歌う犬、月を謳え
動物界。脊索動物門。脊椎動物亜門。哺乳綱。ネコ目。ネコ亜目。イヌ科。イヌ亜科。イヌ属。タイリクオオカミ。イエイヌ。通称、犬。
「可愛い……」
頬を赤らめ、立ち尽くす立花の視線は毛むくじゃらのそれに釘付けだった。
「んー、野良犬かな?」
一は何気なく、その物体を観察する。ジッと見る。昔テレビで見たコリー犬に似ていた。しかし、その姿がコリー犬と完全に一致しているわけではない。尻尾は毛でふさふさしていて、丸い。毛色は少し明るい灰色で、耳がピンと張っていた。どことなく体つきは小さい。体高は六十センチあるか、ないか。首輪をしておらず、飼い主らしき人物もいない事から、一はそう決定付けた。何よりも、その目だ。飼い慣らされた生温い目ではない。野性の、今まで一人きりで生きてきた、誇り高い眼だ。決して人に媚びる事はなく、誰にも尻尾を振りそうにない。 孤高。その言葉が彼には良く似合うと思った。
そして思う。面倒な事になりそうだ、と。立花は嬉しそうにじゃれているが、このままではいけない。
「ねえねえ、はじめ君。飼おうよ、この子さ、店で飼おうよ」
「……店は駄目だよ」
せめて自分の家でと言って欲しかった。店で飼うなんてとんでもない。
「え? ど、どうして?」
立花は理由が分からずに、涙目で一に訴えかける。まずい。心が揺れ動く。一はなるべく立花を見ないように努める。
「う、うちは駄目。食べ物とか扱ってるから、衛生上悪いし」
「お、お風呂に入れてあげれば良いじゃないか。ボ、ボク毎日この子を洗うからさ……」
「……店で飼うって言ったってさ、店のどこに置いておくつもりなの?」
「え、えーと? あっ、店の外! だってさだってさ、この子を置いておけば番犬代わりになるじゃない。それに、すんごく可愛いから看板犬にもなれるよ? ね、ね?」
まずい。押されている。
「そ、そうだね……」
「お兄ちゃん?」
中々の強さで、一はジェーンに足を踏まれた。しかも、その攻撃は的確に爪先を狙っている。
「い、いや! 駄目だ。犬が嫌いな人もいるし、店の近くに置いとけば、唯でさえ少ないお客が更に少なくなっちゃうよ。だから、その、ね?」
「意地悪だ……」
潤んだ瞳で一は見つめられてしまう。誰か助けてくれ。一は強く願った。
「ありゃ、何してんの?」
その願いが通じたのか、どうしようもなく膠着していた所へ、騒ぎを聞きつけた糸原が現れる。
「ああ、その、犬が」
「犬ぅ?」
答えるかのように、犬が和やかにあくびを一つ。この場の空気など知ったことかと、耳をぺたりと座らせ、丸くなって目を瞑った。
「あー、ホントだ。けど小さいわねコイツ」
糸原は犬に近付いていくと、全身を値踏みするかのように見回す。
「何か、見たこと無い感じの犬ね」
「あ、糸原さんもそう思いました?」
「うん。これは強敵ね、挑戦するかどうか迷うわ」
「は?」
一は目を丸くした。何を言っているんだこの人は。
「ね、ねえねえ、しのちゃん。お店で犬飼おうよ、飼おうよ。はじめ君ってば駄目だって言うんだ。意地悪だよ。ずるいよ。卑怯千万なんだよ」
「ちょ、ちょっと立花さん?」
立花は数の利を得ようと糸原に訴えかける。
「えー? にーのまえー、それぐらい別に良いじゃない」
良し良しと、糸原は立花の頭を撫でた。嬉しそうに喉を鳴らし、立花は糸原にしがみ付く。
「ほらっ、今のところ二対二だよ?」
「……厄介だな、ホント」
「うるさいわねー、別に犬をくうぐらい良いじゃない」
「は?」
場の空気が一変する。
「……? 何よ?」
「は、はは。ヤダナ糸原さん、俺の勘違いかな。くうんじゃなくて、かうんですよ」
引き攣った一の笑い。
「そ、そうだよ? しのちゃん何言ってるの?」
「……イトハラ? キツイジョークはアタシも好きじゃないワ」
蒼い瞳が糸原を貫く。たしなめるようなジェーンの口調。
「ジョーク? 何言ってんのよ、犬ってのは飼うんじゃなくて、食うもんなのよ」
真剣みの篭った口調に、立花は糸原から離れた。
「糸原さん?」
「ちょっと小さいけどさ、そこそこ丸いし」
「……イトハラ?」
「ほら、腿の辺りとか大丈夫そうじゃない?」
「大丈夫じゃねぇよ!」
一は叫ぶ。糸原が悪乗りしているのか本気なのか判断が付かない分、本当に大丈夫じゃなくなってしまう。
「……何怒ってんのよ?」
「し、しのちゃん、ひどい。ひどいよ……」
純真そのもの。めそめそと泣き出す立花に、見かねたジェーンが肩を貸した。
「ちょっと、悪ふざけもそこまでにして下さいよ。立花さん、すごく犬好きなんですから」
「あー、そうだったの? ごめん、ごめんねー」
「………………」
糸原は立花に睨まれる。涙目だったので、何の迫力も無かった。
「あんたも犬が好きだったんだー? 私もね、超好き。良いよね、犬って。あの筋ばった所とかさ。妙な臭みさえ取れればイケるし」
「イケねえよ!」
糸原は怒鳴る一を手で制す。
「ちょっと、うっさいわよあんた。別に犬食べるぐらい普通じゃない」
「……普通じゃないっすよ……」
「はん、よっぽど裕福な生活を送っていらっしゃったらしいわね? 羨ましすぎて反吐が出るわ。私なんか、私なんかね……。ただの鍋だって言われてさ、食わされてたのよ。だいてん鍋とか言われてね……」
あの事件以降、糸原に妙な設定が出来上がっている。仕上がっている。一は頭が痛くなるのを感じた。
「あー、その、だいてんって何ですか?」
「うん。ほら、大きな点で、だいてんよ。大って字に点付けてみ?」
「はあ……?」
けろりと糸原は言い放った。一は脳内でやってみる。なるほど、『大』に『点』。
「……糸原、もう黙れ」
この人は一体どんな生活をしてきたんだろう。
「まともなお肉が食べたかったなあ……」
何故か、糸原の視線が寝ている犬に向いた。
「分かった! 分かりましたよ! 今日は焼肉でもすき焼でもステーキでも何でも良いですから! お肉を食べてきて下さい、牛の!」
「良いの? へへ、やったラッキー」
一が差し出した財布を奪うと、糸原は鼻歌交じりで立ち去っていく。終わるまで待っていてくれるのではなかったか。とんでもなかった。
後に残されたのは、呆然として立ち尽くす一と、只管すすり泣く立花と、彼女を必死で宥めるジェーン。犬は自身の生死が掛かっているにも関わらず、素知らぬ顔で眠っていた。
「冗談、だよな……」
「すごく、リアルだったんだケド……」
とんでもなかった。
「駄目だ」
立花の泣き落としにも屈せず、店長は頑として言い放った。
「そ、そんな……。ひどい、ひどいや。じゃあ店長さんは、あの子がどうなっても良いって言うの?」
「知らん。大体、ここまで一匹でやって来たんだろう。これからだってやって行ける。人間の勝手な都合で生き物を飼おうとするな。おこがましいとは思わんのか?」
「で、でも……」
店長は煙草を燻らせつつ、強い意思を宿して立花を見据える。
「でもじゃない。良いか? 動物はお前がどうこうして良い物じゃない。無論、私たちにもだ。見ろ、奴らは動物園で暮らすのが幸せか? ああ、確かに朝昼晩と三食出され、敵も居ない平和な空間で悠々と食事が出来、何の脅威もなく眠り、暮らせるんだ。幸せと言えば幸せかも知れんな。だが、本当にそうか? そうなのか? 本当は、動物ってのは自分の生きるべき世界で、自然と暮らすのが一番じゃないのか? 立花、お前は自然の摂理に逆らってまで、自分か、もしくはその犬が死ぬまで面倒を見切れるのか?」
「う、そ、それは……」
「言い切れないのか? じゃあ駄目だ。言い切っても駄目だがな」
「う、うう……」
顔を伏せる立花に、店長は追撃を加える。
「泣くな。私は一みたいに甘くないからな。悔しかったらすぐに泣く癖を直せ。鬱陶しい」
「うわああああん!」
立花は半べそをかいてバックルームを飛び出した。一は追おうとしたが、ジェーンに止められて仕方なく店長に向き直る。
「……何もあそこまで言わなくても」
「お前が甘いんだ。誰かが言わなけりゃあいつはあのままだぞ」
「まあ、そうかも知れないですけど……」
ジェーンはさり気なく一の横に並び、
「でも、ボスもマトモな事言うのネ。ハードだったケド、ボスの言ってる事は正しいワ」
しみじみと呟いた。
一も続く。
「……俺もびっくりしましたよ。ああ、この人も人間なんだなって。店長、動物に関して含蓄がありましたけど、昔ペットでも飼ってたんですか?」
「いや、私は犬が嫌いなだけだ」
時刻は午後五時。
一の勤務終了まで、残り二十一時間。
「ジェーン、この団子はどこに並べれば良い?」
「ン、そうネ。お兄ちゃんに任せる」
「……俺が?」
一とジェーンは、遅れてきた商品の陳列を開始していた。弁当やパンの位置は滅多に変わらないので、陳列自体は簡単だ。だが、たまに珍しい物や新商品が入ってくるので、その度に陳列の位置を考えなければならない。新しい物は客の目に付き易い場所に並べるのが常だったが、考えるのも棚の位置を移動させるのも、得てして面倒な物だ。
「んー」
心底面倒だったが、今日のジェーンは何故か機嫌が悪い。ここは長いものに巻かれろ。君子、危うきに近寄らず。
「じゃあ、レジ前にバックの台を持ってきて並べるわ」
「ン、オッケー」
「明日は満月らしいしな。月見する人もいるかもしんない」
自分みたいに。
「え? オツキミ?」
「そうだよ。多分、俺もするだろうし。明日の晩に出て来いよ。ほら、お前さ、星とか見るの好きだったろ?」
「……そう、だネ。ン、時間がアレバ行く」
「?」
どうにも感触が悪い。しかし、仮にも妹であるジェーンのご機嫌を伺うばかりではどうかと思い、一はそれ以上口を出さなかった。出せば、良かったのに。
「じゃ、台取って来るから、そっちはよろしく」
ジェーンが頷いたのを確認し、一はバックルームに向かった。外からは遠吠えが聞こえる。まだ、あの犬は店の前にいるのだろうか。願わくば、糸原の餌食にならないよう。
「うちは保健所じゃない!」
「うぇっ?」
バックルームに入った瞬間、一は怒声に出迎えられる。数時間前のやり取りを思い出し、気分が沈んだ。店長は電話をしていたようで、どこかで聞いたような罵声を通話相手にぶつけている。
一は団子を並べるための台を取りに来ただけだったが、何故か動けなかった。
「馬鹿にしてるのか!」
盛大な音を立て、電話が受話器に叩きつけられる。店長は怒り心頭と言った様子で、拳を震わせながら煙草を口に銜えた。
「あ、あの、どうしたんですか?」
「……丁度良い。私の捌け口になってもらうぞ」
何の。突っ込む事も出来ず、一は事情を聞いてみる。
「何があった? さっきの電話だよ」
「電話って、その、誰からですか?」
一は話を聞くため、自然な動作でパイプ椅子に座った。
「座るな。私の話は立って聞け」
「……別にそれぐらい――」
「――それぐらいなんだ?」
凄みを利かせ、店長は一を見据える。一は黙って椅子を畳んで、壁に立てかけた。
「それぐらい、何ともありません……」
「うん。さっきの電話は近隣住民からだ」
「またクレームですか?」
違う。店長は短く答え、煙を一に吐きかける。
「犬だよ、犬」
「え?」
まさか。店の前の奴だろうか。まずい。危惧していた事が起きてしまった。
不安そうな一の顔を楽しそうに見遣ると、店長は手を振る。
「違う。あの犬じゃない。別の犬だ。いや、犬、どもと言ったところか」
「へ? 違うんですか」
「ああ。最近な、野良犬が増えたらしい」
「えっと、野良犬とうちに何の関係が?」
そこで、店長は火が付いているにも関わらず煙草を握り潰した。
「……そうだ。ウチと野良犬どもは何の関係もないっ。なのに奴ら、何とかしろと言ってきやがったんだ。知るか、食い殺されろ」
稀に見る店長の、自分以外に対する激昂ぶりに一は焦る。
「あの、とりあえず落ち着いてくださいよ」
「落ち着いていられるか。くそっ、役立たずとか、職務怠慢だなんて抜かしやがってあのババア、畜生、匿名で電話してくるな。正々堂々と名乗ったらどうなんだ」
「……その通りじゃねえか」
「何か言ったか?」
いいえ。一は首を横に振り、作り笑いを浮かべた。
「んー、今まではそういう事無かったんですか? わざわざここに電話するなんて、よっぽど切羽詰ってる感じがするんですけど」
「無かった。一切な。これだから何も知らない一般人は困るんだ」
知らせていないのはそっちだろう。とは、一には言えない。
「はあ……」
今までは、無かった。やはり、よっぽどの事が起こっているのだろうか。そう言えばと、一は昼間の犬を思い出す。
「でも、俺も野良犬なんか久しぶりに見ましたよ。何だかんだ言って、日本の治安はまだマシな方と思ってたんですけどね」
「犬、か」
店長は感慨深げに呟いた。
「もしかして、ソレが絡んでるんじゃないですか?」
「……有り得ん。とは、言えんな。まあ良いだろう。たまには客の意見にも耳を貸してやろうじゃないか」
「どうするんです?」
「犬退治と行こうか」
紫煙に包まれながら、店長は口の端を吊り上げる。
「退治って。犬、殺すんですか?」
「場合によっては、だ。野良犬の増加、何かあるかも知れん。情報部に伝えておくとしよう」
一は生返事。まさか、たかが野良犬だろう。一は甘く見ていた。
十月も終わりに近づき、残すところあと二日で十一月。その頃の冬にもなれば、五時を過ぎると大分暗くなる。月は太陽が沈むのを今や遅しと待っていた。太陽はじきに姿を隠し、爛々とした月が現れる。明日は満月らしい。曇る気配もなく、絶好の月見日和。
「……立花さん、遅いな」
「そうネ」
交代の時間はとっくに過ぎていた。本来なら一、ジェーン、立花の三人で作業している筈だったのだが。立花は出て行ってからもう一時間近くも飛び出したままだった。
「探しに行った方が良いのかな」
「エー? ダメ、ダメだよ。お兄ちゃんはここで仕事してなきゃ」
「じゃあお前が探しに行けよ」
「絶対にNO」
一とジェーンは新商品――店長が気まぐれで仕入れた団子――を並べるのに苦心している。
「んー、寂しいな。ポップが欲しい。ジェーン、何か書いてよ」
「お兄ちゃん? ニホンじゃ、そーいうのは言いだシッペがやるんじゃないノ?」
「だって俺、自慢じゃないけど絵書くの苦手だもん」
本当に自慢でもなんでもない。
「……むー、うまい人っているノ?」
「いるんじゃないか?」
一一、店長、三森冬、糸原四乃、ジェーンゴーウェスト、立花真、神野剣、堀。一は考える。
「いや、やっぱいないな」
「Hmm、しょうがナイ。今はこのままにしとこっか、お兄ちゃん」
ジェーンは不満げに頬を膨らませながらも、仕方なく商品から背を向けた。一は何気なく、店の外に目を遣る。どうしても。先ほどの話を聞いてしまえば、あの犬が気になってしまう。
「お兄ちゃん?」
「ん。ああ、あの犬がさ、ちょっと気になって」
「……アレ、アタシ犬じゃないと思うのよネ」
ぽつりと、ジェーンは呟いた。
「犬じゃない?」
「Yes、ドッグじゃなくてカィアゥディっぽいノ」
「カイアウデイ?」
ジェーンは呆れ顔で一を見上げる。
「お兄ちゃん、何年向こうにいたっけ?」
「知っての通り二年だよ。それがどうした」
イエスとノーと、ハローしかマスターしなかった二年間だった。ジェーンもその事を嫌と言うほど知っていて、身に染みていたので、諦めた。
「……コ、コヤウテ? じゃなくっテ、そ。コヨーテ。カィアゥディはコヨーテなの」
発音の問題。
「コヨーテ?」
日本では聞き馴染みが無かったが、一はその名前を知っている。なるほど、そう言われれば、確かにアレはコヨーテだったかもしれない。
「でもさ、日本には普通いないだろ。何だ、動物園から抜け出してきたってのか?」
一も気付いてはいたが、その可能性は非常に薄い。そも、コヨーテを飼育している動物園の数が少ない。アメリカなどでは害獣と言われているが、日本では手に入らない、そこそこに貴重な生物だからだ。脱走させるような、間抜けな真似はしないだろう。おまけに、駒台の近くにはコヨーテを飼っている動物園すら存在しない。
「それもアリだけど、アタシは、何だかちがう気がする」
「ふーん」
鋭い指摘だった。なまじ、店長とその事について話してきたばかりだったので、一は殊更そう思う。これが、この鋭さが勤務外を続けてきた、続ける事の出来る証だろうか。
もう一度、一は店外へ目を向ける。毛むくじゃらの物体。コヨーテらしき犬は変わらず、そこにいた。強いて言うならば、少しだけ変化があった。
「きゃうん!」
甲高い、野性の鳴き声。泣き声。助けを求めるような声にも聞こえる。
「またか……」
一は目を疑い、顔を覆った。ジェーンはもう我関せずと言った具合に目を背けている。
コヨーテの体に、立花が顔を埋めていた。
立花はコヨーテに餌をやっているようだった。
店の外にはドッグフードや、缶詰が散乱している。一は眩暈を覚えた。
「あの、ちゃんと片付けてね?」
「うんわかった」
分かりやすい生返事。
「……けど、この子食べてくれないんだ」
「んー?」
見ると、コヨーテは耳を座らせて、目の前に広げられたペットフードには目もくれず、目を瞑って眠りを貪っていた。
「おなか、空いてないのかな……」
「見られてたら、恥ずかしくて食べないんじゃないかな。それより立花さん、今日五時からシフトに入ってるよ?」
「え、ええ? う、嘘っ!?」
立花はコヨーテの体から、やっと顔を離して立ち上がる。
「……今なら店長も許してくれるよ。片付けは俺がやっとくから、着替えておいで」
「わ、分かった。ごめんね、はじめ君!」
慌しくその場を後にする立花を見届けると、一は腰に手を置き、面倒くさそうに息を吐いた。誰が後片付けをすると思っているんだ。しかし、やはり、一はあの立花の、純真無垢な瞳で見つめられる事を思えば、と。我慢する。どうにも、女の涙は苦手だった。嫌いだった。
「あんたも大変だな」
「まあね」
「ここは騒がしいな。ジャパンってのは、皆あんななのかい?」
「いや、そうでもない。あの子が特別なんだよ」
日本人一人だけを見て、特に、立花真と言う女の子一人だけを見て、日本という国を理解してもらっては困る。色々と、申し訳が立たない。
「しっかし、毛が乱れちまったぜ。どうしてくれんだ、あのサムライガールは」
「そりゃ申し訳ない。どれ、毛づくろいしてやろう」
一はしゃがみ込み、彼の毛を撫で始めた。
「……お、おう。中々上手いじゃねえか、リトルボーイ」
「ところでさ、腹減ってないの?」
ちらり、と。一は缶詰の山に目を向ける。折角立花が買ってきたのに。恨めしい目つきで彼を見遣ると、ぶんぶんと。彼は少しだけ申し訳無さそうにしながらも首を振った。
「悪いが、駄目だね。人の作ったモンには手を付けない事にしてるんだ」
「ふーん、オーガニックだな」
「良い言葉だな、リトルボーイ」
そりゃどうも。礼を返すと、一は彼の尻尾を触り始める。ふさふさしていて、立花が夢中になるのも分かる気がした。
「お、おい、尻尾の付け根には触るんじゃねえぞ!」
「うん。分かったよ」
残念そうに、一はそこから手を離し、今度は腹を撫で始める。
「君ってさ、犬なの?」
その言葉に、彼の耳と尻尾がピンと張る。
「ノーノー、ミーは誇り高きコヨーテだ。人間なんかに尻尾振って飼い慣らされてる奴らと一緒にするんじゃあない。ミーは文化的英雄。トリックスターなんだぜ」
「ふーん」
なるほど。やっぱりコヨーテか。そうかそうか。コヨーテか。
動物界。脊索動物門。脊椎動物亜門。哺乳綱。ネコ目。ネコ亜目。イヌ科。イヌ亜科。イヌ属。コヨーテ。
一はふと、疑問が湧く。
「なあ」
「なんだい、リトルボーイ」
「俺さ、どうして犬と喋ってんだ?」
コヨーテって、人語を解したっけ?
闊歩する。闊歩する。闊歩する。
人の目が触れない暗がりを抜け、光の届かない闇を進む。
進軍する。進軍する。進軍する。
それは集団だと言うのに、足音は無い。無音で往く。太陽は隠れ、月が姿を現していた。夜の中でシルエットが踊る。
獣。獣。獣獣獣。
四足で歩く獣が、獣たちが街を目指していた。それは犬。犬。犬。犬。犬。犬。何かに、誰かに誘われるかのように、一同が足を進める。何故かは分からない。ただ、体が勝手に動くのだ。行かなければならない。進まなければならない。
野良犬だけではなかった。人に飼われていた犬も行軍に参加している。首輪を引き千切り、リードを振り解き、飼われていた犬は犬で無くなった。飼い主への忠孝よりも、温情よりも、何よりも、獣としての本能が彼らを優先させた。月に吠え、街を目掛け、獣たちは夜を越える。
――そうだ。
そうだ。そうだ。呼んでいる。呼んでいる。仲間が呼んでいる。助けてくれと叫んでいる。声を嗄らして鳴いている。だから、行かなければならない。彼らの為にも、自分たちの為にも。
走れ、走れ走れ走れ。疾走しろ。疾行しろ。驀進しろ。馳走しろ。
仲間が呼んでいる。走れ。
月が呼んでいる。変われ。
綺麗だ。群れの先頭を走る一匹が空を見上げた。
綺麗だ。群れ全体が空を見上げた。
綺麗だ。
今夜は、月が綺麗だ。だが、まだ足りない。満ちろ。満ちろ満ちろ。早く満ちろ。犬たちは、月齢なんて知らない。本能で理解する。
明日が、その日だと。