「話してくれても良いんじゃないかって言ってんだ」
その意味を推し量っているのか、言葉を忘れたのか、それとも単に答えたくないだけなのか。とにかくコヨーテは長い間沈黙を守った。それこそ、答えを欲している一が声を掛けるのを躊躇ってしまうほどの、長い時間。
「あの人狼なら、見つけたさ」
だから、コヨーテが口を開くのを待つしかなかった。
だけど、コヨーテの言葉は一の欲している答えじゃない。
「知ってる。俺が、いや、俺たちが聞きたいのはそんな事じゃない」
一はジーンズのポケットに手を伸ばす。
「……たち?」
「うん。俺と、ジェーン」
煙草の箱を摘み上げ、残りの本数が少ないことを確認して、溜め息を一つ。一は緩慢な動作で箱を元に戻した。
「リトルボーイ。日本人ってのは遠回りでいけないな。良いか? ユーは、ミーに、何を聞きたいんだ?」
「遠回しに本題へ入るのはな、遠慮深い日本人の美徳なんだよ」
「センスの無い人種だな」
「ピンクの首輪してる奴が言える台詞か。あのな、俺はどうしてお前が助けてくれるのかが知りたいんだよ」
黙る。コヨーテは黙る。首輪云々で腹を立てたのではない。
「誰かが誰かを助けるのには、理由がいるんだ。無意味無償じゃ誰も動かねえ」
「知った風な口を利くんだな、ミーはただ……」
「ジェーンに借りがあるんだっけか? 俺はさ、それを知りたいんだよ。お前が動く理由だ。なあ、あいつはお前に何を貸してくれた?」
コヨーテは一の問い掛けに少しだけ考えた素振りを見せた後、
「命さ」
ぽつりと、呟く。
「……そういや、救われたって言ってたっけか」
「救われたって言い方は正確じゃあ無いけどね。少なくとも、ミーは嬢ちゃんのお陰で助かったよ」
「ふぅん。行き倒れてたとこをでも拾ってもらったのか?」
確か、ジェーンは動物が好きだった。一は何気なく二年前――アメリカにいた時――を思い出してみた。
「……リトルボーイ、円卓の騎士って名前を知ってるかい?」
「円卓……?」
鸚鵡返ししながら、一はその名を思い出す。円卓の騎士。つい最近、聞いたような気がする名前。
「店長が、そんな事を言ってたような。俺が知ってんのは名前ぐらいだけど」
名前以外には、勤務外の邪魔をする集団、ぐらいの認識しか一には無かった。
「一応はユーも勤務外って事か。そう、その円卓の騎士さ。ミーは二年前にアメリカでそいつらに襲われたんだ」
「……え、あ、マジ、なのか?」
さすがに予想外だった。一は目を丸くし、眼前のコヨーテを穴が開くほど見つめている。
「ミーは軽口を叩くけど、嘘は吐かない事で有名なんだぜ」
「なんで、お前が狙われるんだ?」
「さてね。そこん所はミーに聞かないでくれ。ただ、奴らはミーで何かを試したがっていたようだけど」
「試す……」
一には訳が分からない。何を?
「冷たい夜だったよ。ミーを狙ったのは吸血鬼と呼ばれる種族でね。奴のあの目、あの目だけ、まだ覚えてる」
「……ジェーンは、お前を助けたって言ったよな」
その、円卓からコヨーテを助けたと言う事実が信じられなかった。二年前、ジェーンはただの女の子だった筈だ。コヨーテが逃げ出すくらいの連中から、どうやってジェーンが介入したと言うのか。考えても一には答えが浮かばない。
「ミーはね、嬢ちゃんを売ったのさ」
だから、コヨーテの言葉を馬鹿みたいに待って、答えを聞いて馬鹿みたいに呆ける。
「必死で逃げて、街まで逃げた。そこでミーは嬢ちゃんを見つけたのさ。木の上で淋しそうにしてた嬢ちゃんをね」
コヨーテは一を見上げる。「続けて良いか」と無言で問われているようで、一は曖昧に頷いた。
「……ミーは、死にたくなかった。嬢ちゃんを木の上から落として、吸血鬼の注意を逸らす事にも何とも思わなかったよ。でもね……」
一拍置いて、
「あの子は抵抗しなかったんだ」
悲しむような、あるいは哀れむような。
「ミーが木から落とした時も、吸血鬼に攫われた時も、悲鳴一つ上げなかった。ミーにはまるで死にたがっているように見えたよ」
「……勝手な事言うな」
唇を噛み締めながら、一は苛立ちをぶつけた。
「あいつが死にたがってた? 吸血鬼に攫われた? ふざけるなよ、コヨーテ」
得体の知れない苛立ちが募る。二年前、ジェーンが死にたがっていた? 円卓に攫われた? そんなの、そんな事初耳だった。おこがましくも彼女の兄を名乗った自分が知らなくて、何故他人が知っている。
「そんなの嘘だ」
「リトルボーイ。嘘じゃない、真実なのさ」
「だったらっ!」
自分でも驚くほど声を荒げてしまい、一は頭を掻く。
「……だったら、どうして真実を俺が知らないんだ。あいつはどうして俺に黙ってるんだよっ」
なるだけ声のトーンを落とす事を心がけたが、語尾はどうしても強くなる。
「……嬢ちゃんは言いたくなかったんだよ。少なくとも、あんたには」
自惚れているつまりはなかった。それでも、それでも一にはどこか甘えがあったのかも知れない。
「分かってる」
つもりだった。
「……嬢ちゃんがあんな事になってるのは恐らく奴らの仕業だろう。ま、原因はミーにあるんだけどな」
おどけたコヨーテの口調が、一には痛々しく耳に残る。
「ん……」
「……どうした?」
「血だ。血の臭いがする」
明後日の方角を睨み付け、コヨーテは鼻をひくつかせる。
「血……?」
まさか。一の背筋を嫌な物が伝った。
「思っていたよりも近いな。リトルボーイ、この先には何があるんだ?」
「あ、ああ。確か、でかい公園があったな」
昔、一は駒台にやってきてからすぐに、その公園へ一度だけ行った事があった。ほんの、軽い気持ちで。当時を振り返りながら、一は言葉を紡ぐ。
「自然公園って言うのかな、家族連れが多かったよ」
居た堪れなくて、逃げるように立ち去った事も思い出し、一の気分が少し沈んだ。
「家族、ね。随分とアットホームなところだ」
血の臭いとは掛け離れてる。皮肉げに言い足して、コヨーテは笑う。
「なら、行こう」
軽く言いつつベンチから腰を上げ、一が体を伸ばした。
「……それだけかい?」
「何か、言ってほしいのか?」
「いっそ、ね」
「ん……そうだな……」
一は頭を掻き、言葉を探してみる。だが、どうにも思いつかない。
「多分、聞きたい事とか言いたい事はあるんだけどな」
「聞けば良い。言えば良い。あんたにはその権利がある」
「権利? 無いよ、んなモン」
真剣なコヨーテの言を笑い飛ばし、屈伸。
「何度も言ってるけど、俺が聞きたい事はお前に聞いちゃ駄目なんだ。そんで、お前に何かを言うべきなのは俺じゃない」
「……嬢ちゃん、か」
「……正直、お前に対して何も思っていない、なんて事は無い。ジェーンがこんな事になってる原因は少なくともお前にあると思う」
でも。そう、一は前置きしてから、
「俺は気付いてやれなかった。気付こうとも、思わなかったんだ。あいつが今あんな目に遭ってるのは俺にも原因がある。だから、俺はお前を恨まない」
自嘲気味に呟いた。
「恨まない?」
「ああ。恨まない。憎まない。怒らない。俺は、お前を許さない」
「……はっ、良いセンスだ」
楽しそうに尻尾を振るコヨーテを一瞥。
「お前を恨むのも、憎むのも、許すのも。決めるのは俺じゃない。ジェーンだ」
「分かってるさ」
「ちゃんと、自分の口で謝ってくれよな」
「……分かってるさ」
まるで人間みたいに微笑んで、コヨーテは歩き出す。彼の背を追いかけるように一も歩き出し、やがて隣に並んだ。
「世話の焼ける妹を持つと苦労するなあ……」
「兄冥利に尽きるってもんさ、リトルボーイ」
一人と一匹は笑い合った。まるで、今から散歩にでも行くかのような気楽さで。
駒台公園。駒台の中央部に位置する巨大な公園である。平日休日問わず、多くの人が利用している。子供の喜びそうなアスレチックや青々と広がる芝生エリアのお陰で、家族連れに好評。森林浴が楽しめる長い散歩道ではのんびりとした空気が流れる。
そして夜には。
「なあ、良いだろ?」
「えー、ここで?」
夜には、男と女。夕方までの盛況さとは打って変わり、耳を澄ませば虫の音が聞こえるほどの静けさが公園には訪れる。若い男女。カップルには人気のデートスポットだった。
「誰かに見られたらどうするのよー?」
「心配するなって、ここ穴場なんだからよ。誰も来やしねえって」
「でも、昼間は人が多いじゃない」
「あ? ああ、けど夜にゃ殆ど消えるんだよ。なあ、大丈夫だって、それに俺さあ、もう我慢できねえんだよな……」
押しの強い男に女は諦め始めていた。誰かに見られるのはご免だが、男の言う通り確かに、周囲に人影は見当たらない。それにここまで拝み倒されて悪い気はしない。男の目的が自身の体であったとしても詮ない話。こっちだって我慢は出来なくなりつつある。お互い様だと割り切って、一夜を楽しむのも若さゆえの特権だろう。女は言い訳じみた考えに至り、たっぷりと間をとって焦らしてから、
「もう……しょうがないわね」
興奮しきった様子の男に妖艶な笑みを向けた。
「へへっ、それじゃあさっそく……」
下卑た笑い。女の服に、男の手が伸びる。
いつ、気付くべきだったのだろう。
なぜ、昼間は賑わっているこの公園から人がいなくなるのか。
「……あ?」
彼らはもっと慎重になるべきだった。もっと、ソレに意識を傾けるべきだった。
そも、日夜ソレと相対する勤務外だけが異物に敏感になる訳ではない。確かに、確実に勤務外は一般よりソレに対する嗅覚が優れている。だが、力を持たないと言われる一般が本当に、全くの無力と言うわけではない。彼ら一般は普通であるがゆえに、普通でないモノを嫌い、拒む。察知する。ぼんやりと、うっすらと。確信ではない。確実ではない。それでも、何かおかしいと感じられる。だから、立ち去る。君子危うきに近寄らず。分からない。だから、分からない場所からは逃げる。夜が近づくにつれ、公園が、ここが変だと体のどこかから訴えるのだ。あるいは訴えかけられているのか。
「てめえ、何見てやがるんだ?」
彼らはまだ気付いていない。平時であればこの時間、絶対に近付かないでいられたこの場所が、格別の危険地帯である事に。
「聞いてんのかコラァ!」
「ちょっと、やめなよ……」
今宵、ここは――
「……あ? あ、あ」
「ひっ…………!」
「……邪魔だ」
上がる血飛沫。飛び散る悲鳴。罵声と怒声は調味料。僅かに鉄を含んだ臭い、生暖かい空気は場を盛り上げてくれる。体から突き出た骨や臓器はオブジェのよう。踊れ臓物。歌え脳漿。
「く、くく……」
場を掃除した男は二人分の肉塊を見下げ、薄く笑う。僅かに覗かせた口元から鋭く尖った歯が見えた。いや、それはもはや牙と呼べただろうか。
「ああ……」
待ち遠しい。恍惚とした彼の表情からはその手の感情が読み取れた。
――今宵、ここで。