ウルフかい?
星を見ていた。
夜空を見上げるのが好きだった。地上から自室の窓から木の上から見るのが好きだった。特に、屋根の上から満天の星空を眺めるのが好きだった。空との距離が、そこからなら一層縮まる気がしたから。
誰にも邪魔をされない。されたくない。大好きな両親とすら共有したくない。綺麗な景色を独り占めしている気分に浸れた。嫌な事や悲しい事、腹立たしい事があると梯子を使い屋根に登る。そして自分の小さな悩みを星屑と一緒くたにして空へと流した。全て、忘れられた。
「俺、高いところ苦手なんだよね」
なのに。
「きみは、平気なの?」
彼はやってきた。ズカズカと、当たり前のように隣に座る。彼は拙い英語の発音に、意味が分からない日本語を混ぜて彼女へ話し掛けてきた。
「うわ、こりゃ落ちたら死ぬな」
「………………」
――死んじゃえ。
彼女はそう思っていた。
突然やってきた異邦人。楽しかった日常を狂わすかのごとく彼はやってきた。
当時、ソレが日本で猛威を奮っていたため日本人の疎開先の一つに選ばれたのがアメリカであった。彼女の両親は快く彼を受け入れてくれた。彼の両親は日本を離れる事が出来ず、彼は一人でアメリカに来たのだ。彼女の両親は、まだ十代だった彼を哀れみ、同情し、娘の兄代わりになってくれればと期待を込めて引き取った。
事実、彼は努力する。
しかし、当の彼女は受け入れてくれなかった。ソレから逃げてきた情けない日本人。背は低く、髪の毛どころか全体的に地味で冴えない。彼に対する印象は最悪に近かった。少なくとも、彼女の理想的な男性像からは掛け離れていた。
「あのさ、きみ、俺の事好きじゃないだろ」
「…………」
おまけに、この遠回しな言い方が気に食わない。もっとハッキリ意見を口にすれば良いのに、彼はどこか遠慮がちに喋るのだ。
「用があるなら、さっさと言ったらどう?」
「……ん」
彼は彼女の不躾な物言いに怯む。
「用がなきゃ、きみの傍に寄っちゃいけないのか?」
「アタシ、アナタが嫌いなの」
言ってやった。
「……そっか。けどさ、そこを曲げて仲良くやってこうよ」
「アタシと仲良くするように、パパとママに言われたんでしょ」
「それもあるよ。でもさ、俺は単純にきみと仲良くしたいんだよ。これから、いつまでかは分からないけど同じ屋根の下で暮らしていくんだし」
彼女はその時、強い嫌悪感を覚えた。冗談で済まされるにしても質が悪い。
「イヤよ」
「つれないなあ」
彼女はまだ幼かった。人見知りこそしなくなったが、我が家に見知らぬ他人が入り込む事など、ましてや異国の人間となれば話は別になる。新しいモノを受け入れられるほど、彼女の心は固まっていない。
「……早くここから消えてよ」
それに、今日は一人でいたかった。
「邪魔なんだけど?」
「……う」
月に一度の、彼女の一番好きな日だったから。今夜は天気も良い方だ。今は少し雲があるが、それが晴れたときはさぞや美しく見えるのだろう。
「あー、もう少しだけいてもいい?」
「なんでよっ?」
彼女は思わず声を荒げてしまう。
「……いや、なんでって聞かれても」
「アタシはっ、アナタが嫌いなのっ!」
「さっきも聞いたよ」
「……っ! 背だって低いし頭悪そうだし顔は良くない地味で冴えない! おまけに諦めまで悪いワケ!?」
ここぞとばかりに彼女はまくしたてた。
「ちょっとだけだよ。もうすぐ消えるって」
「今すぐに消えてよ!」
「……うるさいなあ。ほら、静かにしなよ」
彼女の並べ立てた暴言を気にする素振りも見せず、彼は涼しい顔で天を指差す。
「……あ」
雲が、晴れていく。
彼女が待ち望んでいた物がその姿を徐々に見せ始めた。同時に、わずかな光が屋根の上の二人を照らしだしていく。漆黒に塗り潰された空。その中で、僅かに瞬く星たちよりも一際強く輝くもの。深く、吸い込まれそうな闇の中で浮かび上がる一つきりのまばゆい光。
「……きれい」
彼女は呟いた。
隣にいる彼を罵倒する事も忘れ、ただそれに、それだけに目を奪われた。全身から歓喜が沸き上がる。
「今日は満月だから、どうしても見たかったんだ」
「……アナタ、月が好きなの?」
「嫌いじゃない」
「そう……」
彼のハッキリしない物言いにも、何故か腹が立たなかった。
「こっちでも月は丸いんだね」
「当たり前でしょ。どこにいたって同じに見えるわ」
「うん。でも、確かめてみたかった」
どこと。とは、彼女は聞かなかった。家族を残し、一人きりで知らない国までやってきた彼の気持ちが、少しは理解出来た気がしたから。
「綺麗だ」
彼はそれきり言葉を発しなかった。黙って、月を見上げていた。その横顔が無性に悲しそうで、綺麗で。近くにいるのに遠くに感じる。
やがて、
「邪魔して悪かったね」
彼は立ち上がった。彼女に背を向け、梯子へと近づいていく。
「風も出てきたし、きみもそろそろ戻ったほうが良いよ」
「ねえ」
彼女は空を見上げたまま、彼に声を掛けた。
「名前で呼んでよ」
「え?」
「アタシと仲良くしたいなら、名前で呼びなさいよ」
「……分かった。そうするよ」
どんな顔をしているのか分からなかったが、彼は嬉しそうに答えた。少なくとも、彼女にはそう思えた。
一一とジェーン=ゴーウェストが出会って、七日目の出来事であった。
これより彼らは、お互いの事を『兄妹』と認識する事になる。
騙し合いの、始まりになる。
………………。
夢を見た。ぼんやりとそれだけを思い、一はこたつから体を起こした。背中には嫌な汗をかいている。一は着ていたシャツを無造作に投げ捨てて立ち上がった。まだ覚醒していない頭を振り、洗面所で顔を洗う。タオルで顔を拭くと、幾分か意識がハッキリとしてきた。
「ふあ……」
あくびをしながら冷蔵庫へ足を向け、中からペットボトルの麦茶を取り出す。キャップを開け、乾いていた喉にお茶を流し込んだ。
「グッドモーニング、リトルボーイ」
「ん」
「意外と早起きなんだな。とっくにお日様が真上になってる時間だぜ」
「そうか。朝食代が浮いたな」
一はコヨーテがいたことを今になって思い出す。
「さて、どうするよ?」
「言ったろ。ジェーンに会う。それだけだ」
「だが、人狼が邪魔をしに来る」
「何とかするさ」
「自信満々じゃないか、リトルボーイ。全く頼もしい限りだぜ」
「そりゃどうも」
言いつつ、一は煙草に火を点けた。寝ぼけた頭を無理矢理に叩き起こすためだ。煙を深く吸い込むと、頭がぐらりと揺れる。すぐに火は消した。
「俺は今からにでも動こうと思う」
「へえ、どうしてだい? 聞かせてもらおうじゃないか」
「月が出てたら狼男は強くなるんだろ? だったら、太陽が沈む前に探し出して倒す」
「悪くないが、そう簡単にいくとは思えないな。向こうだって分かってるはずさ。夜までは、十全に態勢が整うまで隠れてる」
「そこを何とかするのが、お前の鼻だろうが」
一はコヨーテを指差した。
「……ま、期待には応えようか」
「ありがとよ。んじゃ、ちょっと買い物に行って来るから、大人しくここで待っててくれよ」
「買い物? そんな暇があるのかい?」
「うん。一時間くらいで戻ってくるから」
適当に置いてあったシャツを着込み、コートを羽織ると一は慌しく外へ飛び出していく。
陽が落ちるまで、あと数時間。
お昼のピークを越えたオンリーワン北駒台店は静かだった。店内には三森と糸原が二人。レジカウンター内の壁に背を預けて、何をするでもなくぼんやりと突っ立っている。
「……ねえ」
「……あンだよ?」
ぼそりと呟く糸原に警戒しつつ、三森は視線だけを動かした。
「あんたさ、ソレってどう思う?」
「ソレって、ソレか?」
糸原は頷く。
「あー、別に何も思ってねェよ。出てきやがったら燃やすだけだ」
「知り合いでも?」
「あ?」
「もし、もしよ? 今まで付き合ってた人間がソレだったらどうする?」
困った。三森は今までそんな事を考えた試しがなかった。
「……知らねェよ。お前こそどうすンだ?」
「どうもしないわ。今までどおりにするだけ。ま、私に喧嘩売ってくるなら買うけどね」
そう言って、糸原は薄い笑みを浮かべる。
「ま、それにゃ同感だな。向かって来るなら相手するけどよ、こっちを見てない奴まで追い掛ける趣味はねェな」
「ありゃ、意外ね。あんたの事、一からは戦闘狂いって聞いてたからさー」
「っの野郎、私の事を陰でンな風に思ってたのか……」
今度会った時には、彼の体へ徹底的に教え込んでやろう。三森は固く決意した。
「……それだけじゃないんだけどねー」
「え、あ、なんだよ? 他にもなンか言ってやがったのか?」
「んー? んー、秘密」
「良いから言えよ」
「ここから先は会員登録が必要になるんだよねー」
「言え」
「ふーん。そんなに一があんたの事をどう思ってるか知りたいの?」
糸原は嫌らしく目を細める。
「な、ちっ、ちげェよ! そういう意味じゃねーっつーの!」
「顔が赤いわよぅ?」
「暖房が効きすぎてンだよっ」
「ま、教えないけどね」
「ちっ、えらくご機嫌じゃねェかよ」
三森は苛立ち混じりで床を踏み付ける。
「そ? けど、そうね。確かにご機嫌かもね」
「小銭でも拾ったのかよ?」
「……拾われたのは、私かな」
「物好きな奴もいたもンだな。私ならてめーみたいなのは金払ってでも良いからお引き取り願うね」
「あら勿体ない。お買い得なのに。今なら拾ってくれた方に好きな願いを三つ叶えてあげるのになあ。下着とかプレゼントしちゃうわよ」
「ンな豚みたいな願い事すっかよ」
苦笑しつつ、三森はジャージのポケットに手を遣った。お目当ての煙草を探り当てると、それを銜えてプラプラと揺らす。
「……お前さ、丸くなってねェ?」
糸原はしばし瞬きを繰り返し、やがて嫌そうな目付きで三森を睨んだ。
「私、あんたよかスタイル良いつもりなんだけど」
「違うっ。その、なんだ……。ああ、アレだ、お前険がとれたっつーか、話しやすくなったっつーのか……」
「ああ、そゆ事? 何よ、そんなに私と話したかったわけね」
「耳鼻科なら近くにあるぜ」
「生憎私に悪いところは無いのよね。イトハライヤーは地獄耳、イトハラアイは透視力。ちなみにイトハラウイングで空を飛ぶわ」
「ああ、頭が悪いのか」
三森は煙草に指で火を点け、煙を胸いっぱいに吸い込む。少しは苛々が収まった気がした。
「ちょっと、煙吹き掛けないでよ」
「掛けてねーよ。エアコンの風がそっちに流れてンだ」
「パーへクト美人の私の肺が悪くなったらどうしてくれんの?」
「私の勝手だろうが。嫌なら外で窒素でも吸ってろ。大体家でなら、その、あいつだって煙草吸ってンだろ」
「ん? 一の事? 一なら家で吸わないわよ。少なくとも私のいる前じゃ吸わせないかんね」
煙草を口から落としそうになる。
「……ふーん」
「だってさ、煙草ってイラついた時とか間を持たせたいっ、みたいな時に吸うんでしょ? なら、私と一緒にいるってーのに目の前で吸われたら腹立たない?」
「はっ、自意識過剰女」
「良い女は何しても許されんの。それにいーじゃん、一は私のなんだし」
「…………へえ」
知らずの内に三森の眉が吊り上がった。
「仲が良くて羨ましい限りだな。私にも分けて欲しいぐらいだよ」
「分けてあげよっか? 小指とか」
今日は冷える。街を歩きながら、一はとみに思った。
「へくしゅっ」
くしゃみがさっきから止まらない。どこか建物にでも入って暖まろう。一は鼻水を啜りつつ、そう決めた。
「……皮肉で言ったんだよ」
三森は火の点いた煙草を手で揉み消し、無造作に床に捨てる。叩きつけられた吸殻が灰と火の粉を撒き散らした。
「知ってるー。だってさ、あんたって一の事嫌いだもんね」
「あ?」
「違うの? 何なの? 好きなの?」
「別に嫌いって訳じゃねェけど……」
「じゃ、好きなの?」
糸原が一歩近付く。彼女の妙な威圧感に気圧されて、三森は思わず後ずさった。
「すっ、好きじゃねェよ!」
「じゃあさ、どっちかって言うと? どれくらい好きかどれくらい嫌いかは置いといて」
「ン、ンなの言う必要ねェし!」
「……ふーん。そ、分かったわ。なら私が勝手に決め付けとく。そして必要なら一に言う」
喜色満面。糸原は愉しそうに笑う。
「やめろっ、余計な事すンじゃねぇ!」
「えへへー、次に一と会うとき超気まずくなるかもよー」
そこで三森は気付いた。こいつは自分をおもちゃにしている、と。真正直にぶつかれば躱されてしまう。ならば。
「……はっ、好きにしろよ。それがどうしたってンだ」
「分かった、そーするー」
あっさり躱された。
「お、おい待て。なんて言うつもりだ?」
「別にー? 何も考えてないけど。ただ、そうね。あんたが一の事を殺したいほど憎んでる。肉を燃やして骨まで焼いて、ひとかけらだって残さなくなるまで徹底的に炭にし尽くして生きている事を後悔させ尽くしてむしろ自分から殺してくれって言わせるぐらいに痛め抜いて、ああそれでも死ぬ間際に火葬の手間が省けて良かったなってぐらいは思わせたい。これぐらい憎んでるって言おっかな」
「やめてくれ……」
三森はうな垂れながら呟いた。
「本当にそう思われてるかもしンねェからさ……」
脳裏に、一と初めて出会ったときの事が浮かび上がる。あの目、あの表情。世にも恐ろしいモノを見たような、あの顔。一は変わっているが良い奴だ。短い付き合いだが、三森は最近そう思っていた。今でこそ、こんな自分に対し普通に接してくれてはいるが、最初はそうじゃなかった。
「ありゃ、あんた意外とメンタル弱いのね。ネットで叩かれたら自殺するタイプ?」
「……誰だって叩かれたら凹むだろ」
「ふーん……」
何故か糸原は意味ありげに、嫌らしく笑った。
「な、なンだよ?」
「別にぃ」
「あ、あっ! お前っ、何か勘違いしてンだろ! 違うぞ、私はここのバイト同士でくらい、仲が良くても構わねェって思ってるだけだっ」
「一と仲良くなりたいんだー?」
「なりたくねェ! ンな事言ってねーだろ! 仲なんて必要以上に悪くなけりゃそれで良いンだよ!」
必死で弁解する三森に対し、糸原は余裕たっぷりに微笑んだ。
「笑ってンじゃねーよ!」
「リトルボーイ。そりゃ何だ?」
小一時間で一は戻ってきた。件の買い物とやらを終えたのか、大きめのビニール袋を抱えている。
「ああ、これは俺たちの昼ご飯だよ」
その袋から取り出したのは、微かに湯気を立てている小さな包み。
「美味そうだったから買ってきた」
「……人間の作ったモンじゃないか」
「まあ、そうだけどさ……我慢してくれよ。腹が減っては戦は出来ないだろ」
「ブシは食わねど高楊枝とも言わないか?」
「お前犬じゃん」
コヨーテは一の言葉に対し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ほら、毒なんて入ってねえから」
一は包みを開き、コヨーテにそれを放った。
「初めて見るな……。何だこりゃ?」
「肉まん。饅頭の中に肉が入っております。御所望なら他にも、あんまんピザまんカレーまんとございますよ」
「はっ、これだからアジアの連中は……。ライスやパンに具を挟めば何でも美味いと思ってやがる」
「ハンバーガーを考えたのはお前んとこだろ」
「イエローはこれだから困る」
「ギリギリだから、そういう事言うのはやめろ灰色」
やれやれと頭を振り、コヨーテは肉まんを一齧りする。途端、彼の口の中に肉汁が溢れた。次いで、香ばしい生地が舌の上に広がり、絹のような滑らかさで解けていく。泡のごとく。一口目を名残惜しそうに胃へ送ると二口目に手を――口を伸ばした。なんとも不思議でならない。全く飽きが来ないのだ。コヨーテは貪るように残りを平らげる。最後の一欠片を嚥下し、口の周りを舌で舐めた。
そしてこう言った。
「イマイチだな」
「尻尾振ってんぞ」
一はあんまんを頬張りながら、包みを開けておいたカレーまんをコヨーテに渡す。
「大丈夫。タマネギ入ってないから」
「……ミーは犬じゃない。誇り高きコヨーテだ」
「はいはい分かってるって」
言いながら一は袋に手を伸ばした。取り出したのはこれでもかとピンクを施した紐。その先には犬の首にでも通せば丁度良い大きさの輪っかがついていた。
「……リトルボーイ。重ね重ねすまない。こりゃ何だ?」
「ああ、付けてくれ」
「ミーにそういう趣味は無いんだが」
「俺にも無いなあ」
しかも動物相手に。
「言っておくが。ミーは誇り高きコヨーテだ」
「聞いたよ」
「なら、これはどういうつもりなんだ」
「日本は中途半端に治安が良くてね。そう、犬が一人歩き出来ないくらいには」
「知っているさ。保健所の連中に何度も追い掛け回されたからな」
一は黙った。追い掛けられたのかよ。しかも何回も。本当にプライドだけは無駄に高いな。と、言わなくても良いことを言わないために。
「……あー。知ってるなら話は早いよな? これさえ付けりゃ、まあ、飼い犬と思われるから大丈夫。だから、な?」
「屈辱だ……」
「良いからリード付けろよ」
「…………嫌だね」
コヨーテはそっぽを向いて口を尖らせる。
「付けないと外に出られないぞ」
「別に構わないさ。そんな恥辱を受けるぐらいなら」
「おい、ジェーンに借りを返すんじゃないのか」
「背に腹はかえられない」
イラッときた。一は溜め息を吐き、買ってきたリードを無造作に掴む。
「暴れんなよ」
「……来るな」
立ち上がり、輪の部分をカウボーイよろしく振り回しながら一はコヨーテに近づいた。
「来るな。噛むぞ」
「ほら、頭下げろ」
「やめろ……!」
「おらっ、じっとしてろ!」
「やめろ! ミーは! ミーはコヨーテなんだ! 誇り高いんだぞ! 偉いんだぞ!」
「うるせぇなあ」
「わんわんわんわんわん!」
コヨーテはもはやただの犬に成り下がる。腹を見せ、じたばたと頭を振り続けて抵抗を続けた。
一は犬を連れて駒台の駅前に来ていた。駅前ならば街の中でも特に人が多い。お目当ての人狼の匂いの、手掛かりぐらいなら掴める筈だと、一はそう踏んでいる。
「おい、どうなんだよ?」
「…………さあな。いるんじゃないか?」
「投げやりだな」
「投げやりにもなるさ」
コヨーテは紐で繋がれていた。
「見ろよ、ミーを。はっはっはっ、お笑い種だぜ。なんだってんだ、この格好は……」
「似合ってると思うけどな。つーか、あるべき姿と言うか何と言うか」
「くそっ、犬を見かけたら吠え立ててやる」
「やめなさい」
その時、コヨーテの鼻がピクリと震える。
「……来るぞ」
「え?」
一は駅の改札口付近に目を向けた。丁度、電車が来た時刻なのだろう。今から駅に向かう人々と、電車から降りてきた人々とで広くも無い空間がごった返している。
一たちはそこから少し離れたところで人の群れを観察していた。多種多様。老若男女。学生もいればスーツ姿の中年もいる。
「どいつだ?」
身構えながら、一はアイギスを持つ手に力を込めた。
「ハッキリとは分からないな。人が多過ぎる。混ざり合っていて、上手い事臭いが嗅ぎ取れない」
「急いでくれよ」
一は焦る。こちらへ向かって人の波が押し寄せてきているのだ。もし、もしあの中に、本当に奴が紛れているのならばまずい。こちらはまだ向こうを捕捉していない。人狼がこちらに気付いているのなら先に仕掛けられてしまう。
「……一旦離れよう」
「ああ、そうしてくれ」
コヨーテは視線を人ごみに向けながら、首を揺らした。リード越しに振動が伝わり、一は方向を転換。だが、コヨーテは何故か動かない。
「おい」
声を掛けるも、彼は動こうとも返事をしようともしなかった。
「……少しばかり、遅かったな」
何が。とは聞けなかった。聞くまでも無い。
――いつの間に。
「会うのは三度目だが、太陽が出ている間に会うのは初めてだな」
一の前に影が差す。
背の高い男が、一たちを見下ろすように立っていた。男は冬だと言うのに半袖のシャツにジーンズというラフな格好。引き締まった筋肉だと、服越しからでも一には良く分かる。嫌でも、だ。
「こうして見ると、大したことが無さそうに見えるんだが」
強い、声。
「昨日の人狼か?」
コヨーテが問いかける。男は少しの間だけ目を見開いたが、
「……ほう、人の言葉を話せるのか」
大した驚きも見せず、静かに、そう返した。
「な……お前……」
呻く一を嘲笑うかのように、男は薄く笑った。
「昨夜はどうも。お陰さまで耳がまだキンキンしている」
「はっ、リトルボーイ。当たりを引いちまったようだな」
「外れだろ、この状況じゃあ……」
先に仕掛けられてしまった。目の前の男は世間話でもしに来たような気軽さで接しているが、こちらから仕掛けるだけの隙までは持ち合わせていない。おまけに、一の頭はまだ混乱している。アクションを起こされても満足な対応を出来る自信なんてなかった。
「心配するな。今は仕掛けん」
一の不安を見抜いたのか、男は存外穏やかな口調で語る。
「……んな保障があるかよ」
「ヘイ、落ち着きなよ。こいつにその気があるなら、ミーたちはとっくにくたばっていてもおかしくないんだぜ」
「その通りだと言っておこうか」
男の棘のある口調に、一の心がささくれ立って行く。
「わざわざこんな時間に、あんたが何の用だってんだ」
「そうだな……」
男は思案するかのように腕を組んだ。
「邪魔をして欲しくない。そう、忠告をしに来た」
「邪魔だって?」
コヨーテは訝しげに男を見上げる。首に引っ掛かったリードが邪魔で、上手く顔を上げられなかった。
「なあリトルボーイ、これを外してくれないか?」
「ダメ」
「……俺が言いたいのはそれだけだ」
一たちを避けるようにして人ごみが流れていく。
「おい、待てよ。何の邪魔をするなって言ってんだ?」
男が立ち去りそうだったので、一は引き止めるべく声を掛けた。
「……俺と、彼女の」
「彼女? 誰の事だ?」
「あの晩、俺を倒した娘だ。確か、お前もその場にいたか?」
一の脳裏にあの光景が過ぎる。ドクン、と。心臓が強く胸を打った。――ジェーン。体から血の気が引いていく。――ジェーン。
「どういう……意味だ?」
問うた声は震えていた。
「俺は人狼だ。彼女も、な。そして明日は満月。考えただけで滾ると言うものだ」
それだけで充分だろう。男は付け加えると、一たちから背を向ける。
「待てよっ」
一の体がカッと熱くなった。
「勝手言ってんじゃねえぞ!」
男の正面に回り、一は真っ向から立ち向かう。コヨーテはしきりに「やめろ」と吠えていたが、リードを握られていては引っ張られる他無い。
「勝手?」
「あいつは、俺の妹だ。手は出させない」
「ほう……」
くつくつと、男は喉の奥で笑った。
「そうか。お前の妹だったのか、それはそれは……」
「何笑ってやがる」
愉しそうに笑う男に腹を立て、一歩踏み出す。
「ならば宣言しておく。貰うぞ、あの娘」
一は声を出せない。見えなかった。いつの間にか背後を取っていた男の爪が、一の喉に薄く食い込んでいた。
「今、この場でお前を殺すのは造作も無い。だがね、俺にも人間としての立場がある」
「人狼っ! リトルボーイから手を離せっ」
「喚くな犬。人前だから御してはいるが、俺を怒らせるな。力が入ってしまうだろう」
「……おま……えっ」
「今夜だ。あの娘を貰う。俺と戦うに相応しい相手だ」
男は一の首から爪を引き、再び背を向ける。
「邪魔をするならば、次は容赦しない」
言い残し、彼もまた人ごみの中に消えていった。
残された一は首元を押さえ、男の背中を見送る。動けなかった。奇襲、と言う事もあったが、それ以上に男がジェーンを狙っている事実が、何よりも一を凍らせている。
「何で……」
「リトルボーイ、夜を待とう」
もうじきに、陽も暮れる。
狼たちの時間はもう、すぐだ。